史記 / 衛将軍驃騎列伝
鷹擊司馬破奴再從驃騎將軍斬遬濮王,捕稽沮王,千騎將得王、王母各一人,王子以下四十一人,捕虜三千三百三十人,前行捕虜千四百人,以千五百戶封破奴為從驃侯。校尉句王高不識,從驃騎將軍捕呼于屠王王子以下十一人,捕虜千七百六十八人,以千一百戶封不識為宜冠侯。校尉僕多有功,封為煇渠侯。」合騎侯敖坐行留不與驃騎會,當斬,贖為庶人。諸宿將所將士馬兵亦不如驃騎,驃騎所將常選,然亦敢深入,常與壯騎先其大軍,軍亦有天幸,未嘗困絕也。然而諸宿將常坐留落不遇。由此驃騎日以親貴,比大將軍。其秋,單于怒渾邪王居西方數為漢所破,亡數萬人,以驃騎之兵也。單于怒,欲召誅渾邪王。渾邪王與休屠王等謀欲降漢,使人先要邊。是時大行李息將城河上,得渾邪王使,即馳傳以聞。天子聞之,於是恐其以詐降而襲邊,乃令驃騎將軍將兵往迎之。驃騎既渡河,與渾邪王眾相望。渾邪王裨將見漢軍而多欲不降者,頗遁去。驃騎乃馳入與渾邪王相見,斬其欲亡者八千人,遂獨遣渾邪王乘傳先詣行在所,盡將其眾渡河,降者數萬,號稱十萬。既至長安,天子所以賞賜者數十巨萬。
新字:鷹撃司馬破奴再従驃騎将軍斬遬濮王,捕稽沮王,千騎将得王、王母各一人,王子以下四十一人,捕虜三千三百三十人,前行捕虜千四百人,以千五百戸封破奴為従驃侯。校尉句王高不識,従驃騎将軍捕呼于屠王王子以下十一人,捕虜千七百六十八人,以千一百戸封不識為宜冠侯。校尉僕多有功,封為煇渠侯。」合騎侯敖坐行留不与驃騎会,当斬,贖為庶人。諸宿将所将士馬兵亦不如驃騎,驃騎所将常選,然亦敢深入,常与壮騎先其大軍,軍亦有天幸,未嘗困絶也。然而諸宿将常坐留落不遇。由此驃騎日以親貴,比大将軍。其秋,単于怒渾邪王居西方数為漢所破,亡数万人,以驃騎之兵也。単于怒,欲召誅渾邪王。渾邪王与休屠王等謀欲降漢,使人先要辺。是時大行李息将城河上,得渾邪王使,即馳伝以聞。天子聞之,於是恐其以詐降而襲辺,乃令驃騎将軍将兵往迎之。驃騎既渡河,与渾邪王衆相望。渾邪王裨将見漢軍而多欲不降者,頗遁去。驃騎乃馳入与渾邪王相見,斬其欲亡者八千人,遂独遣渾邪王乗伝先詣行在所,尽将其衆渡河,降者数万,号称十万。既至長安,天子所以賞賜者数十巨万。
書き下し
鷹撃司馬破奴再び驃騎将軍に従ひて遬濮王を斬り、稽沮王を捕へ、千騎将王・王母各々一人、王子以下四十一人を得、捕虜三千三百三十人、前行して虜を捕ふること千四百人。千五百戸を以て破奴を封じて従驃侯と為す。校尉句王高不識、驃騎将軍に従ひて呼于屠王の王子以下十一人を捕へ、捕虜千七百六十八人。千一百戸を以て不識を封じて宜冠侯と為す。校尉僕多功有り、封じて煇渠侯と為す」と。合騎侯敖行留して驃騎と会せざるに坐し、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。諸宿将の将ゐる所の士馬兵も亦驃騎に如かず。驃騎の将ゐる所は常に選ばる。然れども亦敢へて深く入り、常に壮騎と其の大軍に先んず。軍も亦天幸有り、未だ嘗て困絶せざるなり。然り而して諸宿将常に留落して遇はざるに坐す。此に由りて驃騎日に以て親貴せられ、大将軍に比す。其の秋、単于渾邪王の西方に居りて数々漢の破る所と為り、数万人を亡ふを怒る。驃騎の兵を以てなり。単于怒り、渾邪王を召して誅せんと欲す。渾邪王休屠王等と謀りて漢に降らんと欲し、人をして先づ辺に要せしむ。