史記 / 廉頗藺相如列伝
居六年,趙使廉頗伐魏之繁陽,拔之。趙孝成王卒,子悼襄王立,使樂乘代廉頗。廉頗怒,攻樂乘,樂乘走。廉頗遂奔魏之大梁。其明年,趙乃以李牧爲將而攻燕,拔武遂、方城。廉頗居梁久之,魏不能信用。
新字:居六年,趙使廉頗伐魏之繁陽,抜之。趙孝成王卒,子悼襄王立,使楽乗代廉頗。廉頗怒,攻楽乗,楽乗走。廉頗遂奔魏之大梁。其明年,趙乃以李牧為将而攻燕,抜武遂、方城。廉頗居梁久之,魏不能信用。
書き下し
居ること六年、趙、廉頗をして魏の繁陽を伐たしめ、これを抜く。趙の孝成王卒し、子の悼襄王立ち、楽乗をして廉頗に代へしむ。廉頗怒り、楽乗を攻む、楽乗走る。廉頗遂に魏の大梁に奔る。その明年、趙乃ち李牧を以て将と為して燕を攻め、武遂・方城を抜く。廉頗、梁に居ること久しくして、魏信用する能はず。
現代語訳
六年たって、趙は廉頗に魏の繁陽を討たせ、これを落とした。趙の孝成王が亡くなり、子の悼襄王が即位すると、楽乗を廉頗に代わる将とした。廉頗は怒って楽乗を攻め、楽乗は逃げた。廉頗はそのまま魏の都大梁に亡命した。その翌年、趙は李牧を将として燕を攻め、武遂と方城を落とした。廉頗は大梁に長くいたが、魏は彼を信頼して用いることができなかった。
解説
名将廉頗が趙を去ることになった経緯を記した段です。廉頗は燕を破った後も魏の繁陽を落とすなど活躍を続けていましたが、孝成王が亡くなって悼襄王が即位すると、楽乗に将を交代させられました。廉頗は怒って楽乗を攻め、そのまま魏に亡命してしまいます。王の代替わりで功労者が退けられる構図は、楽毅と燕の恵王の関係とそっくりです。ただし楽毅が静かに趙へ去ったのに対し、廉頗は怒りに任せて交代の将を攻めており、その激しい気性が自らの居場所を失わせた面もあります。趙はその後、李牧を将として燕の武遂と方城を落とし、新しい名将が育っていきました。一方、魏は亡命してきた廉頗を長く抱えながら、信頼して用いることができませんでした。他国の功臣をどう扱えばよいか分からなかったのです。代替わりの人事への不満を、怒りで表してしまうことの損失と、外から来た実力者を生かせない組織の問題の両方を考えさせる段です。
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史記 廉頗藺相如列伝趙の悼襄王の元年、廉頗既に亡げて魏に入り、趙、李牧をして燕を攻めしめ、武遂・方城を抜く。居ること二年、龐暖燕の軍を破り、劇辛を殺す。後七年、秦、趙の将扈輒を武遂に破り殺し、斬首十万。趙乃ち李牧を以て大将軍と為し、秦の軍を宜安に撃ち、大いに秦の軍を破り、秦の将桓齮を走らす。李牧を封じて武安君と為す。居ること三年、秦番吾を攻む、李牧秦の軍を撃破し、南のかた韓・魏を距ぐ。趙王遷の七年、秦、王翦をして趙を攻めしむ、趙、李牧・司馬尚をしてこれを禦がしむ。秦多く趙王の寵臣郭開に金を与へ、反間を為し、李牧・司馬尚反せんと欲すと言はしむ。趙王乃ち趙蔥及び斉の将顔聚をして李牧に代へしむ。李牧命を受けず、趙人をして微かに李牧を捕へ得しめ、これを斬る。司馬尚を廃す。後三月、王翦因りて急に趙を撃ち、大いに趙蔥を破り殺し、趙王遷及びその将顔聚を虜にし、遂に趙を滅ぼす。
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史記 楽毅列伝楽閒燕に居ること三十余年、燕王喜その相栗腹の計を用ひ、趙を攻めんと欲して、昌国君楽閒に問ふ。楽閒曰く、「趙は四戦の国なり、その民は兵に習ふ、これを伐つは不可なり」と。燕王聴かず、遂に趙を伐つ。趙、廉頗をしてこれを撃たしめ、大いに栗腹の軍を鄗に破り、栗腹・楽乗を禽にす。楽乗は楽閒の宗なり。是に於いて楽閒趙に奔り、趙遂に燕を囲む。燕重く地を割きて以て趙と和す、趙乃ち解きて去る。燕王、楽閒を用ひざりしを恨み、楽閒既に趙に在り、乃ち楽閒に書を遺りて曰く、「紂の時、箕子用ひられず、犯諫して怠らず、以てその聴かんことを冀ふ。商容達せず、身祇だ辱めらる、以てその変ぜんことを冀ふ。民の志入らず、獄囚自ら出づるに及び、然る後に二子退隠す。故に紂は桀暴の累を負ひ、二子は忠聖の名を失はず。何となれば、その憂患の尽くせばなり。今、寡人愚なりと雖も、紂の暴に若かざるなり。燕の民乱ると雖も、殷の民の甚だしきに若かざるなり。室に語有り、相尽くさずして、以て隣里に告ぐ。二者、寡人は君の為に取らざるなり」と。楽閒・楽乗、燕のその計を聴かざるを怨み、二人卒に趙に留まる。趙、楽乗を封じて武襄君と為す。その明年、楽乗・廉頗、趙の為に燕を囲む、燕、礼を重くして以て和し、乃ち解く。後五歳、趙の孝成王卒す。襄王、楽乗をして廉頗に代はらしむ。廉頗楽乗を攻む、楽乗走り、廉頗亡げて魏に入る。その後十六年にして秦趙を滅ぼす。その後二十余年、高帝趙を過ぎ、問ふ、「楽毅に後世有るか」と。対へて曰く、「楽叔有り」と。高帝これを楽卿に封じ、号して華成君と曰ふ。華成君は楽毅の孫なり。而して楽氏の族に楽瑕公・楽臣公有り、趙且に秦の滅ぼす所と為らんとするや、亡げて斉の高密に之く。楽臣公は善く黄帝・老子の言を修め、斉に顕聞し、賢師と称せらる。
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