史記 / 范雎蔡沢列伝
秦大破趙於長平,遂圍邯鄲。已而與武安君白起有隙,言而殺之。任鄭安平,使擊趙。鄭安平為趙所圍,急,以兵二萬人降趙。應侯席槁請罪。秦之法,任人而所任不善者,各以其罪罪之。於是應侯罪當收三族。秦昭王恐傷應侯之意,乃下令國中:「有敢言鄭安平事者,以其罪罪之。」而加賜相國應侯食物日益厚,以順適其意。後二歲,王稽為河東守,與諸侯通,坐法誅。而應侯日益以不懌。昭王臨朝嘆息,應侯進曰:「臣聞『主憂臣辱,主辱臣死』。今大王中朝而憂,臣敢請其罪。」昭王曰:「吾聞楚之鐵劍利而倡優拙。夫鐵劍利則士勇,倡優拙則思慮遠。夫以遠思慮而御勇士,吾恐楚之圖秦也。夫物不素具,不可以應卒,今武安君既死,而鄭安平等畔,內無良將而外多敵國,吾是以憂。」欲以激勵應侯。應侯懼,不知所出。蔡澤聞之,往入秦也。蔡澤者,燕人也。游學干諸侯小大甚眾,不遇。而從唐舉相,曰:「吾聞先生相李兌,曰『百日之內持國秉』,有之乎?」曰:「有之。」曰:「若臣者何如?」唐舉孰視而笑曰:「先生曷鼻,巨肩,魋顏,蹙齃,膝攣。吾聞聖人不相,殆先生乎?」蔡澤知唐舉戲之,乃曰:「富貴吾所自有,吾所不知者壽也,願聞之。」唐舉曰:「先生之壽,從今以往者四十三歲。」
新字:秦大破趙於長平,遂囲邯鄲。已而与武安君白起有隙,言而殺之。任鄭安平,使撃趙。鄭安平為趙所囲,急,以兵二万人降趙。応侯席槁請罪。秦之法,任人而所任不善者,各以其罪罪之。於是応侯罪当収三族。秦昭王恐傷応侯之意,乃下令国中:「有敢言鄭安平事者,以其罪罪之。」而加賜相国応侯食物日益厚,以順適其意。後二歳,王稽為河東守,与諸侯通,坐法誅。而応侯日益以不懌。昭王臨朝嘆息,応侯進曰:「臣聞『主憂臣辱,主辱臣死』。今大王中朝而憂,臣敢請其罪。」昭王曰:「吾聞楚之鉄剣利而倡優拙。夫鉄剣利則士勇,倡優拙則思慮遠。夫以遠思慮而御勇士,吾恐楚之図秦也。夫物不素具,不可以応卒,今武安君既死,而鄭安平等畔,内無良将而外多敵国,吾是以憂。」欲以激励応侯。応侯懼,不知所出。蔡沢聞之,往入秦也。蔡沢者,燕人也。游学干諸侯小大甚衆,不遇。而従唐舉相,曰:「吾聞先生相李兌,曰『百日之内持国秉』,有之乎?」曰:「有之。」曰:「若臣者何如?」唐舉孰視而笑曰:「先生曷鼻,巨肩,魋顔,蹙齃,膝攣。吾聞聖人不相,殆先生乎?」蔡沢知唐舉戯之,乃曰:「富貴吾所自有,吾所不知者寿也,願聞之。」唐舉曰:「先生之寿,従今以往者四十三歳。」
書き下し
秦大いに趙を長平に破り、遂に邯鄲を囲む。已にして武安君白起と隙有り、言ひてこれを殺す。鄭安平を任じ、趙を撃たしむ。鄭安平、趙の囲む所と為り、急にして、兵二万人を以て趙に降る。応侯、槁に席して罪を請ふ。秦の法、人を任じて任ずる所の善からざる者は、各々その罪を以てこれを罪す。是に於いて応侯の罪は当に三族を収むべし。秦の昭王、応侯の意を傷つけんことを恐れ、乃ち令を国中に下す、「敢へて鄭安平の事を言ふ者有らば、その罪を以てこれを罪せん」と。而して相国応侯に食物を加へ賜ふこと日に益々厚く、以てその意に順適せしむ。後二歳、王稽河東の守と為り、諸侯と通じ、法に坐して誅せらる。而して応侯日に益々以て懌ばず。