史記 / 佞幸列伝
故孝惠時郎侍中皆冠鵕䴊,貝帶,傅脂粉,化閎、籍之屬也。兩人徙家安陵。孝文時中寵臣,士人則鄧通,宦者則趙同、北宮伯子。北宮伯子以愛人長者;而趙同以星氣幸,常為文帝參乘;鄧通無伎能。鄧通,蜀郡南安人也,以濯舩為黃頭郎。孝文帝夢欲上天,不能,有一黃頭郎從後推之上天,顧見其衣裻帶后穿。覺而之漸臺,以夢中陰目求推者郎,即見鄧通,其衣后穿,夢中所見也。召問其名姓,姓鄧氏,名通,文帝說焉,尊幸之日異。通亦願謹,不好外交,雖賜洗沐,不欲出。於是文帝賞賜通巨萬以十數,官至上大夫。文帝時時如鄧通家遊戲。然鄧通無他能,不能有所薦士,獨自謹其身以媚上而已。上使善相者相通,曰「當貧餓死」。文帝曰:「能富通者在我也。何謂貧乎?」於是賜鄧通蜀嚴道銅山,得自鑄錢,「鄧氏錢」布天下。其富如此。
新字:故孝恵時郎侍中皆冠鵕䴊,貝帯,傅脂粉,化閎、籍之属也。両人徙家安陵。孝文時中寵臣,士人則鄧通,宦者則趙同、北宮伯子。北宮伯子以愛人長者;而趙同以星気幸,常為文帝参乗;鄧通無伎能。鄧通,蜀郡南安人也,以濯舩為黄頭郎。孝文帝夢欲上天,不能,有一黄頭郎従後推之上天,顧見其衣裻帯后穿。覚而之漸台,以夢中陰目求推者郎,即見鄧通,其衣后穿,夢中所見也。召問其名姓,姓鄧氏,名通,文帝説焉,尊幸之日異。通亦願謹,不好外交,雖賜洗沐,不欲出。於是文帝賞賜通巨万以十数,官至上大夫。文帝時時如鄧通家遊戯。然鄧通無他能,不能有所薦士,独自謹其身以媚上而已。上使善相者相通,曰「当貧餓死」。文帝曰:「能富通者在我也。何謂貧乎?」於是賜鄧通蜀厳道銅山,得自鋳銭,「鄧氏銭」布天下。其富如此。
書き下し
故に孝恵の時、郎・侍中皆鵕䴊を冠し、貝帯し、脂粉を傅(つ)け、閎・籍の属に化するなり。両人家を安陵に徙す。孝文の時の中の寵臣は、士人は則ち鄧通、宦者は則ち趙同・北宮伯子なり。北宮伯子は人を愛する長者なるを以てし、而して趙同は星気を以て幸せられ、常に文帝の参乗と為る。鄧通は伎能無し。鄧通は蜀郡南安の人なり。濯船を以て黄頭郎と為る。孝文帝夢に天に上らんと欲して能はず。一の黄頭郎有り、後より之を推して天に上らしむ。顧みて其の衣の裻帯の後ろ穿(うが)たれたるを見る。覚めて漸台に之き、夢中の陰目を以て推す者の郎を求む。即ち鄧通を見るに、其の衣の後ろ穿たれ、夢中に見る所なり。召して其の名姓を問ふに、姓は鄧氏、名は通。文帝説び、之を尊幸すること日に異なり。通も亦願謹にして、外交を好まず、洗沐を賜ふと雖も、出づるを欲せず。是に於いて文帝、通に賞賜すること巨万を以て十もて数へ、官は上大夫に至る。文帝時時鄧通の家に如きて遊戯す。然れども鄧通は他の能無く、士を薦むる所有ること能はず、独り自ら其の身を謹みて以て上に媚ぶるのみ。上、善く相する者をして通を相せしむるに、曰く、「当に貧しくして餓死すべし」と。文帝曰く、「能く通を富ますは我に在り。何ぞ貧しと謂はんや」と。是に於いて鄧通に蜀の厳道の銅山を賜ひ、自ら銭を鋳るを得しむ。鄧氏の銭天下に布く。其の富此の如し。
現代語訳
