史記 / 呂不韋列伝
秦王所加怒呂不韋、嫪毐皆已死,乃皆復歸嫪毐舍人遷蜀者。始皇十九年,太后薨,謚為帝太后,與莊襄王會葬茝陽。
新字:秦王所加怒呂不韋、嫪毐皆已死,乃皆復帰嫪毐舎人遷蜀者。始皇十九年,太后薨,謚為帝太后,与荘襄王会葬茝陽。
書き下し
秦王の怒りを加ふる所の呂不韋・嫪毐皆已に死す。乃ち皆嫪毐の舎人の蜀に遷されし者を復帰せしむ。始皇の十九年、太后薨ず。謚して帝太后と為し、荘襄王と茝陽に会葬す。
現代語訳
秦王が怒りを向けた呂不韋と嫪毐がどちらも死んだので、蜀に移されていた嫪毐の家来たちをみな呼び戻した。始皇帝の十九年、太后が亡くなり、帝太后と諡されて、荘襄王とともに茝陽に葬られた。
解説
呂不韋列伝の結びにあたる短い段です。怒りの対象だった呂不韋と嫪毐がともに死ぬと、始皇帝は蜀に流していた嫪毐の家来たちを呼び戻しました。首謀者を除いたあとは、連座させた人々への処分をゆるめたのです。始皇帝の十九年には、雍から咸陽に戻されていた母の太后が亡くなり、帝太后と諡されて、夫の荘襄王とともに葬られました。邯鄲の商人が不遇の王孫に目をつけたことから始まった物語は、関わった者がほとんどすべて世を去ることで幕を閉じます。この後に司馬遷の論評が続き、呂不韋を『論語』にいう「聞こえ」、つまり評判だけの人と評しています。大きな事件が片づいたあと、周辺の人々への処遇をどう改めるかは、組織の立て直しでも見落とされがちな点です。恨みを長引かせない後始末が、次の時代の安定につながります。
関連する章句
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史記 呂不韋列伝始皇の九年、嫪毐実は宦者に非ず、常に太后と私乱し、子二人を生み、皆之を匿すと告ぐる有り。太后と謀りて曰く「王即し薨ぜば、子を以て後と為さん」と。是に於て秦王吏に下して治めしめ、具に情実を得たり。事は相国呂不韋に連なる。九月、嫪毐の三族を夷し、太后の生む所の両子を殺し、而して遂に太后を雍に遷す。諸々の嫪毐の舎人は皆其の家を没して之を蜀に遷す。王相国を誅せんと欲するも、其の先王に奉ずるの功大なる為、及び賓客弁士の為に游説する者衆く、王法を致すに忍びず。秦王の十年十月、相国呂不韋を免ず。斉人茅焦の秦王に説くに及び、秦王乃ち太后を雍に迎へ、帰りて咸陽に復せしめ、而して文信侯を出だして国の河南に就かしむ。歳余、諸侯の賓客使者、道に相望み、文信侯を請ふ。秦王其の変を為さんことを恐れ、乃ち文信侯に書を賜ひて曰く、「君何の功か秦に有る。秦は君を河南に封じ、十万戸を食ましむ。君何の親か秦に有る。号して仲父と称す。其れ家属と与に徙りて蜀に処れ」と。呂不韋自ら稍く侵さるるを度り、誅せられんことを恐れ、乃ち酖を飲みて死す。
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史記 呂不韋列伝始皇帝益々壮なり。太后の淫止まず。呂不韋、覚られて禍の己に及ばんことを恐れ、乃ち私かに大陰人嫪毐を求めて以て舎人と為す。時に倡楽を縦にし、毐をして其の陰を以て桐輪を闕けて行かしめ、太后をして之を聞かしめ、以て太后を啗はしむ。太后聞き、果して私かに之を得んと欲す。呂不韋乃ち嫪毐を進め、詐りて人をして腐罪を以て之を告げしむ。不韋又陰かに太后に謂ひて曰く、「詐りて腐を事とせしむべし。則ち給事中を得ん」と。