史記 / 韓長孺列伝
壺遂官至詹事,天子方倚以爲漢相,會遂卒。不然,壺遂之內廉行修,斯鞠躬君子也。
新字:壺遂官至詹事,天子方倚以為漢相,会遂卒。不然,壺遂之内廉行修,斯鞠躬君子也。
書き下し
壺遂は官詹事に至る。天子方に倚りて以て漢の相と為さんとす。会々遂卒す。然らずんば、壺遂の内廉にして行ひ修まる、斯れ鞠躬の君子なり。
現代語訳
壺遂は官職が詹事にまで至った。天子はちょうど壺遂を頼りにして漢の丞相にしようとしていたが、たまたま壺遂は亡くなってしまった。そうでなければ(丞相になっていたであろう)。壺遂は内面が清廉で、行いが整っており、まことに身をかがめて慎み深く仕える君子であった。
解説
韓長孺列伝の末尾、太史公曰の結びに置かれた一節です。司馬遷はこの評で、韓安国の人柄や、韓安国が推薦した人物について述べた後、壺遂という人物を取り上げています。壺遂は司馬遷とともに太初暦の制定に携わった人物で、太史公自序にも、司馬遷が壺遂と『史記』執筆の意義について問答を交わした場面が記されています。壺遂は詹事にまで上り、武帝は丞相に任じようとしていましたが、その前に亡くなりました。司馬遷は、内面が清廉で行いが整い、身をかがめて慎み深く仕える「鞠躬の君子」であったと惜しんでいます。韓安国が権力者に贈り物をし、機を逃し、失策もあった人物として描かれたのに対し、ひたすら誠実に生きながら時運に恵まれなかった友人を最後に置いたところに、司馬遷の人物評価の基準がうかがえます。世に出る機会を得られずに終わった誠実な人を、記録にとどめることの意味を考えさせる一文です。
関連する章句
-
史記 韓長孺列伝安国始め御史大夫及び護軍為り、後稍く斥疏せられ、下遷す、而して新たに幸せらるる壮将軍衛青等功有り、益ます貴し。安国既に疏遠せられ、默默たり、屯を将ゐて又匈奴に欺かれ、失亡多く、甚だ自ら愧づ。幸に罷帰するを得、乃ち益ます東のかた徙屯し、意忽忽として楽しまず。数月、病みて血を歐して死す。太史公曰く、「余壺遂と律歴を定め、韓長孺の義、壺遂の深中隱厚を観る。世の梁に長者多しと言ふ、虚しからざるかな」と。
-
史記 韓長孺列伝安国人と為り大略多く、智以て当世に取合するに足り、而も忠厚に出づ。財を貪嗜す。推挙する所皆廉士、己に賢れる者なり。梁に於て壺遂・臧固・郅他を挙ぐ、皆天下の名士なり、士も亦た此を以て之を称慕し、唯だ天子のみ以て国器と為す。安国御史大夫為ること四歳餘、丞相田蚡死し、安国丞相の事を行ふ、引を奉じて車より墮ちて蹇む。天子相を置くを議し、安国を用ゐんと欲す、使をして之を視しむるに、蹇むこと甚だし、乃ち更に平棘侯薛澤を以て丞相と為す。
-
史記 太史公自序且つ士賢能にして用ひられざるは、国を有つ者の恥なり。主上明聖にして徳布聞せざるは、有司の過ちなり。且つ余嘗て其の官を掌る。明聖盛徳を廃して載せず、功臣世家賢大夫の業を滅して述べず、先人の言ふ所を墮とさば、罪焉より大なるは莫し。余の所謂故事を述べ、其の世伝を整斉するは、所謂作るに非ざるなり。而るに君之を春秋に比するは、謬りなり」と。是に於いて其の文を論次す。
-
史記 傅靳蒯成列伝太史公曰く、「陽陵侯傅寬・信武侯靳歙は、皆高爵にして、高祖に従ひて山東に起こり、項籍を攻め、名将を誅殺し、軍を破り城を降すこと十を以て数へ、未だ嘗て困辱せず、此れ亦た天授なり。蒯成侯周緤は心を操ること堅正、身疑はれず、上之く所有らんと欲すれば、未だ嘗て涕を垂れずんばあらず、此れ心を傷ましむる者然り、篤厚の君子と謂ふ可し」と。
-
史記 張丞相列伝太史公曰く、「張蒼は文学律歴もて、漢の名相と為るも、賈生・公孫臣等の正朔服色の事を言ふを絀けて遵はず、明らかに秦の顓頊暦を用ゐるは、何ぞや。周昌は、木彊の人なり。任敖は旧徳を以て用ゐらる。申屠嘉は剛毅守節と謂ふ可し、然れども術学無く、殆ど蕭・曹・陳平と異なるかな」と。
-
史記 太史公自序卒して三歳にして遷太史令と為り、史記・石室金匱の書を紬(つむ)ぐ。五年にして太初元年に当たり、十一月甲子朔旦冬至、天暦始めて改まり、明堂に建て、諸神紀を受く。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る