昭王朝に臨みて嘆息す、応侯進みて曰く、「臣聞く『主憂ふれば臣辱められ、主辱めらるれば臣死す』と。今、大王中朝にして憂ふ、臣敢へてその罪を請ふ」と。昭王曰く、「吾聞く、楚の鉄剣は利にして倡優は拙なりと。夫れ鉄剣利なれば則ち士勇に、倡優拙なれば則ち思慮遠し。夫れ遠き思慮を以て勇士を御す、吾楚の秦を図らんことを恐る。夫れ物素より具はらずんば、以て卒に応ずべからず。今、武安君既に死し、而して鄭安平等畔く、内に良将無くして外に敵国多し、吾是を以て憂ふ」と。以て応侯を激励せんと欲す。応侯懼れ、出づる所を知らず。蔡沢これを聞き、往きて秦に入る。蔡沢は燕人なり。游学して諸侯の小大に干むること甚だ衆きも、遇はれず。而して唐挙に従ひて相せしめて曰く、「吾聞く、先生李兌を相して、曰く『百日の内に国秉を持せん』と、これ有るか」と。曰く、「これ有り」と。曰く、「臣の若き者は何如」と。唐挙孰視して笑ひて曰く、「先生は曷鼻、巨肩、魋顔、蹙齃、膝攣なり。吾聞く、聖人は相せずと、殆ど先生か」と。蔡沢、唐挙のこれに戯るるを知り、乃ち曰く、「富貴は吾の自ら有する所なり、吾の知らざる所の者は寿なり、願はくはこれを聞かん」と。唐挙曰く、「先生の寿は、今より以往四十三歳なり」と。
現代語訳
秦は長平で趙を大いに破り、そのまま邯鄲を包囲した。やがて応侯は武安君白起と仲たがいし、讒言して白起を死に追いやった。応侯は鄭安平を推して趙を攻めさせた。鄭安平は趙軍に包囲されて窮地に陥り、兵二万人と共に趙に降伏した。応侯は藁の敷物の上に座って(罪人として)処罰を願い出た。秦の法では、人を推薦して、推薦した者が不始末をしでかせば、推薦者もそれぞれその罪によって罰せられることになっていた。そうなると応侯の罪は三族(父母・妻子・兄弟)を捕らえられるに当たる。秦の昭王は応侯の心を傷つけるのを恐れ、国中に命令を下した。「鄭安平の件をあえて口にする者があれば、その者を鄭安平と同じ罪で罰する。」そして相国応侯に下賜する食べ物を日ごとにますます手厚くして、応侯の気持ちをなだめた。二年後、河東の太守となっていた王稽が諸侯と内通し、法に触れて処刑された。応侯は日ごとにますますふさぎ込むようになった。昭王が朝廷に臨んでため息をつくと、応侯が進み出て言った。「私は『主君が憂えれば臣下の恥であり、主君が辱められれば臣下は死ぬべきだ』と聞いている。いま大王が朝廷で憂えておられるのは、私の罪だ。どうか処罰を願いたい。」昭王は言った。「楚の鉄の剣は鋭いが、芸人は下手だと聞く。鉄の剣が鋭ければ兵は勇敢になり、芸人が下手なら(君主は遊びにふけらず)考えが遠くまで及ぶ。遠くまで考える君主が勇敢な兵を率いているのだから、わしは楚が秦を狙うのではないかと心配なのだ。物事はふだんから備えておかなければ、急な事態に対応できない。いま武安君はもう死に、鄭安平らは背いた。国内に良い将はおらず、国外には敵国が多い。だからわしは憂えているのだ。」昭王はそう言って応侯を奮い立たせようとした。応侯は恐れて、どうしてよいかわからなかった。蔡沢はこれを聞いて、秦に入った。蔡沢は燕の人である。諸国を遊学して、大小さまざまな諸侯に仕官を求めたが、どこでも用いられなかった。そこで人相見の唐挙に人相を見てもらって言った。