史記 / 儒林列伝
自是之後,齊言詩皆本轅固生也。諸齊人以詩顯貴,皆固之弟子也。韓生者,燕人也。孝文帝時為博士,景帝時為常山王太傅。韓生推詩之意而為內外傳數萬言,其語頗與齊魯閒殊,然其歸一也。淮南賁生受之。自是之後,而燕趙閒言詩者由韓生。韓生孫商為今上博士。伏生者,濟南人也。故為秦博士。孝文帝時,欲求能治尚書者,天下無有,乃聞伏生能治,欲召之。是時伏生年九十餘,老,不能行,於是乃詔太常使掌故晁錯往受之。秦時焚書,伏生壁藏之。其後兵大起,流亡,漢定,伏生求其書,亡數十篇,獨得二十九篇,即以教于齊魯之閒。學者由是頗能言尚書,諸山東大師無不涉尚書以教矣。伏生教濟南張生及歐陽生,歐陽生教千乘兒寬。兒寬既通尚書,以文學應郡舉,詣博士受業,受業孔安國。兒寬貧無資用,常為弟子都養,及時時閒行傭賃,以給衣食。行常帶經,止息則誦習之。以試第次,補廷尉史。是時張湯方鄉學,以為奏讞掾,以古法議決疑大獄,而愛幸寬。寬為人溫良,有廉智,自持,而善著書、書奏,敏於文,口不能發明也。湯以為長者,數稱譽之。及湯為御史大夫,以兒寬為掾,薦之天子。天子見問,說之。
新字:自是之後,斉言詩皆本轅固生也。諸斉人以詩顕貴,皆固之弟子也。韓生者,燕人也。孝文帝時為博士,景帝時為常山王太傅。韓生推詩之意而為内外伝数万言,其語頗与斉魯閒殊,然其帰一也。淮南賁生受之。自是之後,而燕趙閒言詩者由韓生。韓生孫商為今上博士。伏生者,済南人也。故為秦博士。孝文帝時,欲求能治尚書者,天下無有,乃聞伏生能治,欲召之。是時伏生年九十余,老,不能行,於是乃詔太常使掌故晁錯往受之。秦時焚書,伏生壁蔵之。其後兵大起,流亡,漢定,伏生求其書,亡数十篇,独得二十九篇,即以教于斉魯之閒。学者由是頗能言尚書,諸山東大師無不渉尚書以教矣。伏生教済南張生及欧陽生,欧陽生教千乗児寛。児寛既通尚書,以文学応郡舉,詣博士受業,受業孔安国。児寛貧無資用,常為弟子都養,及時時閒行傭賃,以給衣食。行常帯経,止息則誦習之。以試第次,補廷尉史。是時張湯方郷学,以為奏讞掾,以古法議決疑大獄,而愛幸寛。寛為人温良,有廉智,自持,而善著書、書奏,敏於文,口不能発明也。湯以為長者,数称誉之。及湯為御史大夫,以児寛為掾,薦之天子。天子見問,説之。
書き下し
是より後、斉の詩を言ふは皆轅固生に本づくなり。諸々の斉人の詩を以て顕貴なる者は、皆固の弟子なり。韓生は、燕人なり。孝文帝の時博士と為り、景帝の時常山王の太傅と為る。韓生詩の意を推して内外伝数万言を為る、其の語頗る斉魯の間と殊なり、然れども其の帰は一なり。淮南の賁生之を受く。是より後、燕趙の間の詩を言ふ者は韓生に由る。韓生の孫商今上の博士と為る。伏生は、済南の人なり。故の秦の博士為り。孝文帝の時、能く尚書を治むる者を求めんと欲するも、天下に有る無し、乃ち伏生の能く治むるを聞き、之を召さんと欲す。是の時伏生年九十余、老いて、行くこと能はず、是に於て乃ち太常に詔して掌故晁錯をして往きて之を受けしむ。秦の時書を焚く、伏生壁に之を蔵す。其の後兵大いに起こり、流亡す、漢定まり、伏生其の書を求むるに、数十篇を亡ひ、独り二十九篇を得、即ち以て斉魯の間に教ふ。学者是に由りて頗る能く尚書を言ひ、諸々の山東の大師尚書に渉りて以て教へざる無し。伏生済南の張生及び欧陽生に教へ、欧陽生千乗の兒寛に教ふ。兒寛既に尚書に通じ、文学を以て郡の挙に応じ、博士に詣りて業を受く、業を孔安国に受く。兒寛貧しくして資用無し、常に弟子の為に都養し、及び時時間行して傭賃し、以て衣食に給す。行くに常に経を帯び、止息すれば則ち之を誦習す。試みの第次を以て、廷尉史に補せらる。是の時張湯方に学に郷ひ、以て奏讞の掾と為し、古法を以て疑はしき大獄を議決せしめ、而して寛を愛幸す。寛人と為り温良にして、廉智有り、自ら持し、而して善く書を著し、書奏し、文に敏きも、口発明すること能はざるなり。湯以て長者と為し、数々之を称誉す。湯御史大夫と為るに及び、兒寛を以て掾と為し、之を天子に薦む。天子見て問ひ、之を説ぶ。
