史記 / 呉王濞列伝
遂發使約齊、菑川、膠東、濟南、濟北,皆許諾,而曰「城陽景王有義,攻諸呂,勿與,事定分之耳」。諸侯既新削罰,振恐,多怨晁錯。及削吳會稽、豫章郡書至,則吳王先起兵,膠西正月丙午誅漢吏二千石以下,膠東、菑川、濟南、楚、趙亦然,遂發兵西。齊王後悔,飲藥自殺,畔約。濟北王城壞未完,其郎中令劫守其王,不得發兵。膠西為渠率,膠東、菑川、濟南共攻圍臨菑。趙王遂亦反,陰使匈奴與連兵。七國之發也,吳王悉其士卒,下令國中曰:「寡人年六十二,身自將。少子年十四,亦為士卒先。諸年上與寡人比,下與少子等者,皆發。」發二十餘萬人。南使閩越、東越,東越亦發兵從。孝景帝三年正月甲子,初起兵於廣陵。西涉淮,因并楚兵。發使遺諸侯書曰:「吳王劉濞敬問膠西王、膠東王、菑川王、濟南王、趙王、楚王、淮南王、衡山王、廬江王、故長沙王子:幸教寡人!以漢有賊臣,無功天下,侵奪諸侯地,使吏劾系訊治,以僇辱之為故,不以諸侯人君禮遇劉氏骨肉,絕先帝功臣,進任姦宄,詿亂天下,欲危社稷。陛下多病志失,不能省察。欲舉兵誅之,謹聞教。敝國雖狹,地方三千里;人雖少,精兵可具五十萬。
新字:遂発使約斉、菑川、膠東、済南、済北,皆許諾,而曰「城陽景王有義,攻諸呂,勿与,事定分之耳」。諸侯既新削罰,振恐,多怨晁錯。及削呉会稽、予章郡書至,則呉王先起兵,膠西正月丙午誅漢吏二千石以下,膠東、菑川、済南、楚、趙亦然,遂発兵西。斉王後悔,飲薬自殺,畔約。済北王城壊未完,其郎中令劫守其王,不得発兵。膠西為渠率,膠東、菑川、済南共攻囲臨菑。趙王遂亦反,陰使匈奴与連兵。七国之発也,呉王悉其士卒,下令国中曰:「寡人年六十二,身自将。少子年十四,亦為士卒先。諸年上与寡人比,下与少子等者,皆発。」発二十余万人。南使閩越、東越,東越亦発兵従。孝景帝三年正月甲子,初起兵於広陵。西渉淮,因并楚兵。発使遺諸侯書曰:「呉王劉濞敬問膠西王、膠東王、菑川王、済南王、趙王、楚王、淮南王、衡山王、廬江王、故長沙王子:幸教寡人!以漢有賊臣,無功天下,侵奪諸侯地,使吏劾系訊治,以僇辱之為故,不以諸侯人君礼遇劉氏骨肉,絶先帝功臣,進任姦宄,詿乱天下,欲危社稷。陛下多病志失,不能省察。欲舉兵誅之,謹聞教。敝国雖狭,地方三千里;人雖少,精兵可具五十万。
書き下し
遂に使を発して斉・菑川・膠東・済南・済北に約す。皆許諾す。而して曰く、「城陽の景王は義有り、諸呂を攻む。与にする勿れ。事定まらば之を分かつのみ」と。諸侯既に新たに削罰せられ、振恐して、多く晁錯を怨む。呉の会稽・豫章郡を削るの書至るに及び、則ち呉王先づ兵を起こす。膠西は正月丙午、漢の吏二千石以下を誅す。膠東・菑川・済南・楚・趙も亦然り。遂に兵を発して西す。斉王後に悔い、薬を飲みて自殺し、約に畔く。済北王は城壊れて未だ完からず、其の郎中令其の王を劫守し、兵を発するを得ず。膠西渠率と為り、膠東・菑川・済南共に臨菑を攻囲す。趙王遂も亦反し、陰かに匈奴をして兵を連ねしむ。七国の発するや、呉王悉く其の士卒をあげ、令を国中に下して曰く、「寡人年六十二、身自ら将たり。少子年十四、亦士卒の先と為る。諸々の年上は寡人と比しく、下は少子と等しき者は、皆発せよ」と。二十余万人を発す。南のかた閩越・東越に使ひす。東越も亦兵を発して従ふ。孝景帝三年正月甲子、初めて兵を広陵に起こす。