史記 / 匈奴列伝
故約,漢常遣翁主,給繒絮食物有品,以和親,而匈奴亦不擾邊。今乃欲反古,令吾太子爲質,無幾矣。」匈奴俗,見漢使非中貴人,其儒先,以爲欲說,折其辯;其少年,以爲欲刺,折其氣。每漢使入匈奴,匈奴輒報償。漢留匈奴使,匈奴亦留漢使,必得當乃肯止。楊信既歸,漢使王烏,而單于復肴甘言,欲多得漢財物,紿謂王烏曰:「吾欲入漢見天子,面相約爲兄弟。」王烏歸報漢,漢爲單于築邸于長安。匈奴曰:「非得漢貴人使,吾不與誠語。」匈奴使其貴人至漢,病,漢予藥,欲愈之,不幸而死。而漢使路充國佩二千石印綬往使,因送其喪,厚葬直數千金,曰「此漢貴人也」。單于以爲漢殺吾貴使者,乃留路充國不歸。諸所言者,單于特空紿王烏,殊無意入漢及遣太子來質。於是匈奴數使奇兵侵犯邊。漢乃拜郭昌爲拔胡將軍,及浞野侯屯朔方以東,備胡。路充國留匈奴三歳,單于死。烏維單于立十歳而死,子烏師廬立爲單于。年少,號爲兒單于。是歳元封六年也。自此之後,單于益西北,左方兵直雲中,右方直酒泉、燉煌郡。兒單于立,漢使兩使者,一弔單于,一弔右賢王,欲以乖其國。使者入匈奴,匈奴悉將致單于。單于怒而盡留漢使。
新字:故約,漢常遣翁主,給繒絮食物有品,以和親,而匈奴亦不擾辺。今乃欲反古,令吾太子為質,無幾矣。」匈奴俗,見漢使非中貴人,其儒先,以為欲説,折其弁;其少年,以為欲刺,折其気。毎漢使入匈奴,匈奴輒報償。漢留匈奴使,匈奴亦留漢使,必得当乃肯止。楊信既帰,漢使王烏,而単于復肴甘言,欲多得漢財物,紿謂王烏曰:「吾欲入漢見天子,面相約為兄弟。」王烏帰報漢,漢為単于築邸于長安。匈奴曰:「非得漢貴人使,吾不与誠語。」匈奴使其貴人至漢,病,漢予薬,欲愈之,不幸而死。而漢使路充国佩二千石印綬往使,因送其喪,厚葬直数千金,曰「此漢貴人也」。単于以為漢殺吾貴使者,乃留路充国不帰。諸所言者,単于特空紿王烏,殊無意入漢及遣太子来質。於是匈奴数使奇兵侵犯辺。漢乃拝郭昌為抜胡将軍,及浞野侯屯朔方以東,備胡。路充国留匈奴三歳,単于死。烏維単于立十歳而死,子烏師廬立為単于。年少,号為児単于。是歳元封六年也。自此之後,単于益西北,左方兵直雲中,右方直酒泉、燉煌郡。児単于立,漢使両使者,一弔単于,一弔右賢王,欲以乖其国。使者入匈奴,匈奴悉将致単于。単于怒而尽留漢使。
書き下し
故約は、漢常に翁主を遣はし、繒絮食物を給すること品有り、以て和親す。而して匈奴も亦辺を擾さず。今乃ち古に反し、吾が太子をして質と為さしめんと欲す。幾ど無からん」と。匈奴の俗、漢の使の中貴人に非ざるを見れば、其の儒先なるは、以為へらく説かんと欲すと、其の弁を折く。其の少年なるは、以為へらく刺さんと欲すと、其の気を折く。漢の使匈奴に入る毎に、匈奴輒ち報償す。漢匈奴の使を留むれば、匈奴も亦漢の使を留め、必ず当たるを得て乃ち肯へて止む。楊信既に帰る。漢王烏を使はす。而して単于復た甘言を肴して、多く漢の財物を得んと欲し、紿きて王烏に謂ひて曰く、「吾漢に入りて天子に見え、面相約して兄弟と為らんと欲す」と。王烏帰りて漢に報ず。漢単于の為に邸を長安に築く。匈奴曰く、「漢の貴人の使を得るに非ずんば、吾与に誠語せず」と。匈奴其の貴人をして漢に至らしむ。病む。漢薬を予へて、之を愈やさんと欲するも、不幸にして死す。而して漢の使路充国二千石の印綬を佩びて往きて使ひし、因りて其の喪を送り、厚く葬ること数千金に直り、曰く「此れ漢の貴人なり」と。単于以為へらく漢吾が貴使者を殺せりと。乃ち路充国を留めて帰さず。諸々の言ふ所の者は、単于特に空しく王烏を紿くのみにして、殊に漢に入り及び太子を遣はして来り質たらしむるに意無し。是に於て匈奴数々奇兵をして辺を侵犯せしむ。