史記 / 李将軍列伝
程不識故與李廣俱以邊太守將軍屯。及出擊胡,而廣行無部伍行陳,就善水草屯,舍止,人人自便,不擊刀鬬以自衞,莫府省約文書籍事,然亦遠斥候,未嘗遇害。程不識正部曲行伍營陳,擊刀鬬,士吏治軍簿至明,軍不得休息,然亦未嘗遇害。不識曰:「李廣軍極簡易,然虜卒犯之,無以禁也;而其士卒亦佚樂,咸樂爲之死。我軍雖煩擾,然虜亦不得犯我。」是時漢邊郡李廣、程不識皆爲名將,然匈奴畏李廣之略,士卒亦多樂從李廣而苦程不識。
新字:程不識故与李広倶以辺太守将軍屯。及出撃胡,而広行無部伍行陳,就善水草屯,舎止,人人自便,不撃刀闘以自衛,莫府省約文書籍事,然亦遠斥候,未嘗遇害。程不識正部曲行伍営陳,撃刀闘,士吏治軍簿至明,軍不得休息,然亦未嘗遇害。不識曰:「李広軍極簡易,然虜卒犯之,無以禁也;而其士卒亦佚楽,咸楽為之死。我軍雖煩擾,然虜亦不得犯我。」是時漢辺郡李広、程不識皆為名将,然匈奴畏李広之略,士卒亦多楽従李広而苦程不識。
書き下し
程不識故と李広と俱に辺太守を以て将軍として屯す。胡を出撃するに及び、広は行くに部伍行陳無く、善き水草に就きて屯し、舍止するに、人人自ら便にし、刀鬬を撃ちて以て自衛せず、莫府文書籍事を省約す、然れども亦た斥候を遠くし、未だ嘗て害に遇はず。程不識は部曲行伍営陳を正し、刀鬬を撃ち、士吏軍簿を治むること明に至る、軍休息を得ず、然れども亦た未だ嘗て害に遇はず。不識曰く、「李広の軍は極めて簡易なり、然れども虜卒かに之を犯さば、以て禁ずる無からん、而れども其の士卒も亦た佚楽し、咸之が為に死するを楽しむ。我が軍は煩擾すと雖も、然れども虜も亦た我を犯すを得ず」と。然れども匈奴李広の略を畏れ、士卒も亦た多く李広に従ふを楽しみて程不識を苦とす。
現代語訳
程不識は、もともと李広とともに辺境の太守として将軍を務め、駐屯していた。匈奴へ出撃するとき、李広は行軍に隊列も陣形もなく、水と草の良い場所を選んで駐屯し、宿営しては各人が思い思いに楽にし、夜警の拍子木も打たせず自衛の警戒もさせず、幕府の文書や記録も簡略にした。それでも斥候だけは遠くまで出したので、一度も敵に襲われたことがなかった。程不識は部隊・隊列・陣形を厳しく整え、拍子木を打たせ、将校に軍務の帳簿を明細に作らせた。軍は休むひまがなかったが、こちらもまた一度も襲われなかった。不識は言った。「李広の軍はきわめて簡略だ。もし敵が不意に襲ってきたら、防ぎようがあるまい。しかしその兵士たちはのびのびとしていて、みな喜んで彼のために死のうとする。我が軍は煩わしく騒がしいが、それでも敵は我々を襲うことができない」。しかし匈奴は李広の策略を恐れ、兵士たちもまた李広に従うことを喜び、程不識のもとを苦にする者が多かった。
解説
この章句が説くこと
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史記 李将軍列伝広廉にして、賞賜を得れば輒ち其の麾下に分ち、飲食士と之を共にす。広の身を終ふるまで、二千石為ること四十餘年、家に餘財無く、終に家産の事を言はず。広の兵を将ゐるや、乏絶の処、水を見るも、士卒尽く飲まざれば、広水に近づかず、士卒尽く食らはざれば、広食を嘗めず。寛緩にして苛ならず、士此を以て愛楽して用ゐらる。其の射、敵を見て急なるも、数十歩の内に在るに非ずんば、中らざるを度れば発せず、発すれば即ち弦に応じて倒る。
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史記 李将軍列伝程不識は孝景の時数々直諫するを以て太中大夫と為る。人と為り廉にして、文法に謹む。後に漢馬邑の城を以て単于を誘ひ、大軍をして馬邑の旁の谷に伏せしむ。而して広は驍騎将軍と為り、護軍将軍に領属す。是の時単于之を覚りて、去る。漢の軍皆功無し。其の後四歳、広衛尉を以て将軍と為り、鴈門より出でて匈奴を撃つ。匈奴の兵多く、広の軍を破敗し、広を生け得たり。単于素より広の賢を聞き、令して曰く、「李広を得ば必ず生きて之を致せ」と。