史記 / 司馬相如列伝
天子既美子虛之事,相如見上好仙道,因曰:「上林之事未足美也,尚有靡者。臣嘗為大人賦,未就,請具而奏之。」相如以為列仙之傳居山澤間,形容甚臒,此非帝王之仙意也,乃遂就大人賦。其辭曰:相如既奏大人之頌,天子大說,飄飄有淩雲之氣,似遊天地之間意。相如既病免,家居茂陵。天子曰:「司馬相如病甚,可往從悉取其書;若不然,後失之矣。」使所忠往,而相如已死,家無書。問其妻,對曰:「長卿固未嘗有書也。時時著書,人又取去,即空居。長卿未死時,為一卷書,曰有使者來求書,奏之。無他書。」其遺劄書言封禪事,奏所忠。忠奏其書,天子異之。其書曰:司馬相如既卒五歲,天子始祭后土。八年而遂先禮中嶽,封於太山,至梁父禪肅然。相如他所著,若遺平陵侯書、與五公子相難、草木書篇不采,采其尤著公卿者云。太史公曰:春秋推見至隱,易本隱之以顯,大雅言王公大人而德逮黎庶,小雅譏小己之得失,其流及上。所以言雖外殊,其合德一也。
新字:天子既美子虚之事,相如見上好仙道,因曰:「上林之事未足美也,尚有靡者。臣嘗為大人賦,未就,請具而奏之。」相如以為列仙之伝居山沢間,形容甚臒,此非帝王之仙意也,乃遂就大人賦。其辞曰:相如既奏大人之頌,天子大説,飄飄有淩雲之気,似遊天地之間意。相如既病免,家居茂陵。天子曰:「司馬相如病甚,可往従悉取其書;若不然,後失之矣。」使所忠往,而相如已死,家無書。問其妻,対曰:「長卿固未嘗有書也。時時著書,人又取去,即空居。長卿未死時,為一巻書,曰有使者来求書,奏之。無他書。」其遺劄書言封禅事,奏所忠。忠奏其書,天子異之。其書曰:司馬相如既卒五歳,天子始祭后土。八年而遂先礼中嶽,封於太山,至梁父禅粛然。相如他所著,若遺平陵侯書、与五公子相難、草木書篇不采,采其尤著公卿者云。太史公曰:春秋推見至隠,易本隠之以顕,大雅言王公大人而徳逮黎庶,小雅譏小己之得失,其流及上。所以言雖外殊,其合徳一也。
書き下し
天子既に子虚の事を美とす、相如上の仙道を好むを見て、因りて曰く、「上林の事未だ美とするに足らざるなり、尚ほ靡なる者有り。臣嘗て大人の賦を為る、未だ就らず、請ふ具へて之を奏せん」と。相如以為へらく列仙の伝は山沢の間に居り、形容甚だ臞せたり、此れ帝王の仙意に非ざるなりと、乃ち遂に大人の賦を就す。其の辞に曰く。相如既に大人の頌を奏す、天子大いに説び、飄飄として淩雲の気有り、天地の間に遊ぶの意に似たり。相如既に病みて免じ、家は茂陵に居る。天子曰く、「司馬相如病甚し、往きて従りて悉く其の書を取るべし。若し然らずんば、後に之を失はん」と。所忠をして往かしむ、而るに相如已に死し、家に書無し。其の妻に問ふ、対へて曰く、「長卿固より未だ嘗て書有らざるなり。時時書を著すも、人又取り去り、即ち空しく居る。長卿未だ死せざる時、一巻の書を為り、曰く使者の来たりて書を求むる有らば、之を奏せよと。他の書無し」と。其の遺札の書は封禅の事を言ふ、所忠に奏す。忠其の書を奏す、天子之を異とす。其の書に曰く。司馬相如既に卒して五歳、天子始めて后土を祭る。八年にして遂に先づ中岳に礼し、太山に封じ、梁父に至りて粛然に禅す。相如の他に著す所、平陵侯に遺る書、五公子と相難ずる、草木の書篇の若きは采らず、其の尤も公卿に著はるる者を采ると云ふ。太史公曰く、春秋は見はるるを推して隠るるに至り、易は隠るるに本づきて以て顕す、大雅は王公大人を言ひて徳は黎庶に逮び、小雅は小己の得失を譏りて、其の流れ上に及ぶ。言ふ所以は外殊なりと雖も、其の徳に合するは一なり。
