史記 / 呉王濞列伝
寡人素事南越三十餘年,其王君皆不辭分其卒以隨寡人,又可得三十餘萬。寡人雖不肖,願以身從諸王。越直長沙者,因王子定長沙以北,西走蜀、漢中。告越、楚王、淮南三王,與寡人西面;齊諸王與趙王定河閒、河內,或入臨晉關,或與寡人會雒陽;燕王、趙王固與胡王有約,燕王北定代、雲中,摶胡眾入蕭關,走長安,匡正天子,以安高廟。願王勉之。楚元王子、淮南三王或不沐洗十餘年,怨入骨髓,欲一有所出之久矣,寡人未得諸王之意,未敢聽。今諸王茍能存亡繼絕,振弱伐暴,以安劉氏,社稷之所願也。敝國雖貧,寡人節衣食之用,積金錢,彊兵革,聚穀食,夜以繼日,三十餘年矣。凡為此,願諸王勉用之。能斬捕大將者,賜金五千斤,封萬戶;列將,三千斤,封五千戶;裨將,二千斤,封二千戶;二千石,千斤,封千戶;千石,五百斤,封五百戶:皆為列侯。其以軍若城邑降者,卒萬人,邑萬戶,如得大將;人戶五千,如得列將;人戶三千,如得裨將;人戶千,如得二千石;其小吏皆以差次受爵金。佗封賜皆倍軍法。其有故爵邑者,更益勿因。願諸王明以令士大夫,弗敢欺也。寡人金錢在天下者往往而有,非必取於吳,諸王日夜用之弗能盡。
新字:寡人素事南越三十余年,其王君皆不辞分其卒以随寡人,又可得三十余万。寡人雖不肖,願以身従諸王。越直長沙者,因王子定長沙以北,西走蜀、漢中。告越、楚王、淮南三王,与寡人西面;斉諸王与趙王定河閒、河内,或入臨晋関,或与寡人会雒陽;燕王、趙王固与胡王有約,燕王北定代、雲中,摶胡衆入蕭関,走長安,匡正天子,以安高廟。願王勉之。楚元王子、淮南三王或不沐洗十余年,怨入骨髄,欲一有所出之久矣,寡人未得諸王之意,未敢聴。今諸王苟能存亡継絶,振弱伐暴,以安劉氏,社稷之所願也。敝国雖貧,寡人節衣食之用,積金銭,彊兵革,聚穀食,夜以継日,三十余年矣。凡為此,願諸王勉用之。能斬捕大将者,賜金五千斤,封万戸;列将,三千斤,封五千戸;裨将,二千斤,封二千戸;二千石,千斤,封千戸;千石,五百斤,封五百戸:皆為列侯。其以軍若城邑降者,卒万人,邑万戸,如得大将;人戸五千,如得列将;人戸三千,如得裨将;人戸千,如得二千石;其小吏皆以差次受爵金。佗封賜皆倍軍法。其有故爵邑者,更益勿因。願諸王明以令士大夫,弗敢欺也。寡人金銭在天下者往往而有,非必取於呉,諸王日夜用之弗能尽。
書き下し
寡人素より南越に事ふること三十余年、其の王君皆辞せずして其の卒を分かちて以て寡人に随はしむ。又三十余万を得べし。寡人不肖なりと雖も、願はくは身を以て諸王に従はん。越の長沙に直る者は、王子に因りて長沙以北を定め、西のかた蜀・漢中に走れ。越・楚王・淮南の三王に告げて、寡人と西面せしめん。斉の諸王は趙王と河間・河内を定め、或いは臨晋関に入り、或いは寡人と雒陽に会せよ。燕王・趙王は固より胡王と約有り。燕王は北のかた代・雲中を定め、胡の衆を摶めて蕭関に入り、長安に走り、天子を匡正して、以て高廟を安んぜよ。願はくは王之に勉めよ。楚の元王の子、淮南の三王は、或いは沐洗せざること十余年、怨み骨髄に入り、一たび之を出だす所有らんと欲すること久し。寡人未だ諸王の意を得ず、未だ敢へて聴かず。今諸王苟くも能く亡を存し絶を継ぎ、弱を振ひ暴を伐ち、以て劉氏を安んぜば、社稷の願ふ所なり。敝国貧しと雖も、寡人衣食の用を節し、金銭を積み、兵革を彊くし、穀食を聚むること、夜以て日に継ぐこと、三十余年なり。