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史記 / 韓信盧綰列伝

斬其將王喜。信亡走匈奴。其與白土人曼丘臣、王黃等立趙苗裔趙利為王,復收信敗散兵,而與信及冒頓謀攻漢。匈奴仗左右賢王將萬餘騎與王黃等屯廣武以南,至晉陽,與漢兵戰,漢大破之,追至于離石,復破之。匈奴復聚兵樓煩西北,漢令車騎擊破匈奴。匈奴常敗走,漢乘勝追北,聞冒頓居代谷,高皇帝居晉陽,使人視冒頓,還報曰「可擊」。上遂至平城。上出白登,匈奴騎圍上,上乃使人厚遺閼氏。閼氏乃說冒頓曰:「今得漢地,猶不能居;且兩主不相緱」居七日,胡騎稍引去。時天大霧,漢使人往來,胡不覺。護軍中尉陳平言上曰:「胡者全兵,請令彊弩傅兩矢外向,徐行出圍。」入平城,漢救兵亦到,胡騎遂解去。漢亦罷兵歸。韓信為匈奴將兵往來擊邊。漢十年,信令王黃等說誤陳豨。十一年春,故韓王信復與胡騎入居參合,距漢。漢使柴將軍擊之,遺信書曰:「陛下寬仁,諸侯雖有畔亡,而復歸,輒復故位號,不誅也。大王所知。今王以敗亡走胡,非有大罪,急自歸!」韓王信報曰:「陛下擢仆起閭巷,南面稱孤,此仆之幸也。滎陽之事,仆不能死,囚於項籍,此一罪也。及寇攻馬邑,仆不能堅守,以城降之,此二罪也。

新字:斬其将王喜。信亡走匈奴。其与白土人曼丘臣、王黄等立趙苗裔趙利為王,復収信敗散兵,而与信及冒頓謀攻漢。匈奴仗左右賢王将万余騎与王黄等屯広武以南,至晋陽,与漢兵戦,漢大破之,追至于離石,復破之。匈奴復聚兵楼煩西北,漢令車騎撃破匈奴。匈奴常敗走,漢乗勝追北,聞冒頓居代谷,高皇帝居晋陽,使人視冒頓,還報曰「可撃」。上遂至平城。上出白登,匈奴騎囲上,上乃使人厚遺閼氏。閼氏乃説冒頓曰:「今得漢地,猶不能居;且両主不相緱」居七日,胡騎稍引去。時天大霧,漢使人往来,胡不覚。護軍中尉陳平言上曰:「胡者全兵,請令彊弩傅両矢外向,徐行出囲。」入平城,漢救兵亦到,胡騎遂解去。漢亦罷兵帰。韓信為匈奴将兵往来撃辺。漢十年,信令王黄等説誤陳豨。十一年春,故韓王信復与胡騎入居参合,距漢。漢使柴将軍撃之,遺信書曰:「陛下寛仁,諸侯雖有畔亡,而復帰,輒復故位号,不誅也。大王所知。今王以敗亡走胡,非有大罪,急自帰!」韓王信報曰:「陛下擢仆起閭巷,南面称孤,此仆之幸也。滎陽之事,仆不能死,囚於項籍,此一罪也。及寇攻馬邑,仆不能堅守,以城降之,此二罪也。

書き下し

其の将王喜を斬る。信亡げて匈奴に走る。其の白土の人曼丘臣・王黄等と趙の苗裔趙利を立てて王と為し、復た信の敗散の兵を収め、而して信及び冒頓と漢を攻めんことを謀る。匈奴は左右賢王をして万余騎を将ゐしめ、王黄等と広武以南に屯し、晋陽に至りて漢兵と戦ふ。漢大いに之を破り、追ひて離石に至り、復た之を破る。匈奴復た兵を楼煩の西北に聚む。漢車騎をして匈奴を撃破せしむ。匈奴常に敗走し、漢勝に乗じて北ぐるを追ふ。冒頓の代谷に居ると聞き、高皇帝晋陽に居り、人をして冒頓を視しむ。還り報じて曰く「撃つべし」と。上遂に平城に至る。上白登に出づるや、匈奴の騎上を囲む。上乃ち人をして厚く閼氏(えんし)に遺らしむ。閼氏乃ち冒頓に説きて曰く、「今漢の地を得るも、猶ほ居ること能はず。且つ両主は相ひ緱(くるし)めず」と。居ること七日、胡騎稍く引き去る。時に天大いに霧あり、漢人をして往来せしむるも、胡覚らず。護軍中尉陳平上に言ひて曰く、「胡は全兵なり。請ふ強弩をして両矢を傅けて外に向けしめ、徐行して囲みを出でん」と。平城に入る。漢の救兵も亦到り、胡騎遂に解き去る。漢も亦兵を罷めて帰る。韓信は匈奴の為に兵を将ゐて往来して辺を撃つ。漢の十年、信王黄等をして陳豨を説誤せしむ。十一年の春、故の韓王信復た胡騎と入りて参合に居り、漢を距ぐ。漢柴将軍をして之を撃たしめ、信に書を遺りて曰く、「陛下は寛仁なり。諸侯畔亡すること有りと雖も、而も復た帰れば、輒ち故の位号に復し、誅せざるなり。大王の知る所なり。今王は敗亡を以て胡に走る。大罪有るに非ず。急ぎ自ら帰れ」と。韓王信報じて曰く、「陛下僕を閭巷より擢き起こし、南面して孤と称せしむ。此れ僕の幸なり。滎陽の事、僕死すること能はずして項籍に囚はる、此れ一の罪なり。寇の馬邑を攻むるに及び、僕堅守すること能はず、城を以て之に降る、此れ二の罪なり。

