史記 / 屈原賈生列伝
長子頃襄王立,以其弟子蘭為令尹。楚人既咎子蘭以勸懷王入秦而不反也。屈平既嫉之,雖放流,睠顧楚國,系心懷王,不忘欲反,冀幸君之一悟,俗之一改也。其存君興國而欲反覆之,一篇之中三致志焉。然終無可奈何,故不可以反,卒以此見懷王之終不悟也。人君無愚智賢不肖,莫不欲求忠以自為,舉賢以自佐,然亡國破家相隨屬,而聖君治國累世而不見者,其所謂忠者不忠,而所謂賢者不賢也。懷王以不知忠臣之分,故內惑於鄭袖,外欺於張儀,疏屈平而信上官大夫、令尹子蘭。兵挫地削,亡其六郡,身客死於秦,為天下笑。此不知人之禍也。《易》曰:「井泄不食,為我心惻,可以汲。王明,并受其福。」王之不明,豈足福哉?令尹子蘭聞之大怒,卒使上官大夫短屈原於頃襄王,頃襄王怒而遷之。
新字:長子頃襄王立,以其弟子蘭為令尹。楚人既咎子蘭以勧懐王入秦而不反也。屈平既嫉之,雖放流,睠顧楚国,系心懐王,不忘欲反,冀幸君之一悟,俗之一改也。其存君興国而欲反覆之,一篇之中三致志焉。然終無可奈何,故不可以反,卒以此見懐王之終不悟也。人君無愚智賢不肖,莫不欲求忠以自為,舉賢以自佐,然亡国破家相随属,而聖君治国累世而不見者,其所謂忠者不忠,而所謂賢者不賢也。懐王以不知忠臣之分,故内惑於鄭袖,外欺於張儀,疏屈平而信上官大夫、令尹子蘭。兵挫地削,亡其六郡,身客死於秦,為天下笑。此不知人之禍也。《易》曰:「井泄不食,為我心惻,可以汲。王明,并受其福。」王之不明,豈足福哉?令尹子蘭聞之大怒,卒使上官大夫短屈原於頃襄王,頃襄王怒而遷之。
書き下し
長子頃襄王立ち、其の弟子蘭を以て令尹と為す。楚人既に子蘭の懐王に秦に入るを勧めて反らざるを咎む。屈平既に之を嫉み、放流せらると雖も、楚国を睠顧し、心を懐王に系け、反らんと欲するを忘れず。君の一たび悟り、俗の一たび改まらんことを冀幸す。其の君を存し国を興して之を反覆せんと欲すること、一篇の中に三たび志を致す。然れども終に奈何ともすべき無し。故に以て反るべからず。卒に此を以て懐王の終に悟らざるを見るなり。人君は愚智賢不肖と無く、忠を求めて以て自ら為し、賢を挙げて以て自ら佐けんと欲せざる莫し。然れども亡国破家相隨属し、而して聖君の国を治むること累世にして見えざる者は、其の所謂忠なる者は忠ならず、而して所謂賢なる者は賢ならざればなり。懐王は忠臣の分を知らざるを以て、故に内は鄭袖に惑ひ、外は張儀に欺かれ、屈平を疏んじて上官大夫・令尹子蘭を信ず。兵挫け地削られ、其の六郡を亡ひ、身は秦に客死し、天下の笑と為る。此れ人を知らざるの禍なり。易に曰く、「井渫へども食はれず、我が心の惻みを為す。以て汲むべし。王明らかなれば、并びに其の福を受けん」と。王の明らかならざる、豈に福に足らんや。令尹子蘭之を聞きて大いに怒り、卒に上官大夫をして屈原を頃襄王に短らしむ。頃襄王怒りて之を遷す。
現代語訳
長子の頃襄王が即位し、その弟の子蘭を令尹(宰相)とした。楚の人々は、子蘭が懐王に秦へ行くよう勧め、王が帰れなくなったことを責めた。屈平も子蘭を憎んでいた。屈平は追放の身であったが、楚の国を振り返って案じ、懐王に心を寄せ、朝廷に戻りたいという思いを忘れなかった。君主が一度でも悟り、世の風潮が一度でも改まることをひたすら願っていた。君主を守り国を興して、状況をくつがえしたいという思いを、一篇の詩のなかで三度も述べている。しかし結局どうすることもできず、戻ることはかなわなかった。ついにこのことから、懐王が最後まで悟らなかったことがわかるのである。