史記 / 呉王濞列伝
呉王之度淮、与楚王遂西敗棘壁、乗勝前、鋭甚。梁孝王恐、遣六将軍撃呉。二月中、呉王兵既破、敗走。正月起兵、三月皆破。太史公曰、呉王之王、由父省也。能薄賦斂、使其衆、以擅山海利。逆乱之萌、自其子興。争技発難、卒亡其本、親越謀宗、竟以夷隕。晁錯為国遠慮、禍反近身。袁盎権説、初寵後辱。故古者諸侯地不過百里、山海不以封。毋為権首、反受其咎、豈盎・錯邪。
書き下し
呉王淮を度り、楚王と遂に西のかた棘壁に敗り、勝ちに乗じて前み、鋭きこと甚だし。梁孝王恐れ、六将軍を遣りて呉を撃つ。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。正月に兵を起こし、三月に皆破る。太史公曰く、呉王の王たるは、父の省かるるに由るなり。能く賦斂を薄くし、其の衆を使ひ、以て山海の利を擅にす。逆乱の萌、其の子より興る。技を争ひ難を発し、卒に其の本を亡ぼし、越に親しみ宗を謀り、竟に以て夷隕す。晁錯国の為に遠慮し、禍反りて身に近し。袁盎権説し、初め寵せられ後に辱めらる。故に古は諸侯の地百里に過ぎず、山海以て封ぜず。『権首と為れば、反りて其の咎を受く』とは、豈だ盎・錯なるか。
現代語訳
「巨大な破局の根が、しばしば些細な諍いにあり、事を仕掛けた者ほど災いを受ける」——七国の乱の顛末と、司馬遷の総括を描いた、この篇の結びです。呉王は淮水を渡り、楚王と組んで西進し、緒戦では勝ちに乗じて破竹の勢いでした。しかし梁の必死の防戦と、周亜夫率いる漢軍の反撃の前に、あえなく敗走します。正月に兵を挙げた大反乱は、わずか三月ですべて鎮圧されました。司馬遷は、この壮大な破局を、こう総括します。呉王が王となれたのは、父が(代王の位を)辞退したという幸運によるものだった。呉王は、税を軽くして民を使いこなし、山(銅)と海(塩)の利を独占して栄えた。しかし、反乱の芽は、実はその子(双六の諍いで殺された太子)から生じたのだ、と。つまり——一局の盤上遊戯での諍いが発端となって挙兵し(爭技發難)、ついには国の根本を滅ぼし、さらに越や匈奴といった外部勢力に頼って一族を謀った末に、身を滅ぼした。晁錯は、国のために遠大な計を立てながら、その禍がかえって我が身に及んで処刑され、袁盎は、機を見た進言で初めは寵愛されたが、後に(梁王に恨まれ)辱められた。だからこそ、司馬遷は古諺を引いて結ぶ。「事を仕掛ける張本人(権首)となれば、かえってその咎を受ける(毋爲權首、反受其咎)」——これは、袁盎や晁錯のことを言うのだろうか、と。ここに、破局と因果についての教訓があります。第一に、巨大な破局の根が、しばしば些細な私的な諍いにあるということ。七国の乱という大反乱の芽は、たった一局の双六の争いだった。小さな火種を軽んじれば、やがて国を焼く大火になりうる。第二に、事を仕掛けた張本人ほど、その咎を我が身に受けやすいということ。「毋爲權首、反受其咎」——騒動の口火を切る者は、成否に関わらず、その責めを負う立場になる。軽々しく事を起こすことの危うさである。第三に、外部の力(越・匈奴)に頼って内を謀るような、筋を外れた手段は、結局身を滅ぼすということ。組織や事業で、大きな破局の根が些細な火種にありうると警戒すること、事を仕掛ける張本人が咎を負う危うさを知ること、そして筋を外れた手段が自滅を招くと自覚すること——呉王濞の顛末は、破局の因果を深く教えます。