現代語訳
これより後、斉で『詩経』を説く者はみな轅固生に基づいた。『詩経』によって高い位に就いた斉の人たちは、みな轅固生の弟子であった。韓生(韓嬰)は燕の人である。孝文帝の時代に博士となり、景帝の時代に常山王の太傅となった。韓生は『詩経』の意味を推し広めて『内伝』『外伝』数万字を著した。その言葉は斉・魯の説とかなり違っていたが、行き着くところは同じであった。淮南の賁生がこれを受け継いだ。これより後、燕・趙の地方で『詩経』を説く者は韓生に由来する。韓生の孫の韓商は今上(武帝)の博士となった。伏生は済南の人である。もとは秦の博士であった。孝文帝の時代、『書経』に通じた者を求めたが、天下に一人もいなかった。そこへ伏生が通じていると聞き、召し出そうとした。このとき伏生は九十余歳で、年老いて旅ができなかったので、太常に詔して、掌故の晁錯を行かせて教えを受けさせた。秦の時代に書物が焼かれたとき、伏生は壁の中に『書経』を隠した。その後大きな戦乱が起こり、伏生は各地を流浪した。漢が天下を平定すると、伏生はその書を探したが、数十篇が失われ、わずか二十九篇だけが見つかった。そこでこれを斉・魯の地方で教えた。学者たちはこれによってかなり『書経』を説けるようになり、山東の大学者で『書経』に触れて教えない者はいなくなった。伏生は済南の張生と欧陽生に教え、欧陽生は千乗の兒寛(げいかん)に教えた。兒寛は『書経』に通じると、学問によって郡の推挙に応じ、博士のもとに赴いて教えを受けた。孔安国に学んだのである。兒寛は貧しくて費用がなく、いつも弟子たちの食事係を務め、時にはこっそり出かけて雇われ仕事をし、衣食を賄った。出歩くときはいつも経書を携え、休むときはそれを暗誦した。試験の成績によって廷尉史に補任された。このころ張湯はちょうど学問に心を向けていたので、兒寛を奏讞掾(判決案を奏上する属官)とし、古の法によって疑わしい大事件を議論して判決させ、兒寛を寵愛した。兒寛は温和で善良な人柄で、清廉で知恵があり、自らを律し、文章を著し上奏文を書くことに長け、筆は立ったが、口で説明するのは苦手であった。張湯は彼を徳のある人物と見て、たびたびほめたたえた。張湯が御史大夫になると、兒寛を属官とし、天子に推薦した。天子は兒寛に会って質問し、気に入った。
解説
関連する章句
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史記 儒林列伝張湯死して後六年、兒寛位御史大夫に至る。九年にして官を以て卒す。寛三公の位に在り、和良を以て意を承け従容として久しきを得、然れども匡諫する所有る無し。官に於いて、官属之を易り、為に力を尽くさず。張生も亦博士と為る。而して伏生の孫尚書を治むるを以て徴さるるも、明らかにすること能はざるなり。此より後、魯の周霸・孔安国、雒陽の賈嘉、頗る能く尚書の事を言ふ。孔氏に古文尚書有り、而して安国今文を以て之を読み、因りて以て其の家を起こす。逸書十余篇を得、蓋し尚書是に於て滋々多し。