史記 / 田叔列伝
田叔者,趙陘城人也。其先,齊田氏苗裔也。叔喜劍,學黃老術於樂巨公所。叔為人刻廉自喜,喜游諸公。趙人舉之趙相趙午,午言之趙王張敖所,趙王以為郎中。數歲,切直廉平,趙王賢之,未及遷。
新字:田叔者,趙陘城人也。其先,斉田氏苗裔也。叔喜剣,学黄老術於楽巨公所。叔為人刻廉自喜,喜游諸公。趙人舉之趙相趙午,午言之趙王張敖所,趙王以為郎中。数歳,切直廉平,趙王賢之,未及遷。
書き下し
田叔は、趙の陘城の人なり。其の先は、斉の田氏の苗裔なり。叔は剣を喜み、黄老の術を楽巨公の所に学ぶ。叔の人と為りは刻廉にして自ら喜び、喜んで諸公に游ぶ。趙人之を趙の相趙午に挙げ、午之を趙王張敖の所に言ひ、趙王以て郎中と為す。数歳、切直廉平なり。趙王之を賢とするも、未だ遷すに及ばず。
現代語訳
田叔は、趙の陘城の人である。その祖先は斉の田氏の末裔である。叔は剣術を好み、黄老の術(黄帝・老子の教え)を楽巨公のもとで学んだ。叔の人柄は厳しく清廉で自らを誇りとし、好んで有力者たちと交わった。趙の人が叔を趙の相の趙午に推薦し、趙午が趙王張敖に話したので、趙王は叔を郎中(側近の官)とした。数年の間、叔は率直で清廉公平であった。趙王は叔を賢者と認めたが、まだ昇進させるには至らなかった。
解説
田叔列伝の冒頭で、主人公田叔の出自と人柄を紹介する段です。祖先は戦国時代に斉を治めた田氏の一族で、剣を好み、漢初に広く学ばれた黄老の術を修めました。人柄は「刻廉」、自分に厳しく清廉であることを誇りとし、有力者とも好んで交わりました。推薦の連鎖によって趙王張敖の郎中となり、率直で公平な勤めぶりが認められます。張敖は高祖の娘婿で、のちに家臣の貫高らが高祖暗殺を謀った事件に巻き込まれる人物です。この段ではまだ出世していませんが、主君が賢いと認めながら昇進させる前に事件が起こることが、次の展開の伏線になっています。人の評価と処遇が必ずしも同時に進まないのは今も同じで、評価が報われるまでの時期にどうふるまうかが、その人の本当の器を示すことになる。
関連する章句
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史記 田叔列伝会たま陳豨代に反く、漢の七年、高祖往きて之を誅す、趙を過ぐ、趙王張敖自ら案を持して食を進む、礼恭しきこと甚だし、高祖箕踞して之を罵る。是の時趙相趙午等数十人皆怒り、張王に謂ひて曰く、「王上に事へ礼備はれり、今王に遇すること是くのごとし、臣等請ふ乱を為さん」と。趙王指を齧み血を出だして曰く、「公等柰何ぞ言ふこと是くのごとき、復た口より出だす毋かれ」と。会たま事発覚し、漢詔を下して趙王及び群臣の反する者を捕ふ。漢詔書を下す、「趙敢て王に随ふ者有らば罪三族に及ぶ」と。唯だ孟舒・田叔等十餘人のみ赭衣し自ら髡鉗し、王家の奴と称し、趙王敖に随ひて長安に至る。貫高の事明白にして、趙王敖出づるを得、乃ち田叔等十餘人を進言す。上尽く召見し、与に語り、漢廷の臣其の右に出づる能ふもの毋し、上説び、尽く拝して郡守・諸侯相と為す。
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史記 田叔列伝叔は漢中の守為ること十余年、会々高后崩じ、諸呂乱を作す。大臣之を誅し、孝文帝を立つ。
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史記 田叔列伝数年にして、叔官を以て卒す。魯百金を以て祠るも、少子仁受けざるなり。曰く、「百金を以て先人の名を傷つけず」と。仁は壮健を以て衛将軍の舎人と為り、数々従ひて匈奴を撃つ。衛将軍仁を進言し、仁郎中と為る。数歳にして、二千石の丞相長史と為り、官を失ふ。其の後三河を刺挙せしむ。上東巡し、仁事を奏して辞有り。上説び、拝して京輔都尉と為す。月余にして、上遷して拝して司直と為す。数歳にして、太子の事に坐す。時に左相自ら兵を将ゐ、司直田仁をして城門を閉守するを主らしむ。太子を縦すに坐し、吏に下されて誅死す。仁兵を発するに、長陵の令車千秋仁を上変し、仁族死す。陘城は今中山国に在り。太史公曰く、孔子称して曰く、「是の国に居れば必ず其の政を聞く」と。田叔の謂か。義にして賢を忘れず、主の美を明らかにして以て過を救ふ。仁は余と善し。余故に并せて之を論ず。