「先生は李兌の人相を見て『百日のうちに国の権力を握るだろう』と言ったと聞くが、本当か。」唐挙は言った。「本当だ。」蔡沢は言った。「では私のような者はどうか。」唐挙はじっと見て笑って言った。「先生は鼻が蠍のように上を向き、肩はいかり、額は突き出て、鼻筋はつぶれ、膝は曲がっている。聖人は人相では測れないと聞くが、先生はまさにそれではないか。」蔡沢は唐挙がからかっているとわかったので、言った。「富貴はもともと私が持っているものだ。私にわからないのは寿命だ。それを聞きたい。」唐挙は言った。「先生の寿命は、今から四十三年だ。」
解説
関連する章句
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戦国策・蔡澤見逐於趙蔡澤趙に逐はれ、韓・魏に入るに、塗に釜鬲を奪はるるに遇ふ。應侯の任ずる鄭安平・王稽、皆重罪を負ふを聞き、應侯內に慚ぢ、乃ち西のかた秦に入る。將に昭王に見えんとするに、人をして宣言せしめて以て應侯を感怒せしめて曰く、「燕の客蔡澤は、天下の駿雄弘辯の士なり。彼一たび秦王に見えなば、秦王必ず之を相として君の位を奪はん。」應侯之を聞き、人をして蔡澤を召さしむ。蔡澤入るに、則ち應侯に揖す、應侯固より快からず、之を見るに及びて、又倨(おご)る。應侯因りて之を讓めて曰く、「子常に我に代りて秦に相たらんと宣言すと、豈に此れ有るか。」對へて曰く、「然り。」應侯曰く、「請ふ其の說を聞かん。」蔡澤曰く、「吁、何ぞ君の見ることの晚きや。夫れ四時の序は、功を成す者去る。夫れ人生まれて手足堅強、耳目聰明聖知なるは、豈に士の願ふ所に非ずや。」應侯曰く、「然り。」蔡澤曰く、「仁を質とし義を秉り、道を行ひ德を天下に施し、天下懷き樂しみて敬愛し、願はくは以て君王と爲さんとするは、豈に辯智の期する所ならずや。」應侯曰く、「然り。」蔡澤復た曰く、「富貴顯榮、萬物を成理し、萬物各々其の所を得しめ、生命壽長にして、其の年を終へて夭傷せず、天下其の統を繼ぎ、其の業を守り、之を傳へて窮まり無く、名實純粹にして、澤千世に流れ、之を稱して絕ゆる毋く、天下と終ふるは、豈に道の符にして、聖人の所謂吉祥善事なるに非ずや。」應侯曰く、「然り。」澤曰く、「秦の商君の若き、楚の吳起、越の大夫種の若きは、其の卒(をはり)も亦た願ふ可きか。」應侯蔡澤の己を困しめんと欲して說くを知り、復た曰く、「何為れぞ不可ならん。夫れ公孫鞅孝公に事へ、身を極めて貳(に)する毋く、公を盡くして私に還らず、賞罰を信にして以て治を致し、智能を竭くし、情素を示し、怨咎を蒙り、舊交を欺き、魏の公子卬を虜にし、卒に秦の爲に將を禽にし、敵軍を破り、地を攘(はら)ふこと千里なり。吳起悼王に事へ、私をして公を害せしめず、讒をして忠を蔽はしめず、言苟合を取らず、行苟容を取らず、義を行ひて毀譽に固まらず、必ず伯主強國有り、禍凶を辭せず。大夫種越王に事へ、主困辱を離るるも、悉く忠にして解けず、主亡絕すと雖も、能を盡くして離れず、功多くして矜らず、貴富にして驕怠せず。此くの若き三子は、義の至り、忠の節なり。故に君子は身を殺して以て名を成す、義の在る所、身死すと雖も、憾悔無し、何為れぞ不可ならん。」