史記 / 李将軍列伝
程不識孝景時以數直諫爲太中大夫。爲人廉,謹於文法。後漢以馬邑城誘單于,使大軍伏馬邑旁谷,而廣爲驍騎將軍,領屬護軍將軍。是時單于覺之,去,漢軍皆無功。其後四歳,廣以衞尉爲將軍,出鴈門擊匈奴。匈奴兵多,破敗廣軍,生得廣。單于素聞廣賢,令曰:「得李廣必生致之。」胡騎得廣,廣時傷病,置廣兩馬閒,絡而盛臥廣。行十餘里,廣佯死,睨其旁有一胡兒騎善馬,廣暫騰而上胡兒馬,因推墮兒,取其弓,鞭馬南馳數十里,復得其餘軍,因引而入塞。匈奴捕者騎數百追之,廣行取胡兒弓,射殺追騎,以故得脫。於是至漢,漢下廣吏。吏當廣所失亡多,爲虜所生得,當斬,贖爲庶人。頃之,家居數歳。廣家與故潁陰侯孫屏野居藍田南山中射獵。嘗夜從一騎出,從人田間飲。還至霸陵亭,霸陵尉醉,呵止廣。廣騎曰:「故李將軍。」尉曰:「今將軍尚不得夜行,何乃故也!」止廣宿亭下。居無何,匈奴入殺遼西太守,敗韓將軍,後韓將軍徙右北平。於是天子乃召拜廣爲右北平太守。廣即請霸陵尉與俱,至軍而斬之。廣居右北平,匈奴聞之,號曰「漢之飛將軍」,避之數歳,不敢入右北平。
新字:程不識孝景時以数直諫為太中大夫。為人廉,謹於文法。後漢以馬邑城誘単于,使大軍伏馬邑旁谷,而広為驍騎将軍,領属護軍将軍。是時単于覚之,去,漢軍皆無功。其後四歳,広以衛尉為将軍,出鴈門撃匈奴。匈奴兵多,破敗広軍,生得広。単于素聞広賢,令曰:「得李広必生致之。」胡騎得広,広時傷病,置広両馬閒,絡而盛臥広。行十余里,広佯死,睨其旁有一胡児騎善馬,広暫騰而上胡児馬,因推堕児,取其弓,鞭馬南馳数十里,復得其余軍,因引而入塞。匈奴捕者騎数百追之,広行取胡児弓,射殺追騎,以故得脱。於是至漢,漢下広吏。吏当広所失亡多,為虜所生得,当斬,贖為庶人。頃之,家居数歳。広家与故潁陰侯孫屏野居藍田南山中射猟。嘗夜従一騎出,従人田間飲。還至覇陵亭,覇陵尉酔,呵止広。広騎曰:「故李将軍。」尉曰:「今将軍尚不得夜行,何乃故也!」止広宿亭下。居無何,匈奴入殺遼西太守,敗韓将軍,後韓将軍徙右北平。於是天子乃召拝広為右北平太守。広即請覇陵尉与倶,至軍而斬之。広居右北平,匈奴聞之,号曰「漢之飛将軍」,避之数歳,不敢入右北平。
書き下し
程不識は孝景の時数々直諫するを以て太中大夫と為る。人と為り廉にして、文法に謹む。後に漢馬邑の城を以て単于を誘ひ、大軍をして馬邑の旁の谷に伏せしむ。而して広は驍騎将軍と為り、護軍将軍に領属す。是の時単于之を覚りて、去る。漢の軍皆功無し。其の後四歳、広衛尉を以て将軍と為り、鴈門より出でて匈奴を撃つ。匈奴の兵多く、広の軍を破敗し、広を生け得たり。単于素より広の賢を聞き、令して曰く、「李広を得ば必ず生きて之を致せ」と。胡騎広を得たり。広時に傷つき病む。広を両馬の間に置き、絡ひて盛りて広を臥せしむ。行くこと十余里、広佯り死し、其の旁に一胡児の善馬に騎るもの有るを睨み、広暫かに騰りて胡児の馬に上り、因りて児を推し墮とし、其の弓を取り、馬に鞭うちて南に馳すること数十里、復た其の余軍を得て、因りて引きて塞に入る。匈奴の捕ふる者騎数百之を追ふ。広行くゆく胡児の弓を取りて、追騎を射殺し、故を以て脱するを得たり。是に於て漢に至る。漢広を吏に下す。吏広の失亡する所多く、虜の生け得る所と為るを当て、斬に当つ。贖ひて庶人と為る。頃之、家居すること数歳。広家して故の潁陰侯の孫と藍田の南山の中に屏野居して射猟す。嘗て夜一騎を従へて出で、人に従ひて田間に飲む。還りて霸陵の亭に至る。霸陵の尉酔ひて、広を呵止す。広の騎曰く、「故の李将軍なり」と。尉曰く、「今の将軍すら尚ほ夜行くを得ず。何ぞ乃ち故をや」と。広を止めて亭下に宿せしむ。居ること何も無く、匈奴入りて遼西の太守を殺し、韓将軍を敗る。後に韓将軍右北平に徙る。是に於て天子乃ち召して広を拝して右北平の太守と為す。広即ち霸陵の尉を請ひて与に倶にし、軍に至りて之を斬る。広右北平に居る。匈奴之を聞き、号して「漢の飛将軍」と曰ひ、之を避くること数歳、敢へて右北平に入らず。