現代語訳
天子は「子虚の賦」の内容をすでにほめていたが、相如は主上が神仙の道を好んでいるのを見て、そこで言った。「上林の事はまだほめるには足りない。もっと華麗なものがある。わたしはかつて『大人の賦』を作ったが、まだ完成していない。どうか仕上げて奉らせていただきたい」。相如は、仙人たちの伝記では彼らは山や沢の間に住み、姿はひどく痩せ衰えているが、これは帝王の思い描く仙人ではないと考え、ついに『大人の賦』を完成させた。その辞は次のとおりである。相如が『大人の頌』を奉ると、天子は大いに喜び、ふわりと雲をしのいで昇るような気分になり、天地の間に遊ぶような心地がした。相如は病で職を辞め、茂陵に住んでいた。天子は言った。「司馬相如は病が重い。出かけて行って、その書をすべて取ってくるがよい。そうしなければ、後で失われてしまうだろう」。所忠を遣わしたが、相如はすでに死んでおり、家には書がなかった。その妻に尋ねると、こう答えた。「長卿はもともと書を持っていたことはない。時々書を著しても、人がまた持ち去ってしまい、いつも手元には何もなかった。長卿がまだ生きていたとき、一巻の書を作り、使者が書を求めに来たら、これを奉るようにと言った。ほかに書はない」。その遺された木札の書は封禅(天地を祭る儀式)のことを述べたもので、所忠に差し出した。所忠がその書を奏上すると、天子はこれを非凡なものとした。その書にいう。司馬相如が亡くなって五年後、天子は初めて后土(大地の神)を祭った。八年後にはついにまず中岳(嵩山)に礼を行い、泰山で封を行い、梁父山に至って粛然山で禅を行った。相如が著した他のもの、たとえば平陵侯に送った書や、五公子と論じ合った文、草木についての書篇などは採録せず、とくに公卿の間で知られたものだけを採ったという。太史公はいう。『春秋』は明らかな事実から推して隠れたところに至り、『易』は隠れたものに基づいて明らかにする。『詩経』の大雅は王侯や貴人のことを述べながら、その徳は庶民にまで及び、小雅は自分一身の得失をそしりながら、その流れは上にまで及ぶ。言い方は外見こそ異なるが、徳にかなう点では一つである。
解説
関連する章句
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史記 司馬相如列伝辺関を除き、関益々斥き、西は沬・若水に至り、南は牂柯に至りて徼と為し、零関の道を通じ、孫水に橋して以て邛都に通ず。還りて天子に報ず、天子大いに説ぶ。相如の使ひせし時、蜀の長老多く西南夷を通ずるは用を為さずと言ふ、唯だ大臣も亦以て然りと為す。相如諫めんと欲するも、業已に之を建つ、敢てせず、乃ち書を著し、籍りて蜀の父老を以て辞と為し、而して己之を詰難し、以て天子を風し、且つ因りて其の使ひの指を宣べ、百姓をして天子の意を知らしむ。其の辞に曰く。其の後人上書して相如の使ひせし時金を受くと言ふ有り、官を失ふ。居ること歳余、複た召されて郎と為る。相如口吃にして善く書を著す。常に消渇の疾有り。卓氏と婚し、財に饒かなり。其の進みて仕宦するや、未だ嘗て公卿国家の事に与るを肯ぜず、病と称して間居し、官爵を慕はず。常て上に従ひて長楊に至りて猟す、是の時天子方に自ら熊彘を撃ち、野獣を馳逐するを好む、相如上疏して之を諫む。其の辞に曰く。上之を善しとす。還りて宜春宮を過ぐ、相如賦を奏して以て二世の行ひの失を哀しむ。