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史記 / 傅靳蒯成列伝

候各四人,騎長十二人。從東擊楚,至彭城。漢軍敗還,保雍丘,去擊反者王武等。略梁地,別將擊邢說軍菑南,破之,身得說都尉二人,司馬、候十二人,降吏卒四千一百八十人。破楚軍滎陽東。三年,賜食邑四千二百戶。別之河内,擊趙將賁郝軍朝歌,破之,所將卒得騎將二人,車馬二百五十匹。從攻安陽以東,至棘蒲,下七縣。別攻破趙軍,得其將司馬二人,候四人,降吏卒二千四百人。從攻下邯鄲。別下平陽,身斬守相,所將卒斬兵守、郡守各一人,降鄴。從攻朝歌、邯鄲,及別擊破趙軍,降邯鄲郡六縣。還軍敖倉,破項籍軍成皋南,擊絕楚饟道,起滎陽至襄邑。破項冠軍魯下。略地東至繒、郯、下邳,南至蘄、竹邑。擊項悍濟陽下。還擊項籍陳下,破之。別定江陵,降江陵柱國、大司馬以下八人,身得江陵王,生致之雒陽,因定南郡。從至陳,取楚王信,剖符世世勿絕,定食四千六百戶,號信武侯。以騎都尉從擊代,攻韓信平城下,還軍東垣。有功,遷為車騎將軍,并將梁、趙、齊、燕、楚車騎,別擊陳豨丞相敞,破之,因降曲逆。從擊黥布有功,益封定食五千三百戶。

新字:候各四人,騎長十二人。従東撃楚,至彭城。漢軍敗還,保雍丘,去撃反者王武等。略梁地,別将撃邢説軍菑南,破之,身得説都尉二人,司馬、候十二人,降吏卒四千一百八十人。破楚軍滎陽東。三年,賜食邑四千二百戸。別之河内,撃趙将賁郝軍朝歌,破之,所将卒得騎将二人,車馬二百五十匹。従攻安陽以東,至棘蒲,下七県。別攻破趙軍,得其将司馬二人,候四人,降吏卒二千四百人。従攻下邯鄲。別下平陽,身斬守相,所将卒斬兵守、郡守各一人,降鄴。従攻朝歌、邯鄲,及別撃破趙軍,降邯鄲郡六県。還軍敖倉,破項籍軍成皋南,撃絶楚饟道,起滎陽至襄邑。破項冠軍魯下。略地東至繒、郯、下邳,南至蘄、竹邑。撃項悍済陽下。還撃項籍陳下,破之。別定江陵,降江陵柱国、大司馬以下八人,身得江陵王,生致之雒陽,因定南郡。従至陳,取楚王信,剖符世世勿絶,定食四千六百戸,号信武侯。以騎都尉従撃代,攻韓信平城下,還軍東垣。有功,遷為車騎将軍,并将梁、趙、斉、燕、楚車騎,別撃陳豨丞相敞,破之,因降曲逆。従撃黥布有功,益封定食五千三百戸。

書き下し

候各四人、騎長十二人(を斬る)。従ひて東のかた楚を撃ち、彭城に至る。漢軍敗れて還り、雍丘を保ち、去りて反者王武等を撃つ。梁の地を略し、別将として邢説の軍を菑の南に撃ち、之を破り、身ら説の都尉二人、司馬・候十二人を得、吏卒四千一百八十人を降す。楚の軍を滎陽の東に破る。三年、食邑四千二百戸を賜はる。別れて河内に之き、趙の将賁郝の軍を朝歌に撃ち、之を破り、将ゐる所の卒騎将二人、車馬二百五十匹を得たり。従ひて安陽以東を攻め、棘蒲に至り、七県を下す。別れて趙の軍を攻め破り、其の将司馬二人、候四人を得、吏卒二千四百人を降す。従ひて邯鄲を攻め下す。別れて平陽を下し、身ら守相を斬り、将ゐる所の卒兵守・郡守各一人を斬り、鄴を降す。従ひて朝歌・邯鄲を攻め、及び別れて趙の軍を撃破し、邯鄲郡の六県を降す。軍を敖倉に還し、項籍の軍を成皋の南に破り、楚の饟道を撃ち絶ち、滎陽より起こりて襄邑に至る。項冠の軍を魯の下に破る。地を略して東は繒・郯・下邳に至り、南は蘄・竹邑に至る。項悍を済陽の下に撃つ。還りて項籍を陳の下に撃ち、之を破る。別れて江陵を定め、江陵の柱国・大司馬以下八人を降し、身ら江陵王を得て、生きながら之を雒陽に致し、因りて南郡を定む。従ひて陳に至り、楚王信を取る。符を剖きて世世絶ゆること勿からしめ、食四千六百戸を定め、信武侯と号す。騎都尉を以て従ひて代を撃ち、韓信を平城の下に攻め、軍を東垣に還す。功有りて、遷りて車騎将軍と為り、梁・趙・斉・燕・楚の車騎を并せ将ゐ、別れて陳豨の丞相敞を撃ち、之を破り、因りて曲逆を降す。従ひて黥布を撃ちて功有り、封を益して食五千三百戸を定む。

