史記 / 大宛列伝
其後二年,漢擊走單于於幕北。是後天子數問騫大夏之屬。騫既失侯,因言曰:「臣居匈奴中,聞烏孫王號昆莫,昆莫之父,匈奴西邊小國也。匈奴攻殺其父,而昆莫生棄於野。烏嗛肉蜚其上,狼往乳之。單于怪以為神,而收長之。及壯,使將兵,數有功,單于復以其父之民予昆莫,令長守於西域。昆莫收養其民,攻旁小邑,控弦數萬,習攻戰。單于死,昆莫乃率其眾遠徙,中立,不肯朝會匈奴。匈奴遣奇兵擊,不勝,以為神而遠之,因羈屬之,不大攻。今單于新困於漢,而故渾邪地空無人。蠻夷俗貪漢財物,今誠以此時而厚幣賂烏孫,招以益東,居故渾邪之地,與漢結昆弟,其勢宜聽,聽則是斷匈奴右臂也。既連烏孫,自其西大夏之屬皆可招來而為外臣。」天子以為然,拜騫為中郎將,將三百人,馬各二匹,牛羊以萬數,齎金幣帛直數千巨萬,多持節副使,道可使,使遺之他旁國。
新字:其後二年,漢撃走単于於幕北。是後天子数問騫大夏之属。騫既失侯,因言曰:「臣居匈奴中,聞烏孫王号昆莫,昆莫之父,匈奴西辺小国也。匈奴攻殺其父,而昆莫生棄於野。烏嗛肉蜚其上,狼往乳之。単于怪以為神,而収長之。及壮,使将兵,数有功,単于復以其父之民予昆莫,令長守於西域。昆莫収養其民,攻旁小邑,控弦数万,習攻戦。単于死,昆莫乃率其衆遠徙,中立,不肯朝会匈奴。匈奴遣奇兵撃,不勝,以為神而遠之,因羈属之,不大攻。今単于新困於漢,而故渾邪地空無人。蠻夷俗貪漢財物,今誠以此時而厚幣賂烏孫,招以益東,居故渾邪之地,与漢結昆弟,其勢宜聴,聴則是断匈奴右臂也。既連烏孫,自其西大夏之属皆可招来而為外臣。」天子以為然,拝騫為中郎将,将三百人,馬各二匹,牛羊以万数,齎金幣帛直数千巨万,多持節副使,道可使,使遺之他旁国。
書き下し
其の後二年、漢、単于を幕北に撃ち走らす。是の後、天子数々騫に大夏の属を問ふ。騫既に侯を失ひ、因りて言ひて曰く、「臣、匈奴の中に居りしとき、聞く、烏孫の王を昆莫と号す。昆莫の父は匈奴の西辺の小国なり。匈奴其の父を攻め殺し、而して昆莫生まれて野に棄てらる。烏、肉を嗛(ふく)みて其の上に蜚び、狼往きて之に乳す。単于怪しみて以て神と為し、収めて之を長ぜしむ。壮なるに及び、兵を将ゐしむるに、数々功有り。単于復た其の父の民を以て昆莫に予へ、長く西域を守らしむ。昆莫其の民を収養し、旁の小邑を攻め、控弦数万、攻戦に習ふ。単于死し、昆莫乃ち其の衆を率ゐて遠く徙り、中立して、肯へて匈奴に朝会せず。匈奴奇兵を遣はして撃つも勝たず、以て神と為して之を遠ざけ、因りて之を羈属し、大いには攻めず。今、単于新たに漢に困しみ、而して故の渾邪の地は空しくして人無し。蛮夷の俗は漢の財物を貪る。今誠に此の時を以て厚く幣もて烏孫に賂ひ、招きて以て益々東せしめ、故の渾邪の地に居らしめ、漢と昆弟を結ばば、其の勢ひ宜しく聴くべし。聴かば則ち是れ匈奴の右臂を断つなり。既に烏孫に連ならば、其の西の大夏の属より、皆招来して外臣と為す可し」と。天子以て然りと為し、騫を拝して中郎将と為し、三百人を将ゐしめ、馬各二匹、牛羊は万を以て数へ、金幣帛の直数千巨万を齎(もた)らし、多く節を持つ副使を持たしめ、道の使ひす可きは、使ひして之を他の旁国に遺らしむ。
現代語訳
