史記 / 大宛列伝
得漢黃白金,輒以為器,不用為幣。而漢使者往既多,其少從率多進熟於天子,言曰:「宛有善馬在貳師城,匿不肯與漢使。」天子既好宛馬,聞之甘心,使壯士車令等持千金及金馬以請宛王貳師城善馬。宛國饒漢物,相與謀曰:「漢去我遠,而鹽水中數敗,出其北有胡寇,出其南乏水草。又且往往而絕邑,乏食者多。漢使數百人為輩來,而常乏食,死者過半,是安能致大軍乎?無柰我何。且貳師馬,宛寶馬也。」遂不肯予漢使。漢使怒,妄言,椎金馬而去。宛貴人怒曰:「漢使至輕我!」遣漢使去,令其東邊郁成遮攻殺漢使,取其財物。於是天子大怒。諸嘗使宛姚定漢等言宛兵弱,誠以漢兵不過三千人,彊弩射之,即盡虜破宛矣。天子已嘗使浞野侯攻樓蘭,以七百騎先至,虜其王,以定漢等言為然,而欲侯寵姬李氏,拜李廣利為貳師將軍,發屬國六千騎,及郡國惡少年數萬人,以往伐宛。期至貳師城取善馬,故號「貳師將軍」。趙始成為軍正,故浩侯王恢使導軍,而李哆為校尉,制軍事。是歲太初元年也。而關東蝗大起,蜚西至敦煌。貳師將軍軍既西過鹽水,當道小國恐,各堅城守,不肯給食。攻之不能下。下者得食,不下者數日則去。
新字:得漢黄白金,輒以為器,不用為幣。而漢使者往既多,其少従率多進熟於天子,言曰:「宛有善馬在貳師城,匿不肯与漢使。」天子既好宛馬,聞之甘心,使壮士車令等持千金及金馬以請宛王貳師城善馬。宛国饒漢物,相与謀曰:「漢去我遠,而塩水中数敗,出其北有胡寇,出其南乏水草。又且往往而絶邑,乏食者多。漢使数百人為輩来,而常乏食,死者過半,是安能致大軍乎?無柰我何。且貳師馬,宛宝馬也。」遂不肯予漢使。漢使怒,妄言,椎金馬而去。宛貴人怒曰:「漢使至軽我!」遣漢使去,令其東辺郁成遮攻殺漢使,取其財物。於是天子大怒。諸嘗使宛姚定漢等言宛兵弱,誠以漢兵不過三千人,彊弩射之,即尽虜破宛矣。天子已嘗使浞野侯攻楼蘭,以七百騎先至,虜其王,以定漢等言為然,而欲侯寵姫李氏,拝李広利為貳師将軍,発属国六千騎,及郡国悪少年数万人,以往伐宛。期至貳師城取善馬,故号「貳師将軍」。趙始成為軍正,故浩侯王恢使導軍,而李哆為校尉,制軍事。是歳太初元年也。而関東蝗大起,蜚西至敦煌。貳師将軍軍既西過塩水,当道小国恐,各堅城守,不肯給食。攻之不能下。下者得食,不下者数日則去。
書き下し
漢の黄白金を得れば、輒ち以て器と為し、用ひて幣と為さず。而して漢の使者往くこと既に多く、其の少従は率ね多く天子に進熟し、言ひて曰く、「宛に善馬有りて弐師城に在り、匿して肯へて漢使に与へず」と。天子既に宛馬を好み、之を聞きて甘心し、壮士車令等をして千金及び金馬を持して以て宛王に弐師城の善馬を請はしむ。宛国、漢の物に饒かにして、相与に謀りて曰く、「漢は我を去ること遠く、而して塩水の中に数々敗る。其の北に出づれば胡寇有り、其の南に出づれば水草に乏し。又且つ往往にして邑を絶ち、食に乏しき者多し。漢使数百人輩を為して来たれども、常に食に乏しく、死する者半ばを過ぐ。是れ安んぞ能く大軍を致さんや。我を奈何ともする無し。且つ弐師の馬は宛の宝馬なり」と。遂に肯へて漢使に予へず。漢使怒り、妄言して金馬を椎(う)ちて去る。宛の貴人怒りて曰く、「漢使至りて我を軽んず」と。漢使を遣はして去らしめ、其の東辺の郁成をして遮り攻めて漢使を殺さしめ、其の財物を取る。是に於いて天子大いに怒る。諸々の嘗て宛に使ひせし姚定漢等言ふ、宛の兵は弱く、誠に漢兵三千人に過ぎずして彊弩もて之を射れば、即ち尽く宛を虜にし破らんと。