蔡澤曰く、「主聖にして臣賢なるは、天下の福なり。君明にして臣忠なるは、國の福なり。父慈にして子孝、夫信にして婦貞なるは、家の福なり。故に比干忠なるも、殷を存する能はず、子胥知なるも、呉を存する能はず、申生孝なるも、晉惑亂す。是れ忠臣孝子有りて、國家滅亂するは、何ぞや。明君賢父の以て之を聽く無ければなり。故に天下其の君父を以て戮辱と爲し、其の臣子を憐れむ。夫れ死を待ちて而して後忠を立て名を成す可きは、是れ微子は仁足らず、孔子は聖足らず、管仲は大足らざるなり。」是に於て應侯善しと稱す。蔡澤少しく間を得て、因りて曰く、「商君・吳起・大夫種、其の人臣爲るや、忠を盡くし功を致せば、則ち願ふ可し。閎夭文王に事へ、周公成王を輔けしは、豈に亦た忠ならざらんや。君臣を以て之を論ずれば、商君・吳起・大夫種の、其の願ふ可き閎夭・周公と孰與(いづ)れぞや。」應侯曰く、「商君・吳起・大夫種は若かざるなり。」蔡澤曰く、「然らば則ち君の主、慈仁にして忠を任じ、舊故を欺かざること、秦の孝公・楚の悼王・越王と孰與れぞや。」應侯曰く、「未だ何如なるかを知らざるなり。」蔡澤曰く、「主の忠臣を親しむ、固より秦孝・越王・楚悼に過ぎず。君の主爲るや、亂を正し患を批(う)ち難を折り、地を廣め穀を殖やし、國を富ませ家を足らしめ主を強くし、威海內を蓋ひ、功萬里の外に章(あら)はるるは、商君・吳起・大夫種に過ぎず。而して君の祿位貴盛にして、私家の富三子に過ぐるも、身退かず、竊かに君の爲に之を危ぶむ。語に曰く、『日中すれば則ち移り、月滿つれば則ち虧く』と。物盛んなれば則ち衰ふるは、天の常數なり。進退・盈縮・變化は、聖人の常道なり。昔者、齊桓公九たび諸侯を合し、一たび天下を匡すも、葵丘の會に至りて、驕矜の色有り、畔く者九國なり。吳王夫差天下に適する無く、諸侯を輕んじ、齊・晉を凌ぎ、遂に身を殺し國を亡ぼせり。夏育・太史啟叱呼して三軍を駭かすも、然れども身庸夫に死せり。此れ皆盛を極むるに乘じて道理に及ばざればなり。夫れ商君孝公の爲に權衡を平らかにし、度量を正しくし、輕重を調へ、阡陌を決裂し、民に耕戰を教ふ、是を以て兵動きて地廣まり、兵休みて國富み、故に秦天下に敵無く、威を諸侯に立てり。功已に成り、遂に車裂を以てせらる。楚の地戟を持する者百萬なるに、白起數萬の師を率ゐて、以て楚と戰ひ、一戰して鄢・郢を舉げ、再戰して夷陵を燒き、南は蜀・漢を并せ、又韓・魏を越えて強趙を攻め、北に馬服を坑にし、四十餘萬の眾を誅屠し、流血川を成し、沸聲雷の若く、秦をして帝を業とせしむ。是より之後、趙・楚懾服して、敢へて秦を攻めざる者は、白起の勢なり。身の服する所の者、七十餘城なり。功已に成れるに、死を杜郵に賜はる。吳起楚悼の爲に無能を罷め、無用を廢し、不急の官を損じ、私門の請を塞ぎ、楚國の俗を壹にし、南は楊越を攻め、北は陳・蔡を并せ、橫を破り從を散じ、馳說の士をして口を開く所無からしむ。功已に成れるに、卒に支解せらる。大夫種越王の爲に草を墾き邑を創め、地を辟き穀を殖やし、四方の士を率ゐ、上下の力を合はせ、以て勁呉を禽にし、霸功を成す。勾踐終に棓(つゑ)にて之を殺せり。