漢乃ち郭昌を拝して抜胡将軍と為し、及び浞野侯朔方以東に屯して、胡に備ふ。路充国匈奴に留まること三歳、単于死す。烏維単于立ちて十歳にして死し、子烏師廬立ちて単于と為る。年少く、号して児単于と為す。是の歳は元封六年なり。此より後、単于益々西北し、左方の兵は雲中に直り、右方は酒泉・燉煌郡に直る。児単于立ち、漢両使者をして、一は単于を弔ひ、一は右賢王を弔はしめ、以て其の国を乖かしめんと欲す。使者匈奴に入る。匈奴悉く将ゐて単于に致す。単于怒りて尽く漢の使を留む。
現代語訳
「以前の盟約では、漢はいつも皇族の娘を嫁がせ、絹や真綿、食物を定まった品目で贈って和親し、匈奴もまた辺境を乱さなかった。それなのに今、古い取り決めに背いて、わたしの太子を人質にしようというのか。そんなことはまずありえない」。匈奴の風習では、漢の使者が宮中の貴人でないとわかると、年配の儒者であれば説得しようとしているのだと考えてその弁舌をくじき、若者であれば刺客ではないかと考えてその気勢をくじいた。漢の使者が匈奴に来るたびに、匈奴はそのつど返礼の使者を送った。漢が匈奴の使者を留めると、匈奴も漢の使者を留め、必ず同じ数になってから、ようやく留めるのをやめた。楊信が帰国すると、漢は王烏を使者として送った。単于はまた甘い言葉で飾り立てて、漢の財物を多く手に入れようとし、王烏をだまして言った。「わたしは漢に行って天子にお会いし、直接会って兄弟の約束を結びたい」。王烏は帰って漢に報告し、漢は単于のために長安に屋敷を建てた。匈奴は言った。「漢の貴人を使者として得なければ、わたしは真剣な話はしない」。匈奴は自国の貴人を漢に来させたが、その者は病気になった。漢は薬を与えて治そうとしたが、不幸にも死んでしまった。そこで漢の使者の路充国が二千石の印綬を帯びて使者として赴き、その遺体を送り届け、数千金に値する手厚い葬儀をして、「この者は漢の貴人である」と言った。単于は漢が自分の大切な使者を殺したと考え、路充国を引き留めて帰さなかった。単于がこれまで言ってきたことは、ただいたずらに王烏をだましただけで、漢に来ることや太子を人質に送ることなど、まったくその気はなかったのである。そこで匈奴はたびたび別動隊を送って辺境を侵した。漢は郭昌を抜胡将軍に任じ、浞野侯(趙破奴)とともに朔方以東に駐屯させて匈奴に備えた。路充国が匈奴に留められて三年目に単于が死んだ。烏維単于は即位して十年で死に、子の烏師廬が立って単于となった。年が若かったので、児単于と呼ばれた。この年は元封六年である。これ以後、単于はますます西北に移り、左方の兵は雲中の向かいに、右方の兵は酒泉・燉煌郡の向かいに位置した。児単于が即位すると、漢は二人の使者を送り、一人には単于を弔わせ、一人には右賢王を弔わせて、匈奴の国内を仲たがいさせようとした。使者が匈奴に入ると、匈奴はそろって二人とも単于のもとに連れて行った。単于は怒って漢の使者をすべて留めた。
解説
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史記 匈奴列伝是の時天子辺を巡り、朔方に至り、兵十八万騎を勒して以て武節を見し、而して郭吉をして単于に風告せしむ。郭吉既に匈奴に至る。匈奴の主客使ふ所を問ふ。郭吉礼卑しく言好くして、曰く、「吾単于に見えて口もて言はん」と。単于吉を見る。吉曰く、「南越王の頭已に漢の北闕に懸かる。今単于即し能く前みて漢と戦はば、天子自ら兵を将ゐて辺に待たん。単于即し能はずんば、即ち南面して漢に臣たれ。何ぞ徒に遠く走り、幕北の寒苦にして水草無きの地に亡匿するや。