天子已に嘗て浞野侯をして楼蘭を攻めしめ、七百騎を以て先づ至り、其の王を虜にせしを以て、定漢等の言を以て然りと為す。而して寵姫李氏を侯とせんと欲し、李広利を拝して弐師将軍と為し、属国の六千騎及び郡国の悪少年数万人を発し、以て往きて宛を伐たしむ。期するに弐師城に至りて善馬を取るを以てす。故に弐師将軍と号す。趙始成を軍正と為し、故の浩侯王恢をして軍を導かしめ、而して李哆を校尉と為し、軍事を制せしむ。是の歳は太初元年なり。而して関東に蝗大いに起こり、蜚びて西のかた敦煌に至る。弐師将軍の軍既に西して塩水を過ぐるに、道に当たる小国恐れ、各々城を堅くして守り、肯へて食を給せず。之を攻むれども下す能はず。下る者は食を得、下らざる者は数日にして則ち去る。
現代語訳
漢の金や銀を手に入れると、すぐに器にしてしまい、貨幣としては使わなかった。漢の使者が行くことがすでに多くなると、若い従者たちの多くが天子に取り入って言った。「大宛には良馬がいて弐師城(じしじょう)にいるのに、隠して漢の使者に渡そうとしない」。天子はもともと大宛の馬を好んでいたので、これを聞いて心ひかれ、勇士の車令らに千金と黄金の馬の像を持たせて、大宛王に弐師城の良馬を求めさせた。大宛の国は漢の品物を十分に持っていたので、互いに相談して言った。「漢はわれわれから遠く、塩水(ロプノール周辺の塩の湖沼地帯)でたびたび難儀している。その北へ出れば胡の襲撃があり、南へ出れば水も草も乏しい。そのうえところどころ町が途切れて、食べ物に困る者が多い。漢の使者は数百人で一組になって来るが、いつも食糧に困り、死ぬ者が半分を超える。これでどうして大軍を送り込めようか。われわれをどうすることもできない。しかも弐師の馬は大宛の宝の馬だ」。そこでとうとう漢の使者に渡さなかった。漢の使者は怒り、暴言を吐いて黄金の馬をたたき壊して去った。大宛の貴族たちは怒って「漢の使者はひどくわれわれを軽んじている」と言い、漢の使者を帰らせる一方で、東の国境の郁成(いくせい)に命じて待ち伏せして攻撃させ、漢の使者を殺してその財物を奪った。これに天子は激怒した。かつて大宛に使いしたことのある姚定漢(ようていかん)らは、大宛の兵は弱く、漢の兵が三千人もいれば、強い弩で射かけるだけで大宛をことごとく捕らえ破ることができると言った。天子はかつて浞野侯に楼蘭を攻めさせ、七百騎で先に着いてその王を捕らえたことがあったので、姚定漢らの言葉をもっともだと思った。そして寵愛する李夫人の一族を侯にしたいと考え、李広利を弐師将軍に任じ、属国の騎兵六千と郡や国の不良の若者数万人を動員して、大宛を討ちに行かせた。弐師城に行って良馬を取ってくることを目標としたので、弐師将軍と名づけたのである。趙始成を軍正(軍の法を司る官)とし、もとの浩侯王恢に軍の道案内をさせ、李哆(りし)を校尉として軍事を取り仕切らせた。この年は太初元年(前104年)である。そのころ関東(函谷関より東)でいなごが大発生し、西の敦煌まで飛んで来た。弐師将軍の軍が西へ進んで塩水を過ぎると、道沿いの小国は恐れて、それぞれ城を固めて守り、食糧を出そうとしなかった。攻めても落とせなかった。降った国からは食糧を得られたが、降らない国は数日攻めて去るしかなかった。
解説
関連する章句
