史記 / 淮南衡山列伝
及薨,遂賜謚為貞王。廬江王邊越,數使使相交,故徙為衡山王,王江北。淮南王如故。
新字:及薨,遂賜謚為貞王。廬江王辺越,数使使相交,故徙為衡山王,王江北。淮南王如故。
書き下し
薨ずるに及び、遂に謚を賜ひて貞王と為す。廬江王は越に辺し、数々使ひをして相交はらしむ、故に徙して衡山王と為し、江北に王たらしむ。淮南王は故の如し。
現代語訳
(衡山王の劉勃が)亡くなると、貞王という諡を賜った。廬江王(劉賜)は領地が越に接しており、たびたび使者を送って越と交わっていたので、移して衡山王とし、長江の北を治めさせた。淮南王(劉安)はもとのままであった。
解説
呉楚七国の乱の後の三王の配置換えを記す短い段です。この直前の部分では、七国の乱で衡山王劉勃が呉に加わらず忠節を守ったことが語られており、その死後に貞王という諡が贈られました。一方、廬江王劉賜は越と国境を接し、たびたび使者をやり取りしていたため、疑いをかけられないよう長江の北の衡山に移されます。淮南王劉安はそのまま据え置かれました。この劉安と劉賜の兄弟こそ、後に謀反の罪で滅びることになる二人です。国境の向こうの勢力と頻繁に接触することが、忠誠を疑われる理由になったという点は注目に値します。組織でも、社外や競合との接触が多い人は、疑いを避けるために報告や透明性を意識する必要があることを思わせる段です。
関連する章句
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史記 淮南衡山列伝孝文の十六年、淮南王喜を徙して故の城陽に復す。上淮南厲王の法を廃して軌ならず、自ら国を失ひて蚤く死せしむるを憐れみ、乃ち其の三子を立つ。阜陵侯安を淮南王と為し、安陽侯勃を衡山王と為し、陽周侯賜を廬江王と為し、皆厲王の時の地を復た得しめ、之を参分す。東城侯良は前に薨じ、後無きなり。
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史記 淮南衡山列伝孝景三年、呉楚七国反す。呉の使者淮南に至り、淮南王兵を発して之に応ぜんと欲す。其の相曰く、「大王必ず兵を発して呉に応ぜんと欲せば、臣願はくは将と為らん」と。王乃ち相に兵を属す。淮南の相已に兵を将ゐ、因りて城守し、王に聴かずして漢の為にす。漢も亦た曲城侯をして兵を将ゐて淮南を救はしむ。淮南以故に完きを得たり。呉の使者衡山に至るや、衡山王堅守して二心無し。孝景四年、呉楚已に破れ、衡山王朝す、上以て貞信と為し、之を褒む所以なり。
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史記 淮南衡山列伝衡山王敢て淮南王に效ひて天子の位に即かんことを求むるに非ず、淮南の起ちて其の国を并せんことを畏れ、以為へらく淮南已に西せば、兵を発して江淮の間を定めて之を有たんと、望むこと是くの如し。秋、衡山王当に朝すべし、六年淮南を過ぐ、淮南王乃ち昆弟の語をなし、前の卻を除き、反具を約束す。衡山王即ち上書して病と謝す、上書を賜ひて朝せざらしむ。中、衡山王人をして上書して太子爽を廃し、孝を立てて太子と為さんことを請はしむ。爽聞き、即ち善くする所の白嬴をして長安に之きて上書せしめ、孝の輣車・鏃矢を作り、王の御者と姦するを言ひ、以て孝を敗らんと欲す。白嬴長安に至る、未だ上書するに及ばざるに、吏嬴を捕へ、淮南の事を以て繋ぐ。王爽の白嬴をして上書せしむるを聞き、国の陰事を言はんことを恐れ、即ち上書して反りて太子爽の為す所の不道にして棄市の罪なる事を告ぐ。事沛郡に下して治む。元狩元年冬、有司公卿沛郡に下して淮南と謀反せし所の者を求め捕へしむるも未だ得ず、陳喜を衡山王の子孝の家に得。吏孝の首として喜を匿すを劾す。孝以為へらく陳喜は雅より数々王と謀反を計る、其の之を発せんことを恐る、律に先づ自ら告ぐれば其の罪を除くと聞き、又太子の白嬴をして上書して其の事を発せしむるを疑ひ、即ち先づ自ら告げ、与に謀反せし所の者救赫・陳喜等を告ぐ。廷尉治験し、公卿衡山王を逮捕して之を治めんことを請ふ。天子曰く、「捕ふる勿かれ」と。中尉安・大行息を遣はして即に王に問はしむ、王具に情実を以て対ふ。吏皆王宮を囲みて之を守る。中尉・大行還り、以て聞す、公卿宗正・大行と沛郡とを遣はして雑へて王を治めんことを請ふ。王聞き、即ち自剄して殺す。孝は先づ自ら反を告ぐ、其の罪を除く。王の御婢と姦するに坐し、棄市せらる。王后徐来も亦前の王后乗舒を蠱殺するに坐し、及び太子爽王の不孝を告ぐるに坐し、皆棄市せらる。諸々の衡山王と謀反せし者皆族せらる。国除かれて衡山郡と為る。
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史記 孝文本紀乃ち有司に詔して曰く、「済北王徳に背き上に反し、吏民を詿誤(くわいご)す、大逆為り。済北の吏民の兵未だ至らざるに先づ自ら定め、及び軍地邑を以て降る者は、皆之を赦し、官爵を復せよ。王興居と去来せしも、亦之を赦せ。」と。八月、済北の軍を破り、其の王を虜にす。済北の諸吏民の王と反せし者を赦す。六年、有司言ふ淮南王長先帝の法を廃し、天子の詔を聴かず、居処度毋く、出入天子に擬し、擅に法令を為り、棘蒲侯の太子奇と謀反し、人を遣はして閩越及び匈奴に使ひせしめ、其の兵を発し、以て宗廟社稷を危ふくせんと欲すと。群臣議す、皆曰く「長は当に棄市すべし」と。帝法を王に致すに忍びず、其の罪を赦し、廃して王とする勿し。群臣王を蜀の厳道・邛都に処らしめんことを請ふ、帝之を許す。長未だ処所に到らず、行くゆく病みて死す、上之を憐れむ。後十六年、淮南王長を追尊して謚して厲王と為し、其の子三人を立てて淮南王・衡山王・廬江王と為す。
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