史記 / 匈奴列伝
匈奴騎,其西方盡白馬,東方盡青駹馬,北方盡烏驪馬,南方盡騂馬。高帝乃使使閒厚遺閼氏,閼氏乃謂冒頓曰:「兩主不相困。今得漢地,而單于終非能居之也。且漢王亦有神,單于察之。」冒頓與韓王信之將王黃、趙利期,而黃、利兵又不來,疑其與漢有謀,亦取閼氏之言,乃解圍之一角。於是高帝令士皆持滿傅矢外鄉,從解角直出,竟與大軍合,而冒頓遂引兵而去。漢亦引兵而罷,使劉敬結和親之約。是後韓王信爲匈奴將,及趙利、王黃等數倍約,侵盜代、雲中。居無幾何,陳豨反,又與韓信合謀擊代。漢使樊噲往擊之,復拔代、鴈門、雲中郡縣,不出塞。是時匈奴以漢將眾往降,故冒頓常往來侵盜代地。於是漢患之,高帝乃使劉敬奉宗室女公主爲單于閼氏,歳奉匈奴絮繒酒米食物各有數,約爲昆弟以和親,冒頓乃少止。後燕王盧綰反,率其黨數千人降匈奴,往來苦上谷以東。高祖崩,孝惠、呂太后時,漢初定,故匈奴以驕。冒頓乃爲書遺高后,妄言。高后欲擊之,諸將曰:「以高帝賢武,然尚困於平城。」於是高后乃止,復與匈奴和親。至孝文帝初立,復修和親之事。其三年五月,匈奴右賢王入居河南地,侵盜上郡葆塞蠻夷,殺略人民。
新字:匈奴騎,其西方尽白馬,東方尽青駹馬,北方尽烏驪馬,南方尽騂馬。高帝乃使使閒厚遺閼氏,閼氏乃謂冒頓曰:「両主不相困。今得漢地,而単于終非能居之也。且漢王亦有神,単于察之。」冒頓与韓王信之将王黄、趙利期,而黄、利兵又不来,疑其与漢有謀,亦取閼氏之言,乃解囲之一角。於是高帝令士皆持満傅矢外郷,従解角直出,竟与大軍合,而冒頓遂引兵而去。漢亦引兵而罷,使劉敬結和親之約。是後韓王信為匈奴将,及趙利、王黄等数倍約,侵盗代、雲中。居無幾何,陳豨反,又与韓信合謀撃代。漢使樊噲往撃之,復抜代、鴈門、雲中郡県,不出塞。是時匈奴以漢将衆往降,故冒頓常往来侵盗代地。於是漢患之,高帝乃使劉敬奉宗室女公主為単于閼氏,歳奉匈奴絮繒酒米食物各有数,約為昆弟以和親,冒頓乃少止。後燕王盧綰反,率其党数千人降匈奴,往来苦上谷以東。高祖崩,孝恵、呂太后時,漢初定,故匈奴以驕。冒頓乃為書遺高后,妄言。高后欲撃之,諸将曰:「以高帝賢武,然尚困於平城。」於是高后乃止,復与匈奴和親。至孝文帝初立,復修和親之事。其三年五月,匈奴右賢王入居河南地,侵盗上郡葆塞蠻夷,殺略人民。
書き下し
匈奴の騎、其の西方は尽く白馬、東方は尽く青駹馬、北方は尽く烏驪馬、南方は尽く騂馬なり。高帝乃ち使をして間に厚く閼氏に遺らしむ。閼氏乃ち冒頓に謂ひて曰く、「両主相困しめず。今漢の地を得るとも、而も単于終に能く之に居るに非ざるなり。且つ漢王も亦神有り。単于之を察せよ」と。冒頓韓王信の将王黄・趙利と期す。而して黄・利の兵又来らず。其の漢と謀有るを疑ひ、亦閼氏の言を取り、乃ち囲みの一角を解く。是に於て高帝士をして皆満を持し矢を傅けて外に郷はしめ、解けたる角より直ちに出で、竟に大軍と合す。而して冒頓遂に兵を引きて去る。漢も亦兵を引きて罷め、劉敬をして和親の約を結ばしむ。是の後韓王信匈奴の将と為り、及び趙利・王黄等数々約に倍き、代・雲中を侵盗す。居ること幾何も無く、陳豨反し、又韓信と合謀して代を撃つ。漢樊噲をして往きて之を撃たしめ、復た代・鴈門・雲中の郡県を抜くも、塞を出でず。是の時匈奴漢の将の衆を以て往きて降る。故に冒頓常に往来して代の地を侵盗す。