其の辞に曰く、陂阤の長阪に登り、曾宮の嵳峩たるに坌入す。曲江の隑州に臨み、南山の参差たるを望む。巌巌たる深山の谾谾たる、通谷は谽たり。汩淢噏習して以て永く逝き、平皐の広衍に注ぐ。衆樹の塕薆たるを観、竹林の榛榛たるを覧る。東のかた土山に馳せ、北のかた石瀬を掲ぐ。節を弥めて容与し、二世を歴吊す。身を持すること謹まず、国を亡ぼし埶を失ふ。讒を信じて寤めず、宗廟滅絶す。嗚呼哀しいかな。操行の得ざる、墳墓蕪穢して脩められず、魂帰する無くして食まず。夐邈絶して斉しからず、弥々久遠にして愈々鬐し。精罔閬として飛揚し、九天に拾りて永く逝く。嗚呼哀しいかな。相如拝して孝文園令と為る。
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史記 司馬相如列伝酒中楽酣にして、天子芒然として思ひ、亡ふ有るがごとし。曰く、「嗟乎、此れ泰だ奢侈なり。朕覧聴の餘閒を以て、事無く日を棄つ、恐らくは後世靡麗にして、遂に往きて反らず、継嗣の為に業を創め統を垂るる所以に非ず」と。是に於て乃ち酒を解き猟を罷め、有司に命じて曰く、「地の墾辟す可きは、悉く農郊と為し、以て萌隷に贍せ。倉廩を発して以て貧窮を振し、不足を補ひ、寡を恤み、孤独を存せよ。徳号を出だし、刑罰を省き、天下と始めを為さん」と。二子愀然として容を改め、席を避けて曰く、「鄙人固陋にして、忌諱を知らず、乃ち今日教を見る、謹みて命を聞けり」と。
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史記 司馬相如列伝既に罷みて、相如乃ち人をして重く文君の侍者に賜ひて殷勤を通ぜしむ。文君夜亡げて相如に奔る、相如乃ち与に馳せて成都に帰る。家居徒だ四壁立つのみ。卓王孫大いに怒りて曰く、「女至って不材なり、我殺すに忍びざるも、一銭をも分かたざるなり」と。人或いは王孫に謂ふも、王孫終に聴かず。文君之を久しくして楽しまず、曰く、「長卿第だ倶に臨邛に如き、昆弟より仮貸すれば猶ほ以て生を為すに足る、何ぞ自ら苦しむこと此くの如きに至らん」と。相如与に倶に臨邛に之き、尽く其の車騎を売り、一酒舎を買ひて酒を酤り、而して文君をして鑪に当たらしむ。相如身自ら犢鼻褌を著け、保庸と雑作し、器を市中に滌ふ。卓王孫聞きて之を恥ぢ、為に門を杜ぢて出でず。昆弟諸公更々王孫に謂ひて曰く、「一男両女有り、足らざる所の者は財に非ざるなり。今文君已に身を司馬長卿に失ふ、長卿故より遊に倦む、貧しと雖も、其の人材依るに足る、且つ又令の客なり、独り奈何ぞ相辱むること此くの如き」と。卓王孫已むを得ず、文君に僮百人、銭百万、及び其の嫁する時の衣被財物を分かち予ふ。文君乃ち相如と成都に帰り、田宅を買ひ、富人と為る。居ること之を久しくして、蜀人楊得意狗監と為り、上に侍す。上子虚の賦を読みて之を善しとし、曰く、「朕独り此の人と時を同じくするを得ざるかな」と。得意曰く、「臣の邑人司馬相如自ら此の賦を為ると言ふ」と。上驚き、乃ち召して相如に問ふ。相如曰く、「是れ有り。然れども此れ乃ち諸侯の事なり、未だ観るに足らざるなり。請ふ天子の游猟の賦を為らん、賦成らば之を奏せん」と。上許し、尚書をして筆札を給せしむ。相如「子虚」は、虚言なりとして、楚の称と為し、「烏有先生」は、烏くんぞ此の事有らんやとして、斉の難と為し、「無是公」は、是の人無きなりとして、天子の義を明らかにす。故に空しく此の三人を藉りて辞を為し、以て天子諸侯の苑囿を推す。其の卒章は之を節倹に帰し、因りて以て風諫す。