諸学者多く礼を言ふ、而して魯の高堂生最も本なり。礼は固より孔子の時よりして其の経具はらず、秦の書を焚くに至るに及び、書散亡すること益々多し、今に於て独り士礼有り、高堂生能く之を言ふ。而して魯の徐生善く容を為す。孝文帝の時、徐生容を以て礼官大夫と為る。子に伝へて孫の延・徐襄に至る。襄は、其の天姿善く容を為す、礼経に通ずること能はず。延は頗る能くするも、未だ善からざるなり。襄容を以て漢の礼官大夫と為り、広陵内史に至る。延及び徐氏の弟子公戸満意・桓生・単次、皆嘗て漢の礼官大夫と為る。而して瑕丘の蕭奮礼を以て淮陽太守と為る。是の後能く礼を言ひ容を為す者は、徐氏に由る。魯の商瞿易を孔子に受けてより、孔子卒し、商瞿易を伝へ、六世にして斉人田何、字は子荘に至りて、漢興る。田何東武の人王同子仲に伝へ、子仲菑川の人楊何に伝ふ。何易を以て、元光元年徴され、官中大夫に至る。斉人即墨成易を以て城陽の相に至る。広川の人孟但易を以て太子の門大夫と為る。魯人周霸・莒人衡胡・臨菑の人主父偃、皆易を以て二千石に至る。然れども要するに易を言ふ者は楊何の家に本づく。
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史記 儒林列伝陳渉は匹夫より起こり、瓦合の適戍を駆り、旬月にして以て楚に王たり、半歳に満たずして竟に滅亡す、其の事至って微浅なり、然れども縉紳先生の徒孔子の礼器を負ひて往きて質を委ねて臣と為る者は、何ぞや。秦其の業を焚くを以て、怨みを積みて憤りを陳王に発するなり。高皇帝項籍を誅し、兵を挙げて魯を囲むに及び、魯中の諸儒尚ほ講誦して礼楽を習ひ、弦歌の音絶えず、豈に聖人の遺化にして、礼楽を好むの国に非ずや。故に孔子陳に在りて曰く、「帰らんか、帰らんか。吾が党の小子は狂簡にして、斐然として章を成す、之を裁する所以を知らず」と。夫れ斉魯の間の文学に於けるや、古より以来、其の天性なり。故に漢興り、然る後に諸儒始めて其の経芸を修め、大射郷飲の礼を講習するを得たり。叔孫通漢の礼儀を作り、因りて太常と為り、諸生弟子の共に定むる者、咸選の首と為る、是に於て喟然として学に興るを嘆ず。然れども尚ほ干戈有り、四海を平定し、亦未だ庠序の事に暇遑あらざるなり。孝恵・呂后の時、公卿は皆武力功有るの臣なり。孝文の時頗る徴用す、然れども孝文帝は本より刑名の言を好む。孝景に至るに及び、儒者を任ぜず、而して竇太后又黄老の術を好む、故に諸博士官に具はりて問を待つも、未だ進む者有らず。今上位に即くに及び、趙綰・王臧の属儒学に明らかなり、而して上も亦之に郷ふ、是に於て方正賢良文学の士を招く。是より後、詩を言ふは魯に於ては則ち申培公、斉に於ては則ち轅固生、燕に於ては則ち韓太傅。尚書を言ふは済南の伏生よりす。礼を言ふは魯の高堂生よりす。易を言ふは菑川の田生よりす。春秋を言ふは斉魯に於ては胡毋生よりし、趙に於ては董仲舒よりす。
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史記 儒林列伝然れども已に招致す、則ち以て太中大夫と為し、魯の邸に舎らしめ、明堂の事を議せしむ。太皇竇太后老子の言を好み、儒術を説ばず、趙綰・王臧の過ちを得て以て上を譲む、上因りて明堂の事を廃し、尽く趙綰・王臧を吏に下す、後に皆自殺す。申公も亦疾みて免ぜられ以て帰り、数年にして卒す。弟子の博士と為る者十余人。孔安国は臨淮太守に至り、周霸は膠西内史に至り、夏寛は城陽内史に至り、碭の魯賜は東海太守に至り、蘭陵の繆生は長沙内史に至り、徐偃は膠西中尉と為り、鄒人闕門慶忌は膠東内史と為る。