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史記 大宛列伝郁成に至る比(ころ)、士の至る者は数千に過ぎず、皆饑ゑ罷(つか)る。郁成を攻むるに、郁成大いに之を破り、殺傷する所甚だ衆し。弐師将軍、哆・始成等と計りて、「郁成に至りて尚ほ挙ぐる能はず、況んや其の王都に至るをや」と。兵を引きて還る。往来二歳。還りて敦煌に至るに、士は什の一二に過ぎず。使ひをして上書せしめて言ふ、「道遠くして多く食に乏し。且つ士卒は戦ひを患へず、饑うるを患ふ。人少なく、以て宛を抜くに足らず。願はくは且く兵を罷め、益々発して復た往かん」と。天子之を聞きて大いに怒り、而して使ひをして玉門を遮らしめ、曰く、「軍に敢へて入る者有らば輒ち之を斬れ」と。弐師恐れ、因りて敦煌に留まる。其の夏、漢、浞野の兵二万余を匈奴に亡ふ。公卿及び議者は皆宛を撃つ軍を罷め、力を専らにして胡を攻めんことを願ふ。天子已に宛を誅するを業とす。宛は小国にして下す能はずんば、則ち大夏の属漢を軽んじ、而して宛の善馬絶えて来たらず、烏孫・侖頭易く漢使を苦しめ、外国の笑ひと為らん。乃ち宛を伐つを言ふこと尤も便ならざる者鄧光等を案じ、囚徒材官を赦し、益々悪少年及び辺騎を発し、歳余にして敦煌を出づる者六万人、私従を負ふ者は与らず。牛十万、馬三万余匹、驢騾橐它は万を以て数ふ。多く糧を齎し、兵弩甚だ設く。天下騒動し、伝へて相奉じて宛を伐つ。凡そ五十余校尉。宛王の城中に井無く、皆城外の流水を汲む。是に於いて乃ち水工を遣はして其の城下の水空を徙し、以て其の城を空しくせしむ。益々戍甲卒十八万を発し、酒泉・張掖の北に居延・休屠を置きて以て酒泉を衛らしめ、而して天下の七科の適を発し、及び糒を載せて弐師に給す。転車人徒相連属して敦煌に至る。而して馬に習ふ者二人を拝して執駆校尉と為し、宛を破るに備へて其の善馬を択び取らしむと云ふ。是に於いて弐師後に復た行き、兵多くして、至る所の小国迎へざる莫く、食を出だして軍に給す。
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史記 大宛列伝侖頭に至るに、侖頭下らず。攻むること数日、之を屠る。此より西、平らかに行きて宛城に至る。漢兵の到る者三万人。宛兵迎へて漢兵を撃つ。漢兵射て之を敗り、宛走りて入り、其の城に葆乗す。弐師の兵、行きて郁成を攻めんと欲するも、留行して宛をして益々詐を生ぜしめんことを恐れ、乃ち先づ宛に至り、其の水源を決して之を移す。則ち宛固より已に憂困す。其の城を囲み、之を攻むること四十余日、其の外城壊れ、宛の貴人勇将煎靡を虜にす。宛大いに恐れ、走りて中城に入る。宛の貴人相与に謀りて曰く、「漢の宛を攻むる所為(ゆゑん)は、王毋寡の善馬を匿して漢使を殺せしを以てなり。今、王毋寡を殺して善馬を出ださば、漢兵宜しく解くべし。即し解かずんば、乃ち力戦して死すとも、未だ晩からざるなり」と。宛の貴人皆以て然りと為し、共に其の王毋寡を殺し、其の頭を持して貴人を遣はして弐師に使ひせしめ、約して曰く、「漢、我を攻むる毋かれ。我尽く善馬を出だし、取る所を恣にせしめ、而して漢軍に食を給せん。即し聴かずんば、我尽く善馬を殺さん。而して康居の救ひ且に至らんとす。至らば、我は内に居り、康居は外に居りて、漢軍と戦はん。漢軍熟々之を計れ。何れに従はん」と。是の時、康居は漢兵を候視し、漢兵尚ほ盛んなれば、敢へて進まず。