史記 / 衛将軍驃騎列伝
青壯,為侯家騎,從平陽主。建元二年春,青姊子夫得入宮幸上。皇后,堂邑大長公主女也,無子,妒。大長公主聞衛子夫幸,有身,妒之,乃使人捕青。青時給事建章,未知名。大長公主執囚青,欲殺之。其友騎郎公孫敖與壯士往篡取之,以故得不死。上聞,乃召青為建章監,侍中,及同母昆弟貴,賞賜數日閒累千金。孺為太僕公孫賀妻。少兒故與陳掌通,上召貴掌。公孫敖由此益貴。子夫為夫人。青為大中大夫。青為車騎將軍,擊匈奴,出上谷;太僕公孫賀為輕車將軍,出雲中;大中大夫公孫敖為騎將軍,出代郡;衛尉李廣為驍騎將軍,出雁門:軍各萬騎。青至蘢城,斬首虜數百。騎將軍敖亡七千騎;衛尉李廣為虜所得,得脫歸:皆當斬,贖為庶人。賀亦無功。春,衛夫人有男,立為皇后。其秋,青為車騎將軍,出雁門,三萬騎擊匈奴,斬首虜數千人。明年,匈奴入殺遼西太守,虜略漁陽二千餘人,敗韓將軍軍。漢令將軍李息擊之,出代;令車騎將軍青出雲中以西至高闕。遂略河南地,至于隴西,捕首虜數千,畜數十萬,走白羊、樓煩王。遂以河南地為朔方郡。以三千八百戶封青為長平侯。青校尉蘇建有功,以千一百戶封建為平陵侯。使建筑朔方城。
新字:青壮,為侯家騎,従平陽主。建元二年春,青姊子夫得入宮幸上。皇后,堂邑大長公主女也,無子,妬。大長公主聞衛子夫幸,有身,妬之,乃使人捕青。青時給事建章,未知名。大長公主執囚青,欲殺之。其友騎郎公孫敖与壮士往篡取之,以故得不死。上聞,乃召青為建章監,侍中,及同母昆弟貴,賞賜数日閒累千金。孺為太僕公孫賀妻。少児故与陳掌通,上召貴掌。公孫敖由此益貴。子夫為夫人。青為大中大夫。青為車騎将軍,撃匈奴,出上谷;太僕公孫賀為軽車将軍,出雲中;大中大夫公孫敖為騎将軍,出代郡;衛尉李広為驍騎将軍,出雁門:軍各万騎。青至蘢城,斬首虜数百。騎将軍敖亡七千騎;衛尉李広為虜所得,得脱帰:皆当斬,贖為庶人。賀亦無功。春,衛夫人有男,立為皇后。其秋,青為車騎将軍,出雁門,三万騎撃匈奴,斬首虜数千人。明年,匈奴入殺遼西太守,虜略漁陽二千余人,敗韓将軍軍。漢令将軍李息撃之,出代;令車騎将軍青出雲中以西至高闕。遂略河南地,至于隴西,捕首虜数千,畜数十万,走白羊、楼煩王。遂以河南地為朔方郡。以三千八百戸封青為長平侯。青校尉蘇建有功,以千一百戸封建為平陵侯。使建筑朔方城。
書き下し
青壮にして、侯家の騎と為り、平陽主に従ふ。建元二年春、青の姊子夫入宮して上に幸せらるるを得たり。皇后は、堂邑の大長公主の女なり。子無くして、妒む。大長公主衛子夫の幸せられて、身有るを聞き、之を妒み、乃ち人をして青を捕へしむ。青時に建章に給事し、未だ名を知られず。大長公主青を執囚し、之を殺さんと欲す。其の友騎郎公孫敖壮士と往きて之を篡取す。故を以て死せざるを得たり。上聞き、乃ち青を召して建章監・侍中と為し、及び同母の昆弟貴く、賞賜すること数日の間に千金を累ぬ。孺は太僕公孫賀の妻と為る。少児は故より陳掌と通ず。上召して掌を貴くす。公孫敖此に由りて益々貴し。子夫夫人と為る。青大中大夫と為る。青車騎将軍と為り、匈奴を撃ちて、上谷より出づ。太僕公孫賀軽車将軍と為り、雲中より出づ。大中大夫公孫敖騎将軍と為り、代郡より出づ。