現代語訳

(高祖は)その将の王喜を斬った。信は逃げて匈奴に走った。信の部将は白土の人曼丘臣・王黄らとともに、趙の王家の末裔である趙利を立てて王とし、また信の敗れて散った兵を集め、信や冒頓と共に漢を攻めようと謀った。匈奴は左賢王・右賢王に一万余りの騎兵を率いさせ、王黄らとともに広武の南に駐屯し、晋陽まで進んで漢軍と戦った。漢はこれを大いに破り、離石まで追撃して再び破った。匈奴はまた楼煩の西北に兵を集めたが、漢は戦車隊と騎兵に命じてこれを撃破した。匈奴はいつも敗走し、漢は勝ちに乗じて逃げる敵を追った。冒頓が代谷にいると聞き、高皇帝(高祖)は晋陽にとどまって人をやって冒頓の様子を探らせたところ、使者は帰って「撃てます」と報告した。そこで高祖はついに平城まで進んだ。高祖が白登山に出ると、匈奴の騎兵が高祖を包囲した。高祖は人をやって閼氏(単于の后)に手厚く贈り物をさせた。閼氏は冒頓に説いて言った。「いま漢の土地を手に入れても、そこに住むことはできません。それに両国の君主は互いに相手を追いつめるべきではありません。」包囲して七日たつと、匈奴の騎兵はしだいに引き揚げはじめた。そのとき空には濃い霧が立ちこめ、漢は使者を行き来させたが、匈奴は気づかなかった。護軍中尉の陳平が高祖に言った。「匈奴は兵を少しも損なっておりません。どうか強い弩(いしゆみ)に矢を二本ずつつがえて外に向けさせ、ゆっくり進んで包囲を抜けてください。」こうして平城に入ると、漢の援軍も到着し、匈奴の騎兵はついに囲みを解いて去った。漢もまた兵を収めて帰った。韓信は匈奴のために兵を率いて辺境を行き来して攻撃した。漢の十年、信は王黄らに陳豨を説かせ、誤った道(反乱)に誘い込んだ。十一年の春、もとの韓王信は再び匈奴の騎兵とともに侵入して参合に陣取り、漢を防いだ。漢は柴将軍(柴武)にこれを討たせ、柴将軍は信に手紙を送って言った。「陛下は寛大で情け深いお方だ。諸侯が背いて逃げても、戻ってくればすぐにもとの位と称号に戻し、誅殺はなさいません。大王もご存じのとおりだ。いま王は戦に敗れて匈奴に逃げただけで、大罪があるわけではありません。急いで自ら帰参なさい。」韓王信は返書して言った。「陛下は私を村里から抜擢して、南面して王と称する身にしてくださった。これは私の幸いでした。滎陽の戦いで、私は死ぬことができず項籍の捕虜となった。これが一つ目の罪だ。敵が馬邑を攻めたとき、私は守り抜けずに城ごと降った。これが二つ目の罪だ。

解説

この段は、韓王信が匈奴に走った後の北辺の戦いと、高祖が白登山で包囲された有名な「平城の囲み」を描きます。偵察の使者が「撃てる」と報じたのは、匈奴が弱い兵だけを見せていたためで、高祖は深入りして七日間囲まれました。閼氏への贈り物と陳平の策でようやく脱出したこの屈辱は、以後の漢が匈奴に和親策をとる出発点になります。その後、信は陳豨の反乱をそそのかし、柴将軍から「帰れば許される」と投降を勧められます。信の返書は自らの罪を一つずつ数えるもので、次の段で結ばれます。司馬遷は敵方となった人物にも、自分の言い分を語る場を与えています。勝ちが続くときほど相手の見せる姿を疑うこと、そして一度道を外れた人に戻る道をどう示すかは、今の組織にも通じる問いです。

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