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史記 / 汲鄭列伝

黯姑姊子司馬安亦少與黯為太子洗馬。安文深巧善宦,官四至九卿,以河南太守卒。昆弟以安故,同時至二千石者十人。濮陽段宏始事蓋侯信,信任宏,宏亦再至九卿。然衛人仕者皆嚴憚汲黯,出其下。鄭當時者,字莊,陳人也。其先鄭君嘗為項籍將;籍死,已而屬漢。高祖令諸故項籍臣名籍,鄭君獨不奉詔。詔盡拜名籍者為大夫,而逐鄭君。鄭君死孝文時。鄭莊以任俠自喜,脫張羽於緦聲聞梁楚之閒。孝景時,為太子舍人。每五日洗沐,常置驛馬安諸郊,存諸故人,請謝賓客,夜以繼日,至其明旦,常恐不遍。莊好黃老之言,其慕長者如恐不見。年少官薄,然其游知交皆其大父行,天下有名之士也。武帝立,莊稍遷為魯中尉、濟南太守、江都相,至九卿為右內史。以武安侯魏其時議,貶秩為詹事,遷為大農令。莊為太史,誡門下:「客至,無貴賤無留門者。」執賓主之禮,以其貴下人。莊廉,又不治其產業,仰奉賜以給諸公。然其餽遺人,不過算器食。每朝,候上之閒,說未嘗不言天下之長者。其推轂士及官屬丞史,誠有味其言之也,常引以為賢於己。未嘗名吏,與官屬言,若恐傷之。聞人之善言,進之上,唯恐後。山東士諸公以此翕然稱鄭莊。

新字:黯姑姊子司馬安亦少与黯為太子洗馬。安文深巧善宦,官四至九卿,以河南太守卒。昆弟以安故,同時至二千石者十人。濮陽段宏始事蓋侯信,信任宏,宏亦再至九卿。然衛人仕者皆厳憚汲黯,出其下。鄭当時者,字荘,陳人也。其先鄭君嘗為項籍将;籍死,已而属漢。高祖令諸故項籍臣名籍,鄭君独不奉詔。詔尽拝名籍者為大夫,而逐鄭君。鄭君死孝文時。鄭荘以任侠自喜,脱張羽於緦声聞梁楚之閒。孝景時,為太子舎人。毎五日洗沐,常置駅馬安諸郊,存諸故人,請謝賓客,夜以継日,至其明旦,常恐不遍。荘好黄老之言,其慕長者如恐不見。年少官薄,然其游知交皆其大父行,天下有名之士也。武帝立,荘稍遷為魯中尉、済南太守、江都相,至九卿為右内史。以武安侯魏其時議,貶秩為詹事,遷為大農令。荘為太史,誡門下:「客至,無貴賤無留門者。」執賓主之礼,以其貴下人。荘廉,又不治其産業,仰奉賜以給諸公。然其餽遺人,不過算器食。毎朝,候上之閒,説未嘗不言天下之長者。其推轂士及官属丞史,誠有味其言之也,常引以為賢於己。未嘗名吏,与官属言,若恐傷之。聞人之善言,進之上,唯恐後。山東士諸公以此翕然称鄭荘。

書き下し

黯の姑姊の子司馬安も亦少くして黯と太子洗馬為り。安は文深く巧みにして善く宦し、官四たび九卿に至り、河南太守を以て卒す。昆弟安の故を以て、同時に二千石に至る者十人。濮陽の段宏始め蓋侯信に事ふ、信宏に任ず、宏も亦再び九卿に至る。然れども衛人の仕ふる者皆厳に汲黯を憚り、其の下に出づ。鄭当時は、字は荘、陳の人なり。其の先鄭君嘗て項籍の将為り。籍死し、已にして漢に属す。高祖諸々の故の項籍の臣をして籍を名いはしむ、鄭君独り詔を奉ぜず。詔して尽く籍を名いふ者を拝して大夫と為し、而して鄭君を逐ふ。鄭君孝文の時に死す。鄭荘任侠を以て自ら喜び、張羽を緦より脱して声梁楚の間に聞こゆ。孝景の時、太子舎人と為る。五日の洗沐毎に、常に駅馬を諸郊に置き、諸々の故人を存し、賓客を請謝し、夜以て日に継ぎ、其の明旦に至るまで、常に遍からざらんことを恐る。荘黄老の言を好み、其の長者を慕ふこと見えざらんことを恐るるが如し。年少く官薄きも、然れども其の游知交は皆其の大父の行、天下の有名の士なり。武帝立ち、荘稍く遷りて魯の中尉・済南太守・江都の相と為り、九卿に至りて右内史と為る。武安侯・魏其の時の議を以て、秩を貶されて詹事と為り、遷りて大農令と為る。荘太史為りしとき、門下を誡む、「客至らば、貴賤と無く門に留むる者無かれ」と。賓主の礼を執り、其の貴きを以て人に下る。荘廉にして、又其の産業を治めず、奉賜を仰ぎて以て諸公に給す。然れども其の人に餽遺するは、算器の食に過ぎず。朝する毎に、上の間を候ひ、説くに未だ嘗て天下の長者を言はずんばあらず。其の士及び官属の丞史を推轂するや、誠に其の言に味有り、常に引きて以て己より賢と為す。未だ嘗て吏を名いはず、官属と言ふに、之を傷つけんことを恐るるが若し。人の善言を聞けば、之を上に進め、唯だ後るるを恐る。山東の士諸公此を以て翕然として鄭荘を称す。