衛尉李広驍騎将軍と為り、雁門より出づ。軍各々万騎。青蘢城に至り、首虜を斬ること数百。騎将軍敖は七千騎を亡ふ。衛尉李広は虜の得る所と為り、脱して帰るを得たり。皆斬に当たり、贖ひて庶人と為る。賀も亦功無し。春、衛夫人男有り、立ちて皇后と為る。其の秋、青車騎将軍と為り、雁門より出で、三万騎もて匈奴を撃ち、首虜を斬ること数千人。明年、匈奴入りて遼西の太守を殺し、漁陽の二千余人を虜略し、韓将軍の軍を敗る。漢将軍李息をして之を撃たしめ、代より出でしめ、車騎将軍青をして雲中より以西高闕に至るまで出でしむ。遂に河南の地を略し、隴西に至り、首虜数千、畜数十万を捕へ、白羊・楼煩王を走らす。遂に河南の地を以て朔方郡と為す。三千八百戸を以て青を封じて長平侯と為す。青の校尉蘇建功有り、千一百戸を以て建を封じて平陵侯と為す。建をして朔方の城を築かしむ。
現代語訳
衛青は成人すると平陽侯家の騎兵となり、平陽公主に付き従った。建元二年の春、衛青の姉の子夫が宮中に入って天子の寵愛を受けた。皇后(陳皇后)は堂邑の大長公主の娘であったが、子がなく、嫉妬深かった。大長公主は衛子夫が寵愛されて身ごもったと聞くと、これをねたみ、人をやって衛青を捕らえさせた。衛青はその頃、建章宮に勤めていたが、まだ名を知られていなかった。大長公主は衛青を捕らえて監禁し、殺そうとした。衛青の友人で騎郎の公孫敖が勇士たちと出向いて衛青を奪い返したので、殺されずに済んだ。天子はこれを聞くと、衛青を召して建章監・侍中とし、衛青の同母の兄弟たちも皆高い地位につけ、数日のうちに千金を重ねるほどの褒美を与えた。衛孺は太僕の公孫賀の妻となった。少児はもともと陳掌と通じていたので、天子は陳掌を召して高い地位につけた。公孫敖もこのことでますます高い地位についた。子夫は夫人となり、衛青は大中大夫となった。衛青は車騎将軍となって匈奴を攻撃し、上谷から出撃した。太僕の公孫賀は軽車将軍となって雲中から、大中大夫の公孫敖は騎将軍となって代郡から、衛尉の李広は驍騎将軍となって雁門から出撃した。軍はそれぞれ一万騎であった。衛青は蘢城に至って敵の首や捕虜数百を得た。騎将軍公孫敖は七千騎を失い、衛尉李広は敵に捕らえられたが脱出して帰ることができた。二人とも斬罪に当たるとされたが、金で贖って庶民となった。公孫賀も手柄はなかった。春、衛夫人が男子を生み、皇后に立てられた。その秋、衛青は車騎将軍として雁門から出撃し、三万騎で匈奴を攻撃して、首や捕虜数千を得た。翌年、匈奴が侵入して遼西太守を殺し、漁陽の二千人余りを連れ去り、韓将軍(韓安国)の軍を破った。漢は将軍李息に代から出撃させ、車騎将軍衛青には雲中から西へ高闕まで出撃させた。衛青はそのまま河南の地を攻め取り、隴西まで至って、首や捕虜数千、家畜数十万頭を得て、白羊王・楼煩王を敗走させた。こうして河南の地を朔方郡とした。三千八百戸で衛青を長平侯に封じた。衛青の校尉の蘇建に功があったので、千百戸で蘇建を平陵侯に封じ、蘇建に朔方の城を築かせた。
解説
関連する章句
-
