史記 / 大宛列伝
而漢使窮河源,河源出于窴,其山多玉石,采來,天子案古圖書,名河所出山曰崑崙云。是時上方數巡狩海上,乃悉從外國客,大都多人則過之,散財帛以賞賜,厚具以饒給之,以覽示漢富厚焉。於是大觳抵,出奇戲諸怪物,多聚觀者,行賞賜,酒池肉林,令外國客遍觀各倉庫府藏之積,見漢之廣大,傾駭之。及加其眩者之工,而觳抵奇戲歲增變,甚盛益興,自此始。西北外國使,更來更去。宛以西,皆自以遠,尚驕恣晏然,未可詘以禮羈縻而使也。自烏孫以西至安息,以近匈奴,匈奴困月氏也,匈奴使持單于一信,則國國傳送食,不敢留苦;及至漢使,非出幣帛不得食,不市畜不得騎用。所以然者,遠漢,而漢多財物,故必市乃得所欲,然以畏匈奴於漢使焉。宛左右以蒲陶為酒,富人藏酒至萬餘石,久者數十歲不敗。俗嗜酒,馬嗜苜蓿。漢使取其實來,於是天子始種苜蓿、蒲陶肥饒地。及天馬多,外國使來眾,則離宮別觀旁盡種蒲萄、苜蓿極望。自大宛以西至安息,國雖頗異言,然大同俗,相知言。其人皆深眼,多須髯,善市賈,爭分銖。俗貴女子,女子所言而丈夫乃決正。其地皆無絲漆,不知鑄錢器。及漢使亡卒降,教鑄作他兵器。
新字:而漢使窮河源,河源出于窴,其山多玉石,采来,天子案古図書,名河所出山曰崑崙云。是時上方数巡狩海上,乃悉従外国客,大都多人則過之,散財帛以賞賜,厚具以饒給之,以覧示漢富厚焉。於是大觳抵,出奇戯諸怪物,多聚観者,行賞賜,酒池肉林,令外国客遍観各倉庫府蔵之積,見漢之広大,傾駭之。及加其眩者之工,而觳抵奇戯歳增変,甚盛益興,自此始。西北外国使,更来更去。宛以西,皆自以遠,尚驕恣晏然,未可詘以礼羈縻而使也。自烏孫以西至安息,以近匈奴,匈奴困月氏也,匈奴使持単于一信,則国国伝送食,不敢留苦;及至漢使,非出幣帛不得食,不市畜不得騎用。所以然者,遠漢,而漢多財物,故必市乃得所欲,然以畏匈奴於漢使焉。宛左右以蒲陶為酒,富人蔵酒至万余石,久者数十歳不敗。俗嗜酒,馬嗜苜蓿。漢使取其実来,於是天子始種苜蓿、蒲陶肥饒地。及天馬多,外国使来衆,則離宮別観旁尽種蒲萄、苜蓿極望。自大宛以西至安息,国雖頗異言,然大同俗,相知言。其人皆深眼,多須髯,善市賈,争分銖。俗貴女子,女子所言而丈夫乃決正。其地皆無糸漆,不知鋳銭器。及漢使亡卒降,教鋳作他兵器。
書き下し
而して漢使河源を窮むるに、河源は于窴に出で、其の山に玉石多し。采り来たるに、天子古の図書を案じ、河の出づる所の山を名づけて崑崙と曰ふと云ふ。是の時、上方に数々海上に巡狩し、乃ち悉く外国の客を従へ、大都の人多き者は則ち之に過り、財帛を散じて以て賞賜し、厚く具へて以て之に饒給し、以て漢の富厚を覧示す。是に於いて大いに觳抵し、奇戯諸々の怪物を出だし、多く観る者を聚め、賞賜を行ひ、酒池肉林、外国の客をして遍く各々の倉庫府蔵の積を観しめ、漢の広大を見せしめて之を傾駭せしむ。其の眩者の工を加ふるに及び、而して觳抵奇戯歳々に増変し、甚だ盛んにして益々興るは、此より始まる。西北の外国の使ひ、更々来たり更々去る。宛以西は、皆自ら遠しと以ひ、尚ほ驕恣晏然として、未だ礼を以て詘し羈縻して使ふ可からず。烏孫より以西安息に至るまで、匈奴に近きを以て、匈奴月氏を困しめしを以て、匈奴の使ひ単于の一信を持せば、則ち国国伝へて食を送り、敢へて留め苦しめず。漢使に至るに及びては、幣帛を出だすに非ざれば食を得ず、畜を市はざれば騎用を得ず。然る所以の者は、漢に遠く、而して漢は財物多し。