史記 / 酈生陸賈列伝
大臣多害辟陽侯行,欲遂誅之。辟陽侯急,因使人欲見平原君。平原君辭曰:「獄急,不敢見君。」乃求見孝惠幸臣閎籍孺,說之曰:「君所以得幸帝,天下莫不聞。今辟陽侯幸太后而下吏,道路皆言君讒,欲殺之。今日辟陽侯誅,旦日太后含怒,亦誅君。何不肉袒為辟陽侯言於帝?帝聽君出辟陽侯,太后大驩。兩主共幸君,君貴富益倍矣。」於是閎籍孺大恐,從其計,言帝,果出辟陽侯。辟陽侯之囚,欲見平原君,平原君不見辟陽侯,辟陽侯以為倍己,大怒。及其成功出之,乃大驚。呂太后崩,大臣誅諸呂,辟陽侯於諸呂至深,而卒不誅。計畫所以全者,皆陸生、平原君之力也。孝文帝時,淮南厲王殺辟陽侯,以諸呂故。文帝聞其客平原君為計策,使吏捕欲治。聞吏至門,平原君欲自殺。諸子及吏皆曰:「事未可知,何早自殺為?」平原君曰:「我死禍絕,不及而身矣。」遂自剄。孝文帝聞而惜之,曰:「吾無意殺之。」乃召其子,拜為中大夫。使匈奴,單于無禮,乃罵單于,遂死匈奴中。初,沛公引兵過陳留,酈生踵軍門上謁曰:「高陽賤民酈食其,竊聞沛公暴露,將兵助楚討不義,敬勞從者,願得望見,口畫天下便事。」使者入通,沛公方洗,問使者曰:「何如人也?」
新字:大臣多害辟陽侯行,欲遂誅之。辟陽侯急,因使人欲見平原君。平原君辞曰:「獄急,不敢見君。」乃求見孝恵幸臣閎籍孺,説之曰:「君所以得幸帝,天下莫不聞。今辟陽侯幸太后而下吏,道路皆言君讒,欲殺之。今日辟陽侯誅,旦日太后含怒,亦誅君。何不肉袒為辟陽侯言於帝?帝聴君出辟陽侯,太后大驩。両主共幸君,君貴富益倍矣。」於是閎籍孺大恐,従其計,言帝,果出辟陽侯。辟陽侯之囚,欲見平原君,平原君不見辟陽侯,辟陽侯以為倍己,大怒。及其成功出之,乃大驚。呂太后崩,大臣誅諸呂,辟陽侯於諸呂至深,而卒不誅。計画所以全者,皆陸生、平原君之力也。孝文帝時,淮南厲王殺辟陽侯,以諸呂故。文帝聞其客平原君為計策,使吏捕欲治。聞吏至門,平原君欲自殺。諸子及吏皆曰:「事未可知,何早自殺為?」平原君曰:「我死禍絶,不及而身矣。」遂自剄。孝文帝聞而惜之,曰:「吾無意殺之。」乃召其子,拝為中大夫。使匈奴,単于無礼,乃罵単于,遂死匈奴中。初,沛公引兵過陳留,酈生踵軍門上謁曰:「高陽賤民酈食其,窃聞沛公暴露,将兵助楚討不義,敬労従者,願得望見,口画天下便事。」使者入通,沛公方洗,問使者曰:「何如人也?」
書き下し
大臣多く辟陽侯の行ひを害(にく)み、遂に之を誅せんと欲す。辟陽侯急なり、因りて人をして平原君に見えんと欲せしむ。平原君辞して曰く、「獄急なり、敢へて君に見えず」と。乃ち孝恵の幸臣閎籍孺(こうせきじゅ)に見えんことを求め、之に説きて曰く、「君の帝に幸を得る所以は、天下聞かざる莫し。今辟陽侯太后に幸せられて吏に下さる、道路皆君讒して之を殺さんと欲すと言ふ。今日辟陽侯誅せらるれば、旦日太后怒りを含みて、亦君を誅せん。何ぞ肉袒して辟陽侯の為に帝に言はざる。帝君に聴きて辟陽侯を出ださば、太后大いに驩ばん。両主共に君を幸せば、君の貴富益ます倍せん」と。是に於て閎籍孺大いに恐れ、其の計に従ひて帝に言ひ、果して辟陽侯を出だす。辟陽侯の囚はるるや、平原君に見えんと欲するも、平原君辟陽侯に見えず、辟陽侯以て己に倍くと為し、大いに怒る。其の成功して之を出だすに及び、乃ち大いに驚く。呂太后崩じ、大臣諸呂を誅す。辟陽侯は諸呂に於て至って深きも、卒に誅せられず。計画して全うせし所以の者は、皆陸生・平原君の力なり。孝文帝の時、淮南厲王辟陽侯を殺す、諸呂の故を以てなり。文帝其の客平原君の計策を為すを聞き、吏をして捕へて治めんと欲せしむ。吏の門に至るを聞き、平原君自殺せんと欲す。諸子及び吏皆曰く、「事未だ知るべからず、何ぞ早く自殺するを為さん」と。