是に於て漢之を患ふ。高帝乃ち劉敬をして宗室の女公主を奉じて単于の閼氏と為さしめ、歳ごとに匈奴に絮繒酒米食物を奉ずること各々数有り、約して昆弟と為りて以て和親す。冒頓乃ち少しく止む。後に燕王盧綰反し、其の党数千人を率ゐて匈奴に降り、往来して上谷以東を苦しむ。高祖崩ず。孝恵・呂太后の時、漢初めて定まる。故に匈奴以て驕る。冒頓乃ち書を為りて高后に遺り、妄言す。高后之を撃たんと欲す。諸将曰く、「高帝の賢武を以てすら、然も尚ほ平城に困しめらる」と。是に於て高后乃ち止め、復た匈奴と和親す。孝文帝初めて立つに至り、復た和親の事を修む。其の三年五月、匈奴の右賢王入りて河南の地に居り、上郡の葆塞の蛮夷を侵盗し、人民を殺略す。
現代語訳
匈奴の騎兵は、西方はすべて白馬、東方はすべて青と白のまだら馬、北方はすべて黒馬、南方はすべて赤馬であった。高帝はそこで使者をひそかに送って閼氏(単于の妃)に手厚く贈り物をした。閼氏は冒頓に言った。「両国の君主が互いに苦しめ合うことはない。今、漢の土地を手に入れても、単于は結局そこに住むことはできない。それに漢王にも神の加護がある。単于はよくお考えなさい」。冒頓は韓王信の将軍の王黄・趙利と合流する約束をしていたが、王黄・趙利の兵はまた来なかった。冒頓は彼らが漢と内通しているのではないかと疑い、閼氏の言葉も取り入れて、包囲の一角を解いた。そこで高帝は兵士たちに皆弓を引き絞り矢をつがえて外に向けさせ、解かれた一角からまっすぐに脱出し、ついに本隊と合流した。冒頓はそのまま兵を引いて去った。漢も兵を引いて戦いをやめ、劉敬に命じて和親の盟約を結ばせた。その後、韓王信は匈奴の将となり、趙利・王黄らとたびたび盟約に背いて、代・雲中を侵し略奪した。まもなく陳豨が反乱を起こし、また韓王信と共謀して代を攻撃した。漢は樊噲を遣わしてこれを討たせ、代・鴈門・雲中の郡県を再び攻め落としたが、長城の外には出なかった。この頃、漢の将軍たちが配下を率いて匈奴に降伏したので、冒頓は常に行き来して代の地を侵し略奪した。漢はこれを憂え、高帝は劉敬に命じて皇族の娘を公主として単于の閼氏に差し出し、毎年匈奴に真綿・絹・酒・米・食物をそれぞれ定まった量だけ贈り、兄弟の盟約を結んで和親した。冒頓はそれで少し略奪をやめた。その後、燕王盧綰が反乱を起こし、仲間数千人を率いて匈奴に降伏し、行き来して上谷以東を苦しめた。高祖が崩御した。孝恵帝・呂太后の時代、漢はようやく安定したばかりであったので、匈奴は驕り高ぶった。冒頓は書状を書いて高后(呂太后)に送り、無礼なことを言った。高后はこれを討とうとしたが、将軍たちは「高帝の賢明さと武勇をもってしても、平城で苦しめられた」と言った。そこで高后は思いとどまり、再び匈奴と和親した。孝文帝が即位すると、また和親を修めた。その三年五月、匈奴の右賢王が河南の地に入って住みつき、上郡の要塞を守る異民族を侵し略奪し、民を殺したり連れ去ったりした。
解説
関連する章句