為す毋かれ」と。語卒はりて単于大いに怒り、立ちどころに主客の見えしむる者を斬り、而して郭吉を留めて帰さず、之を北海の上に遷す。而して単于終に肯へて寇を漢の辺に為さず、士馬を休養息し、射猟を習ひ、数々使を漢に使はし、好辞甘言もて和親を求請す。漢王烏等をして匈奴を窺はしむ。匈奴の法、漢の使は節を去りて墨を以て其の面に黥する者に非ずんば穹廬に入るを得ず。王烏は、北地の人にして、胡の俗に習ひ、其の節を去り、面に黥して、穹廬に入るを得たり。単于之を愛し、詳りて甘言を許し、為に其の太子を遣はして漢に入りて質と為し、以て和親を求めんとす。漢楊信を匈奴に使はす。是の時漢東のかた穢貉・朝鮮を抜きて以て郡と為し、而して西のかた酒泉郡を置きて以て胡と羌との通ずるの路を鬲絶す。漢又西のかた月氏・大夏に通じ、又公主を以て烏孫王に妻はせ、以て匈奴の西方の援国を分かつ。又北のかた益々田を広めて胘雷に至りて塞と為す。而るに匈奴終に敢へて以て言を為さず。是の歳、翕侯信死す。漢の事を用ふる者以為へらく匈奴已に弱し、臣従せしむべしと。楊信の人と為りは剛直屈彊にして、素より貴臣に非ず。単于親しまず。単于召し入れんと欲するも、節を去るを肯ぜず。単于乃ち穹廬の外に坐して楊信に見ゆ。楊信既に単于に見えて、説きて曰く、「即し和親せんと欲せば、単于の太子を以て漢に質と為せ」と。単于曰く、「故約に非ず。
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史記 匈奴列伝朕聞く、古の帝王は、約分明にして食言無しと。単于志を留めば、天下大いに安からん。和親の後、漢の過は先んぜず。単于其れ之を察せよ」と。単于既に和親を約す。是に於て御史に制詔して曰く、「匈奴の大単于朕に書を遺り、和親已に定まると言ふ。亡人は以て衆を益し地を広むるに足らず。匈奴は塞に入る無く、漢は塞を出づる無し。今の約を犯す者は之を殺さば、以て久しく親しむべく、後に咎無く、倶に便ならん。朕已に之を許す。其れ天下に布告し、明らかに之を知らしめよ」と。後四歳、老上稽粥単于死し、子軍臣立ちて単于と為る。既に立ち、孝文皇帝復た匈奴と和親す。而して中行説復た之に事ふ。軍臣単于立ちて四歳、匈奴復た和親を絶ち、大いに上郡・雲中に入ること各々三万騎、殺略する所甚だ衆くして去る。是に於て漢三将軍をして軍して北地に屯し、代は句注に屯し、趙は飛狐口に屯せしめ、辺に縁りて亦各々堅守して以て胡寇に備ふ。又三将軍を置き、長安の西の細柳、渭北の棘門、覇上に軍して以て胡に備ふ。胡騎代の句注の辺に入り、烽火甘泉・長安に通ず。数月にして、漢の兵辺に至り、匈奴も亦遠く塞を去り、漢の兵も亦罷む。後歳余にして、孝文帝崩じ、孝景帝立つ。而して趙王遂乃ち陰かに人を匈奴に使はす。呉楚反し、趙と合謀して辺に入らんと欲す。漢趙を囲み破り、匈奴も亦止む。是より後、孝景帝復た匈奴と和親し、関市を通じ、匈奴に給遺し、公主を遣はすこと、故約の如し。孝景の時を終ふるまで、時に小しく入りて辺を盗むも、大寇無し。今帝即位し、和親の約束を明らかにし、厚く遇し、関市を通じ、饒かに之に給す。匈奴単于より以下皆漢に親しみ、長城の下に往来す。漢馬邑の下の人聶翁壹をして奸蘭に物を出だして匈奴と交はらしめ、詳りて馬邑の城を売ると為して以て単于を誘ふ。