故に必ず市ひて乃ち欲する所を得。然れども匈奴を漢使より畏るるを以てなり。宛の左右は蒲陶を以て酒と為し、富人は酒を蔵すること万余石に至り、久しき者は数十歳にして敗れず。俗は酒を嗜み、馬は苜蓿を嗜む。漢使其の実を取りて来たり、是に於いて天子始めて苜蓿・蒲陶を肥饒の地に種う。天馬多く、外国の使ひ来たること衆きに及び、則ち離宮別観の旁に尽く蒲萄・苜蓿を種ゑ、望みを極む。大宛より以西安息に至るまで、国頗る言を異にすと雖も、然れども大いに俗を同じくし、相言を知る。其の人皆深眼にして須髯多く、市賈を善くし、分銖を争ふ。俗は女子を貴び、女子の言ふ所にして丈夫乃ち決正す。其の地皆糸漆無く、銭器を鋳るを知らず。漢使の亡卒の降るに及び、他の兵器を鋳作するを教ふ。
現代語訳
さらに漢の使者は黄河の源を突き止めようとし、黄河の源は于窴に発し、その山には玉石が多いことを知った。それを採って持ち帰ると、天子は古い図や書物を調べ、黄河の出る山を崑崙と名づけたという。このころ天子はしばしば海辺を巡幸しており、外国の客をことごとく従えて、人の多い大都市に立ち寄っては財貨や絹を配って褒美とし、手厚くもてなして物を十分に与え、漢の豊かさを見せつけた。そこで盛大に角抵(すもうの類の見世物)を催し、珍しい演し物や奇怪な出し物を並べ、多くの見物人を集め、褒美を配り、酒の池に肉の林というほどの宴を開き、外国の客にそれぞれの倉庫や宝物庫の蓄えをくまなく見せ、漢の広大さを示して驚嘆させた。さらに幻術師の技を加え、角抵や珍しい演し物が年ごとに増え変わり、ますます盛んになったのは、これから始まったのである。西北の外国の使者が入れ替わり立ち替わり来ては去った。大宛より西の国々は、みな自分たちは遠いからと考え、なお驕り高ぶって平然としており、礼によって屈服させ、つなぎとめて使うことはまだできなかった。烏孫から西、安息に至るまでの国々は、匈奴に近く、また匈奴がかつて月氏を苦しめたことを知っているので、匈奴の使者が単于の書状を一通持っていれば、国から国へと食糧を送り届け、引き留めて苦しめるようなことはしなかった。ところが漢の使者に対しては、贈り物の絹を出さなければ食べ物を与えず、家畜を買わなければ乗り物も使わせなかった。そうなるのは、漢から遠く、しかも漢は財物が多いので、必ず買わせてはじめて望むものを与えるからである。しかし結局のところ、漢の使者よりも匈奴を恐れているからであった。大宛の周辺では葡萄で酒を造り、富裕な者は一万余石もの酒を蓄え、古いものは数十年たっても腐らない。人々は酒を好み、馬は苜蓿(うまごやし)を好む。漢の使者がその種を持ち帰ったので、天子は初めて苜蓿と葡萄を肥えた土地に植えた。天馬が増え、外国の使者が多く来るようになると、離宮や別館のそばには一面に葡萄と苜蓿が植えられ、見渡すかぎり続いた。大宛から西、安息に至るまで、国ごとに言葉はかなり違うが、風俗はほぼ同じで、互いに言葉が通じる。人々はみな目がくぼみ、ひげが多く、商売が上手で、わずかな金額まで争う。風俗として女性を尊び、女性の言うことによって男が物事を決める。その地にはどこも絹や漆がなく、銭や器を鋳造することを知らなかった。漢の使者の従者で逃げて投降した者が、ほかの兵器の鋳造を教えた。
解説
関連する章句