其の官民を治むるに皆廉節有り、其の学を好むを称せらる。学官の弟子行ひ備はらずと雖も、而して大夫・郎中・掌故に至る者百を以て数ふ。詩を言ふこと殊なると雖も、多く申公に本づく。清河王の太傅轅固生は、斉の人なり。詩を治むるを以て、孝景の時博士と為る。黄生と景帝の前に争論す。黄生曰く、「湯武は命を受くるに非ず、乃ち弑するなり」と。轅固生曰く、「然らず。夫れ桀紂虐乱にして、天下の心皆湯武に帰す、湯武天下の心に与して桀紂を誅す、桀紂の民之が使ひと為らずして湯武に帰す、湯武已むを得ずして立つ、命を受くるに非ずして何為れぞ」と。黄生曰く、「冠は敝ると雖も、必ず首に加ふ。履は新たなりと雖も、必ず足に関す。何となれば、上下の分なればなり。今桀紂は道を失ふと雖も、然れども君上なり。湯武は聖なりと雖も、臣下なり。夫れ主に失行有らば、臣下正言して過ちを匡して以て天子を尊ぶこと能はず、反りて過ちに因りて之を誅し、代はり立ちて南面を践む、弑に非ずして何ぞや」と。轅固生曰く、「必ず云ふ所の若くならば、是れ高帝秦に代はりて天子の位に即くは、非なるか」と。是に於て景帝曰く、「肉を食ひて馬肝を食はざるも、味を知らずと為さず。学を言ふ者湯武の受命を言ふ無きも、愚と為さず」と。遂に罷む。是の後学者敢て受命放殺を明らかにする者莫し。
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史記 儒林列伝今上位に即き、江都の相と為る。春秋の災異の変を以て陰陽の錯行する所以を推す、故に雨を求むるには諸陽を閉ぢ、諸陰を縦ち、其の雨を止むるには是に反す。之を一国に行ひ、未だ嘗て欲する所を得ずんばあらず。中ごろ廃せられて中大夫と為り、舎に居り、災異の記を著す。是の時遼東の高廟災あり、主父偃之を疾み、其の書を取りて之を天子に奏す。天子諸生を召して其の書を示す、刺譏有り。董仲舒の弟子呂歩舒其の師の書なるを知らず、以て下愚と為す。是に於て董仲舒を吏に下す、死に当たる、詔して之を赦す。是に於て董仲舒竟に敢て復た災異を言はず。董仲舒人と為り廉直なり。是の時方に外に四夷を攘ふ、公孫弘春秋を治むること董仲舒に如かず、而して弘世に希ひて事を用ひ、位公卿に至る。董仲舒弘を以て従諛と為す。弘之を疾み、乃ち上に言ひて曰く、「独り董仲舒のみ膠西王に相たらしむべし」と。膠西王素より董仲舒の行ひ有るを聞き、亦善く之を待つ。董仲舒久しくして罪を獲んことを恐れ、疾みて免じて家に居る。卒するに至るまで、終に産業を治めず、学を修め書を著すを以て事と為す。故に漢興りて五世の間に至るまで、唯だ董仲舒のみ名づけて春秋に明らかなりと為す、其の伝は公羊氏なり。胡毋生は、斉人なり。孝景の時博士と為り、老いたるを以て帰りて教授す。斉の春秋を言ふ者多く胡毋生に受く、公孫弘も亦頗る受く。瑕丘の江生穀梁春秋を為む。公孫弘用ひらるるを得てより、嘗て集めて其の義を比べ、卒に董仲舒を用ふ。仲舒の弟子の遂げし者は、蘭陵の褚大、広川の殷忠、温の呂歩舒なり。褚大は梁の相に至る。歩舒は長史に至り、節を持して使ひして淮南の獄を決し、諸侯に於いて擅に専断し、報ぜず、春秋の義を以て之を正す、天子皆以て是と為す。弟子の通ずる者、命大夫に至る、郎・謁者・掌故と為る者百を以て数ふ。而して董仲舒の子及び孫皆学を以て大官に至る。
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