平原君曰く、「我死せば禍絶え、而(なんぢ)の身に及ばざらん」と。遂に自剄す。孝文帝聞きて之を惜しみ、曰く、「吾之を殺すに意無し」と。乃ち其の子を召し、拝して中大夫と為す。匈奴に使ひし、単于無礼なり、乃ち単于を罵り、遂に匈奴の中に死す。初め、沛公兵を引きて陳留を過ぐるや、酈生軍門に踵(いた)りて上謁して曰く、「高陽の賤民酈食其、窃かに聞く、沛公暴露し、兵を将ゐて楚を助けて不義を討つと。敬んで従者を労ひ、望見して、口づから天下の便事を画くを得んと願ふ」と。使者入りて通ず。沛公方に洗ふ、使者に問ひて曰く、「何如なる人ぞ」と。
現代語訳
大臣の多くは辟陽侯の行いを憎み、この機に誅してしまおうとした。辟陽侯は切羽詰まり、人をやって平原君に会いたいと伝えさせた。平原君は断って言った。「獄の取り調べが厳しい折、あえてお会いはできない。」そして孝恵帝の寵臣の閎籍孺に面会を求め、こう説いた。「あなたが皇帝に寵愛されている理由は、天下で知らない者はいない。いま辟陽侯は太后に寵愛されていながら獄吏に下された。世間では皆、あなたが讒言して彼を殺そうとしていると言っている。今日辟陽侯が誅されれば、明日には太后が怒りを抱いて、あなたをも誅するだろう。なぜ肌脱ぎになって(誠意を示して)辟陽侯のために皇帝に申し上げないのか。皇帝があなたの言葉を聞いて辟陽侯を釈放すれば、太后は大いに喜ぶ。お二人がそろってあなたを寵愛すれば、あなたの富貴はますます倍になるだろう。」閎籍孺は大いに恐れ、その計に従って皇帝に申し上げ、はたして辟陽侯は釈放された。辟陽侯は獄にいたとき、平原君に会おうとしたのに平原君が会わなかったので、自分を裏切ったと思って大いに怒っていた。平原君の計が成功して釈放されるに及んで、大いに驚いた。呂太后が崩じ、大臣たちが呂氏一族を誅した。辟陽侯は呂氏ときわめて深い関係にあったが、ついに誅されなかった。身を全うできるよう計らったのは、すべて陸賈と平原君の力であった。孝文帝の時代、淮南厲王(劉長)が辟陽侯を殺した。呂氏との関わりのためである。文帝は辟陽侯の客である平原君が彼のために策を立てていたと聞き、役人に捕らえて取り調べさせようとした。役人が門まで来たと聞くと、平原君は自殺しようとした。息子たちや役人たちは皆言った。「事の成り行きはまだ分からない。なぜ早まって自殺するのか。」平原君は言った。「私が死ねば禍は絶え、おまえたちの身には及ばない。」そしてついに自ら首をはねた。孝文帝はこれを聞いて惜しみ、「私には彼を殺すつもりはなかった」と言った。そこでその子を召し出して中大夫に任じた。その子は匈奴に使いし、単于が無礼だったので単于を罵り、ついに匈奴の地で死んだ。はじめ、沛公が兵を率いて陳留を通りかかったとき、酈生は軍門を訪れて名札を差し出し、こう言った。「高陽の賤しい民、酈食其と申す。沛公は風雨に身をさらし、兵を率いて楚を助け不義を討っておられると聞いた。つつしんで従者の方々をねぎらい、お目にかかって、直接天下に利となる策を申し上げたい。」使者が中に入って取り次ぐと、沛公はちょうど足を洗っていて、使者に尋ねた。「どんな人物か。」
解説