そのため孝恵帝の時代には、郎や侍中(皇帝の側近)はみな鵕䴊(しゅんぎ、錦鶏の一種)の羽で飾った冠をかぶり、貝で飾った帯を締め、白粉や紅をつけて、閎孺(こうじゅ)・籍孺(せきじゅ)の類にならった。この二人は家を安陵に移した。孝文帝の時代の宮中の寵臣は、士人では鄧通、宦官では趙同と北宮伯子であった。北宮伯子は人を思いやる長者であることで、趙同は星や雲気の占いによって寵愛され、いつも文帝の車に同乗していた。鄧通には何の技能もなかった。鄧通は蜀郡南安の人である。船を操る技によって黄頭郎(黄色い帽子をかぶった船頭役の郎官)となった。孝文帝は夢の中で天に昇ろうとしてできずにいたところ、一人の黄頭郎が後ろから押して天に昇らせてくれた。振り返ると、その者の衣の背の帯のところに穴があいていた。目が覚めると漸台(未央宮の池の中の台)に行き、夢の中の人をひそかに目で探して、押してくれた郎を求めた。すると鄧通を見つけたが、その衣の後ろに穴があいていて、夢で見たとおりであった。呼び寄せて名を尋ねると、姓は鄧、名は通であった。文帝は喜び、日ごとに彼を重んじ寵愛するようになった。鄧通もまた慎み深く、外の人との交際を好まず、休暇をもらっても外出しようとしなかった。そこで文帝は鄧通に億を十余りも数えるほどの褒美を与え、官は上大夫にまで至った。文帝はときどき鄧通の家に行って遊び楽しんだ。しかし鄧通にはほかに何の能力もなく、人材を推薦することもできず、ただ自分の身を慎んで天子に取り入るばかりであった。天子が人相見の名人に鄧通の人相を見させると、「貧しくなって飢え死にするでしょう」と言った。文帝は言った。「鄧通を富ませることができるのは私だ。どうして貧しくなるなどと言えるのか」。そこで鄧通に蜀の厳道の銅山を与え、自分で銭を鋳造することを許した。「鄧氏の銭」が天下に広まった。その富はこれほどであった。
解説
関連する章句
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史記 佞幸列伝文帝崩じ、景帝立ち、鄧通免ぜられ、家居す。居ること無何、人に「鄧通盗みて徼外に出でて銭を鋳る」と告ぐる有り。下吏験問し、頗る之れ有り、遂に竟に案じ、尽く鄧通の家を没入し、尚ほ責を負ふこと数巨萬なり。竟に一銭をも名づくるを得ず、人の家に寄死す。
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史記 佞幸列伝文帝嘗て癰を病むや、鄧通常に帝の為に之を唶吮す。文帝楽しまず、従容として通に問ひて曰く、「天下誰か最も我を愛する者ぞ」と。通曰く、「宜しく太子に如くは莫かるべし」と。太子入りて病を問ふや、文帝をして癰を唶はしむ、癰を唶ひて色之を難とす。已にして鄧通常に帝の為に唶吮すと聞き、心慚づ、此に由りて通を怨む。
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史記 張丞相列伝申屠丞相嘉は、梁の人なり。材官蹶張(けつちやう)を以て高帝に従ひて項籍を撃ち、遷りて隊率と為る。従ひて黥布の軍を撃ち、都尉と為る。孝恵の時、淮陽の守と為る。孝文帝の元年、故の吏士二千石の高皇帝に従ひし者を挙げて、悉く以て関内侯と為し、邑を食む者二十四人、而して申屠嘉は食邑五百戸。張蒼已に丞相と為り、嘉遷りて御史大夫と為る。張蒼相を免ぜられ、孝文帝、皇后の弟竇広国を用ひて丞相と為さんと欲して曰く、「恐らくは天下、吾を以て広国に私すとせん」と。広国は賢にして行ひ有り。故に之を相とせんと欲す。之を念ふこと久しくして不可なりとす。而して高帝の時の大臣又皆多く死し、余は見(げん)に可なる者無し。乃ち御史大夫嘉を以て丞相と為し、故の邑に因りて封じて故安侯と為す。嘉は人と為り廉直にして、門に私謁を受けず。