此の四子は、功を成して去らず、禍此に至れり。此れ所謂信じて詘する能はず、往きて反る能はざる者なり。范蠡之を知りて、超然として世を避け、長く陶朱と爲れり。君獨り博する者を觀ざるか。或は大投を分たんと欲し、或は功を分たんと欲す。此れ皆君の明らかに知る所なり。今君秦に相たり、計は席を下らず、謀は廊廟を出でずして、坐しながら諸侯を制し、利は三川に施し、以て宜陽を實たし、羊腸の險を決し、太行の口を塞ぎ、又范・中行の途を斬り、棧道千里なるを蜀・漢に通じ、天下をして皆秦を畏れしむ。秦の欲する所は得たり、君の功は極まれり。此れ亦た秦の功を分つの時なり。是くの如くにして退かずんば、則ち商君・白公・吳起・大夫種是れなり。君何ぞ此の時を以て相印を歸し、賢者に讓りて之を授けざる、必ず伯夷の廉有らん。長く應侯と爲り、世世孤と稱し、喬・松の壽有らん。孰與(いづ)れぞ禍を以て終ふると。此れ則ち君何くにか居らん。」應侯曰く、「善し。」乃ち延(ひ)き入れて坐せしめ上客と爲す。後數日、朝に入り、秦昭王に言ひて曰く、「客新たに山東より來る者に蔡澤有り、其の人辯士なり。臣の人を見ること甚だ眾きも、及ぶ者有る莫し、臣如かざるなり。」秦昭王召見し、與に語りて、大いに之を說び、拜して客卿と爲す。應侯因りて病と謝し、相印を歸さんことを請ふ。昭王彊ひて應侯を起こすも、應侯遂に篤しと稱し、因りて相を免ぜらる。昭王新たに蔡澤の計畫を說び、遂に拜して秦の相と爲し、東のかた周室を收む。蔡澤秦王に相たること數月、人或は之を惡み、誅を懼れ、乃ち病と謝して相印を歸し、號して剛成君と爲る。秦に十餘年、昭王・孝文王・莊襄王に事へ、卒に始皇帝に事ふ。秦の爲に燕に使し、三年にして燕太子丹をして秦に入質せしむ。
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史記 范雎蔡沢列伝蔡沢笑ひて謝して去り、その御者に謂ひて曰く、「吾粱を持し肥を刺歯し、馬を躍らせて疾く駆け、黄金の印を懐き、紫綬を要に結び、人主の前に揖譲し、肉を食らひ富貴なること、四十三年にして足れり」と。去りて趙に之き、逐はる。韓・魏に之き、釜鬲を涂に奪はるるに遇ふ。応侯の鄭安平・王稽を任じて皆重罪を秦に負ひ、応侯内に慚づるを聞き、蔡沢乃ち西して秦に入る。将に昭王に見えんとし、人をして宣言せしめて以て応侯を感怒せしめて曰く、「燕の客蔡沢は、天下の雄俊弘弁の智士なり。彼一たび秦王に見えば、秦王必ず君を困しめて君の位を奪はん」と。応侯聞きて曰く、「五帝三代の事、百家の説、吾既にこれを知る。衆口の弁、吾皆これを摧く。是れ悪んぞ能く我を困しめて我が位を奪はんや」と。人をして蔡沢を召さしむ。蔡沢入り、則ち応に揖す。応侯固より快からず、これに見ゆるに及び、また倨る。応侯因りてこれを譲めて曰く、「子嘗て宣言して我に代はりて秦に相たらんと欲すと、寧ろこれ有るか」と。対へて曰く、「然り」と。応侯曰く、「請ふその説を聞かん」と。蔡沢曰く、「吁、君何ぞこれを見ることの晩きや。夫れ四時の序、功を成す者は去る。夫れ人生まれて百体堅彊、手足便利、耳目聡明にして心聖智なるは、豈に士の願ひに非ずや」と。応侯曰く、「然り」と。