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史記 / 酈生陸賈列伝

陳平乃以奴婢百人,車馬五十乘,錢五百萬,遺陸生為飲食費。陸生以此游漢廷公卿閒,名聲藉甚。及誅諸呂,立孝文帝,陸生頗有力焉。孝文帝即位,欲使人之南越。陳丞相等乃言陸生為太中大夫,往使尉他,令尉他去黃屋稱制,令比諸侯,皆如意旨。語在南越語中。陸生竟以壽終。平原君朱建者,楚人也。故嘗為淮南王黥布相,有罪去,後復事黥布。布欲反時,問平原君,平原君非之,布不聽而聽梁父侯,遂反。漢已誅布,聞平原君諫不與謀,得不誅。語在黥布語中。平原君為人辯有口,刻廉剛直,家於長安。行不茍合,義不取容。辟陽侯行不正,得幸呂太后。時辟陽侯欲知平原君,平原君不肯見。及平原君母死,陸生素與平原君善,過之。平原君家貧,未有以發喪,方假貸服具,陸生令平原君發喪。陸生往見辟陽侯,賀曰:「平原君母死。」辟陽侯曰:「平原君母死,何乃賀我乎?」陸賈曰:「前日君侯欲知平原君,平原君義不知君,以其母故。今其母死,君誠厚送喪,則彼為君死矣。」辟陽侯乃奉百金往稅。列侯貴人以辟陽侯故,往稅凡五百金。辟陽侯幸呂太后,人或毀辟陽侯於孝惠帝,孝惠帝大怒,下吏,欲誅之。呂太后慚,不可以言。

新字:陳平乃以奴婢百人,車馬五十乗,銭五百万,遺陸生為飲食費。陸生以此游漢廷公卿閒,名声藉甚。及誅諸呂,立孝文帝,陸生頗有力焉。孝文帝即位,欲使人之南越。陳丞相等乃言陸生為太中大夫,往使尉他,令尉他去黄屋称制,令比諸侯,皆如意旨。語在南越語中。陸生竟以寿終。平原君朱建者,楚人也。故嘗為淮南王黥布相,有罪去,後復事黥布。布欲反時,問平原君,平原君非之,布不聴而聴梁父侯,遂反。漢已誅布,聞平原君諫不与謀,得不誅。語在黥布語中。平原君為人弁有口,刻廉剛直,家於長安。行不苟合,義不取容。辟陽侯行不正,得幸呂太后。時辟陽侯欲知平原君,平原君不肯見。及平原君母死,陸生素与平原君善,過之。平原君家貧,未有以発喪,方仮貸服具,陸生令平原君発喪。陸生往見辟陽侯,賀曰:「平原君母死。」辟陽侯曰:「平原君母死,何乃賀我乎?」陸賈曰:「前日君侯欲知平原君,平原君義不知君,以其母故。今其母死,君誠厚送喪,則彼為君死矣。」辟陽侯乃奉百金往税。列侯貴人以辟陽侯故,往税凡五百金。辟陽侯幸呂太后,人或毀辟陽侯於孝恵帝,孝恵帝大怒,下吏,欲誅之。呂太后慚,不可以言。

書き下し

陳平乃ち奴婢百人、車馬五十乗、銭五百万を以て、陸生に遺りて飲食の費と為す。陸生此を以て漢廷の公卿の間に游び、名声藉甚たり。諸呂を誅し、孝文帝を立つるに及び、陸生頗る力有り。孝文帝即位し、人をして南越に之かしめんと欲す。陳丞相等乃ち陸生を言ひて太中大夫と為し、往きて尉他に使ひし、尉他をして黄屋称制を去らしめ、諸侯に比せしむ。皆意旨の如し。語は南越の語の中に在り。陸生竟に寿を以て終はる。平原君朱建は楚人なり。故(もと)嘗て淮南王黥布の相と為り、罪有りて去り、後に復た黥布に事ふ。布反せんと欲する時、平原君に問ふ。平原君之を非とするも、布聴かずして梁父侯に聴き、遂に反す。漢已に布を誅し、平原君の諫めて与に謀らざるを聞き、誅せられざるを得たり。語は黥布の語の中に在り。平原君は人と為り弁にして口有り、刻廉剛直、長安に家す。行ひは苟合せず、義は容を取らず。辟陽侯は行ひ正しからず、呂太后に幸せらる。時に辟陽侯平原君を知らんと欲するも、平原君肯へて見えず。平原君の母死するに及び、陸生素より平原君と善し、之に過る。平原君家貧しく、未だ以て喪を発する有らず、方に服具を仮貸す。陸生平原君をして喪を発せしむ。陸生往きて辟陽侯に見え、賀して曰く、「平原君の母死せり」と。辟陽侯曰く、「平原君の母死す、何ぞ乃ち我を賀するや」と。陸賈曰く、「前日君侯平原君を知らんと欲するも、平原君義として君を知らざりしは、其の母の故を以てなり。今其の母死す。君誠に厚く喪を送らば、則ち彼君の為に死せん」と。辟陽侯乃ち百金を奉じて往きて税(おく)る。列侯貴人辟陽侯の故を以て、往きて税ること凡そ五百金。辟陽侯呂太后に幸せらる。人或いは辟陽侯を孝恵帝に毀り、孝恵帝大いに怒り、吏に下し、之を誅せんと欲す。呂太后慚ぢ、以て言ふべからず。