是の時太中大夫鄧通方に愛幸を隆(さか)んにし、賞賜巨万を累ぬ。文帝嘗て通の家に燕飲す。其の寵是くの如し。是の時丞相入朝し、而して通、上の傍らに居り、怠慢の礼有り。丞相事を奏し畢りて、因りて言ひて曰く、「陛下臣を愛幸せば、則ち之を富貴にせよ。朝廷の礼に至りては、以て粛ならざるべからず」と。上曰く、「君言ふ勿かれ。吾之を私す」と。朝を罷めて府中に坐し、嘉、檄を為りて鄧通を召して丞相府に詣らしむ。来たらずんば、且に通を斬らんとす。通恐れて、入りて文帝に言ふ。文帝曰く、「汝第(ただ)往け。吾今人をして若(なんぢ)を召さしめん」と。通丞相府に至り、冠を免(ぬ)ぎ、徒跣(とせん)して、頓首して謝す。嘉坐すること自如として、故(ことさら)に礼を為さず。責めて曰く、「夫れ朝廷は、高皇帝の朝廷なり。通は小臣にして、殿上に戯る。大不敬なり。当に斬るべし。吏今之を行ひて斬れ」と。通頓首し、首尽く血を出だせども、解けず。文帝、丞相已に通を困しむと度り、使者をして節を持して通を召さしめ、而して丞相に謝して曰く、「此れ吾が弄臣なり。君之を釈せ」と。
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史記 佞幸列伝孝景帝の時、中に寵臣無し。然れども独り郎中令周文仁、仁の寵は最も庸に過ぐ。乃ち甚だしくは篤からず。今天子の中の寵臣は、士人は則ち韓王孫嫣、宦者は則ち李延年なり。嫣は弓高侯の孽孫なり。今上膠東王たりし時、嫣、上と書を学びて相愛す。上太子と為るに及び、愈々益々嫣を親しむ。嫣は騎射を善くし、佞を善くす。上即位し、匈奴を伐つを事とせんと欲し、而して嫣先づ胡兵を習ふ。故を以て益々尊貴にして、官は上大夫に至り、賞賜は鄧通に擬す。時に嫣常に上と臥起す。江都王入朝し、詔有りて従ひて上林の中に入りて猟するを得。天子の車駕蹕道して未だ行かず、而して先づ嫣をして副車に乗り、数十百騎を従へ、騖馳して獣を視しむ。江都王望み見て、以て天子と為し、従者を辟け、道の傍らに伏謁す。嫣駆けて見ず。既に過ぎて、江都王怒り、皇太后の為に泣きて曰く、「請ふ、国に帰して宿衛に入り、韓嫣に比せんことを得ん」と。太后是に由りて嫣を嗛(うら)む。嫣上に侍し、永巷に出入して禁ぜられず、姦を以て皇太后に聞こゆ。皇太后怒り、使ひをして嫣に死を賜はしむ。上為に謝すれども、終に得る能はず、嫣遂に死す。而して案道侯韓説は其の弟なり。亦佞幸なり。李延年は中山の人なり。父母及び身・兄弟及び女、皆故の倡なり。延年法に坐して腐せられ、狗中に給事す。而して平陽公主、延年の女弟舞を善くすと言ふ。上見て心に之を説ぶ。永巷に入るに及び、而して延年を召して貴ぶ。延年歌を善くし、新声を変じ為す。而して上方に天地の祠を興し、楽詩を造りて之を歌弦せんと欲す。延年善く意を承け、初めの詩を弦次す。其の女弟も亦幸せられ、子男有り。延年は二千石の印を佩び、協声律と号す。
