史記 / 匈奴列伝
五月,大會蘢城,祭其先、天地、鬼神。秋,馬肥,大會蹛林,課校人畜計。其法,拔刃尺者死,坐盜者沒入其家;有罪小者軋,大者死。獄久者不過十日,一國之囚不過數人。而單于朝出營,拜日之始生,夕拜月。其坐,長左而北鄉。日上戊己。其送死,有棺槨金銀衣裘,而無封樹喪服;近幸臣妾從死者,多至數千百人。舉事而候星月,月盛壯則攻戰,月虧則退兵。其攻戰,斬首虜賜一卮酒,而所得鹵獲因以予之,得人以爲奴婢。故其戰,人人自爲趣利,善爲誘兵以冒敵。故其見敵則逐利,如鳥之集;其困敗,則瓦解雲散矣。戰而扶輿死者,盡得死者家財。後北服渾庾、屈射、丁零、鬲昆、薪犁之國。於是匈奴貴人大臣皆服,以冒頓單于爲賢。是時漢初定中國,徙韓王信於代,都馬邑。匈奴大攻圍馬邑,韓王信降匈奴。匈奴得信,因引兵南踰句注,攻太原,至晉陽下。高帝自將兵往擊之。會冬大寒雨雪,卒之墮指者十二三,於是冒頓詳敗走,誘漢兵。漢兵逐擊冒頓,冒頓匿其精兵,見其羸弱,於是漢悉兵,多步兵,三十二萬,北逐之。高帝先至平城,步兵未盡到,冒頓縱精兵四十萬騎圍高帝於白登,七日,漢兵中外不得相救餉。
新字:五月,大会蘢城,祭其先、天地、鬼神。秋,馬肥,大会蹛林,課校人畜計。其法,抜刃尺者死,坐盗者没入其家;有罪小者軋,大者死。獄久者不過十日,一国之囚不過数人。而単于朝出営,拝日之始生,夕拝月。其坐,長左而北郷。日上戊己。其送死,有棺槨金銀衣裘,而無封樹喪服;近幸臣妾従死者,多至数千百人。舉事而候星月,月盛壮則攻戦,月虧則退兵。其攻戦,斬首虜賜一卮酒,而所得鹵獲因以予之,得人以為奴婢。故其戦,人人自為趣利,善為誘兵以冒敵。故其見敵則逐利,如鳥之集;其困敗,則瓦解雲散矣。戦而扶輿死者,尽得死者家財。後北服渾庾、屈射、丁零、鬲昆、薪犁之国。於是匈奴貴人大臣皆服,以冒頓単于為賢。是時漢初定中国,徙韓王信於代,都馬邑。匈奴大攻囲馬邑,韓王信降匈奴。匈奴得信,因引兵南踰句注,攻太原,至晋陽下。高帝自将兵往撃之。会冬大寒雨雪,卒之堕指者十二三,於是冒頓詳敗走,誘漢兵。漢兵逐撃冒頓,冒頓匿其精兵,見其羸弱,於是漢悉兵,多歩兵,三十二万,北逐之。高帝先至平城,歩兵未尽到,冒頓縦精兵四十万騎囲高帝於白登,七日,漢兵中外不得相救餉。
書き下し
五月、大いに蘢城に会し、其の先・天地・鬼神を祭る。秋、馬肥ゆれば、大いに蹛林に会し、人畜の計を課校す。其の法、刃を抜くこと尺なる者は死し、盗に坐する者は其の家を没入す。罪有ること小なる者は軋し、大なる者は死す。獄久しき者も十日に過ぎず、一国の囚も数人に過ぎず。而して単于朝に営を出でて、日の始めて生ずるを拝し、夕に月を拝す。其の坐は、左を長として北郷す。日は戊己を上ぶ。其の死を送るに、棺槨金銀衣裘有りて、封樹喪服無し。近幸の臣妾の従死する者、多きは数千百人に至る。事を挙ぐるに星月を候ひ、月盛壮なれば則ち攻戦し、月虧くれば則ち兵を退く。其の攻戦するや、首虜を斬れば一卮の酒を賜ひ、而して得る所の鹵獲は因りて以て之に予へ、人を得れば以て奴婢と為す。故に其の戦ふや、人人自ら趣きて利を為し、善く誘兵を為して以て敵を冒す。故に其の敵を見れば則ち利を逐ふこと、鳥の集まるが如し。其の困敗するや、則ち瓦解雲散す。戦ひて死者を扶輿する者は、尽く死者の家財を得。後に北のかた渾庾・屈射・丁零・鬲昆・薪犁の国を服す。是に於て匈奴の貴人大臣皆服し、冒頓単于を以て賢と為す。是の時漢初めて中国を定め、韓王信を代に徙し、馬邑に都す。匈奴大いに馬邑を攻囲し、韓王信匈奴に降る。匈奴信を得て、因りて兵を引きて南のかた句注を踰え、太原を攻め、晋陽の下に至る。高帝自ら兵を将ゐて往きて之を撃つ。会々冬大いに寒くして雨雪ふり、卒の指を墮す者十に二三。是に於て冒頓詳りて敗走し、漢の兵を誘ふ。漢の兵冒頓を逐ひ撃つ。冒頓其の精兵を匿し、其の羸弱を見す。是に於て漢悉く兵をあげ、歩兵多く、三十二万、北のかた之を逐ふ。高帝先づ平城に至る。歩兵未だ尽くは到らず。冒頓精兵四十万騎を縦ちて高帝を白登に囲むこと七日、漢の兵中外相救餉するを得ず。