現代語訳

陳平はそこで奴婢百人、車馬五十台、銭五百万を陸賈に贈って、交際の費用とさせた。陸賈はこれを元手に朝廷の公卿の間を渡り歩き、その名声は大いに高まった。呂氏一族が誅され、孝文帝が擁立されるにあたって、陸賈は大いに力を尽くした。孝文帝が即位すると、南越へ使者を送ろうとした。陳丞相らは陸賈を推薦して太中大夫とし、尉他のもとへ使いに行かせた。陸賈は尉他に、天子にだけ許される黄色い屋根の車や、皇帝を名乗って詔を下すことをやめさせ、諸侯と同じ扱いに従わせた。すべて文帝の意向どおりになった。その話は南越の列伝の中にある。陸賈はついに天寿を全うして亡くなった。平原君朱建は楚の人である。かつて淮南王黥布の相となったが、罪があって去り、のちに再び黥布に仕えた。黥布が反乱を起こそうとしたとき、平原君に意見を求めた。平原君は反対したが、黥布は聞き入れず、梁父侯の意見に従って、ついに反乱を起こした。漢が黥布を誅したのち、平原君が諫めて謀反に加わらなかったと聞き、誅されずにすんだ。その話は黥布の列伝の中にある。平原君は弁が立ち、清廉で厳しく剛直な人柄で、長安に住んでいた。行いは人に迎合せず、義を守って人に取り入ることをしなかった。辟陽侯(審食其)は行いが正しくなかったが、呂太后に寵愛されていた。そのころ辟陽侯は平原君と近づきになりたがったが、平原君は会おうとしなかった。平原君の母が亡くなると、陸賈はかねて平原君と親しかったので、弔問に訪れた。平原君は家が貧しく、葬儀を出す費用もなく、喪服や葬具を借りようとしているところだった。陸賈は平原君にともかく葬儀を出させた。そして陸賈は辟陽侯に会いに行き、祝いを述べて言った。「平原君の母が亡くなった。」辟陽侯は言った。「平原君の母が亡くなったのに、なぜ私に祝いを言うのか。」陸賈は言った。「以前あなたが平原君と近づきになろうとしたのに、平原君が義を守ってあなたと付き合わなかったのは、母親がいたからだ(母に累が及ぶのを恐れたのだ)。いまその母が亡くなった。あなたが本当に手厚く葬儀の費用を贈れば、彼はあなたのために命も惜しまないだろう。」辟陽侯はそこで百金を携えて弔問に行った。列侯や貴人たちも辟陽侯にならって弔問し、贈られた香典は合わせて五百金に及んだ。辟陽侯は呂太后に寵愛されていた。ある者が孝恵帝に辟陽侯を讒言すると、孝恵帝は大いに怒り、彼を獄吏に引き渡して誅そうとした。呂太后は恥じて、とりなしの言葉を口にすることができなかった。

解説

陸賈の晩年と、平原君朱建の伝の前半です。陳平から贈られた莫大な交際費で、陸賈は朝廷の公卿の間を渡り歩き、呂氏誅滅と文帝擁立に力を尽くしました。文帝の代には再び南越に赴き、尉他に皇帝の称号をやめさせています。陸賈が天寿を全うしたことを、司馬遷はわざわざ書き添えています。続く朱建は、黥布の謀反を諫めたために命拾いした硬骨の士で、呂太后の寵臣審食其が近づこうとしても会いませんでした。陸賈は朱建の母の死を好機と見て、審食其に「厚く弔えば彼はあなたのために死ぬ」と持ちかけます。貧しさゆえに葬儀も出せなかった朱建は、こうして審食其に恩を負いました。この恩が、次の段で審食其の命を救うことになります。陸賈の振る舞いは策士のものですが、人と人をつなぎ、将来に備える布石でもありました。恩は時を置いて返ってくるものです。

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