現代語訳
程不識は孝景帝の時、たびたび率直に諫めたことで太中大夫となった。人柄は清廉で、法令の条文を慎重に守った。その後、漢は馬邑の城で単于を誘い出し、大軍を馬邑のそばの谷に伏せさせた。李広は驍騎将軍となって護軍将軍(韓安国)の指揮下に入った。この時、単于はそれに気づいて去ったので、漢の軍は皆手柄を立てられなかった。その四年後、李広は衛尉から将軍となり、鴈門から出撃して匈奴を攻撃した。匈奴の兵は多く、李広の軍を打ち破り、李広を生け捕りにした。単于はかねて李広が優れていると聞いていたので、「李広を捕らえたら必ず生かして連れてこい」と命じていた。匈奴の騎兵は李広を捕らえた。李広はその時傷を負い病んでいたので、二頭の馬の間に網を張って李広を寝かせて運んだ。十里余り進んだところで、李広は死んだふりをしながら、そばに一人の匈奴の若者が良い馬に乗っているのを横目で見て、急に跳び上がって若者の馬に乗り移り、若者を突き落として弓を奪い、馬に鞭打って南へ数十里駆け、残っていた自軍の兵と合流して、長城の内に引き揚げた。匈奴の追っ手の騎兵数百がこれを追ったが、李広は走りながら若者から奪った弓で追っ手を射殺し、そのおかげで逃げ延びることができた。こうして漢に帰り着いたが、漢は李広を獄吏に引き渡した。獄吏は、李広が多くの兵を失い、敵に生け捕りにされたことを罪とし、斬罪に当たるとした。李広は金で罪を贖って庶民となった。それから数年、李広は家に住んだ。李広は、もとの潁陰侯の孫(灌強)と藍田の南山の中に引きこもって、狩猟をして暮らした。ある夜、一騎だけを連れて出かけ、人と田野で酒を飲んだ。帰りに霸陵の亭(宿駅)まで来ると、霸陵の尉(治安の役人)が酔っていて、李広をとがめて止めた。李広の供の騎兵が「もとの李将軍である」と言うと、尉は「今の将軍でさえ夜は通行できないのに、ましてもとの将軍などなおさらだ」と言い、李広を引き留めて亭の下に泊まらせた。まもなく、匈奴が侵入して遼西太守を殺し、韓将軍(韓安国)を破った。その後、韓将軍は右北平に移り、(まもなく亡くなった。)そこで天子は李広を召し出して右北平太守に任じた。李広はすぐに霸陵の尉を連れて行きたいと願い出て、軍に着くとその尉を斬った。李広が右北平にいると、匈奴はこれを聞いて「漢の飛将軍」と呼び、数年の間これを避けて、あえて右北平には侵入しなかった。
解説
関連する章句
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史記 李将軍列伝李将軍広は、隴西の成紀の人なり。其の先を李信と曰ふ。秦の時将と為り、燕の太子丹を逐ひて得たる者なり。故は槐里なり、成紀に徙る。広の家は世々射を受く。孝文帝十四年、匈奴大いに蕭関に入る。而して広良家の子を以て軍に従ひて胡を撃ち、騎射を善くするを用て、首虜を殺すこと多く、漢の中郎と為る。広の従弟李蔡も亦郎と為る。皆武騎常侍と為り、秩八百石。嘗て従ひて行き、衝陥折関し及び猛獣に格つ所有り。而して文帝曰く、「惜しいかな、子時に遇はず。如し子をして高帝の時に当たらしめば、万戸侯豈に道ふに足らんや」と。孝景初めて立つに及び、広隴西の都尉と為り、徙りて騎郎将と為る。呉楚の軍の時、広驍騎都尉と為り、太尉亜夫に従ひて呉楚の軍を撃ち、旗を取り、功名を昌邑の下に顕す。梁王広に将軍の印を授くるを以て、還るも、賞行はれず。徙りて上谷の太守と為る。匈奴日に以て合戦す。