史記 / 万石張叔列伝
萬石君以元朔五年中卒。長子郎中令建哭泣哀思,扶杖乃能行。歳餘,建亦死。諸子孫咸孝,然建最甚,甚於萬石君。
新字:万石君以元朔五年中卒。長子郎中令建哭泣哀思,扶杖乃能行。歳余,建亦死。諸子孫咸孝,然建最甚,甚於万石君。
書き下し
万石君は元朔五年中を以て卒す。長子郎中令建哭泣哀思し、杖に扶けられて乃ち能く行く。歳余にして、建も亦死す。諸子孫咸孝なるも、然れども建最も甚だしく、万石君より甚だし。
現代語訳
万石君は元朔五年のうちに亡くなった。長男で郎中令の建は声をあげて泣き悲しみ、杖にすがってようやく歩けるほどであった。一年あまりして、建もまた亡くなった。子や孫は皆孝行であったが、建がもっとも甚だしく、万石君以上であった。
解説
万石君石奮の死と、それに続く長男石建の死を短く記した段です。元朔五年は武帝の治世で、高祖に仕えた十五歳の少年が、文帝・景帝・武帝の四代を生き抜いたことになります。建は父の死を嘆き悲しんで杖なしでは歩けず、一年あまりで後を追うように亡くなりました。司馬遷は、一族は皆孝行だったが建は父以上だったと評します。前の段で見た、父に知られないように下着を洗う姿と重ね合わせると、この一文の重みがわかります。家風は言葉で教えるより、親の姿を見て子が受け継ぎ、ときに親を超えて深まっていくものだということでしょう。組織の文化も同じで、創業者の姿勢を最も深く体現する後継者が現れたとき、その文化は本物になります。ただし建の早い死は、行き過ぎた献身が心身を損なう危うさも示しています。
関連する章句
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史記 万石張叔列伝建老いて白首なるも、万石君尚ほ恙無し。建郎中令と為り、五日毎に洗沐して帰りて親に謁し、子舎に入り、竊かに侍者に問ひ、親の中帬廁牏を取りて、身自ら浣滌し、復た侍者に与へ、敢へて万石君をして知らしめず、以て常と為す。建郎中令と為り、事の言ふべき有れば、人を屏けて恣に言ひ、極めて切なり。廷見するに至りては、言ふ能はざる者の如し。是を以て上乃ち親しく之を尊礼す。
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史記 万石張叔列伝其の官は孝文の時に至り、功労を積みて大中大夫に至る。文学無きも、恭謹なること与に比ぶる無し。文帝の時、東陽侯張相如太子太傅と為り、免ぜらる。傅と為るべき者を選ぶに、皆奮を推し、奮太子太傅と為る。孝景即位するに及び、以て九卿と為す。迫近して之を憚り、奮を徙して諸侯の相と為す。奮の長子は建、次子は甲、次子は乙、次子は慶、皆馴行孝謹を以て、官皆二千石に至る。是に於て景帝曰く、「石君及び四子皆二千石、人臣の尊寵乃ち其の門に集まる」と。奮を号して万石君と為す。孝景帝の季年、万石君は上大夫の禄を以て老を家に帰し、歳時を以て朝臣と為る。宮門の闕を過ぐれば、万石君必ず車を下りて趨り、路馬を見れば必ず式す。子孫小吏と為り、来り帰りて謁すれば、万石君必ず朝服して之に見え、名いはず。子孫過失有れば、譙譲せず、便坐を為し、案に対して食はず。然る後に諸子相責め、長老に因りて肉袒して固く罪を謝し、之を改むれば、乃ち許す。子孫の冠に勝ふる者側に在れば、燕居と雖も必ず冠し、申申如たり。僮僕も訢訢如として、唯謹む。上時に食を家に賜へば、必ず稽首俯伏して之を食ふこと、上の前に在るが如し。其の喪を執るや、哀戚甚だ悼む。子孫教へに遵ひ、亦之の如くす。万石君の家は孝謹を以て郡国に聞こえ、斉魯の諸儒の質行と雖も、皆自ら以て及ばずと為す。建元二年、郎中令王臧文学を以て罪を獲。皇太后以為へらく、儒者は文多く質少なし、今万石君の家は言はずして躬ら行ふと。乃ち長子建を以て郎中令と為し、少子慶を内史と為す。