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史記 田叔列伝孝文帝既に立ち、田叔を召して之に問ひて曰く、「公天下の長者を知るか」と。対へて曰く、「臣何ぞ以て之を知るに足らん」と。上曰く、「公は長者なり、宜しく之を知るべし」と。叔頓首して曰く、「故の雲中の守孟舒は、長者なり」と。是の時孟舒、虜の大いに塞に入りて盗劫し、雲中尤も甚だしきに坐して、免ぜらる。上曰く、「先帝孟舒を雲中に置くこと十余年なり。虜曾て一たび入るに、孟舒堅守する能はず、故毋くして士卒戦死する者数百人。長者は固より人を殺すか。公何を以て孟舒を長者と為すと言ふや」と。叔叩頭して対へて曰く、「是れ乃ち孟舒の長者為る所以なり。夫れ貫高等謀反し、上明詔を下し、趙に敢へて張王に随ふ有らば、罪は三族なりと。然るに孟舒自ら髠鉗し、張王敖の所在に随ひ、身を以て之に死せんと欲す。豈に自ら雲中の守と為るを知らんや。漢と楚と相距ぎ、士卒罷敝す。匈奴の冒頓新たに北夷を服し、来りて辺害を為す。孟舒士卒の罷敝するを知り、言を出すに忍びず。士争ひて城に臨みて敵に死すること、子の父の為にし、弟の兄の為にするが如し。故を以て死する者数百人。孟舒豈に故らに駆りて之を戦はしめんや。是れ乃ち孟舒の長者為る所以なり」と。是に於て上曰く、「賢なるかな孟舒」と。復た孟舒を召して以て雲中の守と為す。
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史記 田叔列伝後数歳、叔法に坐して官を失ふ。梁孝王人をして故の呉相袁盎を殺さしむ、景帝田叔を召して梁を案ぜしむ、具に其の事を得、還りて報ず。景帝曰く、「梁之れ有るか」と。叔対へて曰く、「死罪、之れ有り」と。上曰く、「其の事安くに在る」と。田叔曰く、「上梁の事を以て為す毋かれ」と。上曰く、「何ぞや」と。曰く、「今梁王誅に伏せずんば、是れ漢法行はれざるなり、如し其れ法に伏せば、而して太后食味を甘しとせず、臥席に安んぜず、此の憂ひ陛下に在り」と。景帝大いに之を賢とし、以て魯相と為す。
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史記 田叔列伝趙禹曰く、「吾之を聞く、将門の下には必ず将の類有り。伝に曰く、『其の君を知らずんば其の使ふ所を視よ。其の子を知らずんば其の友とする所を視よ』と。今詔有りて将軍の舎人を挙ぐるは、以て将軍の能く賢者文武の士を得るかを観んと欲するなり。今徒に盎人の子を取りて之を上るも、又智略無し。木偶人の之に綺繡を衣するが如きのみ。将に之を奈何せんとす」と。是に於て趙禹悉く衛将軍の舎人百余人を召し、次を以て之に問ひ、田仁・任安を得て、曰く、「独り此の両人可なるのみ。余は用ふべき者無し」と。衛将軍此の両人の貧しきを見て、意平らかならず。趙禹去り、両人に謂ひて曰く、「各々自ら樾象絳衣を具へよ」と。両人対へて曰く、「家貧しくして用て具ふる無きなり」と。将軍怒りて曰く、「今両君家自ら貧しと為す。何為れぞ此の言を出だす。鞅鞅として我に徳を移す有る者の如きは、何ぞや」と。将軍已むを得ず、籍を上りて以て聞す。詔有りて衛将軍の舎人を召見す。此の二人前みて見ゆ。詔して能略を問ひて相推第せしむ。田仁対へて曰く、「桴鼓を提げて軍門に立ち、士大夫をして死を楽しみて戦闘せしむるは、仁任安に及ばず」と。任安対へて曰く、「夫れ嫌疑を決し、是非を定め、治官を弁じ、百姓をして怨心無からしむるは、安仁に及ばざるなり」と。武帝大いに笑ひて曰く、「善し」と。任安をして北軍を護らしめ、田仁をして辺の田穀を河上に護らしむ。此の両人名を天下に立つ。其の後任安を用ひて益州の刺史と為し、田仁を以て丞相長史と為す。田仁上書して言ふ、「天下の郡の太守多く姦利を為し、三河尤も甚だし。臣請ふ、先づ三河を刺挙せん。三河の太守皆内は中貴人に倚り、三公と親属有り、畏憚する所無し。宜しく先づ三河を正して以て天下の姦吏を警むべし」と。是の時河南・河内の太守は皆御史大夫杜の父兄子弟なり。河東の太守は石丞相の子孫なり。
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