弐師、趙始成・李哆等と計る、「聞く、宛城中新たに秦人を得て、井を穿つを知り、而して其の内の食尚ほ多しと。来たる所為は、首悪の者毋寡を誅せんとなり。毋寡の頭已に至る。此の如くにして解兵を許さずんば、則ち堅く守り、而して康居、漢の罷るるを候ひて来たりて宛を救はば、漢軍を破ること必せり」と。軍吏皆以て然りと為し、宛の約を許す。宛乃ち其の善馬を出だし、漢をして自ら之を択ばしめ、而して多く食を出だして漢軍に食給す。漢軍、其の善馬数十匹、中馬以下牡牝三千余匹を取り、而して宛の貴人の故に漢使を待遇して善かりし者名は昧蔡を立てて以て宛王と為し、与に盟ひて兵を罷む。終に中城に入るを得ず。乃ち罷めて引き帰る。
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史記 大宛列伝初め、弐師、敦煌の西より起つに、人多くして道上の国食はしむる能はずと以ひ、乃ち分かちて数軍と為し、南北の道に従ふ。校尉王申生・故の鴻臚壺充国等千余人、別れて郁成に到る。郁成城守して、肯へて其の軍に食を給せず。王申生、大軍を去ること二百里、偩(たの)みて之を軽んじ、郁成を責む。郁成、食肯へて出ださず。申生の軍の日に少なきを窺ひ知り、晨に三千人を用ひて攻め、申生等を戮殺す。軍破れ、数人脱亡し、弐師に走る。弐師、捜粟都尉上官桀をして往きて郁成を攻め破らしむ。郁成王亡げて康居に走り、桀追ひて康居に至る。康居、漢已に宛を破るを聞き、乃ち郁成王を出だして桀に予ふ。桀、四騎士をして縛り守りて大将軍に詣らしむ。四人相謂ひて曰く、「郁成王は漢国の毒とする所なり。今生きて将ゐて去り、卒かに大事を失はん」と。殺さんと欲するも、敢へて先づ撃つもの莫し。上邽の騎士趙弟最も少く、剣を抜きて之を撃ち、郁成王を斬り、頭を齎らす。弟・桀等逐ひて大将軍に及ぶ。初め、弐師の後に行くや、天子使ひをして烏孫に告げしめ、大いに兵を発し力を并せて宛を撃たしむ。烏孫、二千騎を発して往き、両端を持して肯へて前まず。弐師将軍の東するや、諸々の過ぐる所の小国、宛の破るるを聞き、皆其の子弟をして軍に従ひて入りて献じ、天子に見えしめ、因りて以て質と為す。弐師の宛を伐つや、而して軍正趙始成力戦し、功最も多し。上官桀の敢へて深く入り、李哆の謀計を為すに及び、軍の玉門に入る者万余人、軍馬千余匹。弐師の後に行くや、軍は食に乏しきに非ず、戦死も多きこと能はず。而して将吏貪りて、多く士卒を愛せず、之を侵牟す。此を以て物故すること衆し。天子、万里にして宛を伐てるが為に、過ちを録せず。広利を封じて海西侯と為す。又身づから郁成王を斬りし者騎士趙弟を封じて新畤侯と為す。
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史記 大宛列伝軍正趙始成を光禄大夫と為し、上官桀を少府と為し、李哆を上党太守と為す。軍の官吏の九卿と為る者三人、諸侯の相・郡守・二千石の者百余人、千石以下千余人。奮ひて行く者は官其の望みに過ぎ、適を以て過ちて行く者は皆其の労を絀(しりぞ)く。士卒に賜ふこと直四万金。宛を伐つこと再び反り、凡そ四歳にして罷むるを得たり。漢已に宛を伐ち、昧蔡を立てて宛王と為して去る。歳余にして、宛の貴人以為へらく、昧蔡は善く諛ひ、我が国をして屠らるるに遇はしむと。乃ち相与に昧蔡を殺し、毋寡の昆弟蟬封と曰ふを立てて宛王と為し、而して其の子を遣はして漢に入質せしむ。漢因りて使ひをして賂賜せしめ以て之を鎮撫す。而して漢、使ひ十余輩を発して宛の西の諸外国に至らしめ、奇物を求め、因りて伐宛の威徳を風覧せしむ。而して敦煌に酒泉都尉を置き、西のかた塩水に至るまで、往往にして亭有り。而して侖頭に田卒数百人有り、因りて使者を置きて田を護り粟を積ましめ、以て外国に使ひする者に給す。