その二年後、漢は単于を砂漠の北へ撃退した。その後、天子はたびたび張騫に大夏などのことを尋ねた。張騫は侯の爵位を失っていたので、この機に言った。「私が匈奴の中にいたとき、こう聞きました。烏孫の王は昆莫(こんばく)と称する。昆莫の父は匈奴の西辺の小国の王でした。匈奴がその父を攻め殺し、昆莫は生まれてすぐ野に捨てられました。すると烏が肉をくわえてその上を飛び、狼がやって来て乳を与えました。単于は不思議に思って神の子だと考え、引き取って育てました。成人すると兵を率いさせたところ、たびたび手柄を立てたので、単于はまた父の民を昆莫に与え、長く西域を守らせました。昆莫はその民を養い、近くの小さな町を攻め、弓を引く兵数万をそろえ、戦いに習熟しました。単于が死ぬと、昆莫は民を率いて遠くへ移り、中立の立場をとって、匈奴の朝会に出ようとしませんでした。匈奴は奇襲部隊を送って攻めましたが勝てず、神だとして遠ざけ、ゆるやかに従わせるだけで、大きな攻撃はしていません。いま単于は漢に苦しめられたばかりで、もとの渾邪王の土地は空いて人がいません。蛮夷の習いとして漢の財物を欲しがる。いまこの時に手厚い贈り物で烏孫を誘い、さらに東へ招いてもとの渾邪の地に住まわせ、漢と兄弟の契りを結ばせれば、その成り行きからして聞き入れるはずだ。聞き入れれば、それは匈奴の右腕を断ち切ることになる。烏孫と結んでしまえば、その西の大夏などもみな招き寄せて外臣(服属国)とすることができます」。天子はもっともだとし、張騫を中郎将に任じ、三百人を率いさせ、馬は一人二匹、牛や羊は万の単位、金や絹など数千万から億に及ぶ価値の品を持たせ、節を持つ副使を多数つけ、道中で使いを出せる国があれば、他の近隣の国にも使いを送って贈り物をさせることにした。
解説
関連する章句
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史記 大宛列伝騫、使ひの指(むね)を諭して曰く、「烏孫能く東して渾邪の地に居らば、則ち漢、翁主を遣はして昆莫の夫人と為さん」と。烏孫の国分かれ、王老い、而して漢に遠く、未だ其の大小を知らず。素より匈奴に服属すること日久しく、且つ又之に近く、其の大臣皆胡を畏れ、移徙するを欲せず。王専制すること能はず。騫、其の要領を得ず。昆莫に十余子有り、其の中子を大禄と曰ふ。彊くして善く衆を将ゐ、衆を将ゐて別に万余騎に居る。大禄の兄太子たり。太子に子有り岑娶と曰ふ。而して太子蚤く死す。死に臨みて其の父昆莫に謂ひて曰く、「必ず岑娶を以て太子と為し、他人をして之に代はらしむる無かれ」と。昆莫哀れみて之を許し、卒に岑娶を以て太子と為す。大禄、其の太子に代はるを得ざるを怒り、乃ち其の諸昆弟を収め、其の衆を将ゐて畔(そむ)き、岑娶及び昆莫を攻めんと謀る。昆莫老い、常に大禄の岑娶を殺さんことを恐れ、岑娶に万余騎を予へて別に居らしめ、而して昆莫は万余騎有りて自ら備ふ。国衆分かれて三と為り、而して其の大総は昆莫に羈属す。昆莫も亦此を以て敢へて専ら騫と約せず。騫、因りて副使を分遣して大宛・康居・大月氏・大夏・安息・身毒・于窴・扜穼及び諸旁国に使ひせしむ。烏孫、導訳を発して騫を送り還らしむ。騫、烏孫の遣はす使ひ数十人、馬数十匹と与に報謝し、因りて漢を窺ひて其の広大なるを知らしむ。騫還り到り、拝して大行と為り、九卿に列す。歳余にして卒す。烏孫の使ひ既に漢の人衆く富厚なるを見て、帰りて其の国に報じ、其の国乃ち益々漢を重んず。其の後歳余、騫の遣はす所の大夏の属に通ずる使ひ、皆頗る其の人と俱に来たる。是に於いて西北の国始めて漢に通ず。然れども張騫空を鑿ち、其の後使ひして往く者は皆博望侯と称し、以て外国に質とす。外国是に由りて之を信ず。博望侯騫死して後より、匈奴、漢の烏孫に通ずるを聞き、怒りて之を撃たんと欲す。