凡そ此を為すは、願はくは諸王勉めて之を用ひよ。能く大将を斬捕する者には、金五千斤を賜ひ、万戸に封ず。列将は、三千斤、五千戸に封ず。裨将は、二千斤、二千戸に封ず。二千石は、千斤、千戸に封ず。千石は、五百斤、五百戸に封ず。皆列侯と為す。其の軍若しくは城邑を以て降る者は、卒万人、邑万戸は、大将を得るが如くす。人戸五千は、列将を得るが如くす。人戸三千は、裨将を得るが如くす。人戸千は、二千石を得るが如くす。其の小吏は皆差次を以て爵金を受けしむ。佗の封賜は皆軍法に倍す。其の故より爵邑有る者は、更に益して因らしむる勿し。願はくは諸王明らかに以て士大夫に令せよ。敢へて欺かざるなり。寡人の金銭天下に在る者往往にして有り。必ずしも呉より取るに非ず。諸王日夜之を用ふるも尽くす能はず。
現代語訳
「わたしは以前から南越と三十年余り付き合っており、その王や首長たちは皆、兵を分けてわたしに従わせることを拒まないので、さらに三十万人余りを得られる。わたしは不肖の身ではあるが、身をもって諸王に従いたい。長沙に面している越の兵は、長沙王の子と共に長沙以北を平定し、西へ進んで蜀・漢中に向かえ。越・楚王・淮南の三王に告げて、わたしと共に西へ向かわせる。斉の諸王は趙王と共に河間・河内を平定し、ある者は臨晋関に入り、ある者はわたしと雒陽で合流せよ。燕王・趙王はもともと匈奴の王と盟約がある。燕王は北の代・雲中を平定し、匈奴の軍勢をまとめて蕭関に入り、長安に進撃して天子を正し、高祖の廟を安んぜよ。どうか王たちは努めていただきたい。楚の元王の子や淮南の三王の中には、十年余りも髪を洗わず(身を慎んで恨みを忍び)、恨みが骨髄に達して、ひとたびそれを晴らしたいと長く願っていた者がいる。わたしは諸王の考えがわからなかったので、これまで聞き入れずにいた。今、諸王がもし滅んだ家を存続させ絶えた家を継がせ、弱い者を助け暴虐な者を討って、劉氏を安んずることができれば、それこそ国家の願うところである。わが国は貧しいとはいえ、わたしは衣食の費用を切り詰め、金銭を蓄え、武器や甲冑を強化し、穀物を集めること、夜を日に継いで三十年余りになる。すべてはこのためであり、どうか諸王は努めてこれを用いていただきたい。敵の大将を斬ったり捕らえたりした者には、黄金五千斤を与え、一万戸に封じる。列将なら三千斤を与え、五千戸に封じる。副将なら二千斤、二千戸に封じる。二千石の官なら千斤、千戸に封じる。千石の官なら五百斤、五百戸に封じる。いずれも列侯とする。軍勢や城邑を率いて降伏した者は、兵一万人・邑一万戸なら大将を得たのと同じに扱う。人口五千戸なら列将を得たのと同じ、三千戸なら副将を得たのと同じ、千戸なら二千石を得たのと同じに扱う。その下級役人も、皆等級に応じて爵位と黄金を受ける。そのほかの封地や恩賞は、すべて軍法の定めの倍とする。もともと爵位や封邑を持っている者には、さらに加増し、元のままにはしない。どうか諸王ははっきりと士大夫に命令していただきたい。決して欺きはしない。わたしの金銭は天下のあちこちにあって、必ずしも呉から取り寄せる必要はない。諸王が日夜使っても使い尽くせないほどである。
解説
関連する章句