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史記 大宛列伝曰く、大宛は匈奴の西南に在り、漢の正西に在り、漢を去ること万里可(ばか)りなり。其の俗は土著にして田を耕し、稲麦を田(つく)る。蒲陶酒有り。善馬多く、馬は血を汗す。其の先は天馬の子なり。城郭屋室有り。其の属邑は大小七十余城、衆は数十万可りなり。其の兵は弓矛騎射なり。其の北は則ち康居、西は則ち大月氏、西南は則ち大夏、東北は則ち烏孫、東は則ち扜穼・于窴なり。于窴の西は、則ち水皆西に流れ、西海に注ぐ。其の東は水東に流れ、塩沢に注ぐ。塩沢は潜かに地下を行き、其の南は則ち河源焉より出づ。玉石多く、河は中国に注ぐ。而して楼蘭・姑師の邑は城郭有り、塩沢に臨む。塩沢は長安を去ること五千里可りなり。匈奴の右方は塩沢より以東に居り、隴西の長城に至り、南は羌に接し、漢の道を鬲(へだ)つ。烏孫は大宛の東北二千里可りに在り、行国にして畜に随ひ、匈奴と俗を同じくす。控弦の者数万、戦ひを敢へてす。故は匈奴に服せしも、盛んなるに及び、其の羈属を取りて、肯へて往きて朝会せず。康居は大宛の西北二千里可りに在り、行国にして、月氏と大いに俗を同じくす。控弦の者八九万人。大宛と隣国たり。国小にして、南は月氏に羈事し、東は匈奴に羈事す。奄蔡は康居の西北二千里可りに在り、行国にして、康居と大いに俗を同じくす。控弦の者十余万。大沢に臨みて崖無し。蓋し乃ち北海なりと云ふ。大月氏は大宛の西二三千里可りに在り、嬀水の北に居る。其の南は則ち大夏、西は則ち安息、北は則ち康居なり。行国なり。畜に随ひて移徙し、匈奴と俗を同じくす。控弦の者一二十万可りなり。故時は彊く、匈奴を軽んぜしも、冒頓立つに及び、攻めて月氏を破り、匈奴の老上単于に至りて、月氏の王を殺し、其の頭を以て飲器と為す。
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史記 大宛列伝漢の烏孫に使ひし、若し其の南に出で、大宛・大月氏に抵りて相属するに及び、烏孫乃ち恐れ、使ひをして馬を献ぜしめ、漢女翁主を尚(めと)りて昆弟と為らんことを願ふ。天子、群臣に問ひて計を議するに、皆曰く、「必ず先づ聘を納れ、然る後に乃ち女を遣はせ」と。初め、天子、書易を発(ひら)くに、云ふ、「神馬当に西北より来たるべし」と。烏孫の馬の好きを得、名づけて天馬と曰ふ。大宛の汗血馬を得るに及び、益々壮なり。更めて烏孫の馬を名づけて西極と曰ひ、大宛の馬を名づけて天馬と曰ふと云ふ。而して漢始めて令居以西に築き、初めて酒泉郡を置き、以て西北の国に通ず。因りて益々使ひを発して安息・奄蔡・黎軒・条枝・身毒国に抵らしむ。而して天子宛馬を好み、使者道に相望む。諸々の外国に使ひする一輩、大なる者は数百、少なき者は百余人、人の齎操する所は大いに博望侯の時に放(なら)ふ。其の後益々習ひて衰少す。漢、率ね一歳の中に使ひ多き者は十余、少なき者は五六輩、遠き者は八九歳、近き者は数歳にして反る。是の時、漢既に越を滅ぼし、而して蜀・西南夷皆震ひ、吏を請ひて入朝す。是に於いて益州・越巂・牂柯・沈黎・汶山郡を置き、地を接して以て前(すす)みて大夏に通ぜんと欲す。乃ち使ひ柏始昌・呂越人等を遣はすこと歳に十余輩、此の初郡より出でて大夏に抵らしむ。皆復た昆明に閉ざされ、殺す所と為り、幣財を奪はれ、終に能く通じて大夏に至る莫し。是に於いて漢、三輔の罪人を発し、巴蜀の士数万人に因り、両将軍郭昌・衛広等を遣はして往きて昆明の漢の使者を遮る者を撃たしめ、斬首虜数万人にして去る。其の後使ひを遣はすも、昆明復た寇を為し、竟に通ずるを得る莫し。而して北道の酒泉より大夏に抵る使者既に多くして、外国益々漢の幣に厭き、其の物を貴ばず。