現代語訳
五月には蘢城に大いに集まり、祖先・天地・鬼神を祭った。秋に馬が肥えると、蹛林(たいりん)に大いに集まり、人と家畜の数を調べて数えた。その法では、刀を一尺抜いた者は死刑、盗みを犯した者はその家族と財産を没収した。罪の小さい者は車でひく刑、大きい者は死刑であった。裁判は長くても十日を超えず、一国の囚人も数人を超えなかった。単于は朝に陣営を出て、昇る朝日を拝み、夕べには月を拝んだ。座席は左を上位とし、北向きに座った。日は戊・己の日を尊んだ。死者を送るには、棺と外棺、金銀、衣服や毛皮を用いたが、塚を築いたり木を植えたり、喪服を着たりすることはなかった。寵愛された臣下や妻妾で殉死する者は、多いときには数十人から百人にも上った。事を起こす時には星や月をうかがい、月が満ちていれば攻め戦い、月が欠ければ兵を退いた。戦いでは、敵の首を斬ったり捕虜を得たりすれば一杯の酒を与え、奪った戦利品はその者に与え、捕らえた人はその者の奴婢とした。そのため戦う時には、一人一人が自ら進んで利を求め、巧みにおとりの兵を使って敵を攻めた。だから敵を見れば鳥が群がるように利益を追い、苦境に陥って敗れると、瓦が砕け雲が散るようにばらばらになった。戦死者の遺体を運んで帰った者は、その死者の家財をすべて得た。後に北の渾庾・屈射・丁零・鬲昆・薪犁の国々を服属させた。こうして匈奴の貴人や大臣は皆心服し、冒頓単于を賢明だと認めた。この頃、漢は初めて中国を平定し、韓王信を代に移して馬邑を都とさせた。匈奴は大挙して馬邑を包囲攻撃し、韓王信は匈奴に降伏した。匈奴は韓王信を得ると、兵を率いて南へ句注山を越え、太原を攻め、晋陽の城下に至った。高帝は自ら兵を率いて迎え撃った。ちょうど冬で厳しい寒さとなり、雨や雪が降って、兵士で凍傷のため指を失った者が十人に二、三人もいた。そこで冒頓は偽って敗走し、漢の兵を誘い出した。漢の兵は冒頓を追撃した。冒頓は精鋭の兵を隠し、弱い兵ばかりを見せた。そこで漢は全軍を動員し、歩兵を主力とする三十二万人で北へ追撃した。高帝が先に平城に着いたが、歩兵はまだ全員そろっていなかった。冒頓は精鋭四十万騎を放って高帝を白登山に七日間包囲し、漢の兵は内と外で互いに救援も食糧の補給もできなかった。
解説
関連する章句
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史記 匈奴列伝匈奴の騎、其の西方は尽く白馬、東方は尽く青駹馬、北方は尽く烏驪馬、南方は尽く騂馬なり。高帝乃ち使をして間に厚く閼氏に遺らしむ。閼氏乃ち冒頓に謂ひて曰く、「両主相困しめず。今漢の地を得るとも、而も単于終に能く之に居るに非ざるなり。且つ漢王も亦神有り。単于之を察せよ」と。冒頓韓王信の将王黄・趙利と期す。而して黄・利の兵又来らず。其の漢と謀有るを疑ひ、亦閼氏の言を取り、乃ち囲みの一角を解く。是に於て高帝士をして皆満を持し矢を傅けて外に郷はしめ、解けたる角より直ちに出で、竟に大軍と合す。而して冒頓遂に兵を引きて去る。漢も亦兵を引きて罷め、劉敬をして和親の約を結ばしむ。是の後韓王信匈奴の将と為り、及び趙利・王黄等数々約に倍き、代・雲中を侵盗す。居ること幾何も無く、陳豨反し、又韓信と合謀して代を撃つ。漢樊噲をして往きて之を撃たしめ、復た代・鴈門・雲中の郡県を抜くも、塞を出でず。是の時匈奴漢の将の衆を以て往きて降る。故に冒頓常に往来して代の地を侵盗す。是に於て漢之を患ふ。高帝乃ち劉敬をして宗室の女公主を奉じて単于の閼氏と為さしめ、歳ごとに匈奴に絮繒酒米食物を奉ずること各々数有り、約して昆弟と為りて以て和親す。冒頓乃ち少しく止む。後に燕王盧綰反し、其の党数千人を率ゐて匈奴に降り、往来して上谷以東を苦しむ。高祖崩ず。孝恵・呂太后の時、漢初めて定まる。故に匈奴以て驕る。冒頓乃ち書を為りて高后に遺り、妄言す。高后之を撃たんと欲す。諸将曰く、「高帝の賢武を以てすら、然も尚ほ平城に困しめらる」と。是に於て高后乃ち止め、復た匈奴と和親す。孝文帝初めて立つに至り、復た和親の事を修む。其の三年五月、匈奴の右賢王入りて河南の地に居り、上郡の葆塞の蛮夷を侵盗し、人民を殺略す。
