智囊 / 制勝・趙奢
秦伐韓,軍於閼與。趙王問廉頗:「韓可救否?」對曰:「道遠險狹,難救。」又問樂乘,如頗言。及問趙奢,奢對曰:「道遠險狹,譬之兩鼠鬥於穴中,將勇者勝。」乃遣奢將而往,去邯鄲三十里,而令軍中曰:「有以軍事諫者,死。」秦軍軍武安西,鼓噪勒兵,屋瓦皆振。軍中候有一人言急救武安,奢立斬之,堅壁留二十八日,不行,復益增壘。秦間來入,奢善食而遣之,間以報秦將,秦將大喜曰:「夫去國三十里而軍不行,乃增壘,閼與非趙地也!」奢既遣秦間,乃卷甲而趣之,一日一夜至。令善射者去閼與五十里而軍,軍壘成,秦人聞之,悉甲而至。軍士許歷請以軍事諫,奢曰:「內之。」許歷曰:「秦人不意趙師至,此其來氣盛,將軍必厚集其陣以待之,不然必敗。」奢許諾,許歷請就誅,奢曰:「胥後令。」至欲戰,歷復請諫,曰:「先據北山上者勝,後至者敗。」奢許諾,即發萬人趨之,秦兵後至,爭山不得上,奢縱兵擊之,大破秦軍,遂解閼與之圍。〔評〕孫子曰:「反間者,因敵間而用之。」又曰:「我得亦利,彼得亦利,為爭地。」閼與之捷是也。許歷智士,不聞復以戰功顯,何哉?於漢廣武君亦然。
新字:秦伐韓,軍於閼与。趙王問廉頗:「韓可救否?」対曰:「道遠険狭,難救。」又問楽乗,如頗言。及問趙奢,奢対曰:「道遠険狭,譬之両鼠鬥於穴中,将勇者勝。」乃遣奢将而往,去邯鄲三十里,而令軍中曰:「有以軍事諫者,死。」秦軍軍武安西,鼓噪勒兵,屋瓦皆振。軍中候有一人言急救武安,奢立斬之,堅壁留二十八日,不行,復益增塁。秦間来入,奢善食而遣之,間以報秦将,秦将大喜曰:「夫去国三十里而軍不行,乃增塁,閼与非趙地也!」奢既遣秦間,乃巻甲而趣之,一日一夜至。令善射者去閼与五十里而軍,軍塁成,秦人聞之,悉甲而至。軍士許歴請以軍事諫,奢曰:「内之。」許歴曰:「秦人不意趙師至,此其来気盛,将軍必厚集其陣以待之,不然必敗。」奢許諾,許歴請就誅,奢曰:「胥後令。」至欲戦,歴復請諫,曰:「先拠北山上者勝,後至者敗。」奢許諾,即発万人趨之,秦兵後至,争山不得上,奢縦兵撃之,大破秦軍,遂解閼与之囲。〔評〕孫子曰:「反間者,因敵間而用之。」又曰:「我得亦利,彼得亦利,為争地。」閼与之捷是也。許歴智士,不聞復以戦功顕,何哉?於漢広武君亦然。
書き下し
秦は韓を伐ち、閼与に軍す。趙王は廉頗に問う、「韓は救うべきか。」と。対えて曰く、「道は遠く険しく狭し、救い難し。」と。また楽乗に問うに、頗の言の如し。趙奢に問うに及び、奢は対えて曰く、「道は遠く険しく狭し。これを譬うれば、両鼠が穴中に闘うが如し、将の勇なる者が勝つ。」と。乃ち奢を遣わして将として往かしむ。邯鄲を去ること三十里にして、軍中に令して曰く、「軍事を以て諫むる者あらば、死。」と。秦軍は武安の西に軍し、鼓噪して兵を勒し、屋瓦皆振う。軍中の候に一人あり、武安を急ぎ救わんことを言う。奢は立ちどころにこれを斬り、壁を堅くして留まること二十八日、行かず、復た塁を増す。秦の間来たりて入る。奢は善く食わせて遣る。間は以て秦将に報ず。秦将は大いに喜びて曰く、「夫れ国を去ること三十里にして軍は行かず、乃ち塁を増す。閼与は趙の地に非ざるなり。」と。奢は既に秦の間を遣るや、乃ち甲を巻いてこれに趣き、一日一夜にして至る。善く射る者をして閼与を去ること五十里にして軍せしむ。