史記 / 平津侯主父列伝
孝宣承統,纂修洪業,亦講論六藝,招選茂異,而蕭望之、梁丘賀、夏侯勝、韋玄成、嚴彭祖、尹更始以儒術進,劉向、王褒以文章顯。將相則張安世、趙充國、魏相、邴吉、于定國、杜延年,治民則黃霸、王成、龔遂、鄭弘、邵信臣、韓延壽、尹翁歸、趙廣漢之屬,皆有功跡見述於後。累其名臣,亦其次也。
新字:孝宣承統,纂修洪業,亦講論六芸,招選茂異,而蕭望之、梁丘賀、夏侯勝、韋玄成、厳彭祖、尹更始以儒術進,劉向、王褒以文章顕。将相則張安世、趙充国、魏相、邴吉、于定国、杜延年,治民則黄覇、王成、龔遂、鄭弘、邵信臣、韓延寿、尹翁帰、趙広漢之属,皆有功跡見述於後。累其名臣,亦其次也。
書き下し
孝宣統を承け、洪業を纂修し、亦六芸を講論し、茂異を招選す、而して蕭望之・梁丘賀・夏侯勝・韋玄成・厳彭祖・尹更始儒術を以て進み、劉向・王褒文章を以て顕はる。将相は則ち張安世・趙充国・魏相・邴吉・于定国・杜延年、民を治むるは則ち黄霸・王成・龔遂・鄭弘・邵信臣・韓延寿・尹翁帰・趙広漢の属、皆功跡有りて後に述べらる。其の名臣を累ぬれば、亦其の次なり。
現代語訳
孝宣帝が皇統を継ぐと、大いなる事業を受け継いで整え、やはり六芸(六経)を講じ論じ、優れた非凡な人材を招き選んだ。そして蕭望之・梁丘賀・夏侯勝・韋玄成・厳彭祖・尹更始が儒学によって登用され、劉向・王褒が文章によって名を顕した。将軍・宰相では張安世・趙充国・魏相・邴吉・于定国・杜延年、民を治めた者では黄霸・王成・龔遂・鄭弘・邵信臣・韓延寿・尹翁帰・趙広漢らが、みな功績を挙げて後世に語り伝えられた。その名臣を数え上げれば、(武帝の世に)次ぐものである。
解説
関連する章句
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史記 平津侯主父列伝其れ思慮を省き、精神を存し、輔くるに医薬を以てせよ』と。告を賜ひて病を治めしめ、牛酒雑帛あり。居ること数月、瘳ゆる有り、事を視る。元狩二年に至り、竟に善く相位に終ふ。夫れ臣を知るは君に若くは莫し、此れ其の効なり。弘の子度爵を嗣ぎ、後に山陽太守と為り、法に坐して侯を失ふ。夫れ徳を表し義を章かにするは、俗を率ゐ化を厲ます所以にして、聖王の制、易はらざるの道なり。其れ弘の後の子孫の次に当に後為るべき者に爵関内侯を賜ひ、食邑三百戸、徴して公車に詣らしめ、名を尚書に上れ、朕親ら臨みて拝せん」と。班固称して曰く、公孫弘・卜式・兒寛は皆鴻漸の翼を以て燕雀に困しみ、跡を羊豕の間に遠ざく、其の時に遇ふに非ずんば、焉んぞ能く此の位を致さんや。是の時漢興りて六十余載、海内乂安にして、府庫充実し、而して四夷未だ賓はず、制度多く闕く、上方に文武を用ひんと欲し、之を求むること及ばざるが如し。始め蒲輪を以て枚生を迎へ、主父を見て嘆息す。群臣慕向し、異人并び出づ。卜式は芻牧より試みられ、弘羊は賈豎より擢かれ、衛青は奴僕より奮ひ、日磾は降虜より出づ、斯れ亦曩時の版築飯牛の朋なり。漢の人を得る、茲に於て盛んと為す。儒雅は則ち公孫弘・董仲舒・兒寛、篤行は則ち石建・石慶、質直は則ち汲黯・卜式、推賢は則ち韓安国・鄭当時、定令は則ち趙禹・張湯、文章は則ち司馬遷・相如、滑稽は則ち東方朔・枚皋、応対は則ち厳助・朱買臣、歴数は則ち唐都・落下閎、協律は則ち李延年、運籌は則ち桑弘羊、奉使は則ち張騫・蘇武、将帥は則ち衛青・霍去病、受遺は則ち霍光・金日磾。其の余は勝げて紀すべからず。是を以て功業を興造し、制度遺文、後世及ぶ莫し。
