史記 / 呉王濞列伝
有當賜者告寡人,寡人且往遺之。敬以聞。」七國反書聞天子,天子乃遣太尉條侯周亞夫將三十六將軍,往擊吳楚;遣曲周侯酈寄擊趙;將軍欒布擊齊;大將軍竇嬰屯滎陽,監齊趙兵。吳楚反書聞,兵未發,竇嬰未行,言故吳相袁盎。盎時家居,詔召入見。上方與晁錯調兵笇軍食,上問袁盎曰:「君嘗為吳相,知吳臣田祿伯為人乎?今吳楚反,於公何如?」對曰:「不足憂也,今破矣。」上曰:「吳王即山鑄錢,煮海水為鹽,誘天下豪桀,白頭舉事。若此,其計不百全,豈發乎?何以言其無能為也?」袁盎對曰:「吳有銅鹽利則有之,安得豪桀而誘之!誠令吳得豪桀,亦且輔王為義,不反矣。吳所誘皆無賴子弟,亡命鑄錢姦人,故相率以反。」晁錯曰:「袁盎策之善。」上問曰:「計安出?」盎對曰:「願屏左右。」上屏人,獨錯在。盎曰:「臣所言,人臣不得知也。」乃屏錯。錯趨避東廂,恨甚。上卒問盎,盎對曰:「吳楚相遺書,曰『高帝王子弟各有分地,今賊臣晁錯擅適過諸侯,削奪之地』。故以反為名,西共誅晁錯,復故地而罷。方今計獨斬晁錯,發使赦吳楚七國,復其故削地,則兵可無血刃而俱罷。」於是上嘿然良久,曰:「顧誠何如,吾不愛一人以謝天下。」盎曰:「臣愚計無出此,願上孰計之。」
新字:有当賜者告寡人,寡人且往遺之。敬以聞。」七国反書聞天子,天子乃遣太尉条侯周亜夫将三十六将軍,往撃呉楚;遣曲周侯酈寄撃趙;将軍欒布撃斉;大将軍竇嬰屯滎陽,監斉趙兵。呉楚反書聞,兵未発,竇嬰未行,言故呉相袁盎。盎時家居,詔召入見。上方与晁錯調兵笇軍食,上問袁盎曰:「君嘗為呉相,知呉臣田禄伯為人乎?今呉楚反,於公何如?」対曰:「不足憂也,今破矣。」上曰:「呉王即山鋳銭,煮海水為塩,誘天下豪桀,白頭舉事。若此,其計不百全,豈発乎?何以言其無能為也?」袁盎対曰:「呉有銅塩利則有之,安得豪桀而誘之!誠令呉得豪桀,亦且輔王為義,不反矣。呉所誘皆無頼子弟,亡命鋳銭姦人,故相率以反。」晁錯曰:「袁盎策之善。」上問曰:「計安出?」盎対曰:「願屏左右。」上屏人,独錯在。盎曰:「臣所言,人臣不得知也。」乃屏錯。錯趨避東廂,恨甚。上卒問盎,盎対曰:「呉楚相遺書,曰『高帝王子弟各有分地,今賊臣晁錯擅適過諸侯,削奪之地』。故以反為名,西共誅晁錯,復故地而罷。方今計独斬晁錯,発使赦呉楚七国,復其故削地,則兵可無血刃而倶罷。」於是上嘿然良久,曰:「顧誠何如,吾不愛一人以謝天下。」盎曰:「臣愚計無出此,願上孰計之。」
書き下し
当に賜ふべき者有らば寡人に告げよ。寡人且に往きて之を遺らんとす。敬みて以て聞す」と。七国反するの書天子に聞す。天子乃ち太尉条侯周亜夫をして三十六将軍を将ゐて、往きて呉楚を撃たしむ。曲周侯酈寄を遣はして趙を撃たしむ。将軍欒布斉を撃つ。大将軍竇嬰滎陽に屯し、斉趙の兵を監す。呉楚反するの書聞す。兵未だ発せず、竇嬰未だ行かざるに、故の呉の相袁盎を言ふ。盎時に家居す。詔して召して入見せしむ。上方に晁錯と兵を調へ軍食を笇ふ。上袁盎に問ひて曰く、「君嘗て呉の相為り。呉の臣田禄伯の人と為りを知るか。今呉楚反す。公に於て何如」と。対へて曰く、「憂ふるに足らざるなり。今破れん」と。上曰く、「呉王山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の豪桀を誘ひ、白頭にして事を挙ぐ。此の若くんば、其の計百全ならずんば、豈に発せんや。何を以て其の能く為す無しと言ふや」と。袁盎対へて曰く、「呉に銅塩の利有るは則ち之有り。安くんぞ豪桀を得て之を誘はん。誠に呉をして豪桀を得しめば、亦且に王を輔けて義を為さんとし、反せざらん。呉の誘ふ所は皆無頼の子弟、亡命して銭を鋳る姦人なり。故に相率ゐて以て反す」と。