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史記 大宛列伝太史公曰く、禹本紀に言ふ、「河は崑崙より出づ、崑崙は其の高さ二千五百餘里、日月相ひ避け隠れて光明を為す所なり」と。今張騫の大夏に使ひせしより後や、河源を窮むるに、悪くんぞ本紀の所謂崑崙なる者を睹んや。故に九州の山川を言ふは、尚書之に近し。至りて禹本紀・山海経に有る所の怪物は、余敢て之を言はざるなり。
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史記 大宛列伝外国も亦漢使の人人言有りて軽重するに厭き、漢の兵遠くして至る能はずと度り、而して其の食物を禁じて以て漢使を苦しむ。漢使乏絶して怨みを積み、相攻撃するに至る。而して楼蘭・姑師は小国のみなれども、空道に当たり、漢使王恢等を攻劫すること尤も甚だし。而して匈奴の奇兵時時西国に使ひする者を遮撃す。使者争ひて遍く外国の災害を言ひ、皆城邑有れども、兵弱く撃ち易しと。是に於いて天子故を以て従驃侯破奴を遣はし、属国の騎及び郡兵数万を将ゐて匈河水に至り、以て胡を撃たんと欲せしむるも、胡皆去る。其の明年、姑師を撃ち、破奴、軽騎七百余と先づ至り、楼蘭王を虜にし、遂に姑師を破る。因りて兵威を挙げて以て烏孫・大宛の属を困しむ。還りて破奴を封じて浞野侯と為す。王恢数々使ひし、楼蘭の苦しむる所と為り、天子に言ふ。天子兵を発して恢をして破奴を佐けて之を撃破せしめ、恢を封じて浩侯と為す。是に於いて酒泉より亭鄣を列ねて玉門に至る。烏孫、千匹の馬を以て漢女を聘す。漢、宗室の女江都翁主を遣はして往きて烏孫に妻(めあ)はす。烏孫王昆莫、以て右夫人と為す。匈奴も亦女を遣はして昆莫に妻はす。昆莫以て左夫人と為す。昆莫曰く、「我老いたり」と。乃ち其の孫岑娶をして翁主を妻らしむ。烏孫は馬多く、其の富人は四五千匹の馬を有するに至る。初め、漢使安息に至るや、安息王、二万騎を将ゐて東界に迎へしむ。東界は王都を去ること数千里。行きて至る比(ころ)、数十城を過ぎ、人民相属して甚だ多し。漢使還るや、而して後に使ひを発して漢使に随ひて来たり漢の広大を観しめ、大鳥の卵及び黎軒の善眩人を以て漢に献ず。宛の西の小国驩潜・大益、宛の東の姑師・扜穼・蘇薤の属に及ぶまで、皆漢使に随ひて献見し天子に見ゆ。天子大いに悦ぶ。
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史記 大宛列伝始め月氏は敦煌・祁連の間に居りしが、匈奴の敗る所と為るに及び、乃ち遠く去り、宛を過ぎ、西のかた大夏を撃ちて之を臣とし、遂に嬀水の北に都して王庭と為す。其の余の小衆の去ること能はざる者は、南山の羌に保(よ)り、小月氏と号す。安息は大月氏の西数千里可りに在り。其の俗は土著にして田を耕し、稲麦を田り、蒲陶酒あり。城邑は大宛の如し。其の属は小大数百城、地は方数千里、最も大国たり。嬀水に臨み、市有り。民の商賈は車及び船を用ひ、旁国に行くこと或いは数千里。銀を以て銭と為し、銭は其の王の面の如し。王死すれば輒ち銭を更め、王の面に効ふ。