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史記 呉王濞列伝遂に使を発して斉・菑川・膠東・済南・済北に約す。皆許諾す。而して曰く、「城陽の景王は義有り、諸呂を攻む。与にする勿れ。事定まらば之を分かつのみ」と。諸侯既に新たに削罰せられ、振恐して、多く晁錯を怨む。呉の会稽・豫章郡を削るの書至るに及び、則ち呉王先づ兵を起こす。膠西は正月丙午、漢の吏二千石以下を誅す。膠東・菑川・済南・楚・趙も亦然り。遂に兵を発して西す。斉王後に悔い、薬を飲みて自殺し、約に畔く。済北王は城壊れて未だ完からず、其の郎中令其の王を劫守し、兵を発するを得ず。膠西渠率と為り、膠東・菑川・済南共に臨菑を攻囲す。趙王遂も亦反し、陰かに匈奴をして兵を連ねしむ。七国の発するや、呉王悉く其の士卒をあげ、令を国中に下して曰く、「寡人年六十二、身自ら将たり。少子年十四、亦士卒の先と為る。諸々の年上は寡人と比しく、下は少子と等しき者は、皆発せよ」と。二十余万人を発す。南のかた閩越・東越に使ひす。東越も亦兵を発して従ふ。孝景帝三年正月甲子、初めて兵を広陵に起こす。西のかた淮を渉り、因りて楚の兵を并す。使を発して諸侯に書を遺りて曰く、「呉王劉濞敬みて膠西王・膠東王・菑川王・済南王・趙王・楚王・淮南王・衡山王・廬江王・故の長沙王の子に問ふ。幸ひに寡人に教へよ。漢に賊臣有り、天下に功無く、諸侯の地を侵奪し、吏をして劾し系ぎ訊治せしめ、之を僇辱するを以て故と為し、諸侯人君の礼を以て劉氏の骨肉を遇せず、先帝の功臣を絶ち、姦宄を進任し、天下を詿乱し、社稷を危うくせんと欲す。陛下多病にして志失ひ、省察する能はず。兵を挙げて之を誅せんと欲す。謹みて教へを聞かん。敝国は狭しと雖も、地方三千里、人少なしと雖も、精兵五十万を具ふべし。
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史記 呉王濞列伝呉と膠西とは、名を知らるる諸侯なり。一時に察せらるれば、恐らくは安肆するを得ざらん。呉王身に内病有り、朝請する能はざること二十余年、嘗て疑はるるを患ふるも、以て自ら白す無し。今肩を脅め足を累ぬるも、猶ほ釈かれざるを懼る。竊かに聞く、大王爵事を以て適有りと。聞く所の諸侯の地を削らるるは、罪此に至らず。此れ恐らくは地を削らるるを得るのみならざらん」と。王曰く、「然り。之有り。子将に奈何せんとす」と。高曰く、「悪を同じくするは相助け、好を同じくするは相留め、情を同じくするは相成し、欲を同じくするは相趨り、利を同じくするは相死す。今呉王自ら以為へらく大王と憂を同じくすと。願はくは時に因り理に循ひ、軀を棄てて以て患害を天下より除かん。億ふに亦可ならんか」と。王瞿然として駭きて曰く、「寡人何ぞ敢へて是の如くせん。今主上急なりと雖も、固より死有るのみ。安んぞ戴かざるを得ん」と。高曰く、「御史大夫晁錯、天子を熒惑し、諸侯を侵奪し、忠を蔽ひ賢を塞ぎ、朝廷疾み怨み、諸侯皆倍畔の意有り。人事極まれり。彗星出で、蝗虫数々起こる。此れ万世の一時にして、愁労は聖人の起こる所以なり。故に呉王内は晁錯を以て討を為し、外は大王の後車に随ひ、天下に彷徉し、郷ふ所の者は降り、指す所の者は下り、天下敢へて服せざるは莫からんと欲す。大王誠に幸ひにして之に一言を許さば、則ち呉王楚王を率ゐて函谷関を略し、滎陽敖倉の粟を守り、漢兵を距がん。次舎を治めて、大王を須たん。大王幸ひにして之に臨む有らば、則ち天下并すべく、両主分割せん。亦可ならずや」と。王曰く、「善し」と。高帰りて呉王に報ず。呉王猶ほ其の与せざるを恐れ、乃ち身自ら使と為り、膠西に使ひして、面して之と結ぶ。膠西の群臣或いは王の謀を聞き、諫めて曰く、「一帝を承くるは、至楽なり。今大王呉と西に郷ふ。弟令ひ事成るとも、両主分争し、患乃ち始めて結ばん。諸侯の地は漢郡の什の二と為すに足らず。而して畔逆を為して以て太后を憂へしむるは、長策に非ざるなり」と。王聴かず。