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史記 張丞相列伝後、騎して廟に至り不敬なるに坐して、詔有りて爵一級を奪はれ、関内侯と為り、列侯を失ひ、其の故の国邑を食むを得。魏丞相卒し、御史大夫邴吉を以て代はらしむ。邴丞相吉は、魯国の人なり。読書して法令を好むを以て御史大夫に至る。孝宣帝の時、旧故有るを以て、封ぜられて列侯と為り、而して因りて丞相と為る。事に明らかにして、大智有り。後世之を称す。丞相を以て病みて死す。子顕嗣ぐ。後、騎して廟に至り不敬なるに坐して、詔有りて爵一級を奪はれ、列侯を失ひ、故の国邑を食むを得。顕は吏と為りて太僕に至り、官の秏乱し、身及び子男に姦贓有るに坐して、免ぜられて庶人と為る。邴丞相卒し、黄丞相代はる。長安中に善く相する工の田文なる者有り。韋丞相・魏丞相・邴丞相の微賤なる時に客家に会す。田文言ひて曰く、「今此の三君は、皆丞相なり」と。其の後三人竟に更(こもごも)相代はりて丞相と為る。何ぞ見ることの明らかなるや。黄丞相霸は、淮陽の人なり。読書を以て吏と為り、潁川の太守に至る。潁川を治むるに、礼義条教を以て喩告して之を化す。法を犯す者は、風曉して自殺せしむ。化大いに行はれ、名声聞こゆ。孝宣帝制を下して曰く、「潁川の太守霸、詔令を宣布するを以て民を治め、道に遺ちたるを拾はず、男女路を異にし、獄中に重囚無し。爵関内侯、黄金百斤を賜ふ」と。徴されて京兆尹と為りて丞相に至り、復た礼義を以て治を為す。丞相を以て病みて死す。子嗣ぎ、後列侯と為る。黄丞相卒し、御史大夫于定国を以て代はらしむ。于丞相は已に廷尉伝有り、張廷尉の語中に在り。于丞相去り、御史大夫韋玄成代はる。韋丞相玄成は、即ち前の韋丞相の子なり。父に代はり、後列侯を失ふ。其の人少き時に読書を好み、詩・論語に明らかなり。吏と為りて衛尉に至り、徙りて太子太傅と為る。
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『宋名臣言行録』後集巻九・蘇轍漢の武帝外に四夷を事とし内に宮室を興し、財用匱竭す。是に於いて鹽鐡・□酤・均輸の政を修む。民命に堪えず、幾ど大亂に至る。昭帝霍光に委任し煩苛を罷去して漢室乃ち定まる。光武・顯宗は察を以て明と爲し、讖を以て事を决す。天下恐懼し人不安を懷く。章帝深く其の失を鑒み、代うるに寛厚愷悌の政を以てす。後世焉を稱う。
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史記 張丞相列伝太史公曰く、「張蒼は文学律歴もて、漢の名相と為るも、賈生・公孫臣等の正朔服色の事を言ふを絀けて遵はず、明らかに秦の顓頊暦を用ゐるは、何ぞや。周昌は、木彊の人なり。任敖は旧徳を以て用ゐらる。申屠嘉は剛毅守節と謂ふ可し、然れども術学無く、殆ど蕭・曹・陳平と異なるかな」と。