西のかた淮を渉り、因りて楚の兵を并す。使を発して諸侯に書を遺りて曰く、「呉王劉濞敬みて膠西王・膠東王・菑川王・済南王・趙王・楚王・淮南王・衡山王・廬江王・故の長沙王の子に問ふ。幸ひに寡人に教へよ。漢に賊臣有り、天下に功無く、諸侯の地を侵奪し、吏をして劾し系ぎ訊治せしめ、之を僇辱するを以て故と為し、諸侯人君の礼を以て劉氏の骨肉を遇せず、先帝の功臣を絶ち、姦宄を進任し、天下を詿乱し、社稷を危うくせんと欲す。陛下多病にして志失ひ、省察する能はず。兵を挙げて之を誅せんと欲す。謹みて教へを聞かん。敝国は狭しと雖も、地方三千里、人少なしと雖も、精兵五十万を具ふべし。
現代語訳
こうして(膠西王は)使者を送って斉・菑川・膠東・済南・済北と盟約を結び、皆承諾した。そして「城陽の景王(劉章)は義があり、呂氏一族を攻めた功臣である。仲間に入れるな。事が成った後に領地を分けてやればよい」と言った。諸侯は新たに領地を削られ罰せられたばかりで、震え恐れ、多くが晁錯を恨んでいた。呉の会稽・豫章郡を削るという文書が届くと、呉王がまず兵を起こした。膠西は正月丙午の日に、漢から派遣された二千石以下の役人を誅殺した。膠東・菑川・済南・楚・趙も同様にし、ついに兵を出して西へ向かった。斉王は後になって悔やみ、毒を飲んで自殺して盟約に背いた。済北王は城壁が壊れてまだ修復が終わっておらず、その郎中令が王を脅して監禁したため、兵を出せなかった。膠西王が首領となり、膠東・菑川・済南が共に斉の都臨菑を包囲攻撃した。趙王劉遂もまた反乱を起こし、ひそかに匈奴に使いを送って兵を連合させた。七国が兵を起こすと、呉王は国中の兵士をすべて動員し、国じゅうに命令を下した。「わたしは六十二歳だが、自ら将軍となる。末の子は十四歳だが、これも兵士の先頭に立つ。年上はわたしと同じ年まで、年下は末の子と同じ年までの者は、皆出陣せよ」。こうして二十万人余りを動員した。南の閩越・東越にも使者を送り、東越もまた兵を出して従った。孝景帝の三年正月甲子の日、初めて広陵で兵を挙げた。西へ淮水を渡り、そのまま楚の兵を合わせた。使者を送って諸侯に書状を届けた。「呉王劉濞が謹んで膠西王・膠東王・菑川王・済南王・趙王・楚王・淮南王・衡山王・廬江王・もとの長沙王の子にお尋ねする。どうかわたしにお教えいただきたい。漢には賊臣がいる。天下に何の功績もないのに、諸侯の領地を侵し奪い、役人に弾劾させ捕らえて取り調べさせ、辱めることを常とし、諸侯という君主の礼をもって劉氏の骨肉を遇さず、先帝の功臣の家を絶やし、悪人を登用し、天下を惑わし乱し、国家を危うくしようとしている。陛下は病が多く気力を失い、これを見抜くことができない。兵を挙げてこれを誅殺したいと思うので、謹んでご教示を仰ぐ。わが国は狭いとはいえ、土地は三千里四方あり、人は少ないとはいえ、精兵五十万をそろえることができる。
解説
関連する章句