是の時大行李息城を河上に将す。渾邪王の使を得て、即ち伝を馳せて以て聞す。天子之を聞き、是に於て其の詐り降りて辺を襲はんことを恐れ、乃ち驃騎将軍をして兵を将ゐて往きて之を迎へしむ。驃騎既に河を渡り、渾邪王の衆と相望む。渾邪王の裨将漢の軍を見て多く降らざらんと欲する者あり、頗る遁れ去る。驃騎乃ち馳せ入りて渾邪王と相見え、其の亡げんと欲する者八千人を斬り、遂に独り渾邪王を遣はして伝に乗りて先に行在所に詣らしめ、尽く其の衆を将ゐて河を渡る。降る者数万、号して十万と称す。既に長安に至り、天子の賞賜する所以の者数十巨万なり。
現代語訳
「鷹撃司馬の趙破奴は再び驃騎将軍に従って遬濮王を斬り、稽沮王を捕らえ、千騎将は王と王母をそれぞれ一人、王子以下四十一人を捕らえ、捕虜三千三百三十人を得、先鋒として捕虜千四百人を得た。千五百戸で趙破奴を従驃侯に封じる。校尉で句王の高不識は驃騎将軍に従って呼于屠王の王子以下十一人を捕らえ、捕虜千七百六十八人を得た。千百戸で高不識を宜冠侯に封じる。校尉の僕多に功があったので、煇渠侯に封じる」。合騎侯公孫敖は行軍が遅れて驃騎将軍と合流しなかった罪で斬罪に当たるとされたが、金で贖って庶民となった。古参の将軍たちが率いる兵や馬も、驃騎将軍のものには及ばなかった。驃騎将軍の兵はいつも選り抜きであったうえ、驃騎将軍はあえて深く攻め入り、常に勇壮な騎兵とともに本隊の先頭を進んだ。その軍にはまた天の幸運もあって、一度も苦境に陥って全滅しかけたことがなかった。それに対して古参の将軍たちは、いつも遅れたり道に迷ったりして機会に恵まれなかった。こうして驃騎将軍は日ごとに親しまれ尊ばれ、大将軍と肩を並べるようになった。その秋、単于は、西方にいる渾邪王がたびたび漢に破られ数万人を失ったことに怒った。それは驃騎将軍の兵によるものであった。単于は怒って渾邪王を呼び寄せて誅殺しようとした。渾邪王は休屠王らと謀って漢に降伏しようと考え、人をやってまず辺境で漢に申し入れさせた。この時、大行の李息が黄河のほとりで築城の指揮をとっていたが、渾邪王の使者を迎えると、すぐに駅伝の馬を走らせて天子に報告した。天子はこれを聞くと、渾邪王が偽って降伏して辺境を襲うのではないかと恐れ、驃騎将軍に兵を率いて迎えに行かせた。驃騎将軍が黄河を渡ると、渾邪王の部衆と遠く向かい合った。渾邪王の副将たちの中には漢軍を見て降伏したくないという者が多く、かなりの者が逃げ去った。驃騎将軍はそこで馬を走らせて乗り込み、渾邪王と会見し、逃げようとした者八千人を斬り、渾邪王だけを駅伝の車で先に天子の行在所に向かわせ、その部衆をすべて率いて黄河を渡った。降伏した者は数万人で、十万と称した。長安に着くと、天子が褒美として与えたものは数十万金に上った。
解説
関連する章句
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史記 衛将軍驃騎列伝渾邪王を万戸に封じ、漯陰侯と為す。其の裨王呼毒尼を封じて下摩侯と為し、鷹庇を煇渠侯と為し、禽を河綦侯と為し、大当戸銅離を常楽侯と為す。是に於て天子驃騎の功を嘉して曰く、「驃騎将軍去病師を率ゐて匈奴の西域王渾邪を攻む。王及び厥の衆萌咸相奔る。