師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 匈奴列伝

朕聞古之帝王,約分明而無食言。單于留志,天下大安,和親之後,漢過不先。單于其察之。」單于既約和親,於是制詔御史曰:「匈奴大單于遺朕書,言和親已定,亡人不足以益眾廣地,匈奴無入塞,漢無出塞,犯今約者殺之,可以久親,后無咎,俱便。朕已許之。其布告天下,使明知之。」後四歳,老上稽粥單于死,子軍臣立爲單于。既立,孝文皇帝復與匈奴和親。而中行說復事之。軍臣單于立四歳,匈奴復絕和親,大入上郡、雲中各三萬騎,所殺略甚眾而去。於是漢使三將軍軍屯北地,代屯句注,趙屯飛狐口,緣邊亦各堅守以備胡寇。又置三將軍,軍長安西細柳、渭北棘門、霸上以備胡。胡騎入代句注邊,烽火通於甘泉、長安。數月,漢兵至邊,匈奴亦去遠塞,漢兵亦罷。後歳餘,孝文帝崩,孝景帝立,而趙王遂乃陰使人於匈奴。吳楚反,欲與趙合謀入邊。漢圍破趙,匈奴亦止。自是之後,孝景帝復與匈奴和親,通關市,給遺匈奴,遣公主,如故約。終孝景時,時小入盜邊,無大寇。今帝即位,明和親約束,厚遇,通關市,饒給之。匈奴自單于以下皆親漢,往來長城下。漢使馬邑下人聶翁壹奸蘭出物與匈奴交,詳爲賣馬邑城以誘單于。

新字:朕聞古之帝王,約分明而無食言。単于留志,天下大安,和親之後,漢過不先。単于其察之。」単于既約和親,於是制詔御史曰:「匈奴大単于遺朕書,言和親已定,亡人不足以益衆広地,匈奴無入塞,漢無出塞,犯今約者殺之,可以久親,后無咎,倶便。朕已許之。其布告天下,使明知之。」後四歳,老上稽粥単于死,子軍臣立為単于。既立,孝文皇帝復与匈奴和親。而中行説復事之。軍臣単于立四歳,匈奴復絶和親,大入上郡、雲中各三万騎,所殺略甚衆而去。於是漢使三将軍軍屯北地,代屯句注,趙屯飛狐口,縁辺亦各堅守以備胡寇。又置三将軍,軍長安西細柳、渭北棘門、覇上以備胡。胡騎入代句注辺,烽火通於甘泉、長安。数月,漢兵至辺,匈奴亦去遠塞,漢兵亦罷。後歳余,孝文帝崩,孝景帝立,而趙王遂乃陰使人於匈奴。呉楚反,欲与趙合謀入辺。漢囲破趙,匈奴亦止。自是之後,孝景帝復与匈奴和親,通関市,給遺匈奴,遣公主,如故約。終孝景時,時小入盗辺,無大寇。今帝即位,明和親約束,厚遇,通関市,饒給之。匈奴自単于以下皆親漢,往来長城下。漢使馬邑下人聶翁壱奸蘭出物与匈奴交,詳為売馬邑城以誘単于。

書き下し

朕聞く、古の帝王は、約分明にして食言無しと。単于志を留めば、天下大いに安からん。和親の後、漢の過は先んぜず。単于其れ之を察せよ」と。単于既に和親を約す。是に於て御史に制詔して曰く、「匈奴の大単于朕に書を遺り、和親已に定まると言ふ。亡人は以て衆を益し地を広むるに足らず。匈奴は塞に入る無く、漢は塞を出づる無し。今の約を犯す者は之を殺さば、以て久しく親しむべく、後に咎無く、倶に便ならん。朕已に之を許す。其れ天下に布告し、明らかに之を知らしめよ」と。後四歳、老上稽粥単于死し、子軍臣立ちて単于と為る。既に立ち、孝文皇帝復た匈奴と和親す。而して中行説復た之に事ふ。軍臣単于立ちて四歳、匈奴復た和親を絶ち、大いに上郡・雲中に入ること各々三万騎、殺略する所甚だ衆くして去る。是に於て漢三将軍をして軍して北地に屯し、代は句注に屯し、趙は飛狐口に屯せしめ、辺に縁りて亦各々堅守して以て胡寇に備ふ。又三将軍を置き、長安の西の細柳、渭北の棘門、覇上に軍して以て胡に備ふ。胡騎代の句注の辺に入り、烽火甘泉・長安に通ず。数月にして、漢の兵辺に至り、匈奴も亦遠く塞を去り、漢の兵も亦罷む。後歳余にして、孝文帝崩じ、孝景帝立つ。而して趙王遂乃ち陰かに人を匈奴に使はす。呉楚反し、趙と合謀して辺に入らんと欲す。漢趙を囲み破り、匈奴も亦止む。是より後、孝景帝復た匈奴と和親し、関市を通じ、匈奴に給遺し、公主を遣はすこと、故約の如し。孝景の時を終ふるまで、時に小しく入りて辺を盗むも、大寇無し。今帝即位し、和親の約束を明らかにし、厚く遇し、関市を通じ、饒かに之に給す。匈奴単于より以下皆漢に親しみ、長城の下に往来す。漢馬邑の下の人聶翁壹をして奸蘭に物を出だして匈奴と交はらしめ、詳りて馬邑の城を売ると為して以て単于を誘ふ。