晁錯曰く、「袁盎の之を策すること善し」と。上問ひて曰く、「計安くにか出づる」と。盎対へて曰く、「願はくは左右を屏けよ」と。上人を屏く。独り錯在り。盎曰く、「臣の言ふ所は、人臣知るを得ざるなり」と。乃ち錯を屏く。錯趨りて東廂に避け、恨むこと甚だし。上卒に盎に問ふ。盎対へて曰く、「呉楚相遺る書に曰く、『高帝子弟を王とし各々分地有り。今賊臣晁錯擅に諸侯を適過し、之が地を削奪す』と。故に反するを以て名と為し、西して共に晁錯を誅し、故地を復して罷めんとす。方今の計は、独り晁錯を斬り、使を発して呉楚七国を赦し、其の故の削地を復せば、則ち兵は刃に血ぬること無くして倶に罷むべし」と。是に於て上嘿然たること良久しくして、曰く、「顧ふに誠に何如。吾一人を愛しみて以て天下に謝せざらんや」と。盎曰く、「臣の愚計は此に出づる無し。願はくは上之を孰計せよ」と。
現代語訳
「恩賞を与えるべき者があれば、わたしに知らせてほしい。わたしが行って与えよう。謹んで申し上げる」。七国が反乱を起こしたという書状が天子に届いた。天子は太尉の条侯周亜夫に三十六人の将軍を率いさせて呉・楚を攻撃させ、曲周侯酈寄を遣わして趙を攻撃させ、将軍欒布に斉を攻撃させ、大将軍竇嬰を滎陽に駐屯させて斉・趙に向かう兵を監督させた。呉・楚の反乱の書状が届き、まだ兵を出さず、竇嬰もまだ出発しないうちに、竇嬰はもとの呉の相袁盎のことを進言した。袁盎はその時、家に引きこもっていたが、詔によって召し出され謁見した。景帝はちょうど晁錯と兵の配置を整え、軍の食糧を計算していた。景帝は袁盎に尋ねた。「君はかつて呉の相であった。呉の臣下の田禄伯の人柄を知っているか。今、呉・楚が反乱を起こしたが、君はどう思うか」。袁盎は答えた。「心配するには及ばない。今に破れるであろう」。景帝は言った。「呉王は山で銭を鋳造し、海水を煮て塩を作り、天下の豪傑を誘い、白髪頭になって兵を挙げた。このようであれば、その計略が万全でなければどうして兵を起こそうか。なぜ何もできないと言うのか」。袁盎は答えた。「呉に銅と塩の利益があるのは確かである。しかしどうして豪傑を得て誘うことなどできようか。もし本当に呉が豪傑を得ていたなら、豪傑たちは王を助けて正しい道を行わせ、反乱など起こさせなかったであろう。呉が誘い集めたのは皆ならず者の若者や、逃亡して銭を密造する悪人ばかりである。だから互いに誘い合って反乱を起こしたのだ」。晁錯は「袁盎の見立てはよい」と言った。景帝は「では、どんな策があるのか」と尋ねた。袁盎は「どうか左右の者を退けていただきたい」と答えた。景帝は人払いをしたが、晁錯だけは残っていた。袁盎は「わたくしの申し上げることは、臣下が知ってはならないことである」と言った。そこで晁錯も退けられた。晁錯は小走りに東の脇部屋へ退いたが、ひどく恨んだ。景帝がついに袁盎に尋ねると、袁盎は答えた。「呉と楚が互いに送り合った書状には『高帝は子弟を王とし、それぞれに領地を与えた。今、賊臣の晁錯が勝手に諸侯を咎め立てして、その領地を削り奪っている』とある。だから反乱の名目として、西へ進んで共に晁錯を誅し、もとの領地を取り戻せば兵を収めるとしているのである。今の策としては、ただ晁錯を斬り、使者を送って呉・楚七国を赦し、削った領地をもとに戻せば、刃を血で汚すことなく、どの軍も兵を収めるであろう」。景帝は長い間黙っていたが、やがて言った。「考えてみると、実際どうであろうか。わたしは一人を惜しんで天下にわびずにいるわけにはいかない」。袁盎は言った。「わたくしの愚かな策はこれ以外にない。どうか陛下にはよくよくお考えいただきたい」。
解説