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史記 酈生陸賈列伝陳平乃ち奴婢百人、車馬五十乗、銭五百万を以て、陸生に遺りて飲食の費と為す。陸生此を以て漢廷の公卿の間に游び、名声藉甚たり。諸呂を誅し、孝文帝を立つるに及び、陸生頗る力有り。孝文帝即位し、人をして南越に之かしめんと欲す。陳丞相等乃ち陸生を言ひて太中大夫と為し、往きて尉他に使ひし、尉他をして黄屋称制を去らしめ、諸侯に比せしむ。皆意旨の如し。語は南越の語の中に在り。陸生竟に寿を以て終はる。平原君朱建は楚人なり。故(もと)嘗て淮南王黥布の相と為り、罪有りて去り、後に復た黥布に事ふ。布反せんと欲する時、平原君に問ふ。平原君之を非とするも、布聴かずして梁父侯に聴き、遂に反す。漢已に布を誅し、平原君の諫めて与に謀らざるを聞き、誅せられざるを得たり。語は黥布の語の中に在り。平原君は人と為り弁にして口有り、刻廉剛直、長安に家す。行ひは苟合せず、義は容を取らず。辟陽侯は行ひ正しからず、呂太后に幸せらる。時に辟陽侯平原君を知らんと欲するも、平原君肯へて見えず。平原君の母死するに及び、陸生素より平原君と善し、之に過る。平原君家貧しく、未だ以て喪を発する有らず、方に服具を仮貸す。陸生平原君をして喪を発せしむ。陸生往きて辟陽侯に見え、賀して曰く、「平原君の母死せり」と。辟陽侯曰く、「平原君の母死す、何ぞ乃ち我を賀するや」と。陸賈曰く、「前日君侯平原君を知らんと欲するも、平原君義として君を知らざりしは、其の母の故を以てなり。今其の母死す。君誠に厚く喪を送らば、則ち彼君の為に死せん」と。辟陽侯乃ち百金を奉じて往きて税(おく)る。列侯貴人辟陽侯の故を以て、往きて税ること凡そ五百金。辟陽侯呂太后に幸せらる。人或いは辟陽侯を孝恵帝に毀り、孝恵帝大いに怒り、吏に下し、之を誅せんと欲す。呂太后慚ぢ、以て言ふべからず。
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史記 酈生陸賈列伝酈生食其(れきせいいき)は、陳留高陽の人なり。読書を好み、家貧しく落魄して、以て衣食の業を為す無く、里の監門の吏と為る。然れども県中の賢豪敢へて役せず、県中皆之を狂生と謂ふ。陳勝・項梁等の起こるに及び、諸将の地を徇へて高陽を過ぐる者数十人、酈生其の将皆握齱(あくさく)として苛礼を好み自ら用ひ、大度の言を聴く能はずと聞き、酈生乃ち深く自ら蔵匿す。後に沛公兵を将ゐて地を陳留の郊に略すと聞く。沛公の麾下の騎士、適(たまたま)酈生の里中の子なり、沛公時時邑中の賢士豪俊を問ふ。騎士帰る。酈生見えて之に謂ひて曰く、「吾聞く、沛公は慢にして人を易(あなど)るも、大略多しと。此れ真に吾が従ひて游ばんと願ふ所なり、我が為に先(さきだ)つ莫し。若し沛公に見えなば、謂ひて曰へ、『臣が里中に酈生有り、年六十余、長八尺、人皆之を狂生と謂ふも、生は自ら我は狂生に非ずと謂ふ』と」と。騎士曰く、「沛公は儒を好まず、諸客の儒冠を冠して来たる者あれば、沛公輒ち其の冠を解き、其の中に溲溺(そうでき)す。人と言ふに、常に大いに罵る。未だ儒生を以て説くべからざるなり」と。酈生曰く、「弟(ただ)之を言へ」と。騎士従容として酈生の誡むる所の如く言ふ。沛公高陽の伝舎に至り、人をして酈生を召さしむ。酈生至り、入りて謁す。沛公方に床に倨して両女子をして足を洗はしめ、而して酈生を見る。酈生入り、則ち長揖して拝せず、曰く、「足下は秦を助けて諸侯を攻めんと欲するか。且(はた)諸侯を率ゐて秦を破らんと欲するか」と。沛公罵りて曰く、「豎儒(じゅじゅ)。夫れ天下同じく秦に苦しむこと久し、故に諸侯相率ゐて秦を攻む。何ぞ秦を助けて諸侯を攻むと謂ふや」と。酈生曰く、「必ず徒を聚め義兵を合はせて無道の秦を誅せんとならば、宜しく倨して長者を見るべからず」と。是に於て沛公洗ふを輟め、起ちて衣を摂(ととの)へ、酈生を延きて上坐せしめ、