典属国公孫昆邪上の為に泣きて曰く、「李広の才気は、天下に双び無し。自ら其の能を負み、数々虜と敵戦す。恐らくは之を亡はん」と。是に於て乃ち徙りて上郡の太守と為る。後に広転じて辺郡の太守と為り、上郡に徙る。嘗て隴西・北地・鴈門・代郡・雲中の太守と為り、皆力戦を以て名と為す。匈奴大いに上郡に入る。天子中貴人をして広に従ひて兵を勒習し匈奴を撃たしむ。中貴人騎数十を将ゐて縦にし、匈奴三人を見て、与に戦ふ。三人還りて射、中貴人を傷つけ、其の騎を殺すこと且に尽きんとす。中貴人広に走る。広曰く、「是れ必ず雕を射る者なり」と。広乃ち遂に百騎を従へて往きて三人を馳す。三人馬を亡ひて歩行し、行くこと数十里。広其の騎をして左右の翼を張らしめ、而して広身自ら彼の三人の者を射、其の二人を殺し、一人を生け得たり。果たして匈奴の雕を射る者なり。
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史記 李将軍列伝已に之を縛りて馬に上すに、匈奴数千騎有るを望む。広を見て、以て誘騎と為し、皆驚き、山に上りて陳す。広の百騎皆大いに恐れ、馳せて還り走らんと欲す。広曰く、「吾大軍を去ること数十里。今此の如く百騎を以て走らば、匈奴追ひて我を射て立ちどころに尽くさん。今我留まらば、匈奴必ず我を以て大軍の誘ひと為し、必ず敢へて我を撃たざらん」と。広諸騎に令して曰く、「前め」と。前みて未だ匈奴の陳に到らざること二里所にして、止まり、令して曰く、「皆馬を下りて鞍を解け」と。其の騎曰く、「虜多く且つ近し。即し急有らば、奈何せん」と。広曰く、「彼の虜は我を以て走ると為す。今皆鞍を解きて以て走らざるを示し、用て其の意を堅くせん」と。是に於て胡騎遂に敢へて撃たず。白馬の将有りて出でて其の兵を護る。李広馬に上りて十余騎と奔りて胡の白馬の将を射殺し、而して復た還りて其の騎中に至り、鞍を解き、士をして皆馬を縦ちて臥せしむ。是の時会々暮れ、胡兵終に之を怪しみ、敢へて撃たず。夜半の時、胡兵も亦以為へらく、漢に伏軍の旁に有りて夜之を取らんと欲すと。胡皆兵を引きて去る。平旦、李広乃ち其の大軍に帰る。大軍広の之く所を知らず、故に従はず。居ること之を久しくして、孝景崩じ、武帝立つ。左右以て広を名将と為す。是に於て広上郡の太守を以て未央の衛尉と為り、而して程不識も亦長楽の衛尉と為る。
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史記 李将軍列伝此を用て、其の兵を将ゐて数々困辱せられ、其の猛獣を射るも亦傷つけらるる所と為ると云ふ。居ること頃之、石建卒す。是に於て上広を召して建に代はりて郎中令と為す。元朔六年、広復た後将軍と為り、大将軍の軍に従ひて定襄より出で、匈奴を撃つ。諸将多く首虜の率に中りて功を以て侯と為る者あり。而るに広の軍功無し。後二歳、広郎中令を以て四千騎を将ゐて右北平より出づ。博望侯張騫万騎を将ゐて広と倶にし、道を異にす。行くこと数百里可り、匈奴の左賢王四万騎を将ゐて広を囲む。広の軍士皆恐る。広乃ち其の子敢をして往きて之に馳せしむ。敢独り数十騎と馳せ、直ちに胡騎を貫き、其の左右に出でて還り、広に告げて曰く、「胡虜は与し易きのみ」と。軍士乃ち安んず。広圜陳を為して外に向かふ。胡急に之を撃ち、矢の下ること雨の如し。漢の兵死する者半ばを過ぎ、漢の矢且に尽きんとす。広乃ち士をして満を持して発する毋からしめ、而して広身自ら大黄を以て其の裨将を射、数人を殺す。胡虜益々解く。会々日暮れ、吏士皆人色無し。而るに広は意気自如として、益々軍を治む。軍中是より其の勇に服するなり。明日、復た力戦し、而して博望侯の軍も亦至る。匈奴の軍乃ち解きて去る。