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史記 / 酈生陸賈列伝

夫漢王發蜀漢,定三秦;涉西河之外,援上黨之兵;下井陘,誅成安君;破北魏,舉三十二城:此蚩尤之兵也,非人之力也,天之福也。今已據敖倉之粟,塞成皋之險,守白馬之津,杜大行之阪,距蜚狐之口,天下後服者先亡矣。王疾先下漢王,齊國社稷可得而保也;不下漢王,危亡可立而待也。」田廣以為然,乃聽酈生,罷歷下兵守戰備,與酈生日縱酒。淮陰侯聞酈生伏軾下齊七十餘城,乃夜度兵平原襲齊。齊王田廣聞漢兵至,以為酈生賣己,乃曰:「汝能止漢軍,我活汝;不然,我將亨汝!」酈生曰:「舉大事不細謹,盛德不辭讓。而公不為若更言!」齊王遂亨酈生,引兵東走。漢十二年,曲周侯酈商以丞相將兵擊黥布有功。高祖舉列侯功臣,思酈食其。酈食其子疥數將兵,功未當侯,上以其父故,封疥為高梁侯。後更食武遂,嗣三世。元狩元年中,武遂侯平坐詐詔衡山王取百斤金,當棄市,病死,國除也。陸賈者,楚人也。以客從高祖定天下,名為有口辯士,居左右,常使諸侯。及高祖時,中國初定,尉他平南越,因王之。高祖使陸賈賜尉他印為南越王。陸生至,尉他魋結箕倨見陸生。陸生因進說他曰:「足下中國人,親戚昆弟墳在真定。

新字:夫漢王発蜀漢,定三秦;渉西河之外,援上党之兵;下井陘,誅成安君;破北魏,舉三十二城:此蚩尤之兵也,非人之力也,天之福也。今已拠敖倉之粟,塞成皋之険,守白馬之津,杜大行之阪,距蜚狐之口,天下後服者先亡矣。王疾先下漢王,斉国社稷可得而保也;不下漢王,危亡可立而待也。」田広以為然,乃聴酈生,罷歴下兵守戦備,与酈生日縦酒。淮陰侯聞酈生伏軾下斉七十余城,乃夜度兵平原襲斉。斉王田広聞漢兵至,以為酈生売己,乃曰:「汝能止漢軍,我活汝;不然,我将亨汝!」酈生曰:「舉大事不細謹,盛徳不辞譲。而公不為若更言!」斉王遂亨酈生,引兵東走。漢十二年,曲周侯酈商以丞相将兵撃黥布有功。高祖舉列侯功臣,思酈食其。酈食其子疥数将兵,功未当侯,上以其父故,封疥為高梁侯。後更食武遂,嗣三世。元狩元年中,武遂侯平坐詐詔衡山王取百斤金,当棄市,病死,国除也。陸賈者,楚人也。以客従高祖定天下,名為有口弁士,居左右,常使諸侯。及高祖時,中国初定,尉他平南越,因王之。高祖使陸賈賜尉他印為南越王。陸生至,尉他魋結箕倨見陸生。陸生因進説他曰:「足下中国人,親戚昆弟墳在真定。

書き下し

夫れ漢王は蜀漢を発して、三秦を定め、西河の外に渉りて、上党の兵を援け、井陘を下りて、成安君を誅し、北魏を破りて、三十二城を挙ぐ。此れ蚩尤の兵なり、人の力に非ざるなり、天の福なり。今已に敖倉の粟に拠り、成皋の険を塞ぎ、白馬の津を守り、大行の阪を杜ぎ、蜚狐の口を距ぐ。天下後れて服する者は先に亡びん。王疾く先に漢王に下らば、斉国の社稷得て保つべきなり。漢王に下らずんば、危亡立ちどころにして待つべきなり」と。田広以て然りと為し、乃ち酈生に聴き、歴下の兵の守戦の備へを罷め、酈生と日に酒を縦にす。淮陰侯、酈生の軾に伏して斉の七十余城を下すと聞き、乃ち夜兵を平原に度して斉を襲ふ。斉王田広、漢兵の至るを聞き、以て酈生己を売ると為し、乃ち曰く、「汝能く漢軍を止めば、我汝を活かさん。然らずんば、我将に汝を亨(に)んとす」と。酈生曰く、「大事を挙ぐる者は細謹せず、盛徳は辞譲せず。而公(だいこう)は若(なんぢ)の為に更に言はず」と。斉王遂に酈生を亨て、兵を引きて東に走る。漢の十二年、曲周侯酈商、丞相を以て兵を将ゐて黥布を撃ちて功有り。高祖列侯功臣を挙ぐるに、酈食其を思ふ。酈食其の子疥、数兵を将ゐるも、功未だ侯に当たらず。上其の父の故を以て、疥を封じて高梁侯と為す。後に更めて武遂に食み、嗣ぐこと三世。元狩元年中、武遂侯平、詔を詐りて衡山王の百斤の金を取るに坐し、棄市に当たるも、病死し、国除かるるなり。陸賈は楚人なり。客を以て高祖に従ひて天下を定め、名づけて口弁有る士と為し、左右に居りて、常に諸侯に使ひす。高祖の時に及び、中国初めて定まる。尉他(いた)南越を平らげ、因りて之に王たり。高祖陸賈をして尉他に印を賜ひて南越王と為さしむ。陸生至る、尉他魋結(ついけつ)箕倨して陸生を見る。陸生因りて進みて他に説きて曰く、「足下は中国の人、親戚昆弟の墳は真定に在り。