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史記 韓信盧綰列伝其の将王喜を斬る。信亡げて匈奴に走る。其の白土の人曼丘臣・王黄等と趙の苗裔趙利を立てて王と為し、復た信の敗散の兵を収め、而して信及び冒頓と漢を攻めんことを謀る。匈奴は左右賢王をして万余騎を将ゐしめ、王黄等と広武以南に屯し、晋陽に至りて漢兵と戦ふ。漢大いに之を破り、追ひて離石に至り、復た之を破る。匈奴復た兵を楼煩の西北に聚む。漢車騎をして匈奴を撃破せしむ。匈奴常に敗走し、漢勝に乗じて北ぐるを追ふ。冒頓の代谷に居ると聞き、高皇帝晋陽に居り、人をして冒頓を視しむ。還り報じて曰く「撃つべし」と。上遂に平城に至る。上白登に出づるや、匈奴の騎上を囲む。上乃ち人をして厚く閼氏(えんし)に遺らしむ。閼氏乃ち冒頓に説きて曰く、「今漢の地を得るも、猶ほ居ること能はず。且つ両主は相ひ緱(くるし)めず」と。居ること七日、胡騎稍く引き去る。時に天大いに霧あり、漢人をして往来せしむるも、胡覚らず。護軍中尉陳平上に言ひて曰く、「胡は全兵なり。請ふ強弩をして両矢を傅けて外に向けしめ、徐行して囲みを出でん」と。平城に入る。漢の救兵も亦到り、胡騎遂に解き去る。漢も亦兵を罷めて帰る。韓信は匈奴の為に兵を将ゐて往来して辺を撃つ。漢の十年、信王黄等をして陳豨を説誤せしむ。十一年の春、故の韓王信復た胡騎と入りて参合に居り、漢を距ぐ。漢柴将軍をして之を撃たしめ、信に書を遺りて曰く、「陛下は寛仁なり。諸侯畔亡すること有りと雖も、而も復た帰れば、輒ち故の位号に復し、誅せざるなり。大王の知る所なり。今王は敗亡を以て胡に走る。大罪有るに非ず。急ぎ自ら帰れ」と。韓王信報じて曰く、「陛下僕を閭巷より擢き起こし、南面して孤と称せしむ。此れ僕の幸なり。滎陽の事、僕死すること能はずして項籍に囚はる、此れ一の罪なり。寇の馬邑を攻むるに及び、僕堅守すること能はず、城を以て之に降る、此れ二の罪なり。
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史記 劉敬叔孫通列伝高帝平城を罷めて歸り、韓王信亡げて胡に入る。是の時に當たりて、冒頓單于と為り、兵彊く、控弦三十萬、數々北邊を苦しむ。上之を患へ、劉敬に問ふ。劉敬曰く、「天下初めて定まり、士卒兵に罷れたれば、未だ武を以て服すべからざるなり。冒頓は父を殺して代はり立ち、群母を妻とし、力を以て威と為す。未だ仁義を以て說くべからざるなり。獨だ計を以て久遠にして子孫を臣と為すべきのみ。然れども恐らくは陛下為す能はざらん」と。上曰く、「誠に可ならば、何為れぞ能はざらん。顧(ただ)柰何(いかん)と為すか」と。劉敬對へて曰く、「陛下誠に能く適長公主を以て之に妻(めあ)はせ、厚く奉じて之に遺らば、彼漢の適女にして送ること厚きを知り、蠻夷必ず慕ひて以て閼氏(えんし)と為し、子を生まば必ず太子と為し、單于に代はらしめん。何となれば、漢の重幣を貪ればなり。陛下歲時に漢の餘る所彼の鮮き所を以て數々問遺し、因りて辯士をして禮節を風諭せしめよ。冒頓在らば、固より子婿為り。死せば、則ち外孫單于と為る。豈に嘗て外孫の敢へて大父と禮を抗する者を聞かんや。兵は戰ふこと無くして以て漸く臣とすべきなり。