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史記 呉王濞列伝今乃ち楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠と約従して反し、逆を為して道無く、兵を起こして以て宗廟を危うくし、大臣及び漢の使者を賊殺し、万民を迫劫し、無罪を夭殺し、民家を焼残し、其の丘冢を掘り、甚だ暴虐を為す。今卬等又重ねて逆にして道無く、宗廟を焼き、御物を鹵む。朕甚だ之を痛む。朕素服して正殿を避く。将軍其れ士大夫に勧めて反虜を撃たしめよ。反虜を撃つ者は、深く入りて多く殺すを功と為す。首を斬り虜を捕ふるに、比三百石以上の者は皆之を殺し、置く所有る無かれ。敢へて詔を議し及び詔の如くせざる者有らば、皆要斬せん」と。初め、呉王の淮を度るや、楚王と遂に西して棘壁に敗り、勝に乗じて前み、鋭きこと甚だし。梁の孝王恐れ、六将軍を遣はして呉を撃たしむるも、又梁の両将を敗り、士卒皆還りて梁に走る。梁数々使をして条侯に報じて救ひを求めしむるも、条侯許さず。又使をして条侯を上に悪しましむ。上人をして条侯に告げて梁を救はしむるも、復た便宜を守りて行かず。梁韓安国及び楚の死事の相の弟張羽をして将軍と為さしめ、乃ち頗る呉の兵を敗るを得たり。呉の兵西せんと欲するも、梁の城守堅く、敢へて西せず。即ち条侯の軍に走り、下邑に会す。戦はんと欲するも、条侯壁して、戦ふを肯ぜず。呉の糧絶え、卒饑ゑ、数々戦ひを挑み、遂に夜条侯の壁に奔り、東南を驚かす。条侯をして西北に備へしむ。果たして西北より入る。呉大いに敗れ、士卒多く饑ゑて死し、乃ち畔き散ず。是に於て呉王乃ち其の麾下の壮士数千人と夜亡げ去り、江を度りて丹徒に走り、東越に保る。東越の兵万余人可り、乃ち人をして亡卒を収聚せしむ。漢人をして利を以て東越に啗はしむ。東越即ち呉王を紿く。呉王出でて軍を労ふ。即ち人をして呉王を鏦殺せしめ、其の頭を盛りて、伝を馳せて以て聞す。呉王の子子華・子駒亡げて閩越に走る。
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史記 呉王濞列伝呉王の其の軍を棄てて亡ぐるや、軍遂に潰え、往往にして稍く太尉・梁の軍に降る。楚王戊の軍敗れ、自殺す。三王の斉の臨菑を囲むや、三月にして下す能はず。漢の兵至り、膠西・膠東・菑川王各々兵を引きて帰る。膠西王乃ち袒跣し、槁に席し、水を飲み、太后に謝す。王の太子徳曰く、「漢の兵遠し。臣之を観るに已に罷れたり。襲ふべし。願はくは大王の余兵を収めて之を撃たん。之を撃ちて勝たずんば、乃ち逃れて海に入るも、未だ晩からざるなり」と。王曰く、「吾が士卒皆已に壊れたり。発して用ふべからず」と。聴かず。漢の将弓高侯穨当王に書を遺りて曰く、「詔を奉じて不義を誅す。降る者は其の罪を赦し、故に復す。降らざる者は之を滅ぼす。王何くにか処る。須ちて以て事に従はん」と。王肉袒して漢の軍の壁に叩頭し、謁して曰く、「臣卬法を奉ずること謹まず、百姓を驚駭せしめ、乃ち将軍を苦しめて遠道窮国に至らしむ。敢へて菹醢の罪を請ふ」と。弓高侯金鼓を執りて之に見えて曰く、「王軍事に苦しむ。願はくは王の兵を発するの状を聞かん」と。王頓首膝行して対へて曰く、「今者、晁錯は天子の用事の臣にして、高皇帝の法令を変更し、諸侯の地を侵奪す。卬等以て不義と為し、其の天下を敗乱せんことを恐れ、七国兵を発して、且に以て錯を誅せんとす。今錯已に誅せらるると聞き、卬等謹みて以て兵を罷めて帰る」と。将軍曰く、「王苟くも錯を以て善からずと為さば、何ぞ以て聞せざる。