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史記 呉王濞列伝乃ち盎を拝して太常と為し、呉王の弟の子徳侯を宗正と為す。盎装して行を治む。後十余日、上中尉をして錯を召さしめ、紿きて載せて東市に行く。錯朝衣を衣て東市に斬らる。則ち袁盎をして宗廟を奉ぜしめ、宗正をして親戚を輔けしめ、呉に告ぐること盎の策の如くせしむ。呉に至るに、呉楚の兵已に梁の壁を攻む。宗正は親の故を以て、先づ入りて見え、呉王に諭して拝して詔を受けしめんとす。呉王袁盎の来るを聞き、亦其の己に説かんと欲するを知り、笑ひて応へて曰く、「我已に東帝と為る。尚ほ誰にか拝せん」と。盎に見ゆるを肯ぜずして之を軍中に留め、劫かして将たらしめんと欲す。盎肯ぜず。人をして囲み守らしめ、且に之を殺さんとす。盎夜出づるを得て、歩みて亡げ去り、梁の軍に走り、遂に帰りて報ず。条侯将に六乗の伝に乗り、兵を滎陽に会せんとす。雒陽に至り、劇孟を見て、喜びて曰く、「七国反し、吾伝に乗りて此に至る。自ら全きを意はず。又以為へらく諸侯已に劇孟を得たりと。劇孟今動く無し。吾滎陽に拠らば、以東は憂ふるに足る者無し」と。淮陽に至り、父絳侯の故客鄧都尉に問ひて曰く、「策安くにか出づる」と。客曰く、「呉の兵鋭きこと甚だし。与に鋒を争ひ難し。楚の兵は軽く、久しくする能はず。方今将軍の為に計るに、兵を引きて東北のかた昌邑に壁し、梁を以て呉に委ぬるに若くは莫し。呉必ず鋭を尽くして之を攻めん。将軍は溝を深くし塁を高くし、軽兵をして淮泗の口を絶ち、呉の饟道を塞がしめよ。彼呉梁相敝れて糧食竭きなば、乃ち全彊を以て其の罷極を制せば、呉を破ること必せり」と。条侯曰く、「善し」と。其の策に従ひ、遂に昌邑の南に壁を堅くし、軽兵もて呉の饟道を絶つ。
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史記 袁盎鼂錯列伝盎素より鼂錯(ちょうそ)を好まず。鼂錯の居坐する所、盎去り、盎坐すれば、錯も亦去る。両人未だ嘗て堂を同じくして語らず。孝文帝崩じ、孝景帝即位するに及び、鼂錯御史大夫と為り、吏をして袁盎の呉王の財物を受くるを案ぜしめ、罪に抵(あ)て、詔して赦して以て庶人と為す。呉楚反す。聞こゆるや、鼂錯丞史に謂ひて曰く、「夫れ袁盎多く呉王の金銭を受け、専ら為に蔽匿し、反せずと言ふ。今果して反す、請ひて盎を治めんと欲す、宜しく計謀を知るべし」と。丞史曰く、「事未だ発せざるに、之を治むれば絶つこと有り。今兵西に郷かふ、之を治むるも何の益かあらん。且つ袁盎宜しく謀有るべからず」と。鼂錯猶与して未だ決せず。人袁盎に告ぐる者有り。袁盎恐れ、夜竇嬰に見え、為に呉の反する所以の者を言ひ、上の前に至りて口づから状を対へんと願ふ。竇嬰入りて上に言ひ、上乃ち袁盎を召して入れ見ゆ。鼂錯前に在り。盎の人を辟け閒を賜はんことを請ふに及び、錯去り、固より恨むこと甚だし。袁盎具さに呉の反する所以の状を言ひ、錯の故を以てなれば、独り急ぎ錯を斬りて以て呉に謝せば、呉の兵乃ち罷むべしとす。其の語具さに呉の事の中に在り。袁盎をして太常と為し、竇嬰を大将軍と為す。両人素より相与に善し。呉の反するに逮(およ)び、諸陵の長者、長安中の賢大夫争ひて両人に附き、車の随ふ者日に数百乗。鼂錯已に誅せらるるに及び、袁盎太常を以て呉に使ひす。呉王将と為さんと欲するも、肯へてせず。之を殺さんと欲し、一都尉をして五百人を以て盎を軍中に囲守せしむ。袁盎其の呉の相たりし時より、(嘗)従史の嘗て盎の侍児を盗愛する有り。盎之を知るも、泄らさず、之を遇すること故の如し。人従史に告ぐる有り、「君爾の侍者と通ずるを知る」と言ふ。乃ち亡げ帰る。袁盎駆りて自ら之を追ひ、遂に侍者を以て之に賜ひ、復た従史と為す。
