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史記 / 呉王濞列伝

正月起兵,三月皆破,獨趙後下。復置元王少子平陸侯禮為楚王,續元王後。徙汝南王非王吳故地,為江都王。太史公曰:吳王之王,由父省也。能薄賦斂,使其眾,以擅山海利。逆亂之萌,自其子興。爭技發難,卒亡其本;親越謀宗,竟以夷隕。晁錯為國遠慮,禍反近身。袁盎權說,初寵後辱。故古者諸侯地不過百里,山海不以封。「毋親夷狄,以疏其屬」,蓋謂吳邪?「毋為權首,反受其咎」,豈盎、錯邪?

新字:正月起兵,三月皆破,独趙後下。復置元王少子平陸侯礼為楚王,続元王後。徙汝南王非王呉故地,為江都王。太史公曰:呉王之王,由父省也。能薄賦斂,使其衆,以擅山海利。逆乱之萌,自其子興。争技発難,卒亡其本;親越謀宗,竟以夷隕。晁錯為国遠慮,禍反近身。袁盎権説,初寵後辱。故古者諸侯地不過百里,山海不以封。「毋親夷狄,以疏其属」,蓋謂呉邪?「毋為権首,反受其咎」,豈盎、錯邪?

書き下し

正月に兵を起こし、三月に皆破れ、独り趙のみ後に下る。復た元王の少子平陸侯礼を置きて楚王と為し、元王の後を続がしむ。汝南王非を徙して呉の故地に王たらしめ、江都王と為す。太史公曰く、呉王の王たるは、父の省かるるに由るなり。能く賦斂を薄くし、其の衆を使ひ、以て山海の利を擅にす。逆乱の萌しは、其の子より興る。技を争ひて難を発し、卒に其の本を亡ぼす。越に親しみて宗を謀り、竟に以て夷隕す。晁錯国の為に遠く慮り、禍反つて身に近づく。袁盎権説して、初めは寵せられ後に辱めらる。故に古者は諸侯の地百里に過ぎず、山海は以て封ぜず。「夷狄に親しみて、以て其の属を疏んずる毋かれ」とは、蓋し呉を謂ふか。「権首と為る毋かれ、反つて其の咎を受けん」とは、豈に盎・錯か。

現代語訳

正月に兵を起こし、三月には皆敗れ、趙だけが後になって降った。あらためて楚の元王の末子である平陸侯劉礼を楚王に立て、元王の跡を継がせた。汝南王劉非を移して呉の旧領の王とし、江都王とした。太史公は言う。呉王が王となれたのは、父(劉仲)が王位を削られたことによる。呉王は税の取り立てを軽くして民衆を使い、山と海の利益を独占した。反逆の兆しは、その息子のことから起こった。双六の技を争って災難が生じ、ついにその根本を滅ぼした。越と親しくして宗家(漢の皇室)を倒そうと謀り、結局は滅び去った。晁錯は国のために遠い先のことまで考えたが、災いはかえってわが身に迫った。袁盎は臨機応変の弁舌で説き、初めは寵愛されたが後には辱めを受けた。だから古には、諸侯の領地は百里を超えず、山や海は封地として与えなかったのである。「夷狄と親しくして、自分の一族を疎んじてはならない」というのは、呉のことを言うのであろうか。「権謀の首謀者となってはならない。かえってその咎めを受ける」というのは、袁盎と晁錯のことではなかろうか。

解説

呉楚七国の乱の後始末と、太史公の評を記した段です。反乱は正月に始まり三月には鎮圧され、趙だけが遅れて降伏しました。楚には元王の末子が立てられて家が継がれ、呉の旧領には景帝の子劉非が江都王として移されます。太史公は、呉王が民の税を軽くして人心を得たことを認めつつ、反乱の芽は息子が双六の争いで殺されたことから生じ、越と結んで宗家を倒そうとして滅んだとまとめます。さらに、国のために遠い先を考えた晁錯がかえって身を滅ぼし、弁舌で立ち回った袁盎も最後は辱めを受けたと、双方に厳しい目を向けました。古くは諸侯の領地を百里以内とし、山や海の資源は封じなかったという指摘は、経済的な力を持つ者に独立の基盤を与えることの危うさを述べたものです。そして「権首と為る毋かれ」という格言で締めくくります。先頭に立って事を仕掛ける者が、しばしば最初に咎めを受けるという戒めです。

この章句が説くこと

太史公権首七国の乱争技発難改革些細な火種が大破局に

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