率ゐるに軍糧を以て接食し、并せて控弦万有余人を将ゐ、獟駻を誅し、首虜八千余級を獲、異国の王三十二人を降し、戦士は傷を離れず、十万の衆咸懐き集まり服す。仍りに之と労し、爰に河塞に及び、庶幾はくは患ひ無く、幸ひに既に永く綏んぜん。千七百戸を以て驃騎将軍に益封す」と。隴西・北地・上郡の戍卒の半ばを減じ、以て天下の繇を寛くす。居ること頃之、乃ち降る者を辺の五郡の故塞の外に分徙す。而して皆河南に在り、其の故俗に因りて、属国と為す。其の明年、匈奴右北平・定襄に入り、漢の千余人を殺略す。其の明年、天子諸将と議して曰く、「翕侯趙信単于の為に計を画し、常に以為へらく漢の兵は幕を度りて軽しく留まる能はずと。今大いに士卒を発せば、其の勢必ず欲する所を得ん」と。是の歳なり。春、上大将軍青・驃騎将軍去病をして各々五万騎を将ゐしめ、歩兵の転ずる者軍に踵ぐこと数十万。而して敢へて力戦して深く入るの士は皆驃騎に属す。驃騎始め為に定襄より出で、単于に当たらんとす。捕虜言ふ、単于東に在りと。乃ち更めて驃騎をして代郡より出でしめ、大将軍をして定襄より出でしむ。郎中令前将軍と為り、太僕左将軍と為り、主爵趙食其右将軍と為り、平陽侯襄後将軍と為り、皆大将軍に属す。兵即ち幕を度る。人馬凡そ五万騎、驃騎等と咸匈奴の単于を撃つ。趙信単于の為に謀りて曰く、「漢の兵既に幕を度らば、人馬罷れん。匈奴坐して虜を収むべきのみ」と。
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史記 匈奴列伝其の秋、単于渾邪王・休屠王の西方に居りて漢の殺虜する所と為ること数万人なるを怒り、召して之を誅せんと欲す。渾邪王と休屠王と恐れ、漢に降らんことを謀る。漢驃騎将軍をして往きて之を迎へしむ。渾邪王休屠王を殺し、并せて其の衆を将ゐて漢に降る。凡そ四万余人、号して十万。是に於て漢已に渾邪王を得、則ち隴西・北地・河西益々胡寇少なし。関東の貧民を徙して奪ふ所の匈奴の河南・新秦中に処らしめて以て之を実たし、而して北地以西の戍卒の半ばを減ず。其の明年、匈奴右北平・定襄に入ること各々数万騎、千余人を殺略して去る。其の明年春、漢謀りて曰く「翕侯信単于の為に計り、幕北に居り、以為へらく漢の兵至る能はずと」と。乃ち馬に粟して十万騎を発し、私負従の馬凡そ十四万匹、糧重は与からず。大将軍青・驃騎将軍去病をして軍を中分せしめ、大将軍は定襄より出で、驃騎将軍は代より出で、咸約して幕を絶りて匈奴を撃たしむ。単于之を聞き、其の輜重を遠ざけ、精兵を以て幕北に待つ。漢の大将軍と接戦すること一日、会々暮れ、大風起こる。漢の兵左右の翼を縦ちて単于を囲む。単于自ら度るに戦ふこと漢の兵に如く能はず。単于遂に独り身壮騎数百と漢の囲みを潰して西北に遁走す。漢の兵夜追ひて得ず。行くゆく匈奴の首虜を斬捕すること万九千級、北のかた闐顔山の趙信城に至りて還る。単于の遁走するや、其の兵往往にして漢の兵と相乱れて単于に随ふ。単于久しく其の大衆と相得ず。其の右谷蠡王以為へらく単于死せりと。乃ち自ら立ちて単于と為る。真の単于復た其の衆を得たり。而して右谷蠡王乃ち其の単于の号を去り、復た右谷蠡王と為る。