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史記 淮南衡山列伝百姓之を願ふこと、旱の雨を望むが若し、故に行陳の中より起こりて立ちて天子と為り、功は三王より高く、徳は無窮に伝はる。今大王高皇帝の天下を得ることの易きを見て、独り近世の呉楚を観ざるか。夫れ呉王は号を賜はりて劉氏の祭酒と為り、復た朝せず、四郡の衆に王たり、地方数千里、内は銅を鋳消して以て銭と為し、東は海水を煑て以て塩と為し、上は江陵の木を取りて以て船と為す、一船の載は中国の数十両の車に当たる、国富み民衆し。珠玉金帛を行りて諸侯宗室大臣に賂ふ、独り竇氏のみ与らず。計定まり謀成り、兵を挙げて西す。大梁に破れ、狐父に敗れ、奔走して東し、丹徒に至り、越人之を禽にし、身死して祀絶え、天下の笑ひと為る。夫れ呉越の衆を以てして功を成すこと能はざる者は何ぞや。誠に天道に逆らひて時を知らざればなり。方今大王の兵衆は呉楚の十分の一なること能はず、天下の安寧は秦の時に万倍する有り、願はくは大王臣の計に従へ。大王臣の計に従はずんば、今大王の事必ず成らずして語先づ泄るるを見ん。臣聞く微子故国を過ぎて悲しみ、是に於て麦秀の歌を作る、是れ紂の王子比干を用ひざるを痛むなりと。故に孟子曰く『紂は貴きこと天子為るも、死するに曾ち匹夫に若かず』と。是れ紂先づ自ら天下に絶つこと久し、死の日にして天下之を去るに非ざるなり。今臣も亦窃かに大王の千乗の君を棄て、必ず且に絶命の書を賜はり、群臣の為に先んじて、東宮に死なんとするを悲しむなり」と。是に於て王気怨結して揚がらず、涕匡に満ちて横流し、即ち起ち、階を歴て去る。王に孽子不害有り、最も長ず、王愛せず、王・王后・太子皆以て子兄の数と為さず。
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史記 呉王濞列伝今乃ち楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠と約従して反し、逆を為して道無く、兵を起こして以て宗廟を危うくし、大臣及び漢の使者を賊殺し、万民を迫劫し、無罪を夭殺し、民家を焼残し、其の丘冢を掘り、甚だ暴虐を為す。今卬等又重ねて逆にして道無く、宗廟を焼き、御物を鹵む。朕甚だ之を痛む。朕素服して正殿を避く。将軍其れ士大夫に勧めて反虜を撃たしめよ。反虜を撃つ者は、深く入りて多く殺すを功と為す。首を斬り虜を捕ふるに、比三百石以上の者は皆之を殺し、置く所有る無かれ。敢へて詔を議し及び詔の如くせざる者有らば、皆要斬せん」と。初め、呉王の淮を度るや、楚王と遂に西して棘壁に敗り、勝に乗じて前み、鋭きこと甚だし。梁の孝王恐れ、六将軍を遣はして呉を撃たしむるも、又梁の両将を敗り、士卒皆還りて梁に走る。