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史記 韓信盧綰列伝其の将王喜を斬る。信亡げて匈奴に走る。其の白土の人曼丘臣・王黄等と趙の苗裔趙利を立てて王と為し、復た信の敗散の兵を収め、而して信及び冒頓と漢を攻めんことを謀る。匈奴は左右賢王をして万余騎を将ゐしめ、王黄等と広武以南に屯し、晋陽に至りて漢兵と戦ふ。漢大いに之を破り、追ひて離石に至り、復た之を破る。匈奴復た兵を楼煩の西北に聚む。漢車騎をして匈奴を撃破せしむ。匈奴常に敗走し、漢勝に乗じて北ぐるを追ふ。冒頓の代谷に居ると聞き、高皇帝晋陽に居り、人をして冒頓を視しむ。還り報じて曰く「撃つべし」と。上遂に平城に至る。上白登に出づるや、匈奴の騎上を囲む。上乃ち人をして厚く閼氏(えんし)に遺らしむ。閼氏乃ち冒頓に説きて曰く、「今漢の地を得るも、猶ほ居ること能はず。且つ両主は相ひ緱(くるし)めず」と。居ること七日、胡騎稍く引き去る。時に天大いに霧あり、漢人をして往来せしむるも、胡覚らず。護軍中尉陳平上に言ひて曰く、「胡は全兵なり。請ふ強弩をして両矢を傅けて外に向けしめ、徐行して囲みを出でん」と。平城に入る。漢の救兵も亦到り、胡騎遂に解き去る。漢も亦兵を罷めて帰る。韓信は匈奴の為に兵を将ゐて往来して辺を撃つ。漢の十年、信王黄等をして陳豨を説誤せしむ。十一年の春、故の韓王信復た胡騎と入りて参合に居り、漢を距ぐ。漢柴将軍をして之を撃たしめ、信に書を遺りて曰く、「陛下は寛仁なり。諸侯畔亡すること有りと雖も、而も復た帰れば、輒ち故の位号に復し、誅せざるなり。大王の知る所なり。今王は敗亡を以て胡に走る。大罪有るに非ず。急ぎ自ら帰れ」と。韓王信報じて曰く、「陛下僕を閭巷より擢き起こし、南面して孤と称せしむ。此れ僕の幸なり。滎陽の事、僕死すること能はずして項籍に囚はる、此れ一の罪なり。寇の馬邑を攻むるに及び、僕堅守すること能はず、城を以て之に降る、此れ二の罪なり。
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史記 劉敬叔孫通列伝漢の七年、韓王信反す。高帝自ら往きて之を擊つ。晉陽に至り、信匈奴と共に漢を擊たんと欲すと聞き、上大いに怒り、人をして匈奴に使ひせしむ。匈奴其の壯士肥えたる牛馬を匿し、但だ老弱及び羸畜(るいちく)を見す。使者十輩來りて、皆言ふ、匈奴擊つべし、と。上、劉敬をして復た往きて匈奴に使ひせしむ。還りて報じて曰く、「兩國相擊つには、此れ宜しく夸矜して長ずる所を見すべし。今臣往くに、徒だ羸瘠老弱を見るのみ。此れ必ず短を見して、奇兵を伏せて以て利を爭はんと欲するなり。愚以為へらく匈奴擊つべからざるなり」と。是の時漢兵已に句注を踰え、二十餘萬の兵已に業に行く。上怒り、劉敬を罵りて曰く、「齊の虜め、口舌を以て官を得、今乃ち妄言して吾が軍を沮む」と。敬を械して廣武に系ぐ。遂に往きて平城に至る。匈奴果たして奇兵を出だして高帝を白登に圍み、七日にして然る後に解くるを得たり。高帝廣武に至り、敬を赦して曰く、「吾公の言を用ゐず、以て平城に困しめり。吾皆已に前使の十輩の擊つべしと言ひし者を斬れり」と。乃ち敬に二千戶を封じ、關內侯と為し、號して建信侯と為す。
