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史記 / 樊酈滕灌列伝

竟高祖崩。以太僕事孝惠。孝惠帝及高后德嬰之脫孝惠、魯元於下邑之閒也,乃賜嬰縣北第第一,曰「近我」,以尊異之。孝惠帝崩,以太僕事高后。高后崩,代王之來,嬰以太僕與東牟侯入清宮,廢少帝,以天子法駕迎代王代邸,與大臣共立為孝文皇帝,復為太僕。八歲卒,謚為文侯。子夷侯灶立,七年卒。子共侯賜立,三十一年卒。子侯頗尚平陽公主。立十九歲,元鼎二年,坐與父御婢姦罪,自殺,國除。潁陰侯灌嬰者,睢陽販繒者也。高祖之為沛公,略地至雍丘下,章邯敗殺項梁,而沛公還軍於碭,嬰初以中涓從擊破東郡尉於成武及秦軍於扛裏,疾鬬,賜爵七大夫。從攻秦軍亳南、開封、曲遇,戰疾力,賜爵執帛,號宣陵君。從攻陽武以西至雒陽,破秦軍尸北,北絕河津,南破南陽守齮陽城東,遂定南陽郡。西入武關,戰於藍田,疾力,至霸上,賜爵執珪,號昌文君。沛公立為漢王,拜嬰為郎中,從入漢中,十月,拜為中謁者。從還定三秦,下櫟陽,降塞王。還圍章邯於廢丘,未拔。從東出臨晉關,擊降殷王,定其地。擊項羽將龍且、魏相項他軍定陶南,疾戰,破之。賜嬰爵列侯,號昌文侯,食杜平鄉。復以中謁者從降下碭,以至彭城。項羽擊,大破漢王。

新字:竟高祖崩。以太僕事孝恵。孝恵帝及高后徳嬰之脱孝恵、魯元於下邑之閒也,乃賜嬰県北第第一,曰「近我」,以尊異之。孝恵帝崩,以太僕事高后。高后崩,代王之来,嬰以太僕与東牟侯入清宮,廃少帝,以天子法駕迎代王代邸,与大臣共立為孝文皇帝,復為太僕。八歳卒,謚為文侯。子夷侯灶立,七年卒。子共侯賜立,三十一年卒。子侯頗尚平陽公主。立十九歳,元鼎二年,坐与父御婢姦罪,自殺,国除。潁陰侯灌嬰者,睢陽販繒者也。高祖之為沛公,略地至雍丘下,章邯敗殺項梁,而沛公還軍於碭,嬰初以中涓従撃破東郡尉於成武及秦軍於扛裏,疾闘,賜爵七大夫。従攻秦軍亳南、開封、曲遇,戦疾力,賜爵執帛,号宣陵君。従攻陽武以西至雒陽,破秦軍尸北,北絶河津,南破南陽守齮陽城東,遂定南陽郡。西入武関,戦於藍田,疾力,至覇上,賜爵執珪,号昌文君。沛公立為漢王,拝嬰為郎中,従入漢中,十月,拝為中謁者。従還定三秦,下櫟陽,降塞王。還囲章邯於廃丘,未抜。従東出臨晋関,撃降殷王,定其地。撃項羽将竜且、魏相項他軍定陶南,疾戦,破之。賜嬰爵列侯,号昌文侯,食杜平郷。復以中謁者従降下碭,以至彭城。項羽撃,大破漢王。

書き下し

高祖の崩ずるを竟ふ。太僕を以て孝恵に事ふ。孝恵帝及び高后嬰の孝恵・魯元を下邑の間に脱せしを徳とし、乃ち嬰に県の北の第の第一を賜ひ、「我に近し」と曰ひ、以て之を尊異す。孝恵帝崩じ、太僕を以て高后に事ふ。高后崩じ、代王の来るや、嬰太僕を以て東牟侯と入りて宮を清め、少帝を廃し、天子の法駕を以て代王を代邸に迎へ、大臣と共に立てて孝文皇帝と為し、復た太僕と為る。八歳にして卒し、諡して文侯と為す。子夷侯竈立ち、七年にして卒す。子共侯賜立ち、三十一年にして卒す。子侯頗平陽公主を尚る。立つこと十九歳、元鼎二年、父の御婢と姦するの罪に坐し、自殺し、国除かる。潁陰侯灌嬰は、睢陽の繒を販ぐ者なり。高祖の沛公為るや、地を略して雍丘の下に至り、章邯項梁を敗殺し、而して沛公還りて碭に軍し、嬰初め中涓を以て従ひて東郡の尉を成武に、及び秦軍を杠里に撃破し、疾く闘ひ、爵七大夫を賜はる。従ひて秦軍を亳の南・開封・曲遇に攻め、戦ふこと疾力、爵執帛を賜はり、宣陵君と号す。従ひて陽武以西雒陽に至るまでを攻め、秦軍を尸の北に破り、北して河津を絶ち、南して南陽の守齮を陽城の東に破り、遂に南陽郡を定む。西して武関に入り、藍田に戦ひ、疾力にして、霸上に至り、爵執珪を賜はり、昌文君と号す。沛公立ちて漢王と為り、嬰を拝して郎中と為し、従ひて漢中に入り、十月、拝して中謁者と為す。従ひて還りて三秦を定め、櫟陽を下し、塞王を降す。還りて章邯を廃丘に囲むも、未だ抜かず。従ひて東して臨晋関を出で、殷王を撃ち降し、其の地を定む。項羽の将龍且・魏の相項他の軍を定陶の南に撃ち、疾く戦ひ、之を破る。嬰に爵列侯を賜ひ、昌文侯と号し、杜の平郷に食む。復た中謁者を以て従ひて碭を降し下し、以て彭城に至る。項羽撃ちて、大いに漢王を破る。