現代語訳

「わたしは、古の帝王は約束を明確にして言葉を違えることがなかったと聞いている。単于がこのことを心に留めてくだされば、天下は大いに安らかになろう。和親の後、漢の側から先に過ちを犯すことはない。単于よ、どうかこのことを察していただきたい」。単于はこうして和親を約した。そこで文帝は御史に詔して言った。「匈奴の大単于がわたしに書状を送り、和親はすでに定まったと言ってきた。逃亡者は人口を増やし土地を広げるほどのものではない。匈奴は長城の内に入らず、漢は長城の外に出ない。今の盟約を犯す者は殺すことにすれば、長く親しくでき、後に災いもなく、双方にとって好都合である。わたしはすでにこれを承知した。天下に布告して、はっきりと知らせよ」。四年後、老上稽粥単于が死に、子の軍臣が立って単于となった。軍臣が即位すると、孝文皇帝はまた匈奴と和親した。そして中行説は再び軍臣に仕えた。軍臣単于が立って四年目、匈奴は再び和親を絶ち、上郡と雲中にそれぞれ三万騎で大挙して侵入し、非常に多くの民を殺したり連れ去ったりして去った。そこで漢は三人の将軍に軍を率いさせ、一人を北地に、代の軍を句注に、趙の軍を飛狐口に駐屯させ、辺境沿いにもそれぞれ守りを固めて匈奴の侵攻に備えた。さらに三人の将軍を置いて、長安の西の細柳、渭水の北の棘門、覇上に布陣させて匈奴に備えた。匈奴の騎兵は代の句注山のあたりに侵入し、のろしの火は甘泉宮や長安にまで伝わった。数か月して漢の兵が辺境に到着すると、匈奴も長城から遠く去り、漢の兵も引き揚げた。一年余りして孝文帝が崩御し、孝景帝が即位した。趙王劉遂はひそかに匈奴に使者を送った。呉楚七国が反乱を起こした時、趙と共謀して辺境に侵入しようとしたのである。漢が趙を包囲して破ると、匈奴も侵入をやめた。これ以後、孝景帝は再び匈奴と和親し、国境の市場を開き、匈奴に物資を贈り、公主を送ることは、もとの盟約どおりであった。孝景帝の治世の終わりまで、時々小規模に侵入して辺境を略奪することはあったが、大きな侵攻はなかった。今上(武帝)が即位すると、和親の約束を明確にし、手厚く遇し、国境の市場を開いて、物資を豊かに与えた。匈奴は単于以下皆漢に親しみ、長城のあたりを行き来した。漢は馬邑の住人の聶翁壹に禁令を犯して品物を持ち出して匈奴と取引させ、馬邑の城を売り渡すと偽って単于を誘い出そうとした。

解説

文帝の書簡の結びと、和親の成立、そして文帝・景帝・武帝初期にかけての和親と侵入の繰り返しを記した段です。文帝は「古の帝王は約束を明確にして言葉を違えなかった」と述べ、漢の側から先に約束を破ることはないと明言しました。そして匈奴は長城の内に入らず、漢は外に出ない、盟約を犯した者は殺すという取り決めを天下に布告します。約束を公にして自らを縛ることで、信頼を形にしたのです。しかし老上単于が死んで軍臣単于が立つと、四年後には和親が破られ、各三万騎の大侵入が起こります。この時、長安を守るために細柳に布陣したのが、後に周亜夫の軍規の厳しさで知られる細柳営です。景帝の時代には呉楚七国の乱で趙が匈奴と結ぼうとしましたが、乱の鎮圧で未遂に終わり、以後は和親と関市の開放で大きな侵攻はありませんでした。武帝の初めに関係は最も良好になりますが、その直後に漢自身が馬邑の謀略で和親を破ります。約束を守ると明言した側が、自ら約束を破る転換点がここにあります。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る