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史記 酈生陸賈列伝夫れ漢王は蜀漢を発して、三秦を定め、西河の外に渉りて、上党の兵を援け、井陘を下りて、成安君を誅し、北魏を破りて、三十二城を挙ぐ。此れ蚩尤の兵なり、人の力に非ざるなり、天の福なり。今已に敖倉の粟に拠り、成皋の険を塞ぎ、白馬の津を守り、大行の阪を杜ぎ、蜚狐の口を距ぐ。天下後れて服する者は先に亡びん。王疾く先に漢王に下らば、斉国の社稷得て保つべきなり。漢王に下らずんば、危亡立ちどころにして待つべきなり」と。田広以て然りと為し、乃ち酈生に聴き、歴下の兵の守戦の備へを罷め、酈生と日に酒を縦にす。淮陰侯、酈生の軾に伏して斉の七十余城を下すと聞き、乃ち夜兵を平原に度して斉を襲ふ。斉王田広、漢兵の至るを聞き、以て酈生己を売ると為し、乃ち曰く、「汝能く漢軍を止めば、我汝を活かさん。然らずんば、我将に汝を亨(に)んとす」と。酈生曰く、「大事を挙ぐる者は細謹せず、盛徳は辞譲せず。而公(だいこう)は若(なんぢ)の為に更に言はず」と。斉王遂に酈生を亨て、兵を引きて東に走る。漢の十二年、曲周侯酈商、丞相を以て兵を将ゐて黥布を撃ちて功有り。高祖列侯功臣を挙ぐるに、酈食其を思ふ。酈食其の子疥、数兵を将ゐるも、功未だ侯に当たらず。上其の父の故を以て、疥を封じて高梁侯と為す。後に更めて武遂に食み、嗣ぐこと三世。元狩元年中、武遂侯平、詔を詐りて衡山王の百斤の金を取るに坐し、棄市に当たるも、病死し、国除かるるなり。陸賈は楚人なり。客を以て高祖に従ひて天下を定め、名づけて口弁有る士と為し、左右に居りて、常に諸侯に使ひす。高祖の時に及び、中国初めて定まる。尉他(いた)南越を平らげ、因りて之に王たり。高祖陸賈をして尉他に印を賜ひて南越王と為さしむ。陸生至る、尉他魋結(ついけつ)箕倨して陸生を見る。陸生因りて進みて他に説きて曰く、「足下は中国の人、親戚昆弟の墳は真定に在り。
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史記 酈生陸賈列伝之に謝す。酈生因りて六国従横の時を言ふ。沛公喜び、酈生に食を賜ひ、問ひて曰く、「計将に安くにか出でん」と。酈生曰く、「足下糾合の衆を起こし、散乱の兵を収むるも、万人に満たず。以て径ちに彊秦に入らんと欲す、此れ所謂虎口を探る者なり。夫れ陳留は天下の衝、四通五達の郊なり。今其の城又多く粟を積む。臣其の令に善し、請ふ之に使ひして、足下に下らしめん。即し聴かずんば、足下兵を挙げて之を攻めよ、臣内応と為らん」と。是に於て酈生を遣はして行かしめ、沛公兵を引きて之に随ひ、遂に陳留を下す。酈食其を号して広野君と為す。酈生其の弟酈商を言ひ、数千人を将ゐて沛公に従ひ西南に地を略せしむ。酈生常に説客と為り、諸侯に馳使す。漢の三年秋、項羽漢を撃ち、滎陽を抜く。漢兵遁れて鞏・洛を保つ。楚人淮陰侯の趙を破り、彭越の数(しばしば)梁の地に反するを聞き、則ち兵を分かちて之を救ふ。淮陰方に東して斉を撃ち、漢王数滎陽・成皋に困しみ、成皋以東を捐てて、鞏・洛に屯して以て楚を拒がんと計欲す。酈生因りて曰く、
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史記 酈生陸賈列伝使者対へて曰く、「状貌大儒に類し、儒衣を衣、側注を冠す」と。沛公曰く、「我が為に之に謝せよ。我方に天下を以て事と為し、未だ儒人に見ゆるに暇あらずと言へ」と。使者出でて謝して曰く、「沛公敬んで先生に謝す、方に天下を以て事と為し、未だ儒人に見ゆるに暇あらざるなり」と。酈生目を瞋らし剣を案じて使者を叱して曰く、「走れ。復た入りて沛公に言へ、吾は高陽の酒徒なり、儒人に非ざるなりと」と。