梁数々使をして条侯に報じて救ひを求めしむるも、条侯許さず。又使をして条侯を上に悪しましむ。上人をして条侯に告げて梁を救はしむるも、復た便宜を守りて行かず。梁韓安国及び楚の死事の相の弟張羽をして将軍と為さしめ、乃ち頗る呉の兵を敗るを得たり。呉の兵西せんと欲するも、梁の城守堅く、敢へて西せず。即ち条侯の軍に走り、下邑に会す。戦はんと欲するも、条侯壁して、戦ふを肯ぜず。呉の糧絶え、卒饑ゑ、数々戦ひを挑み、遂に夜条侯の壁に奔り、東南を驚かす。条侯をして西北に備へしむ。果たして西北より入る。呉大いに敗れ、士卒多く饑ゑて死し、乃ち畔き散ず。是に於て呉王乃ち其の麾下の壮士数千人と夜亡げ去り、江を度りて丹徒に走り、東越に保る。東越の兵万余人可り、乃ち人をして亡卒を収聚せしむ。漢人をして利を以て東越に啗はしむ。東越即ち呉王を紿く。呉王出でて軍を労ふ。即ち人をして呉王を鏦殺せしめ、其の頭を盛りて、伝を馳せて以て聞す。呉王の子子華・子駒亡げて閩越に走る。
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史記 呉王濞列伝正月に兵を起こし、三月に皆破れ、独り趙のみ後に下る。復た元王の少子平陸侯礼を置きて楚王と為し、元王の後を続がしむ。汝南王非を徙して呉の故地に王たらしめ、江都王と為す。太史公曰く、呉王の王たるは、父の省かるるに由るなり。能く賦斂を薄くし、其の衆を使ひ、以て山海の利を擅にす。逆乱の萌しは、其の子より興る。技を争ひて難を発し、卒に其の本を亡ぼす。越に親しみて宗を謀り、竟に以て夷隕す。晁錯国の為に遠く慮り、禍反つて身に近づく。袁盎権説して、初めは寵せられ後に辱めらる。故に古者は諸侯の地百里に過ぎず、山海は以て封ぜず。「夷狄に親しみて、以て其の属を疏んずる毋かれ」とは、蓋し呉を謂ふか。「権首と為る毋かれ、反つて其の咎を受けん」とは、豈に盎・錯か。
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『長短経』三国権是の後、呉王劉濞、子の故を以て反す。初め発するや、其の大将田禄伯曰く「兵屯聚して西し、他の奇道無くんば、以て功に就き難し。臣願わくは奇兵五万人を得て、別に江・淮に循いて上り、淮南・長沙を収め、武関に入りて、大王と会せん。此れも亦た一奇なり」と。呉王の太子諫めて曰く「王は反を以て名と為す。此の兵は以て人に藉し難し。人も亦た且に王に反せんとす」と。呉王許さず。其の少将桓将軍、復た呉王に説きて曰く「呉は歩兵多く、歩兵は険阻に利あり。漢は車騎多く、車騎は平地に利あり。願わくは大王、過ぐる所の城邑、下らずんば、宜しく棄て去り、疾く西して雒陽の武庫に拠り、敖倉の粟を食い、山河の険を阻みて、以て諸侯に令すべし。関に入ること無しと雖も、天下固より已に定まらん。即し大王徐ろに行き、留まりて城邑を下さば、漢の車騎至りて、梁・楚の郊に馳せ入り、事敗れん」と。王、諸老将に問う。老将曰く「此れ年少推鋒の計のみ。安んぞ大慮を知らん」と。呉王、桓将軍の計に従わず、乃ち自ら并せて其の兵を将いる。漢は太尉周亜夫を以て呉・楚を撃たしめ、亜夫其の父の客の計を用いて、遂に呉を敗る。〔客の計は覇紀の上に在り。〕
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