太后乃ち陰かに厚く主腐者の吏に賜ひ、詐りて之を論じ、其の須眉を抜きて宦者と為し、遂に太后に侍するを得たり。太后私かに与に通じ、絶だ之を愛す。身有り。太后人の之を知らんことを恐れ、詐りて卜ふに時を避くべしとし、宮を徙して雍に居る。嫪毐常に従ひ、賞賜甚だ厚く、事皆嫪毐に決す。嫪毐の家僮数千人、諸客の宦を求めて嫪毐の舎人と為る者千余人。始皇の七年、荘襄王の母夏太后薨ず。孝文王の后を華陽太后と曰ひ、孝文王と寿陵に会葬す。夏太后の子荘襄王は芷陽に葬らる。故に夏太后独り別に杜の東に葬られ、曰く「東のかた吾が子を望み、西のかた吾が夫を望む。後百年、旁らに当に万家の邑有るべし」と。
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史記 呂不韋列伝太史公曰く、「不韋及び嫪毐貴く、封じて文信侯と号す。人の嫪毐を告ぐるや、毐之を聞く。秦王左右を験するも、未だ発せず。上雍郊に之く。毐禍の起こるを恐れ、乃ち党と謀り、太后の璽を矯りて卒を発して以て蘄年宮に反す。吏を発して毐を攻む。毐敗れ亡げ走る。之を好畤に追斬し、遂に其の宗を滅ぼす。而して呂不韋此に由りて絀けらる。孔子の所謂『聞』なる者は、其れ呂子か」と。
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史記 春申君列伝是の歳や、秦の始皇帝立ちて九年なり。嫪毐(ろうあい)もまた乱を秦に為す、覚られ、その三族を夷らげ、而して呂不韋廃せらる。
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史記 秦始皇本紀八年、王の弟長安君成蟜将軍として趙を撃ち、反き、屯留に死す。軍吏皆斬死せられ、其の民を臨洮に遷す。将軍壁死す。卒の屯留・蒲鶴反く。其の尸を戮す。河の魚大いに上り、軽車重馬東に食に就く。嫪毐封ぜられて長信侯と為る。之に山陽の地を予へ、毐をして之に居らしむ。宮室車馬衣服苑囿馳猟毐の恣にす。事小大と無く皆毐に決す。又河西の太原郡を以て更めて毐の国と為す。九年、彗星見え、或いは天を竟る。魏の垣・蒲陽を攻む。四月、上雍に宿す。己酉、王冠し、剣を帯ぶ。長信侯毐乱を作さんとして覚はる。王の御璽及び太后の璽を矯めて以て県卒及び衛卒・官騎・戎翟の君公・舎人を発し、将に蘄年宮を攻めて乱を為さんとす。王之を知り、相国昌平君・昌文君に令して卒を発して毐を攻めしむ。咸陽に戦ひ、首を斬ること数百、皆爵を拝す。宦者の皆戦中に在るに及ぶまで、亦爵一級を拝す。毐等敗走す。即ち国中に令す、毐を生け得る有らば、銭百万を賜ひ、之を殺さば、五十万と。尽く毐等を得たり。衛尉竭・内史肆・佐弋竭・中大夫令斉等二十人皆梟首せらる。車裂して以て徇へ、其の宗を滅ぼす。其の舎人に及ぶまで、軽き者は鬼薪と為す。及び爵を奪ひて蜀に遷すこと四千余家、房陵に家せしむ。是の月寒凍し、死する者有り。楊端和衍氏を攻む。彗星西方に見え、又北方に見え、斗より以南八十日。十年、相国呂不韋嫪毐に坐して免ぜらる。桓齮将軍と為る。斉・趙来たりて酒を置く。斉人茅焦秦王に説きて曰く、「秦方に天下を以て事と為す。而るに大王母太后を遷すの名有り。恐らくは諸侯之を聞き、此に由りて秦に倍かん」と。秦王乃ち太后を雍に迎へて咸陽に入れ、復た甘泉宮に居らしむ。