乃ち未だ詔虎符有らざるに、擅に兵を発して義国を撃つ。此を以て之を観れば、意は錯を誅せんと欲するに非ざるなり」と。乃ち詔書を出だして王の為に之を読む。之を読み訖りて、曰く、「王其れ自ら図れ」と。王曰く、「卬等の如きは死して余罪有り」と。遂に自殺す。太后・太子皆死す。膠東・菑川・済南王皆死し、国除かれ、漢に納る。酈将軍趙を囲むこと十月にして之を下す。趙王自殺す。済北王は劫かされたるの故を以て、誅せられざるを得、徙りて菑川に王たり。初め、呉王首として反し、楚の兵を并せ将ゐ、斉趙に連なる。
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史記 呉王濞列伝晁錯太子の家令と為り、太子に幸せらるるを得て、数々従容として呉の過の削るべきを言ふ。数々上書して孝文帝に説く。文帝寛にして、罰するに忍びず。此を以て呉日に益々横なり。孝景帝即位するに及び、錯御史大夫と為り、上に説きて曰く、「昔高帝初めて天下を定め、昆弟少く、諸子弱し。大いに同姓を封ず。故に孽子悼恵王を王として斉七十余城に王たらしめ、庶弟元王楚四十余城に王たり、兄の子濞呉五十余城に王たり。三庶孽を封じて、天下の半ばを分かつ。今呉王は前に太子の郄有り、詐りて病と称して朝せず。古法に於て当に誅すべし。文帝忍びず、因りて几杖を賜ふ。徳至って厚し。当に過を改めて自ら新たにすべし。乃ち益々驕溢し、山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の亡人を誘ひ、乱を作さんことを謀る。今之を削るも亦反し、之を削らざるも亦反す。之を削れば、其の反すること亟かにして、禍小なり。削らざれば、反すること遅くして、禍大なり」と。三年冬、楚王朝す。晁錯因りて言ふ、楚王戊往年薄太后の為に服するに、私かに服舎に姦すと。之を誅せんことを請ふ。詔して赦し、罰して東海郡を削る。因りて呉の豫章郡・会稽郡を削る。前二年に及び趙王罪有り、其の河間郡を削る。膠西王卬爵を売るに姦有るを以て、其の六県を削る。漢廷の臣方に呉を削らんことを議す。呉王濞地を削らるること已む無きを恐れ、因りて此を以て謀を発し、事を挙げんと欲す。念ふに諸侯に与に計謀するに足る者無し。膠西王の勇にして、気を好み、兵を喜み、諸斉皆憚り畏るるを聞く。是に於て乃ち中大夫応高をして膠西王を誂ましむ。文書無く、口もて報じて曰く、「呉王不肖にして、宿夕の憂有り。敢へて自ら外にせず、其の驩心を喩さしむ」と。王曰く、「何を以てか之に教ふる」と。高曰く、「今者主上姦に興り、邪臣に飾られ、小善を好み、讒賊を聴き、擅に律令を変更し、諸侯の地を侵奪し、徴求滋々多く、良善を誅罰すること、日に以て益々甚だし。里語に之有り、『糠を舐りて米に及ぶ』と。