使者懼れて謁を失ひ、跪きて謁を拾ひ、還り走り、復た入りて報じて曰く、「客は天下の壮士なり。臣を叱す、臣恐れて、謁を失ふに至る。曰く、『走れ。復た入りて言へ、而公(だいこう)は高陽の酒徒なり』と」と。沛公遽かに足を雪(すす)ぎ矛を杖つきて曰く、「客を延きて入れよ」と。酈生入り、沛公に揖して曰く、「足下甚だ苦しみ、衣を暴し冠を露し、兵を将ゐて楚を助けて不義を討つ。足下何ぞ自ら喜ばざるや。臣事を以て見えんと願ふに、而も曰く、『吾方に天下を以て事と為し、未だ儒人に見ゆるに暇あらざるなり』と。夫れ足下天下の大事を興して天下の大功を成さんと欲するに、而も目を以て皮相せば、恐らくは天下の能士を失はん。且つ吾足下の智を度るに吾に如かず、勇も又吾に如かず。若し天下を就さんと欲して相見えずんば、窃かに足下の為に之を失へりとす」と。沛公謝して曰く、「郷(さき)には先生の容を聞き、今は先生の意を見る」と。乃ち延きて之を坐せしめ、天下を取る所以の者を問ふ。酈生曰く、「夫れ足下大功を成さんと欲せば、陳留に止まるに如かず。陳留は天下の拠衝なり、兵の会地なり。積粟数千万石、城守甚だ堅し。臣素より其の令に善し、願はくは足下の為に之に説かん。臣に聴かずんば、臣請ふ足下の為に之を殺して、陳留を下さん。足下陳留の衆を将ゐ、陳留の城に拠りて、其の積粟を食み、天下の従兵を招け。従兵已に成らば、足下天下に横行し、能く足下を害する者有る莫からん」と。沛公曰く、「敬んで命を聞く」と。
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史記 酈生陸賈列伝孝恵帝の時、呂太后事を用ひ、諸呂を王とせんと欲し、大臣の口有る者を畏る。陸生自ら之を争ふ能はずと度り、乃ち病みて免ぜられ家居す。好畤の田地の善きを以て、以て家すべしとす。五男有り、乃ち越に使ひして得し所の橐中の装を出だして売ること千金、其の子に分かち、子ごとに二百金、生産を為さしむ。陸生常に安車駟馬、歌舞鼓琴瑟の侍者十人を従へ、宝剣直百金。其の子に謂ひて曰く、「汝と約せん。汝に過(よぎ)らば、汝吾が人馬酒食に給し、欲を極めしめよ。十日にして更(か)へん。死する所の家は、宝剣車騎侍従の者を得よ。一歳の中、往来して他客に過ること、率ね再三過に過ぎず。数(しばしば)見えば鮮(あざ)やかならず、久しく公を慁(みだ)すを為す無からん」と。呂太后の時、諸呂を王とし、諸呂権を擅にし、少主を劫かして劉氏を危うくせんと欲す。右丞相陳平之を患ふれども、力争ふ能はず、禍の己に及ぶを恐れ、常に燕居して深く念ふ。陸生往きて請ひ、直ちに入りて坐す。而して陳丞相方に深く念ひ、時に陸生を見ず。陸生曰く、「何ぞ念ふことの深きや」と。陳平曰く、「生我が何をか念ふを揣(はか)れ」と。陸生曰く、「足下位は上相たり、三万戸侯を食む、富貴を極めて欲無しと謂ふべし。然れども憂念有るは、諸呂・少主を患ふるに過ぎざるのみ」と。陳平曰く、「然り。之を為すこと奈何」と。陸生曰く、「天下安ければ、意を相に注ぎ、天下危ふければ、意を将に注ぐ。将相和調すれば、則ち士務めて附く。士務めて附けば、天下変有りと雖も、即ち権分かれず。社稷の為に計るは、両君の掌握に在るのみ。臣常に太尉絳侯に謂はんと欲するも、絳侯我と戯れ、吾が言を易(かろ)んず。君何ぞ太尉と交驩して、深く相結ばざる」と。陳平の為に呂氏の数事を画す。陳平其の計を用ひ、乃ち五百金を以て絳侯の寿を為し、厚く楽飲を具ふ。太尉も亦報ゆること之の如し。此の両人深く相結べば、則ち呂氏の謀益(ますます)衰ふ。
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