現代語訳

そもそも漢王は蜀・漢中から出兵して三秦を平定し、西河の外へ渡って上党の兵を援け、井陘を下って成安君(陳余)を誅し、北の魏を破って三十二の城を攻め取りました。これは戦神蚩尤の兵のようなもので、人の力ではなく天の助けだ。いまや敖倉の穀物を押さえ、成皋の険を塞ぎ、白馬の渡しを守り、太行山の坂を閉ざし、蜚狐の関口を防いでいる。天下で遅れて服従する者から先に滅びるでしょう。王が速やかに真っ先に漢王に降れば、斉国の社稷は保てる。漢王に降らなければ、危亡はたちどころにやって来る。」田広はもっともだと考え、酈生の言葉に従って、歴下の軍の守備と戦闘の備えを解き、酈生と毎日酒宴にふけった。淮陰侯(韓信)は、酈生が車の横木に身を伏せたまま(弁舌だけで)斉の七十余城を降したと聞くと、夜のうちに兵に平原の渡しを渡らせて斉を襲った。斉王田広は漢軍が来たと聞き、酈生が自分を売ったと考え、こう言った。「おまえが漢軍を止められるなら生かしてやる。できなければ釜茹でにするぞ。」酈生は言った。「大事を行う者は細かな慎みにこだわらず、大きな徳のある者は辞退などしない。このおやじはおまえのために言い直したりはせぬ。」斉王はついに酈生を釜茹でにし、兵を率いて東へ逃げた。漢の十二年(前195年)、曲周侯酈商は丞相として兵を率いて黥布を撃ち、功があった。高祖は列侯・功臣を取り立てるにあたり、酈食其を思い出した。酈食其の子の酈疥はたびたび兵を率いたが、その功は侯に封じられるほどではなかった。しかし高祖は父の功を思って、疥を高梁侯に封じた。のちに改めて武遂を食邑とし、三代にわたって受け継いだ。元狩元年(前122年)、武遂侯の酈平が、詔を偽って衡山王から百斤の金を取った罪に問われ、斬首して市にさらす刑に当たったが、病死し、国は取り潰された。陸賈は楚の人である。食客として高祖に従って天下を平定し、弁舌の立つ士として知られ、高祖の側近として、いつも諸侯への使者を務めた。高祖の時代になって、中国がようやく安定した。尉他(趙佗)は南越を平定し、そのままそこの王となっていた。高祖は陸賈を遣わして尉他に印綬を授け、南越王に任じさせた。陸賈が到着すると、尉他は椎のような髷を結い、両足を投げ出して座ったまま陸賈に会った。陸賈は進み出て尉他に説いた。「あなたはもともと中国の人で、親族や兄弟の墓は真定にある。

解説

酈生の生涯の頂点と最期、そして陸賈伝の始まりが一段に収まっています。酈生は劉邦の戦功を並べて天命が漢にあると説き、田広は納得して守りを解きました。ところが功を奪われることを恐れた韓信(蒯通の進言によることは淮陰侯列伝に見えます)が不意に斉を襲い、酈生は裏切り者として釜茹でにされます。死に臨んで「大事を挙ぐる者は細謹せず」と言い放つ姿に、司馬遷は説客の矜持を見ています。後段では、劉邦が晩年に酈生を思い出して子を侯に封じたこと、その家が武帝の元狩年間に罪で絶えたことまで記され、一族の盛衰が見届けられます。続く陸賈は、中国出身でありながら南越で蛮族の風俗に染まった尉他を説く役目を負います。味方同士の功名争いが一人の功労者を死なせた構図は、組織の中の部門間競争にも通じるものがあります。

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