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史記 万石張叔列伝万石君、名は奮、其の父は趙の人なり、姓は石氏。趙亡び、徙りて温に居る。高祖東のかた項籍を撃ち、河内を過ぐ。時に奮は年十五、小吏と為り、高祖に侍す。高祖与に語り、其の恭敬を愛し、問ひて曰く、「若(なんぢ)何か有る」と。対へて曰く、「奮は独り母有り、不幸にして明を失ふ。家貧し。姊有り、能く琴を鼓す」と。高祖曰く、「若能く我に従はんか」と。曰く、「願はくは力を尽くさん」と。是に於て高祖其の姊を召して美人と為し、奮を以て中涓と為し、書謁を受けしめ、其の家を長安の中の戚里に徙す。姊の美人為るを以ての故なり。
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史記 万石張叔列伝萬石君徙りて陵裏に居る。内史慶酔ひて帰り、外門に入るに車を下らず。萬石君之を聞き、食らはず。慶恐れ、肉袒して罪を請ふも、許さず。宗を挙げて及び兄建肉袒するに、萬石君譲めて曰く、「内史は貴人なり、閭里に入るに、里中の長老皆走り匿るるに、而れども内史車中に坐して自如たり、固より当れり」と。乃ち謝して慶を罷めしむ。慶及び諸子弟里門に入るに、趨りて家に至る。
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史記 万石張叔列伝建郎中令為り、書して事を奏す、事下るに、建之を読みて曰く、「誤書せり。馬なる者は尾と与に当に五なるべきに、今乃ち四、一を足らず。上譴めなば死せん」と。甚だ惶恐す。其の謹慎為ること、他と雖も皆是くのごとし。
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史記 万石張叔列伝天子曰く、「倉廩既に空しく、民貧しく流亡す。而るに君之を徙さんことを請はんと欲し、揺蕩して安んぜず、之を動かし危うくす。而して位を辞す。君安くに難を帰せんと欲するか」と。書を以て慶を譲む。慶甚だ慚ぢ、遂に復た事を視る。慶は文深く審謹なるも、然れども他の大略無く、百姓の為に言ふ。後三歳余、太初二年中、丞相慶卒し、諡して恬侯と為す。慶の中子徳、慶愛して之を用ふ。上徳を以て嗣と為し、侯に代はらしむ。後に太常と為り、法に坐して死に当たり、贖ひて免れて庶人と為る。慶方に丞相為りしとき、諸子孫の吏と為りて更々二千石に至る者十三人。慶死して後に及び、稍く罪を以て去り、孝謹益々衰ふ。建陵侯衛綰は、代の大陵の人なり。綰は戯車を以て郎と為り、文帝に事へ、功次もて遷りて中郎将と為り、醇謹にして他無し。孝景太子為りし時、上の左右を召して飲ましむ。而るに綰病と称して行かず。文帝且に崩ぜんとする時、孝景に属して曰く、「綰は長者なり、善く之を遇せよ」と。文帝崩じ、景帝立つに及び、歳余綰を噍呵せず、綰日に以て謹み力む。景帝上林に幸し、中郎将に詔して参乗せしむ。還りて問ひて曰く、「君参乗するを得る所以を知るか」と。綰曰く、「臣は車士より幸ひに功次を以て遷りて中郎将と為るを得、自ら知らざるなり」と。上問ひて曰く、「吾太子為りし時君を召すに、君来るを肯ぜざりしは、何ぞや」と。対へて曰く、「死罪、実に病めり」と。上之に剣を賜ふ。綰曰く、「先帝臣に剣を賜ふこと凡そ六、剣は敢へて詔を奉ぜず」と。上曰く、「剣は、人の施易する所なり。独り今に至るか」と。綰曰く、「具に在り」と。上六剣を取らしむるに、剣尚ほ盛にして、未だ嘗て服せざるなり。郎官譴有れば、常に其の罪を蒙り、他の将と争はず。功有れば、常に他の将に譲る。上以て廉と為し、忠実にして他腸無しとし、乃ち綰を拝して河間王の太傅と為す。呉楚反し、綰に詔して将と為す。河間の兵を将ゐて呉楚を撃ちて功有り、拝して中尉と為す。
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