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史記 平津侯主父列伝太史公曰く、公孫弘は行義修まると雖も、然れども亦時に遇ふ。漢興りて八十余年、上方に文学に郷ひ、俊乂を招き、以て儒墨を広む、弘挙首為り。主父偃路に当たるや、諸公皆之を誉む、名敗れ身誅せらるるに及び、士争ひて其の悪を言ふ。悲しいかな。太皇太后大司徒・大司空に詔す、「蓋し聞く国を治むるの道は、民を富ますを始めと為す。民を富ますの要は、節倹に在りと。孝経に曰く『上を安んじ民を治むるは、礼より善きは莫し』と。『礼は、其の奢らんよりは寧ろ倹なれ』と。昔者管仲斉の桓に相として、諸侯に霸たり、九合一匡の功有り、而れども仲尼之を礼を知らずと謂ふ、其の奢泰侈にして君に擬するを以ての故なり。夏禹は宮室を卑くし、衣服を悪しくす、後聖循はず。此に由りて之を言へば、治の盛んなるや、徳優れり、倹より高きは莫し。倹以て俗民を化せば、則ち尊卑の序得て、骨肉の恩親しく、争訟の原息む。斯れ乃ち家給し人足り、刑錯くの本なるか。務めざるべけんや。夫れ三公は、百寮の率、万民の表なり。未だ直き表を樹てて曲れる影を得る者有らざるなり。孔子云はずや、『子率ゐて正しければ、孰か敢て正しからざらん』と。『善を挙げて不能を教ふれば則ち勧む』と。維れ漢興りて以来、股肱の宰臣の身に倹約を行ひ、財を軽んじ義を重んずること、較然として著明なる、未だ故丞相平津侯公孫弘の若き者有らざるなり。位丞相に在りて布被を為し、脱粟の飯、一肉に過ぎず。故人の善くする所の賓客に皆奉禄を分かちて以て之に給し、余す所有る無し。誠に内に自ら克約して外に制に従ふ。汲黯之を詰り、乃ち朝に聞こゆ、此れ制度より減じて施行すべき者と謂ふべきなり。徳優るれば則ち行ひ、否ざれば則ち止む、内に奢泰にして外に詭服を為して以て虚誉を釣る者とは科を殊にす。病を以て骸骨を乞ふや、孝武皇帝即ち制して曰く『功有るを賞し、徳有るを褒め、善を善とし悪を悪とす、君宜しく之を知るべし。
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史記 平津侯主父列伝朕宿昔庶幾はくは尊位を承くるを獲たり、寧んずること能はざるを懼る、惟だ与に共に治を為す所の者、君宜しく之を知るべし。蓋し君子は善を善とし悪を悪とす、君若し謹みて行はば、常に朕の躬に在り。君不幸にして霜露の病に罹る、何の恙か已まざらん、乃ち上書して侯を帰し、骸骨を乞ふ、是れ朕の不徳を章かにするなり。今事少しく閒なり、君其れ思慮を省き、精神を一にし、輔くるに医薬を以てせよ」と。因りて告を賜ひ牛酒雑帛あり。居ること数月、病瘳ゆる有り、事を視る。元狩二年、弘病み、竟に丞相を以て終ふ。子度嗣ぎて平津侯と為る。度山陽太守と為ること十余歳、法に坐して侯を失ふ。主父偃は、斉の臨菑の人なり。長短縦横の術を学び、晩に乃ち易・春秋・百家の言を学ぶ。斉の諸生の間に游ぶも、能く厚く遇する莫きなり。斉の諸儒生相与に排擯し、斉に容れられず。家貧しく、仮貸するも得る所無し、乃ち北のかた燕・趙・中山に游ぶも、皆能く厚く遇する莫く、客と為りて甚だ困しむ。孝武の元光元年中、以為へらく諸侯游ぶに足る者莫しと、乃ち西して関に入り衛将軍に見ゆ。衛将軍数々上に言ふも、上召さず。資用乏しく、留まること久しく、諸公の賓客多く之を厭ふ、乃ち闕下に上書す。朝に奏し、暮に召されて入り見ゆ。言ふ所九事、其の八事は律令為り、一事は匈奴を伐つを諫む。其の辞に曰く、臣聞く明主は切諫を悪まずして以て博く観、忠臣は敢て重誅を避けずして以て直諫す、是の故に事に遺策無くして功万世に流る。今臣敢て忠を隠し死を避けずして以て愚計を效す、願はくは陛下幸ひに赦して少しく之を察せよ。
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