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史記 大宛列伝騫既に烏孫に至るに、烏孫王昆莫漢使に見ゆること単于の礼のごとし、騫大いに慚づ。蛮夷の貪なるを知り、乃ち曰く、「天子の賜を致す、王拝せずんば則ち賜を還さん」と。昆莫起ちて賜を拝す、其の他故のごとし。
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史記 大宛列伝匈奴の中に居ること益々寛なり。騫、因りて其の属と亡げて月氏に郷(む)かひ、西に走ること数十日にして大宛に至る。大宛、漢の財に饒かなるを聞き、通ぜんと欲して得ず。騫を見て喜び、問ひて曰く、「若(なんぢ)何くに之かんと欲するか」と。騫曰く、「漢の為に月氏に使ひせんとして、匈奴の道を閉ざす所と為る。今亡げたり。唯だ王、人をして我を導送せしめよ。誠に至るを得て漢に反らば、漢の王に賂遺する財物は勝げて言ふ可からず」と。大宛以て然りと為し、騫を遣はし、為に導繹を発し、康居に抵らしむ。康居伝へて大月氏に致す。大月氏の王已に胡の殺す所と為り、其の太子を立てて王と為す。既に大夏を臣として居り、地肥饒にして寇少なく、志安楽にして、又自ら漢に遠しと以(おも)ひ、殊に胡に報ゆるの心無し。騫、月氏より大夏に至るも、竟に月氏の要領を得ること能はず。留まること歳余にして還り、南山に并(そ)ひ、羌中より帰らんと欲して、復た匈奴の得る所と為る。留まること歳余、単于死し、左谷蠡王、其の太子を攻めて自ら立ち、国内乱る。騫、胡妻及び堂邑父と俱に亡げて漢に帰る。漢、騫を拝して太中大夫と為し、堂邑父を奉使君と為す。
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史記 大宛列伝今、身毒国又大夏の東南数千里に居りて蜀の物有り。此れ其の蜀を去ること遠からざるなり。今、大夏に使ひするに、羌中よりすれば険にして、羌人之を悪む。少しく北すれば、則ち匈奴の得る所と為る。蜀よりすれば宜しく径なるべく、又寇無し」と。天子既に大宛及び大夏・安息の属は皆大国にして奇物多く、土著にして頗る中国と業を同じくし、而して兵弱く、漢の財物を貴ぶを聞く。其の北には大月氏・康居の属有り、兵彊く、賂遺を以て利を設けて朝せしむ可し。且つ誠に得て義を以て之を属せしめば、則ち地を広むること万里、九訳を重ね、殊俗を致し、威徳四海に遍からん。天子欣然として、騫の言を以て然りと為し、乃ち騫をして蜀の犍為に因りて間使を発せしめ、四道並び出づ。駹より出で、冉より出で、徙より出で、邛・僰より出で、皆各々行くこと一二千里。其の北方は氐・筰に閉ざされ、南方は巂・昆明に閉ざさる。昆明の属は君長無く、寇盗を善くし、輒ち漢の使ひを殺略し、終に通ずるを得る莫し。然れども其の西千余里可りに乗象国有り、名づけて滇越と曰ふと聞く。而して蜀の賈の姦に物を出す者或いは焉に至る。是に於いて漢、大夏の道を求むるを以て始めて滇国に通ず。初め、漢、西南夷に通ぜんと欲するも、費多く道通ぜず、之を罷む。