蔡沢曰く、「仁を質とし義を秉り、道を行ひ徳を施し、志を天下に得、天下懐楽敬愛してこれを尊慕し、皆願ひて以て君王と為す、豈に弁智の期に非ずや」と。応侯曰く、「然り」と。蔡沢また曰く、「富貴顕栄、万物を成理し、各々その所を得しむ。性命寿長、その天年を終へて夭傷せず。天下その統を継ぎ、その業を守り、これを無窮に伝ふ。名実純粋、沢千里に流れ、世世これを称して絶ゆる無く、天地と終始す。豈に道徳の符にして聖人の所謂吉祥善事なる者に非ずや」と。応侯曰く、「然り」と。
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史記 范雎蔡沢列伝応侯曰く、「善し。吾聞く『欲して(止)[足]るを知らざれば、その欲する所以を失ふ。有りて(足)[止]まるを知らざれば、その有る所以を失ふ』と。先生幸ひに教ふ、睢敬んで命を受けん」と。是に於いて乃ち延きて入れて坐せしめ、上客と為す。後数日、入朝し、秦の昭王に言ひて曰く、「客に新たに山東より来たる者有り、蔡沢と曰ふ。その人は弁士にして、三王の事、五伯の業、世俗の変に明らかなり、以て秦国の政を寄するに足る。臣の人を見ること甚だ衆きも、及ぶもの莫し、臣は如かざるなり。臣敢へて以て聞す」と。秦の昭王召見し、与に語り、大いにこれを説び、拝して客卿と為す。応侯因りて病と謝して相印を帰さんことを請ふ。昭王彊ひて応侯を起こさんとす、応侯遂に病甐しと称す。范睢相を免ぜられ、昭王新たに蔡沢の計画を説び、遂に拝して秦の相と為す、東のかた周室を収む。蔡沢秦に相たること数月、人或ひとこれを悪む、誅を懼れ、乃ち病と謝して相印を帰し、号して綱成君と為す。秦に居ること十余年、昭王・孝文王・荘襄王に事ふ。卒に始皇帝に事へ、
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戦国策・昭王既息民繕兵昭王既に民を息め兵を繕い、復た趙を伐たんと欲す。武安君曰く、「不可なり」と。王曰く、「前年国虚しく民飢え、君百姓の力を量らずして、軍糧を益さんことを求めて趙を滅ぼさんとせり。今寡人民を息めて士を養い、糧食を蓄積し、三軍の俸前に倍する有り。而るに『不可』と曰うは、其の説何ぞや」と。武安君曰く、「長平の事、秦軍大いに剋ち、趙軍大いに破る。秦人歓喜し、趙人畏懼す。秦の民の死する者は厚く葬り、傷つく者は厚く養い、労する者は相饗し、飲食餔餽して、以て其の財を靡す。趙人の死する者は収むるを得ず、傷つく者は療するを得ず、涕泣相哀しみ、力を戮せて憂いを同じくし、田を耕し疾く作りて、以て其の財を生ず。今王軍を発し、其の前に倍すと雖も、臣趙国の守備を料るに、亦た以て十倍せん。趙は長平自り已来、君臣憂懼し、早朝晏退し、辞を卑くし幣を重くして、四面に出嫁し、燕・魏に結親し、斉・楚に連好し、慮を積み心を并せ、秦に備うるを務と為す。其の国内実し、其の交外成る。当今の時、趙未だ伐つ可からざるなり」と。王曰く、「寡人既に以て師を興せり」と。乃ち五校の大夫王陵をして将として趙を伐たしむ。陵戦いて利を失い、五校を亡う。王武安君をして将たらしめんと欲するも、武安君疾と称して行かず。