胡騎広を得たり。広時に傷つき病む。広を両馬の間に置き、絡ひて盛りて広を臥せしむ。行くこと十余里、広佯り死し、其の旁に一胡児の善馬に騎るもの有るを睨み、広暫かに騰りて胡児の馬に上り、因りて児を推し墮とし、其の弓を取り、馬に鞭うちて南に馳すること数十里、復た其の余軍を得て、因りて引きて塞に入る。匈奴の捕ふる者騎数百之を追ふ。広行くゆく胡児の弓を取りて、追騎を射殺し、故を以て脱するを得たり。是に於て漢に至る。漢広を吏に下す。吏広の失亡する所多く、虜の生け得る所と為るを当て、斬に当つ。贖ひて庶人と為る。頃之、家居すること数歳。広家して故の潁陰侯の孫と藍田の南山の中に屏野居して射猟す。嘗て夜一騎を従へて出で、人に従ひて田間に飲む。還りて霸陵の亭に至る。霸陵の尉酔ひて、広を呵止す。広の騎曰く、「故の李将軍なり」と。尉曰く、「今の将軍すら尚ほ夜行くを得ず。何ぞ乃ち故をや」と。広を止めて亭下に宿せしむ。居ること何も無く、匈奴入りて遼西の太守を殺し、韓将軍を敗る。後に韓将軍右北平に徙る。是に於て天子乃ち召して広を拝して右北平の太守と為す。広即ち霸陵の尉を請ひて与に倶にし、軍に至りて之を斬る。広右北平に居る。匈奴之を聞き、号して「漢の飛将軍」と曰ひ、之を避くること数歳、敢へて右北平に入らず。
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史記 李将軍列伝已に之を縛りて馬に上すに、匈奴数千騎有るを望む。広を見て、以て誘騎と為し、皆驚き、山に上りて陳す。広の百騎皆大いに恐れ、馳せて還り走らんと欲す。広曰く、「吾大軍を去ること数十里。今此の如く百騎を以て走らば、匈奴追ひて我を射て立ちどころに尽くさん。今我留まらば、匈奴必ず我を以て大軍の誘ひと為し、必ず敢へて我を撃たざらん」と。広諸騎に令して曰く、「前め」と。前みて未だ匈奴の陳に到らざること二里所にして、止まり、令して曰く、「皆馬を下りて鞍を解け」と。其の騎曰く、「虜多く且つ近し。即し急有らば、奈何せん」と。広曰く、「彼の虜は我を以て走ると為す。今皆鞍を解きて以て走らざるを示し、用て其の意を堅くせん」と。是に於て胡騎遂に敢へて撃たず。白馬の将有りて出でて其の兵を護る。李広馬に上りて十余騎と奔りて胡の白馬の将を射殺し、而して復た還りて其の騎中に至り、鞍を解き、士をして皆馬を縦ちて臥せしむ。是の時会々暮れ、胡兵終に之を怪しみ、敢へて撃たず。夜半の時、胡兵も亦以為へらく、漢に伏軍の旁に有りて夜之を取らんと欲すと。胡皆兵を引きて去る。平旦、李広乃ち其の大軍に帰る。大軍広の之く所を知らず、故に従はず。居ること之を久しくして、孝景崩じ、武帝立つ。左右以て広を名将と為す。是に於て広上郡の太守を以て未央の衛尉と為り、而して程不識も亦長楽の衛尉と為る。
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『兵要録抄録』・節制ある軍は強い戚子曰く、節制を舍てば、必ず軍する能はずと。愚謂へらく、軍に節制無ければ、則ち兵勢甚だ弱し。故に敵に遇ひて敗れ易し。制有るの兵を以て、制無きの兵と戰へば、其の衆三倍五倍なりと雖も、猶ほ勝つべし。今、木石有り、數十人をして之を推さしむれども、轉ぜず。如し一人聲を發して、衆人應じて撼かせば、則ち數人にして猶ほ轉ずべし。是れ他の術無し、機を一にして力を齊へたるなり。兵の制有るも亦た此の如し。蓋し節制は氣勢を齊ふる所以なり。其の要は和に在り。故に士衆親附して、而る後に節制を言ふべし。節制立ちて、而る後に戰を言ふべし。夫れ節制の工夫は、士を選ぶに始まり、伍を編むに定まり、禁令に戒め、旛幟に統べ、金鼓に動止し、旌旗に分合し、奇正に變化す。乃ち其の勝全し。凡そ軍の全提を得る者は、法術の備はるに從ひて來たる。未だ其の法術を得ざる者は、將智勇有りと雖も、恒に勝つこと能はず。李廣の如きは寛緩にして苛ならず、以て能く士を附け、才氣無雙にして能く鬪戰す。然れども衞靑以て數奇と爲し、前軍に當てしめず。軍に紀律無くして、曾て數〻匈奴の爲に圍まれしを以てなり。程不識曰く、廣の軍は極めて簡易なり。然れども虜卒かに之を犯せば、以て禁ずる無し。而して其の士卒も亦た佚樂にして、咸〻之が爲に死するを樂しむと。