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史記 呉王濞列伝晁錯太子の家令と為り、太子に幸せらるるを得て、数々従容として呉の過の削るべきを言ふ。数々上書して孝文帝に説く。文帝寛にして、罰するに忍びず。此を以て呉日に益々横なり。孝景帝即位するに及び、錯御史大夫と為り、上に説きて曰く、「昔高帝初めて天下を定め、昆弟少く、諸子弱し。大いに同姓を封ず。故に孽子悼恵王を王として斉七十余城に王たらしめ、庶弟元王楚四十余城に王たり、兄の子濞呉五十余城に王たり。三庶孽を封じて、天下の半ばを分かつ。今呉王は前に太子の郄有り、詐りて病と称して朝せず。古法に於て当に誅すべし。文帝忍びず、因りて几杖を賜ふ。徳至って厚し。当に過を改めて自ら新たにすべし。乃ち益々驕溢し、山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の亡人を誘ひ、乱を作さんことを謀る。今之を削るも亦反し、之を削らざるも亦反す。之を削れば、其の反すること亟かにして、禍小なり。削らざれば、反すること遅くして、禍大なり」と。三年冬、楚王朝す。晁錯因りて言ふ、楚王戊往年薄太后の為に服するに、私かに服舎に姦すと。之を誅せんことを請ふ。詔して赦し、罰して東海郡を削る。因りて呉の豫章郡・会稽郡を削る。前二年に及び趙王罪有り、其の河間郡を削る。膠西王卬爵を売るに姦有るを以て、其の六県を削る。漢廷の臣方に呉を削らんことを議す。呉王濞地を削らるること已む無きを恐れ、因りて此を以て謀を発し、事を挙げんと欲す。念ふに諸侯に与に計謀するに足る者無し。膠西王の勇にして、気を好み、兵を喜み、諸斉皆憚り畏るるを聞く。是に於て乃ち中大夫応高をして膠西王を誂ましむ。文書無く、口もて報じて曰く、「呉王不肖にして、宿夕の憂有り。敢へて自ら外にせず、其の驩心を喩さしむ」と。王曰く、「何を以てか之に教ふる」と。高曰く、「今者主上姦に興り、邪臣に飾られ、小善を好み、讒賊を聴き、擅に律令を変更し、諸侯の地を侵奪し、徴求滋々多く、良善を誅罰すること、日に以て益々甚だし。里語に之有り、『糠を舐りて米に及ぶ』と。
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史記 袁盎鼂錯列伝死すること十余日、呉楚七国果して反し、錯を誅するを以て名と為す。竇嬰・袁盎の進説するに及び、上鼂錯をして朝衣を衣て東市に斬らしむ。鼂錯已に死し、謁者僕射鄧公校尉と為り、呉楚の軍を撃ちて将と為る。還りて、上書して軍事を言ひ、上に謁見す。上問ひて曰く、「軍の来たる所より道(い)へ、鼂錯の死を聞きて、呉楚罷むや不や」と。鄧公曰く、「呉王反を為すこと数十年なり。地を削らるるに怒りを発し、錯を誅するを以て名と為す。其の意錯に在るに非ざるなり。且つ臣恐らくは天下の士口を噤みて、敢へて復た言はざらんことを」と。上曰く、「何ぞや」と。鄧公曰く、「夫れ鼂錯は諸侯の彊大にして制すべからざるを患ふ、故に地を削りて以て京師を尊ばんことを請ふ、万世の利なり。計画始めて行はれ、卒に大戮を受く。内は忠臣の口を杜ぎ、外は諸侯の為に仇に報ゆ。臣窃かに陛下の為に取らざるなり」と。是に於て景帝黙然たること良久しくして、曰く、「公の言善し、吾も亦之を恨む」と。乃ち鄧公を拝して城陽の中尉と為す。鄧公は成固の人なり、奇計多し。建元中、上賢良を招き、公卿鄧公を言ふ。時に鄧公免ぜらる、家より起ちて九卿と為る。一年にして、復た病を謝して免じて帰る。其の子章、黄老の言を修むるを以て諸公の間に顕る。