史記 外戚世家子夫は平陽主の謳者為り。武帝初めて即位し、数歳子無し。平陽主諸々の良家の子女十余人を求め、飾りて家に置く。武帝霸上に祓して還り、因りて平陽主に過る。主侍する所の美人を見えしむ。上説ばず。既に飲み、謳者進む、上望み見て、独り衛子夫を説ぶ。是の日、武帝起ちて衣を更む、子夫尚衣の軒中に侍し、幸を得たり。上還りて坐し、驩ぶこと甚だし。平陽主に金千斤を賜ふ。主因りて子夫を奉送して宮に入れんことを奏す。子夫車に上る、平陽主其の背を拊ちて曰く、「行け、彊ひて飯し、之を勉めよ。即し貴くならば、相忘るること無かれ」と。宮に入りて歳余、竟に復た幸せられず。武帝宮人の用に中らざる者を択び、斥け出して之を帰す。衛子夫見ゆるを得、涕泣して出でんことを請ふ。上之を憐れみ、復た幸す、遂に身有り、尊寵日に隆し。其の兄衛長君・弟青を召して侍中と為す。而して子夫後に大いに幸せられ、寵有り、凡そ三女一男を生む。男の名は据。初め、上太子為りし時、長公主の女を娶りて妃と為す。立ちて帝と為り、妃立ちて皇后と為る、姓は陳氏、子無し。上の嗣と為るを得たるは、大長公主力有り、故を以て陳皇后驕貴なり。衛子夫の大いに幸せらるるを聞き、恚りて、死に幾き者数々なり。上愈々怒る。陳皇后婦人の媚道を挟み、其の事頗る覚る、是に於て陳皇后を廃し、而して衛子夫を立てて皇后と為す。陳皇后の母大長公主は、景帝の姊なり、数々武帝の姊平陽公主を譲めて曰く、「帝は我に非ずんば立つを得ず、已にして吾が女を棄捐す、壹に何ぞ自ら喜ばずして本に倍くや」と。平陽公主曰く、「子無きの故を用て廃せらるるのみ」と。陳皇后子を求め、医に与ふる銭凡そ九千万、然れども竟に子無し。衛子夫已に立ちて皇后と為る、是より先衛長君死す、乃ち衛青を以て将軍と為し、胡を撃ちて功有り、封じて長平侯と為す。青の三子襁褓の中に在るも、皆封じて列侯と為す。
-
史記 衛将軍驃騎列伝大将軍衛青は、平陽の人なり。其の父鄭季、吏と為り、平陽侯の家に給事し、侯の妾衛媼と通じ、青を生む。青の同母兄衛長子、而して姊衛子夫平陽公主の家より天子に幸せらるるを得たり。故に姓を冒して衛氏と為す。字は仲卿。長子は更めて長君と字す。長君の母は号して衛媼と為す。媼の長女は衛孺、次女は少児、次女は即ち子夫なり。後に子夫の男弟歩・広皆衛氏を冒す。
-
史記 外戚世家武帝車を下りて泣きて曰く、「嚄、大姊、何ぞ之を蔵すことの深きや」と。詔して副車に之を載せしめ、車を迴らして馳せ還り、而して直ちに長楽宮に入る。行くゆく詔して門に引籍を著けしめ、通じて到りて太后に謁す。太后曰く、「帝倦めり、何れより来たる」と。帝曰く、「今者長陵に至りて臣が姊を得たり、与に倶に来たる」と。顧みて曰く、「太后に謁せよ」と。太后曰く、「女は某か」と。曰く、「是なり」と。太后為に下りて泣き、女も亦た地に伏して泣く。武帝酒を奉じて前みて寿を為し、銭千万、奴婢三百人、公田百頃、甲第を奉じ、以て姊に賜ふ。太后謝して曰く、「帝の為に費せり」と。是に於て平陽主・南宮主・林慮主の三人を召して倶に来たりて姊に謁見せしめ、因りて号して修成君と曰ふ。子男一人、女一人有り。男は号して修成子仲と為し、女は諸侯王の王后と為る。此の二子は劉氏に非ず、故を以て太后之を憐れむ。