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『智囊』詭道・李廣・王越広、百余騎と独り出づ。匈奴の数千騎、広を望見し、以て誘騎と為し、皆驚き、山に上りて陳す。広の百騎は皆大いに恐れ、馳せ還り走らんと欲す。広曰く、「吾、大軍を去ること数十里なり。今かくのごとく百騎を以て走らば、匈奴追い射ち、我立ちどころに尽きん。今我留まらば、匈奴は必ず我を以て大軍の誘と為し、必ず敢えて撃たず」と。乃ち諸騎に令して曰く、「前め」と。匈奴の陣に未だ到らざること二里ばかりにして、止まり、令して曰く、「皆馬を下りて鞍を解け」と。其の騎曰く、「虜は多くして且つ近し。即ち急有らば、奈何せん」と。広曰く、「彼の虜は我を以て走ると為す。今皆鞍を解きて以て走らざるを示せり」と。是に於いて胡騎遂に敢えて撃たず。白馬の将有りて出で其の兵を護る。広、馬に上り、十余騎と奔りて射て胡の白馬の将を殺し、而して復た還りて其の騎の中に至り、鞍を解き、士をして皆馬を縦ち臥せしむ。暮に会い、胡兵は終にこれを怪しみ、敢えて撃たず。夜半、漢の伏軍の夜にこれを取らんと欲するかと疑い、皆引き去る。平旦、広乃ち大軍に帰る。威寧伯王越、保国公朱永と千人を帥いて辺を巡る。虜猝かに至り、主客当たらず。永は走らんと欲す。越これを止め、陣列を為して自ら固め、虜疑いて未だ敢えて前まず。薄暮、騎をして皆馬を下り枚を銜ましめ、魚貫して行き、反顧する毋からしめ、自ら驍勇を率いて殿し、山後より走ること五十里、城に抵る。虜覚らず。明日乃ち永に謂いて曰く、「我、一たび動かば、虜躡みて撃たん。噍類無からん。陣を結びて暇形を示すは、以て惑わすなり。次第に行き、且つ馬を下り、軍声無きは、故に虜覚らざるなり」と。
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史記 廉頗藺相如列伝李牧は、趙の北辺の良将なり。常に代の鴈門に居り、匈奴に備ふ。便宜を以て吏を置き、市租は皆莫府に輸入して、士卒の費と為す。日に数牛を撃ちて士を饗し、射騎を習はしめ、烽火を謹み、間諜を多くし、厚く戦士を遇す。約を為りて曰く、「匈奴即し入りて盗まば、急ぎ入りて収保せよ。敢へて虜を捕ふる者有らば斬らん」と。匈奴入る毎に、烽火謹み、輒ち入りて収保し、敢へて戦はず。是くの如きこと数歳、また亡失せず。然れども匈奴は李牧を以て怯と為し、趙の辺兵と雖もまた以為へらく吾が将は怯なりと。趙王李牧を譲む、李牧故の如し。趙王怒り、これを召し、他人をして代はりて将たらしむ。歳余、匈奴来たる毎に、出でて戦ふ。出でて戦ひ、数々利あらず、失亡多く、辺は田畜するを得ず。また李牧に請ふ。牧、門を杜ぎて出でず、固く疾と称す。趙王乃ちまた彊ひて起たしめて兵を将ゐしむ。牧曰く、「王必ず臣を用ひば、臣前の如くせん、乃ち敢へて令を奉ぜん」と。王これを許す。李牧至り、故の約の如くす。匈奴数歳得る所無し。終に以て怯と為す。辺士日に賞賜を得れども用ひられず、皆一戦を原(ねが)ふ。是に於いて乃ち選車を具へて千三百乗を得、選騎万三千匹を得、百金の士五万人、彀者十万人、悉く勒して戦ひを習はしむ。大いに畜牧を縦ち、人民野に満つ。匈奴小しく入る、詳りて北げて勝たず、数千人を以てこれに委ぬ。単于これを聞き、大いに衆を率ゐて来たり入る。李牧多く奇陳を為し、左右の翼を張りてこれを撃ち、大いに匈奴十余万騎を破り殺す。襜襤を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降す、単于奔走す。その後十余歳、匈奴敢へて趙の辺城に近づかず。

人生を、一行の式にしてみた。
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