現代語訳

(夏侯嬰は)高祖が崩御するまで太僕を務めた。そのまま太僕として孝恵帝に仕えた。孝恵帝と高后(呂后)は、嬰が下邑のあたりで孝恵と魯元を救い出してくれたことを恩に感じ、宮殿の北にある邸宅の第一等を嬰に与え、「朕に近い」と名付けて、特別に重んじた。孝恵帝が崩御すると、太僕として高后に仕えた。高后が崩御し、代王が都に迎えられると、嬰は太僕として東牟侯(劉興居)とともに宮中に入って宮殿を清め、少帝を廃し、天子の乗る馬車で代王を代国の邸から迎え、大臣たちとともに擁立して孝文皇帝とし、再び太僕となった。その八年後に死に、文侯と諡された。子の夷侯竈(そう)が立ち、七年で死んだ。子の共侯賜が立ち、三十一年で死んだ。子の頗(は)は平陽公主を妻に迎えた。侯となって十九年目の元鼎二年、父の侍女と密通した罪に問われて自殺し、国は廃された。潁陰侯灌嬰(かんえい)は、睢陽(すいよう)で絹織物を売り歩く商人であった。高祖が沛公として各地を攻略して雍丘の城下に至ったころ、章邯が項梁を破って殺し、沛公は引き返して碭に陣取った。嬰ははじめ中涓(側仕えの近侍)として従い、東郡の尉を成武で、秦軍を杠里で撃破し、激しく戦ったので、七大夫の爵位を与えられた。秦軍を亳の南・開封・曲遇で攻めるのに従い、力を尽くして戦ったので、執帛の爵位を与えられ、宣陵君と号した。陽武から西の雒陽に至るまでを攻めるのに従い、秦軍を尸の北で破り、北では黄河の渡し場を断ち、南では南陽郡の守の齮を陽城の東で破り、ついに南陽郡を平定した。西へ進んで武関に入り、藍田で戦い、力を尽くして霸上に至り、執珪の爵位を与えられ、昌文君と号した。沛公が漢王になると、嬰を郎中に任じ、嬰は従って漢中に入り、十月には中謁者(取り次ぎ役)に任じられた。引き返して三秦を平定するのに従い、櫟陽を落とし、塞王(司馬欣)を降伏させた。戻って章邯を廃丘に包囲したが、まだ落とせなかった。東へ臨晋関を出るのに従い、殷王を撃って降伏させ、その地を平定した。項羽の将龍且(りゅうしょ)と魏の相項他の軍を定陶の南で撃ち、激しく戦って破った。嬰に列侯の爵位を与えて昌文侯と号させ、杜の平郷を食邑とした。また中謁者として従い、碭を降伏させて落とし、彭城に至った。項羽が攻めて来て、漢王を大いに破った。

解説

夏侯嬰の晩年と子孫、そして灌嬰伝の始まりです。孝恵帝と呂后は、彭城の敗走で命を救われた恩を忘れず、宮殿に近い最上の邸宅を「我に近し」と名付けて与えました。さらに呂氏誅滅後、夏侯嬰は少帝を廃して代王(文帝)を迎える実務を担い、文帝の即位に関わっています。しかし四代後の曾孫は父の侍女と密通した罪で自殺し、家は絶えました。続く灌嬰は睢陽の絹の行商人で、劉邦の側仕えから始めて爵位を一段ずつ上げていきます。樊噲の犬の屠殺人、夏侯嬰の御者、灌嬰の行商人と、この列伝の四人はみな低い身分の出で、司馬遷は彼らをまとめることで、漢帝国がどんな人々の働きで築かれたかを示しました。出自より、目の前の務めを果たし続けることが人を押し上げたのです。

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