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史記 外戚世家大臣後を立てんことを議し、外家呂氏の彊きを疾み、皆薄氏の仁善を称す、故に代王を迎へ、立てて孝文皇帝と為す、而して太后は号を改めて皇太后と曰ひ、弟薄昭は封じて軹侯と為す。薄太后の母も亦た前に死し、櫟陽の北に葬る。是に於て乃ち薄父を追尊して霊文侯と為し、会稽郡に園邑三百家を置き、長丞已下の吏冢を奉守し、寝廟の上食の祠法の如くす。而して櫟陽の北にも亦た霊文侯夫人の園を置き、霊文侯の園の儀の如くす。薄太后以為へらく、母家は魏王の後なり、早く父母を失ふと。其の薄太后を奉ずる諸魏の力有る者、是に於て魏氏を召復し、[尊を及ぼし]賞賜各々親疏を以て之を受く。薄氏の侯たる者凡そ一人。薄太后は文帝に後るること二年、孝景帝の前二年を以て崩じ、南陵に葬る。呂后長陵に会葬するを以て、故に特に自ら陵を起こし、孝文皇帝の霸陵に近くす。竇太后は、趙の清河観津の人なり。呂太后の時、竇姫良家の子を以て宮に入りて太后に侍す。太后宮人を出だして以て諸王に賜ふ、各々五人、竇姫与に行中に在り。竇姫の家清河に在り、趙に如きて家に近からんことを欲し、其の主遣の宦者の吏に請ふ、「必ず我が籍を趙の伍中に置け」と。宦者之を忘れ、誤りて其の籍を代の伍中に置く。籍奏せられ、詔して可とし、当に行くべし。竇姫涕泣し、其の宦者を怨み、往くを欲せず、相彊ひて、乃ち肯へて行く。代に至り、代王独り竇姫を幸し、女嫖を生み、後に両男を生む。而して代王の王后四男を生む。代王未だ入りて立ちて帝と為らざるに先だちて王后卒す。代王立ちて帝と為るに及び、而して王后の生む所の四男更々病死す。孝文帝立ちて数月、公卿太子を立てんことを請ふ、而して竇姫の長男最も長なり、立てて太子と為す。竇姫を立てて皇后と為し、女嫖を長公主と為す。
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史記 外戚世家大臣之を征し、天其の統を誘き、卒に呂氏を滅ぼす。唯独り孝恵皇后を置きて北宮に居らしむ。代王を迎立す、是れを孝文帝と為し、漢の宗廟を奉ず。此れ豈に天に非ずや。天命に非ずんば孰か能く之に当たらん。薄太后は、父は呉人、姓は薄氏、秦の時に故の魏王の宗家の女魏媼と通じ、薄姫を生む、而して薄父山陰に死し、因りて焉に葬る。諸侯の秦に畔くに及び、魏豹立ちて魏王と為る、而して魏媼其の女を魏の宮に内る。媼の許負の所に之きて相せしむ、薄姫を相して、当に天子を生むべしと云ふ。是の時項羽方に漢王と滎陽に相距ぎ、天下未だ定まる所有らず。豹初め漢と楚を撃つ、許負の言を聞くに及び、心に独り喜び、因りて漢に背きて畔き、中立し、更に楚と連和す。漢、曹参等をして魏王豹を撃虜せしめ、其の国を以て郡と為す、而して薄姫は織室に輸さる。豹已に死す、漢王織室に入り、薄姫の色有るを見て、詔して後宮に内る、歳余幸を得ず。始め姫少き時、管夫人・趙子児と相愛し、約して曰く、「先に貴くならば相忘るること無からん」と。已にして管夫人・趙子児先に漢王に幸せらる。漢王河南宮の成皋台に坐す、此の両美人相与に薄姫の初時の約を笑ふ。漢王之を聞き、其の故を問ふ、両人具に実を以て漢王に告ぐ。漢王心惨然として、薄姫を憐れみ、是の日召して之を幸す。薄姫曰く、「昨暮夜、妾夢みるに蒼龍吾が腹に拠る」と。高帝曰く、「此れ貴徴なり、吾女の為に遂に之を成さん」と。一たび幸せられて男を生む、是れを代王と為す。其の後薄姫希に高祖に見ゆ。高祖崩じ、諸々の御幸の姫戚夫人の属、呂太后怒りて、皆之を幽し、宮を出づるを得ず。而して薄姫は希に見ゆるの故を以て、出づるを得、子に従ひて代に之き、代王の太后と為る。太后の弟薄昭従ひて代に如く。代王立ちて十七年、高后崩ず。
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