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福沢諭吉小品集 / 瘠我慢の説・第2段

すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらずといえども、開闢以来今日に至るまで世界中の事相を観るに、各種の人民相分れて一群を成し、その一群中に言語文字を共にし、歴史口碑を共にし、婚姻相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、すべてその趣を同うして、自から苦楽を共にするときは、復た離散すること能わず。すなわち国を立てまた政府を設る所以にして、すでに一国の名を成すときは人民はますますこれに固着して自他の分を明にし、他国他政府に対しては恰も痛痒相感ぜざるがごとくなるのみならず、陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく、そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国等の名を以てして、国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ。故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道にして、この公道公徳の公認せらるるは啻に一国において然るのみならず、その国中に幾多の小区域あるときは、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するの私を以て内のためにするの公道と認めざるはなし。たとえば西洋各国相対し、日本と支那朝鮮と相接して、互に利害を異にするは勿論、日本国中において封建の時代に幕府を中央に戴て三百藩を分つときは、各藩相互に自家の利害栄辱を重んじ一毫の微も他に譲らずして、その競争の極は他を損じても自から利せんとしたるがごとき事実を見てもこれを証すべし。

書き下し

すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらずといえども、開闢以来今日に至るまで世界中の事相を観るに、各種の人民相分れて一群を成し、その一群中に言語文字を共にし、歴史口碑を共にし、婚姻相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、すべてその趣を同うして、自から苦楽を共にするときは、復た離散すること能わず。すなわち国を立てまた政府を設る所以にして、すでに一国の名を成すときは人民はますますこれに固着して自他の分を明にし、他国他政府に対しては恰も痛痒相感ぜざるがごとくなるのみならず、陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく、そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国等の名を以てして、国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ。故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道にして、この公道公徳の公認せらるるは啻に一国において然るのみならず、その国中に幾多の小区域あるときは、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するの私を以て内のためにするの公道と認めざるはなし。たとえば西洋各国相対し、日本と支那朝鮮と相接して、互に利害を異にするは勿論、日本国中において封建の時代に幕府を中央に戴て三百藩を分つときは、各藩相互に自家の利害栄辱を重んじ一毫の微も他に譲らずして、その競争の極は他を損じても自から利せんとしたるがごとき事実を見てもこれを証すべし。

現代語訳

これらはすべて人間の私情から生じたことであり、天然の公道ではありませんが、世界の始まりから今日に至るまで世界中の事情を見ると、さまざまな人民が分かれて一つの群れを成し、その群れのなかで言語や文字を共にし、歴史や言い伝えを共にし、婚姻を通じ、交際が親しく、飲食や衣服の品物など、すべてその趣を同じくして、自然と苦楽を共にするようになると、もう離散することができません。これがすなわち国を立て、また政府を設ける理由であり、すでに一国の名が成ると、人民はますますそれに固着して、自他の区別を明らかにし、他国・他の政府に対してはまるで痛みやかゆみを感じないかのようになるだけでなく、表でも裏でも自分たちの利益と栄誉を主張して、ほとんど手段を選ばず、その主張がいよいよ盛んな者に「忠君愛国」などの名を与えて国民最上の美徳と称するのは、不思議なことです。ですから、忠君愛国の文字は、哲学流に解釈すれば純粋に人類の私情ですが、今日までの世界の事情においては、これを称して美徳と言わざるを得ません。つまり、哲学でいう私情は、立国のうえでは公道であり、この公道・公徳が公認されるのは、ただ一国においてそうであるだけでなく、その国のなかに幾多の小区域があるときは、各区が必ず特色ある利害に制約され、外に対する私を、内のためにする公道とみなさないことはありません。たとえば西洋各国が互いに向き合い、日本と中国・朝鮮が互いに接して、お互いに利害を異にするのはもちろん、日本国内においても、封建の時代に幕府を中央に戴いて三百の藩に分かれたときは、各藩が互いに自分の利害と栄辱を重んじ、ほんの少しも他に譲らず、その競争の極みは、他を損なっても自分が利を得ようとしたという事実を見ても、これを証明できます。

解説

私情にすぎない愛国心が、現実の世界では公道・美徳として扱われる、という福沢の観察です。言語や歴史を共にする集団は離れられず、国や藩といった単位は、外に対する私を内に対する公として正当化します。組織でも、部門や会社への忠誠が、部門間の利害対立を正当化する形で働くことがあります。なお『支那』『朝鮮』は当時の国名の呼称・表記で、今日の感覚と異なります。

この章句が説くこと

私情公道忠君愛国藩自他の分利害

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