漢の軍罷れて、追ふ能はず。是の時広の軍幾ど没し、罷めて帰る。漢の法、博望侯留遅して期に後る、死に当たり、贖ひて庶人と為る。広の軍功は自如にして、賞無し。初め、広の従弟李蔡広と倶に孝文帝に事ふ。景帝の時、蔡功労を積みて二千石に至る。孝武帝の時、代の相に至る。元朔五年を以て軽車将軍と為り、大将軍に従ひて右賢王を撃ち、功有りて率に中り、封じて楽安侯と為す。元狩二年中、公孫弘に代はりて丞相と為る。蔡の人と為りは下の中に在り、名声は広の下に出づること甚だ遠し。然れども広は爵邑を得ず、官は九卿に過ぎず。而るに蔡は列侯と為り、位三公に至る。
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史記 李将軍列伝程不識故と李広と俱に辺太守を以て将軍として屯す。胡を出撃するに及び、広は行くに部伍行陳無く、善き水草に就きて屯し、舍止するに、人人自ら便にし、刀鬬を撃ちて以て自衛せず、莫府文書籍事を省約す、然れども亦た斥候を遠くし、未だ嘗て害に遇はず。程不識は部曲行伍営陳を正し、刀鬬を撃ち、士吏軍簿を治むること明に至る、軍休息を得ず、然れども亦た未だ嘗て害に遇はず。不識曰く、「李広の軍は極めて簡易なり、然れども虜卒かに之を犯さば、以て禁ずる無からん、而れども其の士卒も亦た佚楽し、咸之が為に死するを楽しむ。我が軍は煩擾すと雖も、然れども虜も亦た我を犯すを得ず」と。然れども匈奴李広の略を畏れ、士卒も亦た多く李広に従ふを楽しみて程不識を苦とす。
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史記 李将軍列伝諸々の広の軍吏及び士卒或いは封侯を取る。広嘗て望気の王朔と燕語して、曰く、「漢の匈奴を撃ちしより広未だ嘗て其の中に在らざることあらず。而るに諸部の校尉以下、才能中人に及ばず、然れども胡を撃つの軍功を以て侯を取る者数十人。而して広は人に後れず。然れども尺寸の功の以て封邑を得る者無きは、何ぞや。豈に吾が相当に侯たるべからざるか。且つ固より命なるか」と。朔曰く、「将軍自ら念へ。豈に嘗て恨む所有るか」と。広曰く、「吾嘗て隴西の守と為る。羌嘗て反す。吾誘ひて降す。降る者八百余人。吾詐りて同日に之を殺す。今に至るまで大いに恨むは独り此のみ」と。朔曰く、「禍は已に降れるを殺すより大なるは莫し。此れ乃ち将軍の侯を得ざる所以の者なり」と。後二歳、大将軍・驃騎将軍大いに出でて匈奴を撃つ。広数々自ら行かんことを請ふ。天子以て老いたりと為し、許さず。良久しくして乃ち之を許し、以て前将軍と為す。是の歳は、元狩四年なり。広既に大将軍青に従ひて匈奴を撃ち、既に塞を出づ。青虜を捕へて単于の居る所を知り、乃ち自ら精兵を以て之に走り、而して広をして右将軍の軍に并せて、東道より出でしむ。東道は少しく回遠にして、大軍の行くに水草少なく、其の勢屯行せず。広自ら請ひて曰く、「臣の部は前将軍為り。今大将軍乃ち徙して臣をして東道より出でしむ。且つ臣結髪より匈奴と戦ふ。今乃ち一たび単于に当たるを得たり。臣願はくは前に居り、先づ単于に死せん」と。大将軍青も亦陰かに上の誡めを受く。以為へらく李広は老いて、数奇なり、単于に当たらしむる毋かれ、恐らくは欲する所を得ざらんと。而して是の時公孫敖新たに侯を失ひ、中将軍と為りて大将軍に従ふ。大将軍も亦敖をして与に倶に単于に当たらしめんと欲す。故に前将軍広を徙す。広時に之を知り、固く自ら大将軍に辞す。大将軍聴かず。長史をして書を封じて広の莫府に与へしめ、曰く、「急に部に詣れ。書の如くせよ」と。
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