修成子仲驕恣にして、吏民を陵折す、皆之を患苦す。衛子夫立ちて皇后と為り、后の弟衛青字は仲卿、大将軍を以て封じて長平侯と為す。四子あり、長子伉は侯の世子為り、侯の世子常に侍中し、貴幸せらる。其の三弟皆封じて侯と為す、各々千三百戸、一は陰安侯と曰ひ、二は発干侯と曰ひ、三は宜春侯と曰ふ、貴きこと天下を震はす。天下之を歌ひて曰く、「男を生むも喜ぶ無かれ、女を生むも怒る無かれ、独り衛子夫の天下に霸たるを見ずや」と。是の時平陽主寡居す、当に列侯を用て主に尚すべし。主左右と長安中の列侯の夫と為すべき者を議す、皆大将軍可なりと言ふ。主笑ひて曰く、「此れ吾が家より出づ、常に騎をして我に従ひて出入せしめしのみ、柰何ぞ用ひて夫と為さんや」と。左右侍御の者曰く、「今大将軍の姊は皇后為り、三子は侯為り、富貴天下を振動す、主何を以て之を易へんや」と。是に於て主乃ち之を許す。之を皇后に言ひ、之を武帝に白さしむ、乃ち詔して衛将軍をして平陽公主に尚せしむ。
-
史記 衛将軍驃騎列伝青の校尉張次公功有り、封じて岸頭侯と為す。天子曰く、「匈奴天理に逆らひ、人倫を乱し、長を暴し老を虐げ、盗窃を以て務めと為し、諸蛮夷を行詐し、謀を造り兵を藉り、数々辺害を為す。故に師を興し将を遣はして、以て厥の罪を征す。詩に云はずや、『薄か玁狁を伐ちて、太原に至る』、『車を出だすこと彭彭たり、彼の朔方に城く』と。今車騎将軍青西河を度りて高闕に至り、首虜二千三百級を獲、車輜畜産畢く収めて鹵と為し、已に封じて列侯と為す。遂に西のかた河南の地を定め、榆谿の旧塞を按じ、梓領を絶り、北河に梁し、蒲泥を討ち、符離を破り、軽鋭の卒を斬り、伏聴する者を捕ふること三千七十一級、執訊して醜を獲、馬牛羊を駆ること百有余万、甲兵を全うして還る。青に三千戸を益封す」と。其の明年、匈奴入りて代郡の太守友を殺し、入りて鴈門の千余人を略す。其の明年、匈奴大いに代・定襄・上郡に入り、漢の数千人を殺略す。其の明年、春、漢車騎将軍青をして三万騎を将ゐて、高闕より出でしむ。衛尉蘇建游撃将軍と為り、左内史李沮彊弩将軍と為り、太僕公孫賀騎将軍と為り、代の相李蔡軽車将軍と為り、皆車騎将軍に領属し、倶に朔方より出づ。大行李息・岸頭侯張次公将軍と為り、右北平より出づ。咸匈奴を撃つ。匈奴の右賢王衛青等の兵に当たり、以為へらく漢の兵此に至る能はずと。飲みて酔ふ。漢の兵夜至り、右賢王を囲む。右賢王驚き、夜逃れ、独り其の愛妾一人・壮騎数百と馳せ、囲みを潰して北に去る。漢の軽騎校尉郭成等逐ふこと数百里、及ばず。右賢の裨王十余人、衆男女万五千余人、畜数千百万を得たり。是に於て兵を引きて還る。
-
史記 衛将軍驃騎列伝而して卒す。天子之を悼み、属国の玄甲軍を発し、陳ぬること長安より茂陵に至り、冢を為りて祁連山に象る。之を諡し、武と広地とを并せて景桓侯と曰ふ。子嬗侯に代はる。嬗少く、字は子侯、上之を愛し、其の壮なるを幸ひて之を将たらしめんとす。居ること六歳、元封元年、嬗卒し、諡して哀侯と曰ふ。子無く、絶え、国除かる。驃騎将軍の死せしより後、大将軍の長子宜春侯伉法に坐して侯を失ふ。後五歳、伉の弟二人、陰安侯不疑及び発干侯登皆酎金に坐して侯を失ふ。