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史記 封禅書石閭とは、泰山の下の阯の南方に在り。方士多く此れ僊人の閭なりと言ふ、故に上親ら禅す。其の後五年、復た泰山に至りて封を修む。還りて過ぎて恒山を祭る。今の天子の興す所の祠は、太一・后土、三年に親ら郊祠し、漢家の封禅を建て、五年に一たび封を修む。薄忌の太一及び三一・冥羊・馬行・赤星の五つは、寛舒の祠官、歳時を以て礼を致す。凡そ六祠、皆太祝之を領す。八神の諸神、明年・凡山の他の名祠の如きに至りては、行きて過ぐれば則ち祠り、行きて去れば則ち已む。方士の興す所の祠は、各々自ら主り、其の人終れば則ち已み、祠官は主らず。他の祠は皆其の故の如し。今上封禅して、其の後十二歳にして還り、五岳・四瀆に遍し。而して方士の神人を候祠し、海に入りて蓬萊を求むるも、終に験有る無し。而して公孫卿の神を候ふ者は、猶ほ大人の跡を以て解と為し、効有る無し。天子益々方士の怪迂の語に怠厭す。然れども羈縻して絶たず、其の真に遇はんことを冀ふ。此より後、方士の神祠を言ふ者弥々衆く、然れども其の効は睹る可し。太史公曰く、余、巡りて天地の諸神・名山川を祭りて封禅するに従ふ。寿宮に入りて神語に侍祠し、方士・祠官の意を究観す。是に於て退きて古より以来鬼神に事を用ふる者を論次し、具さに其の表裏を見はす。後に君子有らば、得て以て覧ん。俎豆・珪幣の詳、献酬の礼の若きに至りては、則ち有司存す。
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『長短経』是非〔是に曰く〕太史公曰く「春秋は見を推して隠に至り、易は隠に本づきて以て顕に之く。大雅は王公大人を言いて徳は黎庶に逮び、小雅は小己の得失を譏りて其の流は上に及ぶ。言う所は殊なりと雖も、其の徳に合するは一なり。相如は虚辞濫説なりと雖も、然れども其の要は帰す、之を節倹に引く。此れ詩の諷諫と何ぞ異ならんや」と。〔非に曰く〕揚雄は以為えらく、賦なる者は将に以て諷せんとす。必ず類を推して言い、靡麗の辞を極め、閎侈鉅衍にして、人をして加うる能わざらしむるを競う。既にして乃ち之を正に帰すれども、然れども覧ること已に過ぎたり。往時、武帝は神仙を好む。相如、大人賦を上りて以て帝を諷す。帝、反って漂漂として凌雲の志有り。是に由りて之を言えば、賦は勧めて止めざること明らかなり。又た頗る俳優に類す。法度の存する所に非ず。賢人君子は、詩賦の正なり。
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史記 太史公自序二十にして南のかた江・淮に游び、会稽に上り、禹穴を探り、九疑を闚ひ、沅・湘に浮かぶ。北のかた汶・泗を渉り、業を斉・魯の都に講じ、孔子の遺風を観、鄒・嶧に郷射す。鄱・薛・彭城に戹困し、梁・楚を過ぎて以て帰る。是に於いて遷仕へて郎中と為り、使ひを奉じて西のかた巴・蜀以南を征し、南のかた邛・笮・昆明を略し、還りて命を報ず。是の歳、天子始めて漢家の封を建つ。而して太史公周南に留滞し、与に事に従ふを得ず。故に発憤して且に卒せんとす。而して子の遷適々使ひより反り、父に河洛の間に見ゆ。
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