太史公曰く、袁盎は学を好まずと雖も、亦善く傅会し、仁心を質と為し、義を引きて慨す。孝文の初めて立つに遭ひ、資適(たまたま)世に逢ふ。時以て変易し、呉楚に及びて一たび説く。説行はると雖も、然れども復た遂げず。声を好み賢に矜り、竟に名を以て敗る。鼂錯は家令たりし時、数(しばしば)事を言ひて用ひられず。後に権を擅にし、変更する所多し。諸侯難を発するに、急ぎ匡救せず、私讎に報いんと欲して、反りて以て軀を亡ぼす。語に曰く「古を変じ常を乱せば、死せずんば則ち亡ぶ」と。豈に錯等の謂か。
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史記 呉王濞列伝正月に兵を起こし、三月に皆破れ、独り趙のみ後に下る。復た元王の少子平陸侯礼を置きて楚王と為し、元王の後を続がしむ。汝南王非を徙して呉の故地に王たらしめ、江都王と為す。太史公曰く、呉王の王たるは、父の省かるるに由るなり。能く賦斂を薄くし、其の衆を使ひ、以て山海の利を擅にす。逆乱の萌しは、其の子より興る。技を争ひて難を発し、卒に其の本を亡ぼす。越に親しみて宗を謀り、竟に以て夷隕す。晁錯国の為に遠く慮り、禍反つて身に近づく。袁盎権説して、初めは寵せられ後に辱めらる。故に古者は諸侯の地百里に過ぎず、山海は以て封ぜず。「夷狄に親しみて、以て其の属を疏んずる毋かれ」とは、蓋し呉を謂ふか。「権首と為る毋かれ、反つて其の咎を受けん」とは、豈に盎・錯か。
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史記 呉王濞列伝今乃ち楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠と約従して反し、逆を為して道無く、兵を起こして以て宗廟を危うくし、大臣及び漢の使者を賊殺し、万民を迫劫し、無罪を夭殺し、民家を焼残し、其の丘冢を掘り、甚だ暴虐を為す。今卬等又重ねて逆にして道無く、宗廟を焼き、御物を鹵む。朕甚だ之を痛む。朕素服して正殿を避く。将軍其れ士大夫に勧めて反虜を撃たしめよ。反虜を撃つ者は、深く入りて多く殺すを功と為す。首を斬り虜を捕ふるに、比三百石以上の者は皆之を殺し、置く所有る無かれ。敢へて詔を議し及び詔の如くせざる者有らば、皆要斬せん」と。初め、呉王の淮を度るや、楚王と遂に西して棘壁に敗り、勝に乗じて前み、鋭きこと甚だし。梁の孝王恐れ、六将軍を遣はして呉を撃たしむるも、又梁の両将を敗り、士卒皆還りて梁に走る。梁数々使をして条侯に報じて救ひを求めしむるも、条侯許さず。又使をして条侯を上に悪しましむ。上人をして条侯に告げて梁を救はしむるも、復た便宜を守りて行かず。梁韓安国及び楚の死事の相の弟張羽をして将軍と為さしめ、乃ち頗る呉の兵を敗るを得たり。呉の兵西せんと欲するも、梁の城守堅く、敢へて西せず。即ち条侯の軍に走り、下邑に会す。戦はんと欲するも、条侯壁して、戦ふを肯ぜず。呉の糧絶え、卒饑ゑ、数々戦ひを挑み、遂に夜条侯の壁に奔り、東南を驚かす。条侯をして西北に備へしむ。果たして西北より入る。呉大いに敗れ、士卒多く饑ゑて死し、乃ち畔き散ず。是に於て呉王乃ち其の麾下の壮士数千人と夜亡げ去り、江を度りて丹徒に走り、東越に保る。東越の兵万余人可り、乃ち人をして亡卒を収聚せしむ。漢人をして利を以て東越に啗はしむ。東越即ち呉王を紿く。呉王出でて軍を労ふ。即ち人をして呉王を鏦殺せしめ、其の頭を盛りて、伝を馳せて以て聞す。呉王の子子華・子駒亡げて閩越に走る。
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