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史記 衛将軍驃騎列伝悉く李敢等を以て大校と為し、裨将に当て、代・右北平より出づること千余里、左方の兵に直り、斬捕する所の功已に大将軍より多し。軍既に還る。天子曰く、「驃騎将軍去病師を率ゐ、躬ら獲る所の葷粥の士を将ゐ、軽齎を約し、大幕を絶り、渉りて章渠を獲、以て比車耆を誅し、転じて左大将を撃ち、旗鼓を斬獲し、離侯を歴渉す。弓閭を済り、屯頭王・韓王等三人、将軍・相国・当戸・都尉八十三人を獲、狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、登りて翰海に臨む。鹵を執へ醜を獲ること七万有四百四十三級、師率減ずること什に三。食を敵に取り、間行殊に遠くして糧絶えず。五千八百戸を以て驃騎将軍に益封す」と。右北平の太守路博徳驃騎将軍に属し、与城に会し、期を失はず、従ひて檮余山に至り、首を斬り虜を捕ふること二千七百級。千六百戸を以て博徳を封じて符離侯と為す。北地の都尉邢山驃騎将軍に従ひて王を獲たり。千二百戸を以て山を封じて義陽侯と為す。故の帰義の因淳王復陸支・楼専王伊即靬皆驃騎将軍に従ひて功有り。千三百戸を以て復陸支を封じて壮侯と為し、千八百戸を以て伊即靬を封じて衆利侯と為す。従驃侯破奴・昌武侯安稽驃騎に従ひて功有り、益封すること各々三百戸。校尉敢旗鼓を得て、関内侯と為し、食邑二百戸。校尉自為爵大庶長。軍吏卒官と為り、賞賜甚だ多し。而して大将軍は益封を得ず、軍吏卒皆封侯せらるる者無し。両軍の塞を出づるや、塞に官及び私馬を閲すること凡そ十四万匹、而して復た塞に入る者三万匹に満たず。乃ち益々大司馬の位を置き、大将軍・驃騎将軍皆大司馬と為る。令を定め、驃騎将軍の秩禄をして大将軍と等しからしむ。是より後、大将軍青日に退き、而して驃騎日に益々貴し。大将軍の故人門下を挙げて多く去りて驃騎に事へ、輒ち官爵を得。唯任安のみ肯ぜず。
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史記 衛将軍驃騎列伝張騫大将軍に従ふ。嘗て大夏に使ひし、匈奴の中に留まること久しきを以て、軍を導き、善き水草の処を知り、軍以て饑渇無きを得たり。前に絶国に使ひせし功に因りて、騫を封じて博望侯と為す。冠軍侯去病既に侯たること三歳、春、冠軍侯去病を以て驃騎将軍と為し、万騎を将ゐて隴西より出で、功有り。天子曰く、「驃騎将軍戎士を率ゐて烏盭を踰え、遬濮を討ち、狐奴を渉り、五王国を歴、輜重人衆の懾慴する者は取らず、単于の子を獲んことを冀ふ。転戦すること六日、焉支山を過ぐること千有余里、短兵を合はせ、折蘭王を殺し、盧胡王を斬り、全甲を誅し、渾邪王の子及び相国・都尉を執へ、首虜八千余級、休屠の祭天の金人を収む。去病に二千戸を益封す」と。其の夏、驃騎将軍合騎侯敖と倶に北地より出で、道を異にす。博望侯張騫・郎中令李広倶に右北平より出で、道を異にす。皆匈奴を撃つ。郎中令は四千騎を将ゐて先に至り、博望侯は万騎を将ゐて後に在りて至る。匈奴の左賢王数万騎を将ゐて郎中令を囲む。郎中令与に戦ふこと二日、死する者半ばを過ぐ。殺す所も亦当に過ぐ。博望侯至り、匈奴の兵引き去る。博望侯行留に坐し、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。而して驃騎将軍北地より出で、已に遂に深く入り、合騎侯と道を失ひ、相得ず。驃騎将軍居延を踰えて祁連山に至り、首虜を捕ふること甚だ多し。天子曰く、「驃騎将軍居延を踰え、遂に小月氏を過ぎ、祁連山を攻め、酋涂王を得たり。衆を以て降る者二千五百人、首虜を斬ること三万二百級、五王、五王の母、単于の閼氏、王子五十九人、相国・将軍・当戸・都尉六十三人を獲たり。師大率減ずること什に三。去病に五千戸を益封す。校尉の従ひて小月氏に至る者に爵左庶長を賜ふ。