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説苑・正諫秦の始皇帝、太后謹まず、郎の嫪毐に幸し、封じて長信侯と為し、為に両子を生ましむ。毐国事を専らにし、浸く益々驕奢にして、侍中左右の貴臣と俱に博飲す。酒酔いて言を争いて闘い、瞋目大叱して曰わく、「吾は乃ち皇帝の仮父なり。窶人の子、何ぞ敢えて乃ち我と亢せんや」と。与に闘う者走りて行きて皇帝に白す。皇帝大いに怒る。毐誅を懼れ、因りて乱を作し、咸陽宮に戦う。毐敗れ、始皇乃ち毐の四肢を取りて之を車裂す。其の両弟を取りて嚢撲殺す。皇太后を取りて之を萯陽宮に遷す。令を下して曰わく、「敢えて太后の事を以て諫むる者あらば、戮して之を殺さん」と。蒺藜を従えて其の脊肉に、四肢を幹して之を闕下に積む。諫めて死する者二十七人なり。斉の客茅焦乃ち往きて上謁して曰わく、「斉の客茅焦、上りて皇帝を諫めんことを願う」と。皇帝使者をして出でて客に問わしむ。太后の事を以て諫むる無きを得んかと。茅焦然りと曰う。使者還りて白して曰わく、「果たして太后の事を以て諫む」と。皇帝曰わく、走りて往きて之に告げよ、若、闕下に積める死人を見ざるかと。使者茅焦に問う。茅焦曰わく、「臣之を聞く、天に二十八宿有り、今死する者已に二十七人有り。臣の来たる所以の者は、其の数を満たさんと欲するのみ。臣人の死するを畏るるに非ざるなり」と。走りて入りて之を白す。茅焦の邑子、食を同じくする者尽く其の衣物を負いて行きて亡ぐ。使者入りて之を白す。皇帝大いに怒りて曰わく、「是の子故に来たりて吾が禁を犯す。趣ちに鑊湯を炊きて之を煮よ。是れ安んぞ闕下に積むを得んや」と。趣ちに之を召し入れしむ。皇帝剣を按じて坐す。口正に沫出づ。使者之を召し入る。茅焦疾行するを肯んぜず、足趣きて相過ぎるのみ。使者之を趣す。茅焦曰わく、「臣前に至らば則ち死せん。君独り吾が須臾を忍ぶ能わざるか」と。使者極めて之を哀れむ。茅焦前に至りて再拝謁起し、称して曰わく、「臣之を聞く、夫れ生有る者は死を諱まず、国有る者は亡を諱まず。死を諱む者は以て生を得べからず、亡を諱む者は以て存を得べからず。死生存亡は、聖主の急に聞かんと欲する所なり。審らかならず、陛下之を聞かんと欲するや不や」と。皇帝曰わく、「何の謂いぞや」と。茅焦対えて曰わく、「陛下狂悖の行有り、陛下自ら知らざるか」と。皇帝曰わく、「何等ぞや、聞かんことを願う」と。茅焦対えて曰わく、「陛下仮父を車裂す、嫉妒の心有り。両弟を嚢撲す、不慈の名有り。母を萯陽宮に遷す、不孝の行有り。蒺藜を諫士に従う、桀紂の治有り。今天下之を聞かば、尽く瓦解して秦に嚮う者無からん。臣竊かに秦の亡ぶるを恐れ、陛下の為に之を危ぶむ。言う所已に畢わる。行きて質に就かんことを乞う」と。乃ち衣を解きて質に伏す。皇帝殿を下り、左手に之を接し、右手に左右を麾りて曰わく、「之を赦せ。先生衣に就け、今事を受けんことを願う」と。乃ち焦を立てて仲父と為し、之に上卿を爵す。皇帝駕を立て、千乗万騎、左方を空しくして自ら行きて太后を萯陽宮に迎え、咸陽に帰る。太后大いに喜び、乃ち大いに酒を置きて茅焦を待つ。飲むに及び、太后曰わく、「枉を抗げて直に令め、敗を使て更に成らしめ、秦の社稷を安んず。妾が母子をして復た相会うを得しむる者は、尽く茅君の力なり」と。
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