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史記 匈奴列伝東胡初め冒頓を軽んじ、備へを為さず。冒頓兵を以て至り、撃つに及びて、大いに東胡王を破滅し、而して其の民人及び畜産を虜にす。既に帰りて、西のかた月氏を撃ち走らせ、南のかた楼煩・白羊の河南王を并す。燕代を侵し、悉く復た秦の蒙恬をして匈奴より奪はしめし所の地を収め、漢と故の河南の塞を関とし、朝那・膚施に至り、遂に燕・代を侵す。是の時漢の兵項羽と相距ぎ、中国兵革に罷る。故を以て冒頓自ら彊くするを得、控弦の士三十余万。淳維より以て頭曼に至るまで千有余歳、時に大きく時に小さく、別散分離すること、尚し。其の世伝得て次すべからずと云ふ。然れども冒頓に至りて匈奴最も彊大にして、尽く北夷を服従せしめ、而して南のかた中国と敵国と為る。其の世伝国官の号乃ち得て記すべしと云ふ。左右の賢王、左右の谷蠡王、左右の大将、左右の大都尉、左右の大当戸、左右の骨都侯を置く。匈奴は賢を謂ひて「屠耆」と曰ふ。故に常に太子を以て左屠耆王と為す。左右の賢王より以下当戸に至るまで、大なる者は万騎、小なる者は数千、凡そ二十四長、号を立てて「万騎」と曰ふ。諸大臣は皆世官なり。呼衍氏、蘭氏、其の後に須卜氏有り。此の三姓は其の貴種なり。諸々の左方の王将は東方に居り、上谷に直りて以往なる者は、東のかた穢貉・朝鮮に接す。右方の王将は西方に居り、上郡に直りて以西は、月氏・氐・羌に接す。而して単于の庭は代・雲中に直る。各々分地有り、水草を逐ひて移徙す。而して左右の賢王・左右の谷蠡王最も大為り。左右の骨都侯政を輔く。諸々の二十四長も亦各々自ら千長・百長・什長・裨小王・相・封都尉・当戸・且渠の属を置く。歳の正月、諸長小しく単于の庭に会し、祠る。
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史記 匈奴列伝単于之を信じ、而して馬邑の財物を貪り、乃ち十万騎を以て武州の塞に入る。漢兵三十余万を馬邑の旁に伏せ、御史大夫韓安国護軍と為り、四将軍を護りて以て単于を伏す。単于既に漢の塞に入り、未だ馬邑に至らざること百余里、畜の野に布けども人の牧する者無きを見て、之を怪しみ、乃ち亭を攻む。是の時鴈門の尉史徼を行り、寇を見て、此の亭に葆り、漢の兵の謀を知る。単于得て、之を殺さんと欲す。尉史乃ち単于に漢の兵の居る所を告ぐ。単于大いに驚きて曰く、「吾固より之を疑へり」と。乃ち兵を引きて還る。出でて曰く、「吾尉史を得たるは、天なり。天若をして言はしむ」と。尉史を以て「天王」と為す。漢の兵約すらく単于馬邑に入らば縦たんと。単于至らず。故を以て漢の兵得る所無し。漢の将軍王恢の部代より出でて胡の輜重を撃たんとするも、単于の還り、兵多きを聞き、敢へて出でず。漢恢の本兵謀を造りて進まざるを以て、恢を斬る。是より後、匈奴和親を絶ち、当路の塞を攻め、往往にして入りて漢の辺を盗むこと、勝げて数ふべからず。然れども匈奴は貪り、尚ほ関市を楽しみ、漢の財物を嗜む。漢も亦尚ほ関市絶たずして以て之に中つ。馬邑の軍より後五年の秋、漢四将軍をして各々万騎もて胡を関市の下に撃たしむ。将軍衛青上谷より出で、蘢城に至り、胡の首虜七百人を得。公孫賀雲中より出で、得る所無し。公孫敖代郡より出で、胡の敗る所と為ること七千余人。李広鴈門より出で、胡の敗る所と為り、而して匈奴広を生け得たり。広後に亡げ帰るを得たり。漢敖・広を囚ふ。敖・広贖ひて庶人と為る。其の冬、匈奴数々入りて辺を盗み、漁陽尤も甚だし。漢将軍韓安国をして漁陽に屯して胡に備へしむ。其の明年秋、匈奴二万騎漢に入り、遼西の太守を殺し、二千余人を略す。
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