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史記 衛将軍驃騎列伝騎射を善くし、再び大将軍に従ふ。詔を受けて壮士を与へられ、剽姚校尉と為り、軽勇の騎八百と直ちに大軍を棄つること数百里にして利に赴き、首虜を斬捕すること当に過ぐ。是に於て天子曰く、「剽姚校尉去病、首虜を斬ること二千二十八級、及び相国・当戸、単于の大父行籍若侯産を斬り、季父羅姑比を生け捕り、再び軍に冠たり。千六百戸を以て去病を封じて冠軍侯と為す。上谷の太守郝賢四たび大将軍に従ひ、首虜を捕斬すること二千余人。千一百戸を以て賢を封じて衆利侯と為す」と。是の歳、両将軍の軍を失ひ、翕侯を亡ひ、軍功多からず。故に大将軍益封せず。右将軍建至る。天子誅せず、其の罪を赦し、贖ひて庶人と為す。
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史記 衛将軍驃騎列伝光禄勲と為り、蠱を太子の宮に掘る。衛太子之を殺す。将軍郭昌は、雲中の人なり。校尉を以て大将軍に従ふ。元封四年、太中大夫を以て抜胡将軍と為り、朔方に屯す。還りて昆明を撃ち、功毋く、印を奪はる。将軍荀彘は、太原の広武の人なり。御を以て見え、侍中たり、校尉と為り、数々大将軍に従ふ。元封三年を以て左将軍と為り朝鮮を撃ち、功毋し。楼船将軍を捕ふるを以て法に坐して死す。最れ驃騎将軍去病、凡そ六たび出でて匈奴を撃ち、其の四たびは将軍を以て出で、首虜を斬捕すること十一万余級。渾邪王の衆を以て降ること数万なるに及び、遂に河西酒泉の地を開き、西方益々胡寇少なし。四たび益封せられ、凡そ万五千一百戸。其の校吏の功有りて侯と為る者凡そ六人、而して後に将軍と為る者二人。将軍路博徳は、平州の人なり。右北平の太守を以て驃騎将軍に従ひて功有り、符離侯と為る。驃騎死して後、博徳衛尉を以て伏波将軍と為り、南越を伐ち破りて、益封せらる。其の後法に坐して侯を失ふ。彊弩都尉と為り、居延に屯して、卒す。将軍趙破奴は、故の九原の人なり。嘗て亡げて匈奴に入り、已にして漢に帰り、驃騎将軍の司馬と為る。北地より出づる時功有り、封ぜられて従驃侯と為る。酎金に坐して侯を失ふ。後一歳、匈河将軍と為り、胡を攻めて匈河水に至り、功無し。後二歳、楼蘭王を撃ち虜にし、復た封ぜられて浞野侯と為る。後六歳、浚稽将軍と為り、二万騎を将ゐて匈奴の左賢王を撃つ。左賢王与に戦ひ、兵八万騎破奴を囲む。破奴生きて虜の得る所と為り、遂に其の軍を没す。匈奴の中に居ること十歳、復た其の太子安国と亡げて漢に入る。後に巫蠱に坐して、族せらる。衛氏の興りしより、大将軍青首めて封ぜられ、其の後枝属五侯と為る。凡そ二十四歳にして五侯尽く奪はれ、衛氏に侯為る者無し。
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