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史記 匈奴列伝五月、大いに蘢城に会し、其の先・天地・鬼神を祭る。秋、馬肥ゆれば、大いに蹛林に会し、人畜の計を課校す。其の法、刃を抜くこと尺なる者は死し、盗に坐する者は其の家を没入す。罪有ること小なる者は軋し、大なる者は死す。獄久しき者も十日に過ぎず、一国の囚も数人に過ぎず。而して単于朝に営を出でて、日の始めて生ずるを拝し、夕に月を拝す。其の坐は、左を長として北郷す。日は戊己を上ぶ。其の死を送るに、棺槨金銀衣裘有りて、封樹喪服無し。近幸の臣妾の従死する者、多きは数千百人に至る。事を挙ぐるに星月を候ひ、月盛壮なれば則ち攻戦し、月虧くれば則ち兵を退く。其の攻戦するや、首虜を斬れば一卮の酒を賜ひ、而して得る所の鹵獲は因りて以て之に予へ、人を得れば以て奴婢と為す。故に其の戦ふや、人人自ら趣きて利を為し、善く誘兵を為して以て敵を冒す。故に其の敵を見れば則ち利を逐ふこと、鳥の集まるが如し。其の困敗するや、則ち瓦解雲散す。戦ひて死者を扶輿する者は、尽く死者の家財を得。後に北のかた渾庾・屈射・丁零・鬲昆・薪犁の国を服す。是に於て匈奴の貴人大臣皆服し、冒頓単于を以て賢と為す。是の時漢初めて中国を定め、韓王信を代に徙し、馬邑に都す。匈奴大いに馬邑を攻囲し、韓王信匈奴に降る。匈奴信を得て、因りて兵を引きて南のかた句注を踰え、太原を攻め、晋陽の下に至る。高帝自ら兵を将ゐて往きて之を撃つ。会々冬大いに寒くして雨雪ふり、卒の指を墮す者十に二三。是に於て冒頓詳りて敗走し、漢の兵を誘ふ。漢の兵冒頓を逐ひ撃つ。冒頓其の精兵を匿し、其の羸弱を見す。是に於て漢悉く兵をあげ、歩兵多く、三十二万、北のかた之を逐ふ。高帝先づ平城に至る。歩兵未だ尽くは到らず。冒頓精兵四十万騎を縦ちて高帝を白登に囲むこと七日、漢の兵中外相救餉するを得ず。
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史記 匈奴列伝朕聞く、古の帝王は、約分明にして食言無しと。単于志を留めば、天下大いに安からん。和親の後、漢の過は先んぜず。単于其れ之を察せよ」と。単于既に和親を約す。是に於て御史に制詔して曰く、「匈奴の大単于朕に書を遺り、和親已に定まると言ふ。亡人は以て衆を益し地を広むるに足らず。匈奴は塞に入る無く、漢は塞を出づる無し。今の約を犯す者は之を殺さば、以て久しく親しむべく、後に咎無く、倶に便ならん。朕已に之を許す。其れ天下に布告し、明らかに之を知らしめよ」と。後四歳、老上稽粥単于死し、子軍臣立ちて単于と為る。既に立ち、孝文皇帝復た匈奴と和親す。而して中行説復た之に事ふ。軍臣単于立ちて四歳、匈奴復た和親を絶ち、大いに上郡・雲中に入ること各々三万騎、殺略する所甚だ衆くして去る。是に於て漢三将軍をして軍して北地に屯し、代は句注に屯し、趙は飛狐口に屯せしめ、辺に縁りて亦各々堅守して以て胡寇に備ふ。又三将軍を置き、長安の西の細柳、渭北の棘門、覇上に軍して以て胡に備ふ。胡騎代の句注の辺に入り、烽火甘泉・長安に通ず。数月にして、漢の兵辺に至り、匈奴も亦遠く塞を去り、漢の兵も亦罷む。後歳余にして、孝文帝崩じ、孝景帝立つ。而して趙王遂乃ち陰かに人を匈奴に使はす。呉楚反し、趙と合謀して辺に入らんと欲す。漢趙を囲み破り、匈奴も亦止む。是より後、孝景帝復た匈奴と和親し、関市を通じ、匈奴に給遺し、公主を遣はすこと、故約の如し。孝景の時を終ふるまで、時に小しく入りて辺を盗むも、大寇無し。今帝即位し、和親の約束を明らかにし、厚く遇し、関市を通じ、饒かに之に給す。匈奴単于より以下皆漢に親しみ、長城の下に往来す。漢馬邑の下の人聶翁壹をして奸蘭に物を出だして匈奴と交はらしめ、詳りて馬邑の城を売ると為して以て単于を誘ふ。