君主というものは、愚かであれ賢くあれ、優れていれ劣っていれ、忠臣を求めて自分のためにし、賢者を登用して自分を助けさせたいと思わない者はいない。それなのに国が滅び家が破れることが次々に続き、聖君が国を治めることが何代たっても見られないのは、君主が忠臣だと思っている者が実は忠臣でなく、賢者だと思っている者が実は賢者でないからである。懐王は忠臣の本分がわからなかったので、内では鄭袖に惑わされ、外では張儀に欺かれ、屈平を遠ざけて上官大夫や令尹子蘭を信じた。その結果、軍は敗れ領土は削られ、六つの郡を失い、自身は秦で客死して天下の笑い者になった。これは人を見る目がなかったことによる災いである。『易経』に「井戸をさらって清めたのに飲まれない。それが私の心を痛ませる。汲めば飲めるのだ。王が聡明であれば、みなともにその恵みを受けられるのに」とある。王が聡明でなければ、どうして恵みを受けられようか。令尹の子蘭はこれを聞いて大いに怒り、ついに上官大夫に命じて頃襄王に屈原を悪く言わせた。頃襄王は怒って屈原を遠方に流した。
解説
関連する章句
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『新序』節士第七屈原齊に使いす。還りて張儀已に去るを聞く。大いに王の爲に張儀の罪を言う。懷王人をして之を追わしむ。及ばず。後に秦女を楚に嫁がしめ、懷王と歡を與にし、藍田の會を爲す。屈原以爲えらく秦は信ず可からず、願わくは會する勿かれ、と。羣臣皆な以爲えらく會す可し、と。懷王遂に會す。果たして囚拘せられ、秦に客死し、天下の笑いと爲る。懷王の子頃襄王も、亦た羣臣の諂いて懷王を誤らせしを知る。其の罪を察せず、反って羣讒の口を聽き、復た屈原を放つ。屈原闇王俗を亂すを疾む。汶汶嘿嘿として、是を以て非と爲し、淸を以て濁と爲す。世に見ゆるに忍びず、將に自ら淵に投ぜんとす。漁父之を止む。屈原曰く、世皆な醉えり、我獨り醒む。世皆な濁れり、我獨り淸し。吾獨り之を聞く、新たに浴する者は必ず衣を振るい、新たに沐する者は必ず冠を彈く、と。又た惡くんぞ能く其の泠泠たるを以て世の嘿嘿たる者に更事せんや。吾寧ろ淵に投じて死せん、と。遂に自ら湘水汨羅の中に投じて死す。
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史記 屈原賈生列伝屈平既に絀けらる。其の後秦斉を伐たんと欲す。斉と楚と従親す。恵王之を患ふ。乃ち張儀をして詳りて秦を去り、厚幣もて質を委ねて楚に事へしめて曰く、「秦は甚だ斉を憎む。斉と楚と従親す。楚誠に能く斉と絶たば、秦は商・於の地六百里を献ぜんことを願ふ」と。楚の懐王貪りて張儀を信じ、遂に斉と絶ち、使をして秦に如きて地を受けしむ。張儀之を詐りて曰く、「儀は王と六里を約せり。六百里を聞かず」と。楚の使怒りて去り、帰りて懐王に告ぐ。懐王怒り、大いに師を興して秦を伐つ。秦兵を発して之を撃ち、大いに楚の師を丹・淅に破り、首を斬ること八万、楚将屈丐を虜にし、遂に楚の漢中の地を取る。懐王乃ち悉く国中の兵を発して以て深く入りて秦を撃ち、藍田に戦ふ。魏之を聞き、楚を襲ひて鄧に至る。楚兵懼れ、秦より帰る。而して斉竟に怒りて楚を救はず。楚大いに困しむ。明年、秦漢中の地を割きて楚に与へ以て和す。楚王曰く、「地を得るを願はず。張儀を得て心を甘んぜんことを願ふ」と。張儀聞き、乃ち曰く、「一儀を以て漢中の地に当つ。