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史記 / 儒林列伝

張湯死后六年,兒寬位至御史大夫。九年而以官卒。寬在三公位,以和良承意從容得久,然無有所匡諫;於官,官屬易之,不為盡力。張生亦為博士。而伏生孫以治尚書徵,不能明也。自此之後,魯周霸、孔安國,雒陽賈嘉,頗能言尚書事。孔氏有古文尚書,而安國以今文讀之,因以起其家。逸書得十餘篇,蓋尚書滋多於是矣。諸學者多言禮,而魯高堂生最本。禮固自孔子時而其經不具,及至秦焚書,書散亡益多,於今獨有士禮,高堂生能言之。而魯徐生善為容。孝文帝時,徐生以容為禮官大夫。傳子至孫延、徐襄。襄,其天姿善為容,不能通禮經;延頗能,未善也。襄以容為漢禮官大夫,至廣陵內史。延及徐氏弟子公戶滿意、桓生、單次,皆嘗為漢禮官大夫。而瑕丘蕭奮以禮為淮陽太守。是後能言禮為容者,由徐氏焉。自魯商瞿受易孔子,孔子卒,商瞿傳易,六世至齊人田何,字子莊,而漢興。田何傳東武人王同子仲,子仲傳菑川人楊何。何以易,元光元年徵,官至中大夫。齊人即墨成以易至城陽相。廣川人孟但以易為太子門大夫。魯人周霸,莒人衡胡,臨菑人主父偃,皆以易至二千石。然要言易者本於楊何之家。

新字:張湯死后六年,児寛位至御史大夫。九年而以官卒。寛在三公位,以和良承意従容得久,然無有所匡諫;於官,官属易之,不為尽力。張生亦為博士。而伏生孫以治尚書徴,不能明也。自此之後,魯周覇、孔安国,雒陽賈嘉,頗能言尚書事。孔氏有古文尚書,而安国以今文読之,因以起其家。逸書得十余篇,蓋尚書滋多於是矣。諸学者多言礼,而魯高堂生最本。礼固自孔子時而其経不具,及至秦焚書,書散亡益多,於今独有士礼,高堂生能言之。而魯徐生善為容。孝文帝時,徐生以容為礼官大夫。伝子至孫延、徐襄。襄,其天姿善為容,不能通礼経;延頗能,未善也。襄以容為漢礼官大夫,至広陵内史。延及徐氏弟子公戸満意、桓生、単次,皆嘗為漢礼官大夫。而瑕丘蕭奮以礼為淮陽太守。是後能言礼為容者,由徐氏焉。自魯商瞿受易孔子,孔子卒,商瞿伝易,六世至斉人田何,字子荘,而漢興。田何伝東武人王同子仲,子仲伝菑川人楊何。何以易,元光元年徴,官至中大夫。斉人即墨成以易至城陽相。広川人孟但以易為太子門大夫。魯人周覇,莒人衡胡,臨菑人主父偃,皆以易至二千石。然要言易者本於楊何之家。

書き下し

張湯死して後六年、兒寛位御史大夫に至る。九年にして官を以て卒す。寛三公の位に在り、和良を以て意を承け従容として久しきを得、然れども匡諫する所有る無し。官に於いて、官属之を易り、為に力を尽くさず。張生も亦博士と為る。而して伏生の孫尚書を治むるを以て徴さるるも、明らかにすること能はざるなり。此より後、魯の周霸・孔安国、雒陽の賈嘉、頗る能く尚書の事を言ふ。孔氏に古文尚書有り、而して安国今文を以て之を読み、因りて以て其の家を起こす。逸書十余篇を得、蓋し尚書是に於て滋々多し。諸学者多く礼を言ふ、而して魯の高堂生最も本なり。礼は固より孔子の時よりして其の経具はらず、秦の書を焚くに至るに及び、書散亡すること益々多し、今に於て独り士礼有り、高堂生能く之を言ふ。而して魯の徐生善く容を為す。孝文帝の時、徐生容を以て礼官大夫と為る。子に伝へて孫の延・徐襄に至る。襄は、其の天姿善く容を為す、礼経に通ずること能はず。延は頗る能くするも、未だ善からざるなり。襄容を以て漢の礼官大夫と為り、広陵内史に至る。延及び徐氏の弟子公戸満意・桓生・単次、皆嘗て漢の礼官大夫と為る。而して瑕丘の蕭奮礼を以て淮陽太守と為る。是の後能く礼を言ひ容を為す者は、徐氏に由る。魯の商瞿易を孔子に受けてより、孔子卒し、商瞿易を伝へ、六世にして斉人田何、字は子荘に至りて、漢興る。田何東武の人王同子仲に伝へ、子仲菑川の人楊何に伝ふ。何易を以て、元光元年徴され、官中大夫に至る。斉人即墨成易を以て城陽の相に至る。広川の人孟但易を以て太子の門大夫と為る。魯人周霸・莒人衡胡・臨菑の人主父偃、皆易を以て二千石に至る。然れども要するに易を言ふ者は楊何の家に本づく。