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史記 劉敬叔孫通列伝漢の七年、韓王信反す。高帝自ら往きて之を擊つ。晉陽に至り、信匈奴と共に漢を擊たんと欲すと聞き、上大いに怒り、人をして匈奴に使ひせしむ。匈奴其の壯士肥えたる牛馬を匿し、但だ老弱及び羸畜(るいちく)を見す。使者十輩來りて、皆言ふ、匈奴擊つべし、と。上、劉敬をして復た往きて匈奴に使ひせしむ。還りて報じて曰く、「兩國相擊つには、此れ宜しく夸矜して長ずる所を見すべし。今臣往くに、徒だ羸瘠老弱を見るのみ。此れ必ず短を見して、奇兵を伏せて以て利を爭はんと欲するなり。愚以為へらく匈奴擊つべからざるなり」と。是の時漢兵已に句注を踰え、二十餘萬の兵已に業に行く。上怒り、劉敬を罵りて曰く、「齊の虜め、口舌を以て官を得、今乃ち妄言して吾が軍を沮む」と。敬を械して廣武に系ぐ。遂に往きて平城に至る。匈奴果たして奇兵を出だして高帝を白登に圍み、七日にして然る後に解くるを得たり。高帝廣武に至り、敬を赦して曰く、「吾公の言を用ゐず、以て平城に困しめり。吾皆已に前使の十輩の擊つべしと言ひし者を斬れり」と。乃ち敬に二千戶を封じ、關內侯と為し、號して建信侯と為す。
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史記 匈奴列伝郎中系雩浅をして朕に書を遺らしめて曰く、『右賢王請はずして、後義盧侯難氏等の計を聴き、二主の約を絶ち、兄弟の親を離る。漢故を以て和せず、隣国附かず。今小吏の約を敗るを以て、故に右賢王を罰して西のかた月氏を撃たしめ、尽く之を定む。願はくは兵を寝め士卒を休め馬を養ひ、前事を除き、故約を復し、以て辺民を安んじ、少者をして其の長を成すを得しめ、老者をして其の処に安んぜしめ、世世平楽ならん』と。朕甚だ之を嘉す。此れ古の聖主の意なり。漢と匈奴と約して兄弟と為る。単于に遺る所以の者甚だ厚し。約に倍き兄弟の親を離るる者は、常に匈奴に在り。然れども右賢王の事は已に赦の前に在り。単于深く誅する勿れ。単于若し書の意に称はば、明らかに諸吏に告げ、約に負く無からしめ、信有らしめて、敬みて単于の書の如くせん。使者言ふ、単于自ら将として国を伐ちて功有り、甚だ兵事に苦しむと。服繡袷綺衣・繡袷長襦・錦袷袍各々一、比余一、黄金の飾具の帯一、黄金の胥紕一、繡十匹、錦三十匹、赤綈・緑繒各々四十匹、中大夫意・謁者令肩をして単于に遺らしむ」と。後頃之、冒頓死し、子稽粥立ち、号して老上単于と曰ふ。老上稽粥単于初めて立つ。孝文皇帝復た宗室の女公主を遣はして単于の閼氏と為し、宦者の燕人中行説をして公主に傅たらしむ。説行くを欲せず。漢彊ひて之を使はす。説曰く、「必ず我行かば、漢の患を為さん」と。中行説既に至り、因りて単于に降る。単于甚だ之を親幸す。
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