現代語訳

汲黯の父の姉の子である司馬安も、若いころ汲黯とともに太子洗馬を務めた。司馬安は法文に深く通じて巧みで、官吏としての処世にたけ、官は四度九卿に至り、河南太守在任中に亡くなった。その兄弟で司馬安のおかげで同時に二千石の官に至った者は十人に及んだ。濮陽の段宏は、はじめ蓋侯王信に仕え、王信は彼を信任したので、段宏もまた二度九卿に至った。しかし衛の地出身で仕官した者はみな汲黯を厳しく恐れはばかり、その下に立った。鄭当時は、字を荘といい、陳の人である。その祖先の鄭君はかつて項籍(項羽)の将であった。項籍が死ぬと、まもなく漢に帰属した。高祖はもと項籍の臣であった者たちに、項羽を「籍」と名で呼ばせたが、鄭君だけは詔に従わなかった。詔によって「籍」と名を呼んだ者はみな大夫に任じられたが、鄭君は追放された。鄭君は孝文帝の時代に死んだ。鄭荘は任侠を自らの誇りとし、張羽を危難から救い出して、その名は梁・楚の間に知れ渡った。孝景帝の時代に太子舎人となった。五日ごとの休暇のたびに、いつも駅馬を長安の郊外に配置して、昔なじみを見舞い、賓客を招いたりお礼を述べたりして、夜を日に継ぎ、翌朝に至るまで続け、それでもいつも行き届かないのではと心配した。鄭荘は黄帝・老子の教えを好み、徳のある年長者を慕うことは、会えないのではと恐れるかのようであった。年若く官位も低かったが、その交遊する知人はみな祖父の世代にあたる天下の名士であった。武帝が即位すると、鄭荘はしだいに昇進して魯の中尉・済南太守・江都の相となり、九卿にまで至って右内史となった。武安侯田蚡と魏其侯竇嬰の争いのときの議論が原因で、俸禄を下げられて詹事となり、さらに大農令に移った。鄭荘は長官であったとき、門番に戒めた。「客が来たら、身分の貴賤を問わず門で待たせてはならない」。賓客と主人の礼を守り、高い身分でありながら人にへりくだった。鄭荘は清廉で、財産づくりにも励まず、俸禄と下賜品を頼りに諸公をもてなした。しかし人に贈る物は、竹の器に盛った食べ物程度にすぎなかった。朝廷に出るたびに、主上の手がすいたときをうかがって話をし、そのときに天下の徳ある年長者のことを話さないことはなかった。士人や属官の丞・史を推薦するときは、その言葉にまことに味わいがあり、いつも自分より賢いと言って引き立てた。部下の役人を名で呼び捨てにすることはなく、属官と話すときは、彼らを傷つけるのではと恐れるかのようであった。人の善い意見を聞くと、主上に進言し、遅れることだけを恐れた。山東の士人や諸公は、このことで口をそろえて鄭荘をたたえた。

解説

汲黯の一族の後日談から、もう一人の主人公鄭当時(鄭荘)の伝に移る段です。鄭荘の父は項羽の旧臣で、劉邦が旧臣たちに項羽を「籍」と呼び捨てにさせたとき、ただ一人従わずに追放されたという硬骨の人でした。鄭荘は休暇のたびに駅馬を用意して旧友や賓客を訪ね、門番には「客は貴賤を問わず待たせるな」と命じ、部下を呼び捨てにせず、人の善い意見は遅れまいと上に伝え、推薦するときは「自分より賢い」と言って引き立てたといいます。汲黯が権力者に厳しく直言した人なら、鄭荘は人を見出してつなぐことに力を尽くした人でした。部下を傷つけないように話し、人の手柄を先に上に届けるという姿勢は、今の管理職にとって最も見習うべき振る舞いの一つです。

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