張騫の大夏に通ず可しと言ふに及び、乃ち復た西南夷を事とす。騫、校尉を以て大将軍に従ひて匈奴を撃ち、水草の処を知り、軍以て乏しからざるを得たり。乃ち騫を封じて博望侯と為す。是の歳は元朔六年なり。其の明年、騫、衛尉と為り、李将軍と俱に右北平に出でて匈奴を撃つ。匈奴、李将軍を囲み、軍の失亡多し。而して騫、期に後れて斬に当たり、贖ひて庶人と為る。是の歳、漢、驃騎を遣はして匈奴の西域の数万人を破り、祁連山に至る。其の明年、渾邪王其の民を率ゐて漢に降り、而して金城・河西の西、南山に並びて塩沢に至るまで、空しくして匈奴無し。匈奴時に候者の到る有るも、希なり。
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史記 大宛列伝漢、方に胡を滅ぼすを事とせんと欲し、此の言を聞き、因りて使ひを通ぜんと欲す。道必ず匈奴の中を更(ふ)れば、乃ち能く使ひする者を募る。騫、郎を以て募に応じ、月氏に使ひし、堂邑氏の故の胡奴甘父と俱に隴西を出づ。匈奴を経、匈奴之を得、伝へて単于に詣らしむ。単于之を留めて曰く、「月氏は吾が北に在り、漢何を以て往きて使ひするを得んや。吾、越に使ひせしめんと欲せば、漢肯へて我に聴さんや」と。騫を留むること十余歳、妻を与へ、子有り。然れども騫、漢の節を持して失はず。
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史記 大宛列伝外国も亦漢使の人人言有りて軽重するに厭き、漢の兵遠くして至る能はずと度り、而して其の食物を禁じて以て漢使を苦しむ。漢使乏絶して怨みを積み、相攻撃するに至る。而して楼蘭・姑師は小国のみなれども、空道に当たり、漢使王恢等を攻劫すること尤も甚だし。而して匈奴の奇兵時時西国に使ひする者を遮撃す。使者争ひて遍く外国の災害を言ひ、皆城邑有れども、兵弱く撃ち易しと。是に於いて天子故を以て従驃侯破奴を遣はし、属国の騎及び郡兵数万を将ゐて匈河水に至り、以て胡を撃たんと欲せしむるも、胡皆去る。其の明年、姑師を撃ち、破奴、軽騎七百余と先づ至り、楼蘭王を虜にし、遂に姑師を破る。因りて兵威を挙げて以て烏孫・大宛の属を困しむ。還りて破奴を封じて浞野侯と為す。王恢数々使ひし、楼蘭の苦しむる所と為り、天子に言ふ。天子兵を発して恢をして破奴を佐けて之を撃破せしめ、恢を封じて浩侯と為す。是に於いて酒泉より亭鄣を列ねて玉門に至る。烏孫、千匹の馬を以て漢女を聘す。漢、宗室の女江都翁主を遣はして往きて烏孫に妻(めあ)はす。烏孫王昆莫、以て右夫人と為す。匈奴も亦女を遣はして昆莫に妻はす。昆莫以て左夫人と為す。昆莫曰く、「我老いたり」と。乃ち其の孫岑娶をして翁主を妻らしむ。烏孫は馬多く、其の富人は四五千匹の馬を有するに至る。初め、漢使安息に至るや、安息王、二万騎を将ゐて東界に迎へしむ。東界は王都を去ること数千里。行きて至る比(ころ)、数十城を過ぎ、人民相属して甚だ多し。漢使還るや、而して後に使ひを発して漢使に随ひて来たり漢の広大を観しめ、大鳥の卵及び黎軒の善眩人を以て漢に献ず。宛の西の小国驩潜・大益、宛の東の姑師・扜穼・蘇薤の属に及ぶまで、皆漢使に随ひて献見し天子に見ゆ。天子大いに悦ぶ。
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