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史記 大宛列伝漢の烏孫に使ひし、若し其の南に出で、大宛・大月氏に抵りて相属するに及び、烏孫乃ち恐れ、使ひをして馬を献ぜしめ、漢女翁主を尚(めと)りて昆弟と為らんことを願ふ。天子、群臣に問ひて計を議するに、皆曰く、「必ず先づ聘を納れ、然る後に乃ち女を遣はせ」と。初め、天子、書易を発(ひら)くに、云ふ、「神馬当に西北より来たるべし」と。烏孫の馬の好きを得、名づけて天馬と曰ふ。大宛の汗血馬を得るに及び、益々壮なり。更めて烏孫の馬を名づけて西極と曰ひ、大宛の馬を名づけて天馬と曰ふと云ふ。而して漢始めて令居以西に築き、初めて酒泉郡を置き、以て西北の国に通ず。因りて益々使ひを発して安息・奄蔡・黎軒・条枝・身毒国に抵らしむ。而して天子宛馬を好み、使者道に相望む。諸々の外国に使ひする一輩、大なる者は数百、少なき者は百余人、人の齎操する所は大いに博望侯の時に放(なら)ふ。其の後益々習ひて衰少す。漢、率ね一歳の中に使ひ多き者は十余、少なき者は五六輩、遠き者は八九歳、近き者は数歳にして反る。是の時、漢既に越を滅ぼし、而して蜀・西南夷皆震ひ、吏を請ひて入朝す。是に於いて益州・越巂・牂柯・沈黎・汶山郡を置き、地を接して以て前(すす)みて大夏に通ぜんと欲す。乃ち使ひ柏始昌・呂越人等を遣はすこと歳に十余輩、此の初郡より出でて大夏に抵らしむ。皆復た昆明に閉ざされ、殺す所と為り、幣財を奪はれ、終に能く通じて大夏に至る莫し。是に於いて漢、三輔の罪人を発し、巴蜀の士数万人に因り、両将軍郭昌・衛広等を遣はして往きて昆明の漢の使者を遮る者を撃たしめ、斬首虜数万人にして去る。其の後使ひを遣はすも、昆明復た寇を為し、竟に通ずるを得る莫し。而して北道の酒泉より大夏に抵る使者既に多くして、外国益々漢の幣に厭き、其の物を貴ばず。
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『塩鉄論』西域篇文學曰く、有司の外國の事を言うや、議者は皆な一時の權を僥い、其の後を慮らず。張騫、大宛の天馬汗血、安息の真玉大鳥を言う。縣官既に聞きて甘心するが如し。乃ち大いに師を興して宛を伐ち、數期を歷て而る後に之に克つ。夫れ萬里にして人の國を攻むるに、兵未だ戰わずして物故半ばを過ぐ。宛を破りて寶馬を得たりと雖も、計に非ざるなり。此の時に當たりて、將卒は方に面を赤くして四夷に事う。師旅相望み、郡國並び發し、黎人困苦し、奸偽萌生し、盜賊並び起こる。守尉禁ずる能わず、城邑止むる能わず。然る後に上大夫を遣わし繡衣を衣て以て興ちて之を擊たしむ。此の時に當たりて、百姓元元、其の命を必とする莫し。故に山東の豪傑、頗る異心有り。先帝の聖靈斐然たるに賴る。其の咎は皆な匈奴を畢えんと欲して遠く幾うに在り。主の為に計ること此くの若きは、忠と謂う可きか。
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