現代語訳

(車司馬と)候(斥候の長)をそれぞれ四人、騎長十二人を斬った。従って東へ楚を攻め、彭城に至った。漢軍が敗れて退くと、雍丘を守り、そこから出て反乱を起こした王武らを攻めた。梁の地を攻略し、別動隊の将として菑の南で邢説の軍を攻めて破り、自ら邢説の都尉二人と司馬・候十二人を捕らえ、役人と兵士四千百八十人を降伏させた。滎陽の東で楚軍を破った。三年、食邑四千二百戸を賜った。別動隊として河内に向かい、朝歌で趙の将軍賁郝の軍を攻めて破り、配下の兵が騎将二人と車馬二百五十匹を捕獲した。従って安陽より東を攻め、棘蒲まで進んで七県を降した。別動隊として趙の軍を攻め破り、その将の司馬二人と候四人を捕らえ、役人と兵士二千四百人を降伏させた。従って邯鄲を攻め落とした。別動隊として平陽を降し、自ら守相(代理の宰相)を斬り、配下の兵が兵守と郡守を一人ずつ斬り、鄴を降伏させた。従って朝歌・邯鄲を攻め、また別動隊として趙の軍を撃ち破り、邯鄲郡の六県を降伏させた。敖倉に軍を戻し、成皋の南で項籍の軍を破り、楚の兵糧輸送路を断ち切ったが、その範囲は滎陽から襄邑にまで及んだ。魯の城下で項冠の軍を破った。土地を攻略して、東は繒・郯・下邳に至り、南は蘄・竹邑に至った。済陽の城下で項悍を攻めた。引き返して陳の城下で項籍を攻め、これを破った。別動隊として江陵を平定し、江陵の柱国・大司馬以下八人を降伏させ、自ら江陵王を捕らえて生きたまま雒陽に送り届け、そのまま南郡を平定した。従って陳に至り、楚王韓信を捕らえた。割符を分けて代々絶えることのない封爵を約され、食邑を四千六百戸と定められ、信武侯と号した。騎都尉として従って代を攻め、平城の城下で韓王信を攻め、東垣に軍を戻した。功があって車騎将軍に昇進し、梁・趙・斉・燕・楚の戦車隊と騎兵をあわせて率い、別動隊として陳豨の丞相の敞を攻めて破り、そのまま曲逆を降伏させた。従って黥布を攻めて功があり、封地を加増されて食邑を五千三百戸と定められた。

解説

この段は、靳歙の戦歴の続きです。彭城の敗戦後も各地で別動隊を率い、趙・楚の将を捕らえ、項羽軍の兵糧輸送路を滎陽から襄邑にわたって断ち切りました。南方では江陵を平定して江陵王を生け捕りにし、雒陽へ送っています。天下統一の後も陳で楚王韓信を捕らえる場に従い、平城では韓王信を攻め、陳豨・黥布の乱でも功を立てて、食邑は五千三百戸にまで増えました。記事の多くは「別れて」、つまり本隊から離れた独立部隊として動いたことを示しており、靳歙が主将の目の届かない所でも任せられる指揮官だったことがうかがえます。司馬遷は細かな数字を省かずに記すことで、一人の武将の働きの確かさを伝えています。上司がそばにいなくても成果を出し続ける人こそ、組織が最も頼りにする人材だといえるでしょう。

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