革に画きて旁行し、以て書記と為す。其の西は則ち条枝、北には奄蔡・黎軒有り。条枝は安息の西数千里に在り、西海に臨む。暑湿なり。田を耕し、稲を田る。大鳥有り、卵は甕の如し。人衆甚だ多く、往往にして小君長有り、而して安息之を役属し、以て外国と為す。国は眩を善くす。安息の長老伝へ聞く、条枝に弱水・西王母有りと。而れども未だ嘗て見ず。大夏は大宛の西南二千余里、嬀水の南に在り。其の俗は土著にして城屋有り、大宛と俗を同じくす。大君長無く、往往にして城邑に小長を置く。其の兵弱く、戦ひを畏る。賈市を善くす。大月氏の西に徙るに及び、攻めて之を敗り、皆大夏を臣畜す。大夏の民多く、百余万可りなり。其の都を藍市城と曰ひ、市有りて諸物を販賈す。其の東南に身毒国有り。騫曰く、「臣、大夏に在りし時、邛の竹杖・蜀の布を見る。問ひて曰く、『安くにか此を得たる』と。大夏の国人曰く、『吾が賈人往きて之を身毒に市ふ。身毒は大夏の東南数千里可りに在り。其の俗は土著にして、大いに大夏と同じく、而して卑湿暑熱なりと云ふ。其の人民は象に乗りて以て戦ふ。其の国は大水に臨む』と。騫を以て之を度るに、大夏は漢を去ること万二千里、漢の西南に居る。
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史記 大宛列伝今、身毒国又大夏の東南数千里に居りて蜀の物有り。此れ其の蜀を去ること遠からざるなり。今、大夏に使ひするに、羌中よりすれば険にして、羌人之を悪む。少しく北すれば、則ち匈奴の得る所と為る。蜀よりすれば宜しく径なるべく、又寇無し」と。天子既に大宛及び大夏・安息の属は皆大国にして奇物多く、土著にして頗る中国と業を同じくし、而して兵弱く、漢の財物を貴ぶを聞く。其の北には大月氏・康居の属有り、兵彊く、賂遺を以て利を設けて朝せしむ可し。且つ誠に得て義を以て之を属せしめば、則ち地を広むること万里、九訳を重ね、殊俗を致し、威徳四海に遍からん。天子欣然として、騫の言を以て然りと為し、乃ち騫をして蜀の犍為に因りて間使を発せしめ、四道並び出づ。駹より出で、冉より出で、徙より出で、邛・僰より出で、皆各々行くこと一二千里。其の北方は氐・筰に閉ざされ、南方は巂・昆明に閉ざさる。昆明の属は君長無く、寇盗を善くし、輒ち漢の使ひを殺略し、終に通ずるを得る莫し。然れども其の西千余里可りに乗象国有り、名づけて滇越と曰ふと聞く。而して蜀の賈の姦に物を出す者或いは焉に至る。是に於いて漢、大夏の道を求むるを以て始めて滇国に通ず。初め、漢、西南夷に通ぜんと欲するも、費多く道通ぜず、之を罷む。張騫の大夏に通ず可しと言ふに及び、乃ち復た西南夷を事とす。騫、校尉を以て大将軍に従ひて匈奴を撃ち、水草の処を知り、軍以て乏しからざるを得たり。乃ち騫を封じて博望侯と為す。是の歳は元朔六年なり。其の明年、騫、衛尉と為り、李将軍と俱に右北平に出でて匈奴を撃つ。匈奴、李将軍を囲み、軍の失亡多し。而して騫、期に後れて斬に当たり、贖ひて庶人と為る。是の歳、漢、驃騎を遣はして匈奴の西域の数万人を破り、祁連山に至る。其の明年、渾邪王其の民を率ゐて漢に降り、而して金城・河西の西、南山に並びて塩沢に至るまで、空しくして匈奴無し。匈奴時に候者の到る有るも、希なり。
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