王乃ち応侯をして往きて武安君に見えしめ、之を責めて曰く、「楚は地方五千里、戟を持つこと百万。君前に数万の衆を率いて楚に入り、鄢・郢を抜き、其の廟を焚き、東のかた竟陵に至り、楚人震恐し、東に徙りて敢えて西向かわず。韓・魏相率いて、兵を興すこと甚だ衆く、君将うる所の之に半ばする能わざるも、之と伊闕に戦いて、大いに二国の軍を破り、血を流して鹵を漂わし、首を斬ること二十四万。韓・魏是を以て今に至るまで東藩と称す。此れ君の功、天下聞かざる莫し。今趙卒の長平に死する者已に十に七、八、其の国虚弱なり、是を以て寡人大いに軍を発し、人数趙国の衆に倍す、君をして将たらしめんことを願う、必ず之を滅ぼさんと欲す。君嘗て寡を以て衆を撃ちて、勝を取ること神の如し、況んや彊を以て弱を撃ち、衆を以て寡を撃つをや」と。武安君曰く、「是の時楚王其の国大なるを恃み、其の政を恤えず、群臣相妬みて功を以てし、諂諛事を用い、良臣斥け疏んぜられ、百姓心離れ、城池修めず、既に良臣無く、又た守備無し。故に起兵を引きて深く入り、多く城邑を倍し、梁を発し舟を焚きて以て民を専らにし、以て郊野に掠め、以て軍食を足らすを得たり。此の時に当たり、秦の中の士卒、軍中を以て家と為し、将帥を父母と為し、約せずして親しみ、謀らずして信じ、一心同功、死して踵を旋らさず。楚人自ら其の地に戦い、咸な其の家を顧み、各々散心有りて、闘志有る莫し。是を以て能く功有り。伊闕の戦い、韓は魏を孤顧して、先んじて其の衆を用いんと欲せず。魏は韓の鋭を恃み、推して以て鋒と為さんと欲す。二軍の便を争うの力同じからず、是を以て臣疑兵を設くるを得て、以て韓陣を待ち、軍を専らにし鋭を并せて、魏の意わざるに触る。魏軍既に敗れ、韓軍自ら潰え、勝に乗じて北を逐い、是の故を以て能く功を立つ。皆利形勢を計るは、自然の理なり、何の神か之れ有らんや。今秦趙軍を長平に破り、遂に時を以て其の振懼に乗じて之を滅ぼさず、畏れて之を釈き、耕稼して以て其の蓄積を益し、孤を養い幼を長じて以て其の衆を益し、兵甲を繕治して以て其の強を益し、城を増し池を浚いて以て其の固を益さしむ。主節を折りて以て其の臣に下り、臣体を推して以て死士に下る。平原君の属に至るまで、皆妻妾をして行伍の間に補縫せしむ。臣人一心、上下力を同じくすること、猶お勾践の会稽に困しむの時のごときなり。以て之を合わせ伐たば、趙必ず固く守らん。其の軍に挑みて戦わしめんとするも、必ず肯えて出でず。其の国都を囲むも、必ず剋つ可からず。其の列城を攻むるも、必ず未だ拔く可からず。其の郊野を掠むるも、必ず得る所無し。兵出でて功無く、諸侯心を生じ、外救必ず至らん。臣其の害を見て、未だ其の利を睹ず。又た病みて、未だ行く能わず」と。応侯慚じて退き、以て王に言う。王曰く、「白起微かりせば、吾趙を滅ぼす能わざるか」と。復た益々軍を発し、更に王齕をして王陵に代わりて趙を伐たしむ。邯鄲を囲むこと八、九月、死傷する者衆きも、下さず。趙王軽鋭を出だして其の後を寇し、秦数々利あらず。武安君曰く、「臣の計を聴かず、今果たして何如」と。王之を聞きて怒り、因りて武安君に見え、彊いて之を起こして曰く、「君病むと雖も、彊いて寡人の為に臥して之を将いよ。