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史記 匈奴列伝呴犁湖単于立つ。漢光禄徐自為をして五原の塞を出づること数百里、遠き者は千余里、城鄣列亭を築きて廬朐に至らしめ、而して游撃将軍韓説・長平侯衛伉をして其の旁に屯せしめ、彊弩都尉路博徳をして居延沢の上に築かしむ。其の秋、匈奴大いに定襄・雲中に入り、数千人を殺略し、数々二千石を敗りて去る。行くゆく光禄の築く所の城列亭鄣を破壊す。又右賢王をして酒泉・張掖に入らしめ、数千人を略す。会々任文撃ちて救ひ、尽く復た得る所を失ひて去る。是の歳、弐師将軍大宛を破り、其の王を斬りて還る。匈奴之を遮らんと欲するも、至る能はず。其の冬、受降城を攻めんと欲す。会々単于病死す。呴犁湖単于立ちて一歳にして死す。匈奴乃ち其の弟左大都尉且鞮侯を立てて単于と為す。漢既に大宛を誅し、威外国に震ふ。天子の意遂に胡を困しめんと欲し、乃ち詔を下して曰く、「高皇帝朕に平城の憂ひを遺し、高后の時単于の書絶だ悖逆なり。昔斉の襄公九世の讎を復し、春秋之を大とす」と。是の歳は太初四年なり。且鞮侯単于既に立ち、尽く漢の使の降らざる者を帰す。路充国等帰るを得たり。単于初めて立ち、漢の之を襲はんことを恐れ、乃ち自ら謂ふ、「我は児子なり。安んぞ敢へて漢の天子を望まん。漢の天子は、我が丈人の行なり」と。漢中郎将蘇武をして厚幣もて単于に賂遺せしむ。単于益々驕り、礼甚だ倨にして、漢の望む所に非ざるなり。其の明年、浞野侯破奴亡げて漢に帰るを得たり。其の明年、漢弐師将軍広利をして三万騎を以て酒泉より出で、右賢王を天山に撃たしむ。胡の首虜万余級を得て還る。匈奴大いに弐師将軍を囲み、幾ど脱せず。漢の兵の物故するもの什に六七。漢復た因杅将軍敖をして西河より出で、彊弩都尉と涿涂山に会せしむるも、得る所毋し。
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史記 匈奴列伝是に於て孝文帝丞相灌嬰に詔して車騎八万五千を発し、高奴に詣りて、右賢王を撃たしむ。右賢王走りて塞を出づ。文帝太原に幸す。是の時済北王反す。文帝帰り、丞相の胡を撃つの兵を罷む。其の明年、単于漢に書を遺りて曰く、「天の立つる所の匈奴の大単于、敬みて皇帝の恙無きを問ふ。前時皇帝和親の事を言ふ。書の意に称ひ、合歓す。漢の辺吏右賢王を侵侮す。右賢王請はずして、後義盧侯難氏等の計を聴き、漢の吏と相距ぎ、二主の約を絶ち、兄弟の親を離る。皇帝の譲むる書再び至る。使を発して書を以て報ずるも、来らず。漢の使至らず。漢其の故を以て和せず、隣国附かず。今小吏の約を敗るの故を以て、右賢王を罰し、之をして西のかた月氏を求めて之を撃たしむ。天の福を以て、吏卒良く、馬彊力にして、以て月氏を夷滅し、尽く斬殺して之を降下す。楼蘭・烏孫・呼掲及び其の旁の二十六国を定め、皆以て匈奴と為す。諸々の弓を引くの民、并せて一家と為る。北州已に定まる。願はくは兵を寝め士卒を休め馬を養ひ、前事を除き、故約を復し、以て辺民を安んじ、以て始古に応じ、少者をして其の長を成すを得しめ、老者をして其の処に安んぜしめ、世世平楽ならん。未だ皇帝の志を得ざるなり。故に郎中系雩浅をして書を奉じて請はしめ、橐他一匹、騎馬二匹、駕二駟を献ず。皇帝即し匈奴の塞に近づくを欲せずんば、則ち且く吏民に詔して遠く舎せしめん。使者至らば、即ち之を遣れ」と。六月中を以て来りて薪望の地に至る。書至る。漢撃つと和親と孰れか便なるかを議す。公卿皆曰く、「単于新たに月氏を破り、勝に乗ず。撃つべからず。且つ匈奴の地を得るとも、沢鹵にして、居るべきに非ざるなり。和親甚だ便なり」と。漢之を許す。孝文皇帝の前六年、漢匈奴に書を遺りて曰く、「皇帝敬みて匈奴の大単于の恙無きを問ふ。
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