現代語訳

張湯が死んで六年後、兒寛は御史大夫の位に至った。九年務めて在官のまま亡くなった。兒寛は三公の地位にあって、温和で善良に主上の意を受け、ゆったりと構えて長く地位を保ったが、主上を正し諫めることは何もなかった。役所では、属官たちが彼を侮り、そのために力を尽くさなかった。張生もまた博士となった。伏生の孫は『書経』に通じているとして召し出されたが、十分に説き明かすことはできなかった。これより後、魯の周霸・孔安国、雒陽の賈嘉がかなり『書経』のことを説くことができた。孔氏の家には古文(古い字体)の『書経』があり、孔安国はそれを今文(漢代の字体)で読み解いたことで、自分の家学を興した。失われていた篇を十余篇得たので、『書経』はこれによってさらに篇数が多くなったのであろう。学者の多くが礼を説いたが、魯の高堂生が最も根本であった。礼はもともと孔子の時代からその経典がそろっておらず、秦が書物を焼くと、散逸したものはさらに多くなった。今ではただ『士礼』だけが残り、高堂生がこれを説くことができた。また魯の徐生は儀礼の立ち居振る舞いが巧みであった。孝文帝の時代、徐生は立ち居振る舞いの巧みさによって礼官大夫となった。子に伝え、孫の徐延・徐襄に至った。徐襄は生まれつき振る舞いが巧みであったが、礼の経典には通じていなかった。徐延はかなりできたが、十分ではなかった。徐襄は振る舞いの巧みさで漢の礼官大夫となり、広陵内史にまで至った。徐延と徐氏の弟子の公戸満意・桓生・単次は、みな漢の礼官大夫となった。また瑕丘の蕭奮は礼によって淮陽太守となった。これより後、礼を説き儀礼の振る舞いを行う者は、徐氏に由来する。魯の商瞿が孔子から『易』を学んでから、孔子が亡くなると商瞿が『易』を伝え、六代を経て斉の人田何、字は子荘に至り、そこで漢が興った。田何は東武の人王同、字は子仲に伝え、子仲は菑川の人楊何に伝えた。楊何は『易』によって元光元年に召され、官は中大夫に至った。斉の人即墨成は『易』によって城陽の相に至った。広川の人孟但は『易』によって太子の門大夫となった。魯の人周霸、莒の人衡胡、臨菑の人主父偃は、みな『易』によって二千石に至った。しかし要するに、『易』を説く者は楊何の家に基づいている。

解説

『書経』『礼』『易』の伝承の系譜を記した段です。冒頭では、苦学して御史大夫に上った兒寛が、温和で主君に逆らわず長く地位を保ったものの、諫めることがなく部下にも侮られたと、司馬遷は厳しく評しています。『書経』では孔安国が孔子の旧宅から出た古文の本を読み解いて篇数を増やし、『礼』では経典は高堂生が、立ち居振る舞いは徐氏が伝えましたが、徐襄のように所作は見事でも経典に通じない者も礼官になったと記されます。『易』は孔子から商瞿を経て楊何に至る系譜が示されます。形だけを受け継いだ者と中身を理解した者の違いに、司馬遷はさりげなく目を向けているのです。地位を保つことと役割を果たすこと、所作を真似ることと本質を理解することの違いは、今の仕事でも問われます。

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