臣請ふ往きて楚に如かん」と。楚に如き、又因りて厚幣もて事を用ふる者の臣靳尚に用ひ、而して詭弁を懐王の寵姫鄭袖に設く。懐王竟に鄭袖に聴き、復た張儀を釈し去らしむ。是の時屈平既に疏んぜられ、復た位に在らず。斉に使ひし、顧反し、懐王を諫めて曰く、「何ぞ張儀を殺さざる」と。懐王悔い、張儀を追へども及ばず。其の後諸侯共に楚を撃ち、大いに之を破り、其の将唐眛を殺す。時に秦の昭王楚と婚し、懐王と会せんと欲す。懐王行かんと欲す。屈平曰く、「秦は虎狼の国なり。信ずべからず。行くこと毋きに如かず」と。懐王の稚子子蘭、王に行くを勧む。「奈何ぞ秦の歓を絶たん」と。懐王卒に行く。武関に入る。秦伏兵もて其の後を絶ち、因りて懐王を留め、以て地を割かんことを求む。懐王怒り、聴かず。亡げて趙に走る。趙内れず。復た秦に之き、竟に秦に死して帰葬せらる。
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史記 屈原賈生列伝屈原は、名は平、楚の同姓なり。楚の懐王の左徒と為る。博聞彊志、治乱に明らかに、辞令に嫺(なら)ふ。入りては則ち王と国事を図議し、以て号令を出だす。出でては則ち賓客を接遇し、諸侯に応対す。王甚だ之に任ず。上官大夫之と列を同じくし、寵を争ひて心に其の能を害む。懐王屈原をして憲令を造為せしむ。屈平草槁を属して未だ定まらず。上官大夫見て之を奪はんと欲す。屈平与へず。因りて之を讒して曰く、「王屈平をして令を為さしむ、衆知らざる莫し。一令出づる每に、平其の功を伐り、以て我に非ざれば能く為す莫しと為す」と。王怒りて屈平を疏んず。
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史記 楚世家鄭袖卒に張儀を王に言ひて之を出だす。儀出づ。懐王因りて善く儀を遇す。儀因りて楚王に説きて以て従約に叛きて秦と合親し、婚姻を約せしむ。張儀已に去る。屈原使ひして斉より来たり、王を諫めて曰く、「何ぞ張儀を誅せざる」と。懐王悔い、人をして儀を追はしむるも、及ばず。是の歳、秦の恵王卒す。二十年、斉の湣王従長と為らんと欲し、楚の秦と合するを悪み、乃ち使ひをして楚王に書を遺らしめて曰く、「寡人楚の尊名を察せざるを患ふ。今秦の恵王死し、武王立ち、張儀魏に走り、樗里疾・公孫衍用ひらる。而して楚秦に事ふ。夫れ樗里疾は韓に善く、而して公孫衍は魏に善し。楚必ず秦に事へば、韓・魏恐れ、必ず二人に因りて秦に合はんことを求めん。則ち燕・趙も亦た宜しく秦に事ふべし。四国争ひて秦に事へば、則ち楚は郡県と為らん。王何ぞ寡人と力を并せて韓・魏・燕・趙を収め、与に従を為して周室を尊び、以て兵を案じ民を息め、天下に令せざる。敢て楽しみて聴かざる莫くんば、則ち王の名成らん。王諸侯を率ゐて并せ伐たば、秦を破ること必せり。王武関・蜀・漢の地を取り、呉・越の富を私して江海の利を擅にし、韓・魏上党を割き、西のかた函谷に薄らば、則ち楚の彊百万ならん。且つ王張儀に欺かれ、地を漢中に亡ひ、兵を藍田に銼かる。天下王に代はりて怒りを懐かざる莫し。今乃ち先づ秦に事へんと欲す。願はくは大王之を孰計せよ」と。楚王業已に秦に和せんと欲す。斉王の書を見て、猶予して決せず、其の議を群臣に下す。群臣或いは秦に和せんと言ひ、或いは斉に聴かんと曰ふ。昭雎曰く、「王東のかた地を越に取ると雖も、以て恥を刷ふに足らず。必ず且に地を秦に取るべし。而る後に以て恥を諸侯に刷ふに足らん。王深く斉・韓に善くして以て樗里疾を重んずるに如かず。是の如くせば則ち王韓・斉の重きを得て以て地を求めん。