功有らば、寡人の願いなり、将に君に重きを加えんとす。如し君行かずんば、寡人君を恨まん」と。武安君頓首して曰く、「臣行くと雖も功無く、罪を免るるを得るを知る。行かずと雖も罪無く、誅を免るるを得ざらん。然れども惟だ願わくは大王臣の愚計を覧、趙を釈きて民を養い、以て諸侯の変を待たれよ。其の恐懼を撫し、其の憍慢を伐ち、無道を誅滅し、以て諸侯に令せば、天下定む可し、何ぞ必ずしも趙を以て先と為さんや。此れ所謂一臣が為に屈して天下に勝つなり。大王若し臣の愚計を察せずして、必ず心を趙に快くせんと欲し、以て臣に罪を致さば、此れ亦た所謂一臣に勝ちて天下の為に屈するなり。夫れ一臣に勝つの厳、孰か天下に勝つの威の大なるに若かんや。臣聞く、明主は其の国を愛し、忠臣は其の名を愛すと。国破るれば復た完うす可からず、死卒は復た生く可からず。臣寧ろ重誅を伏受して死すとも、忍びて辱軍の将為らず。願わくは大王之を察せよ」と。王答えずして去る。
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史記 范雎蔡沢列伝且つ夫れ翠・鵠・犀・象は、その処る勢ひ死を遠ざけざるに非ざるなり、而して死する所以の者は、餌に惑へばなり。蘇秦・智伯の智は、以て辱めを辟け死を遠ざくるに足らざるに非ざるなり、而して死する所以の者は、利を貪りて止まざるに惑へばなり。是を以て聖人は礼を制し欲を節し、民に取ること度有り、これを使ふに時を以てし、これを用ふること止まる有り。故に志溢れず、行ひ驕らず、常に道と倶にして失はず、故に天下承けて絶えず。昔者斉の桓公は九たび諸侯を合し、一たび天下を匡すも、葵丘の会に至りて、驕矜の志有り、畔く者九国。呉王夫差は兵天下に敵無く、勇彊にして以て諸侯を軽んじ、斉・晋を陵ぐ、故に遂に以て身を殺し国を亡ぼす。夏育・太史噭は叱呼して三軍を駭かすも、然れども身は庸夫に死す。此れ皆至盛に乗じて道理に返らず、卑退に居り倹約に処らざるの患ひなり。夫れ商君は秦の孝公の為に法令を明らかにし、姦の本を禁じ、爵を尊び必ず賞し、罪有れば必ず罰し、権衡を平らかにし、度量を正し、軽重を調へ、阡陌を決裂し、以て生民の業を静めてその俗を一にし、民に耕農して土を利するを勧め、一室に二事無く、田に力め稸積し、戦陳の事を習はしむ。是を以て兵動きて地広く、兵休みて国富む。故に秦は天下に敵無く、威を諸侯に立て、秦国の業を成す。功已に成れり、而して遂に以て車裂せらる。楚は地方数千里、戟を持つもの百万、白起は数万の師を率ゐて以て楚と戦ひ、一戦して鄢郢を挙げ以て夷陵を焼き、再戦して南のかた蜀漢を并す。また韓・魏を越えて彊趙を攻め、北のかた馬服を阬にし、四十余万の衆を誅屠し、これを長平の下に尽くし、流血川を成し、沸声雷の若し。遂に入りて邯鄲を囲み、秦をして帝業有らしむ。楚・趙は天下の彊国にして秦の仇敵なり、是より後、楚・趙皆懾伏して敢へて秦を攻めざる者は、白起の勢ひなり。
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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