軍壘成りて、秦人はこれを聞き、甲を悉くして至る。軍士の許歴は軍事を以て諫めんことを請う。奢曰く、「内れよ。」と。許歴曰く、「秦人は趙の師の至るを意わず。この来るは気盛んなり。将軍は必ず厚くその陣を集めて以て待て。然らずんば必ず敗れん。」と。奢は許諾す。許歴は誅に就かんことを請う。奢曰く、「後の令を胥て。」と。戦わんとするに至り、歴は復た諫めんことを請いて曰く、「先に北山の上に据る者は勝ち、後に至る者は敗る。」と。奢は許諾し、即ち万人を発してこれに趣かしむ。秦兵は後れて至り、山を争うも上るを得ず。奢は兵を縦ちてこれを撃ち、大いに秦軍を破り、遂に閼与の囲みを解く。〔評〕孫子曰く、「反間は、敵の間に因りて之を用う。」と。又曰く、「我得るも亦利あり、彼得るも亦利あるは、争地と為す。」と。閼与の捷は是なり。許歴は智士なるに、復た戦功を以て顕るるを聞かず、何ぞや。漢の広武君においてもまた然り。
現代語訳
秦が韓を攻めて、閼与に陣を置いた。趙王は廉頗に尋ねた。「韓は救うべきか。」答えた。「道が遠く険しく狭く、救うのは難しいです。」さらに楽乗に尋ねると、廉頗と同じ返答だった。趙奢に尋ねると、趙奢は答えた。「道は遠く険しく狭いですが、たとえるなら二匹の鼠が穴の中で争うようなもの、将が勇敢な者が勝ちます。」そこで趙奢を将として遣わした。邯鄲を三十里離れたところで、軍中に命じた。「軍事について諫める者は、死刑とする。」秦軍は武安の西に陣を置き、鼓を鳴らして叫んで兵を整え、屋根の瓦がすべて震えた。軍中の偵察兵に、武安を急ぎ救うべきだと言う者がいた。趙奢はすぐにこれを斬り、塁を堅くして二十八日留まり、動かず、さらに塁を増築した。秦の間者が入ってきた。趙奢はよく食べさせて帰した。間者は秦の将に報告した。秦の将は大いに喜んで言った。「国都を三十里離れて軍は進まず、塁を増やしている。閼与は趙の地ではなくなったのだ。」趙奢は秦の間者を帰すと、鎧を巻いて急ぎ向かい、一日一夜で着いた。弓の名手に命じて、閼与から五十里の地に陣を置かせた。陣の塁が完成すると、秦人はこれを聞き、全軍で来た。軍士の許歴が軍事について諫めたいと請うた。趙奢は言った。「通せ。」許歴は言った。「秦人は趙の軍が来るとは思っていませんでした。この来襲は気勢が盛んです。将軍は必ず陣を厚く集めて待ち受けてください。そうでなければ必ず敗れます。」趙奢は承知した。許歴は処刑を受けることを請うた。趙奢は言った。「その後の命令を待て。」戦おうとするとき、許歴はまた諫めたいと請うて言った。「先に北山の上に拠った者が勝ち、後に至った者が負けます。」趙奢は承知し、すぐに一万人を出して急がせた。秦兵は遅れて来て、山を争ったが登れなかった。趙奢は兵を放って撃ち、大いに秦軍を破り、ついに閼与の囲みを解いた。〔評〕孫子は言った。「反間は敵の間者を利用してこれを用いる。」また言った。「我が得ても利があり、彼が得ても利がある地は、争地である。」閼与の勝ちはこれである。許歴は智者であるが、その後に戦功で顕れたと聞かないのは、なぜか。漢の広武君においてもまた同じである。
解説
この章句が説くこと
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