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『新序』節士第七屈原なる者は、名は平、楚の同姓の大夫なり。博通の知、清潔の行有り。懷王之を用う。秦諸侯を吞滅し、天下を并兼せんと欲す。屈原楚の爲に東のかた齊に使いし、以て强黨を結ぶ。秦國之を患う。張儀をして楚に之かしめ、楚の貴臣上官大夫靳尚の屬に貨し、上は令尹子闌・司馬子椒に及ぶ。内には夫人鄭袖に賂い、共に屈原を譖す。屈原遂に外に放たる。乃ち離騷を作る。張儀因りて楚をして齊を絶たしむ。謝地六百里を許す。懷王左右の姦謀を信じ、張儀の邪說を聽き、遂に强齊の大輔を絶つ。楚既に齊を絶つ。而して秦は欺くに六里を以てす。懷王大いに怒り、兵を舉げて秦を伐つ。大戰すること數ミ。秦兵大いに楚師を敗り、首を斬ること數萬級。秦人をして漢中の地を以て懷王に謝せんことを願わしむ。聽かず、張儀を得て心に甘んぜんことを願う。張儀曰く、一儀を以て漢中の地に易う。何ぞ儀を愛しまんや、と。行かんことを請い、遂に楚に至る。楚之を囚う。上官大夫の屬共に之を王に言う。王之を歸す。是の時懷王屈原の策を用いずして、以て此に至れるを悔ゆ。是に於いて復た屈原を用う。
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史記 楚世家郢中王を立てば、因りて其の新王と市して曰はん、『我に下東国を予へよ。吾王の為に太子を殺さん。然らずんば、将に三国と共に之を立てんとす』と。然らば則ち東国必ず得べし」と。斉王卒に其の相の計を用ひて楚の太子を帰す。太子横至り、立ちて王と為る。是を頃襄王と為す。乃ち秦に告げて曰く、「社稷の神霊に頼り、国に王有り」と。頃襄王横の元年、秦懐王に要むるも地を得べからず、楚王を立てて以て秦に応ず。秦の昭王怒り、兵を発して武関より出でて楚を攻め、大いに楚の軍を敗り、首を斬ること五万、析十五城を取りて去る。二年、楚の懐王亡げ逃れて帰らんとす。秦之を覚り、楚の道を遮る。懐王恐れ、乃ち間道より趙に走りて以て帰らんことを求む。趙の主父代に在り。其の子恵王初めて立ちて王事を行ふ。恐れて、敢て楚王を入れず。楚王魏に走らんと欲す。秦追ひて至り、遂に秦の使ひと復た秦に之く。懐王遂に病を発す。頃襄王の三年、懐王秦に卒す。秦其の喪を楚に帰す。楚人皆之を憐れみ、親戚を悲しむが如し。諸侯是に由りて秦を直とせず。秦・楚絶つ。六年、秦白起をして韓を伊闕に伐たしめ、大いに勝ち、首を斬ること二十四万。秦乃ち楚王に書を遺りて曰く、「楚秦に倍く。秦且に諸侯を率ゐて楚を伐ち、一旦の命を争はんとす。願はくは王の士卒を飭へ、一たび楽しみて戦ふことを得ん」と。楚の頃襄王之を患ひ、乃ち謀りて復た秦と平らぐ。七年、楚婦を秦に迎へ、秦・楚復た平らぐ。十一年、斉・秦各々自ら称して帝と為る。月余にして、復た帝を帰して王と為る。十四年、楚の頃襄王秦の昭王と宛に好会し、和親を結ぶ。十五年、楚王秦・三晋・燕と共に斉を伐ち、淮北を取る。十六年、秦の昭王と鄢に好会す。其の秋、復た秦王と穣に会す。十八年、楚人に好んで弱弓微繳を以て帰鴈の上に加ふる者有り。頃襄王聞きて、召して之を問ふ。
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