侯を失ひて後二歳、冠軍侯の国除かる。其の後四年、大将軍青卒し、諡して烈侯と為す。子伉代はりて長平侯と為る。大将軍の単于を囲みしより後、十四年にして卒す。竟に復た匈奴を撃たざる者は、漢の馬少なく、而して方に南のかた両越を誅し、東のかた朝鮮を伐ち、羌・西南夷を撃つを以て、故を以て久しく胡を伐たず。大将軍其の平陽長公主を尚るを得たるの故を以て、長平侯伉侯に代はる。六歳にして、法に坐して侯を失ふ。左方は両大将軍及び諸裨将の名なり。最れ大将軍青、凡そ七たび出でて匈奴を撃ち、首虜を斬捕すること五万余級。一たび単于と戦ひ、河南の地を収め、遂に朔方郡を置く。再び益封せられ、凡そ万一千八百戸。三子を封じて侯と為し、侯は千三百戸。之を并せて、万五千七百戸。其の校尉裨将の大将軍に従ひて侯たる者九人。其の裨将及び校尉の已に将と為る者十四人。裨将為る者を李広と曰ふ。自ら伝有り。伝無き者を曰ふ、将軍公孫賀。賀は、義渠の人にして、其の先は胡種なり。賀の父渾邪、景帝の時平曲侯と為り、法に坐して侯を失ふ。賀は、武帝の太子為りし時の舎人なり。武帝立ちて八歳、太僕を以て軽車将軍と為り、馬邑に軍す。後四歳、軽車将軍を以て雲中より出づ。
-
史記 外戚世家衛皇后の謂ふ所の姊衛少児に及び、少児子霍去病を生む、軍功を以て冠軍侯に封ぜられ、驃騎将軍と号す。青は大将軍と号す。衛皇后の子据を立てて太子と為す。衛氏の枝属軍功を以て家を起こし、五人侯と為る。衛后色衰ふるに及び、趙の王夫人幸せられ、子有り、斉王と為る。王夫人蚤く卒す。而して中山の李夫人寵有り、男一人有り、昌邑王と為る。李夫人蚤く卒す、其の兄李延年音を以て幸せられ、協律と号す。協律は、故の倡なり。兄弟皆姦に坐し、族せらる。是の時其の長兄広利は弐師将軍為り、大宛を伐ち、誅に及ばず、還る、而して上既に李氏を夷らげ、後に其の家を憐れみ、乃ち封じて海西侯と為す。他の姫の子二人燕王・広陵王と為る。其の母寵無く、憂ひを以て死す。李夫人卒するに及び、則ち尹婕妤の属有り、更々寵有り。然れども皆倡を以て見ゆ、王侯有土の士女に非ず、以て人主に配すべからざるなり。褚先生曰く、臣郎為りし時、漢家の故事に習ふ者鐘離生に問ふ。曰く、王太后民間に在りし時生む所の[一]女は、父は金王孫為り。王孫已に死し、景帝崩じて後、武帝已に立ち、王太后独り在り。而して韓王孫名は嫣素より武帝に幸せらる、間を承けて太后に女有りて長陵に在りと白言す。武帝曰く、「何ぞ蚤く言はざる」と。乃ち使をして往きて先づ之を視しむ、其の家に在り。武帝乃ち自ら往きて之を迎へ取る。蹕道し、先駆の旄騎横城門を出で、乗輿馳せて長陵に至る。小市の西に当たりて里に入る、里門閉づ、暴かに門を開き、乗輿直ちに此の里に入り、通じて金氏の門外に至りて止まり、武騎をして其の宅を囲ましむ、其の亡走するが為に、身自ら往きて取るも得ざればなり。即ち左右の群臣をして入りて之を呼び求めしむ。家人驚き恐る、女亡げて内中の床下に匿る。扶持して門を出でしめ、拝謁せしむ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る