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史記 呉王濞列伝当に賜ふべき者有らば寡人に告げよ。寡人且に往きて之を遺らんとす。敬みて以て聞す」と。七国反するの書天子に聞す。天子乃ち太尉条侯周亜夫をして三十六将軍を将ゐて、往きて呉楚を撃たしむ。曲周侯酈寄を遣はして趙を撃たしむ。将軍欒布斉を撃つ。大将軍竇嬰滎陽に屯し、斉趙の兵を監す。呉楚反するの書聞す。兵未だ発せず、竇嬰未だ行かざるに、故の呉の相袁盎を言ふ。盎時に家居す。詔して召して入見せしむ。上方に晁錯と兵を調へ軍食を笇ふ。上袁盎に問ひて曰く、「君嘗て呉の相為り。呉の臣田禄伯の人と為りを知るか。今呉楚反す。公に於て何如」と。対へて曰く、「憂ふるに足らざるなり。今破れん」と。上曰く、「呉王山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の豪桀を誘ひ、白頭にして事を挙ぐ。此の若くんば、其の計百全ならずんば、豈に発せんや。何を以て其の能く為す無しと言ふや」と。袁盎対へて曰く、「呉に銅塩の利有るは則ち之有り。安くんぞ豪桀を得て之を誘はん。誠に呉をして豪桀を得しめば、亦且に王を輔けて義を為さんとし、反せざらん。呉の誘ふ所は皆無頼の子弟、亡命して銭を鋳る姦人なり。故に相率ゐて以て反す」と。晁錯曰く、「袁盎の之を策すること善し」と。上問ひて曰く、「計安くにか出づる」と。盎対へて曰く、「願はくは左右を屏けよ」と。上人を屏く。独り錯在り。盎曰く、「臣の言ふ所は、人臣知るを得ざるなり」と。乃ち錯を屏く。錯趨りて東廂に避け、恨むこと甚だし。上卒に盎に問ふ。盎対へて曰く、「呉楚相遺る書に曰く、『高帝子弟を王とし各々分地有り。今賊臣晁錯擅に諸侯を適過し、之が地を削奪す』と。故に反するを以て名と為し、西して共に晁錯を誅し、故地を復して罷めんとす。方今の計は、独り晁錯を斬り、使を発して呉楚七国を赦し、其の故の削地を復せば、則ち兵は刃に血ぬること無くして倶に罷むべし」と。是に於て上嘿然たること良久しくして、曰く、「顧ふに誠に何如。吾一人を愛しみて以て天下に謝せざらんや」と。盎曰く、「臣の愚計は此に出づる無し。願はくは上之を孰計せよ」と。
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『長短経』三国権是の後、呉王劉濞、子の故を以て反す。初め発するや、其の大将田禄伯曰く「兵屯聚して西し、他の奇道無くんば、以て功に就き難し。臣願わくは奇兵五万人を得て、別に江・淮に循いて上り、淮南・長沙を収め、武関に入りて、大王と会せん。此れも亦た一奇なり」と。呉王の太子諫めて曰く「王は反を以て名と為す。此の兵は以て人に藉し難し。人も亦た且に王に反せんとす」と。呉王許さず。其の少将桓将軍、復た呉王に説きて曰く「呉は歩兵多く、歩兵は険阻に利あり。漢は車騎多く、車騎は平地に利あり。願わくは大王、過ぐる所の城邑、下らずんば、宜しく棄て去り、疾く西して雒陽の武庫に拠り、敖倉の粟を食い、山河の険を阻みて、以て諸侯に令すべし。関に入ること無しと雖も、天下固より已に定まらん。即し大王徐ろに行き、留まりて城邑を下さば、漢の車騎至りて、梁・楚の郊に馳せ入り、事敗れん」と。王、諸老将に問う。老将曰く「此れ年少推鋒の計のみ。安んぞ大慮を知らん」と。呉王、桓将軍の計に従わず、乃ち自ら并せて其の兵を将いる。漢は太尉周亜夫を以て呉・楚を撃たしめ、亜夫其の父の客の計を用いて、遂に呉を敗る。〔客の計は覇紀の上に在り。〕
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