史記 / 范雎蔡沢列伝
范君之仇在君之家,願使人歸取其頭來;不然,吾不出君於關。」平原君曰:「貴而為交者,為賤也;富而為交者,為貧也。夫魏齊者,勝之友也,在,固不出也,今又不在臣所。」昭王乃遺趙王書曰:「王之弟在秦,范君之仇魏齊在平原君之家。王使人疾持其頭來;不然,吾舉兵而伐趙,又不出王之弟於關。」趙孝成王乃發卒圍平原君家,急,魏齊夜亡出,見趙相虞卿。虞卿度趙王終不可說,乃解其相印,與魏齊亡,閒行,念諸侯莫可以急抵者,乃復走大梁,欲因信陵君以走楚。信陵君聞之,畏秦,猶豫未肯見,曰:「虞卿何如人也?」時侯嬴在旁,曰:「人固未易知,知人亦未易也。夫虞卿躡屩檐簦,一見趙王,賜白璧一雙,黃金百鎰;再見,拜為上卿;三見,卒受相印,封萬戶侯。當此之時,天下爭知之。夫魏齊窮困過虞卿,虞卿不敢重爵祿之尊,解相印,捐萬戶侯而閒行。急士之窮而歸公子,公子曰『何如人』。人固不易知,知人亦未易也!」信陵君大慚,駕如野迎之。魏齊聞信陵君之初難見之,怒而自剄。趙王聞之,卒取其頭予秦。秦昭王乃出平原君歸趙。昭王四十三年,秦攻韓汾陘,拔之,因城河上廣武。後五年,昭王用應侯謀,縱反閒賣趙,趙以其故,令馬服子代廉頗將。
新字:范君之仇在君之家,願使人帰取其頭来;不然,吾不出君於関。」平原君曰:「貴而為交者,為賤也;富而為交者,為貧也。夫魏斉者,勝之友也,在,固不出也,今又不在臣所。」昭王乃遺趙王書曰:「王之弟在秦,范君之仇魏斉在平原君之家。王使人疾持其頭来;不然,吾舉兵而伐趙,又不出王之弟於関。」趙孝成王乃発卒囲平原君家,急,魏斉夜亡出,見趙相虞卿。虞卿度趙王終不可説,乃解其相印,与魏斉亡,閒行,念諸侯莫可以急抵者,乃復走大梁,欲因信陵君以走楚。信陵君聞之,畏秦,猶予未肯見,曰:「虞卿何如人也?」時侯嬴在旁,曰:「人固未易知,知人亦未易也。夫虞卿躡屩檐簦,一見趙王,賜白璧一双,黄金百鎰;再見,拝為上卿;三見,卒受相印,封万戸侯。当此之時,天下争知之。夫魏斉窮困過虞卿,虞卿不敢重爵禄之尊,解相印,捐万戸侯而閒行。急士之窮而帰公子,公子曰『何如人』。人固不易知,知人亦未易也!」信陵君大慚,駕如野迎之。魏斉聞信陵君之初難見之,怒而自剄。趙王聞之,卒取其頭予秦。秦昭王乃出平原君帰趙。昭王四十三年,秦攻韓汾陘,抜之,因城河上広武。後五年,昭王用応侯謀,縦反閒売趙,趙以其故,令馬服子代廉頗将。
書き下し
范君の仇は君の家に在り、願はくは人をして帰りてその頭を取りて来たらしめよ。然らずんば、吾君を関より出ださず」と。平原君曰く、「貴くして交はりを為すは、賤しきが為なり。富みて交はりを為すは、貧しきが為なり。夫れ魏斉は勝の友なり、在るとも固より出ださざるなり、今また臣の所に在らず」と。昭王乃ち趙王に書を遺りて曰く、「王の弟秦に在り、范君の仇魏斉は平原君の家に在り。王、人をして疾くその頭を持ちて来たらしめよ。然らずんば、吾兵を挙げて趙を伐ち、また王の弟を関より出ださず」と。趙の孝成王乃ち卒を発して平原君の家を囲む。急なり、魏斉夜亡げ出で、趙の相虞卿に見ゆ。虞卿度るに趙王は終に説くべからず、乃ちその相印を解き、魏斉と亡げ、閒行し、諸侯の以て急に抵るべき者莫きを念ひ、乃ちまた大梁に走り、信陵君に因りて以て楚に走らんと欲す。信陵君これを聞き、秦を畏れ、猶予して未だ見ゆるを肯んぜずして曰く、「虞卿は何如なる人ぞ」と。時に侯嬴旁らに在りて曰く、「人は固より未だ知り易からず、人を知ることもまた未だ易からざるなり。夫れ虞卿は屩を躡み簦を檐ひ、一たび趙王に見えて、白璧一双・黄金百鎰を賜はる。再び見えて、拝して上卿と為る。三たび見えて、卒に相印を受け、万戸侯に封ぜらる。此の時に当たりて、天下争ひてこれを知る。夫れ魏斉は窮困して虞卿に過る、虞卿は敢へて爵禄の尊きを重んぜず、相印を解き、万戸侯を捐てて閒行す。士の窮に急にして公子に帰す、公子曰く『何如なる人ぞ』と。人は固より知り易からず、人を知ることもまた未だ易からざるなり」と。信陵君大いに慚ぢ、駕して野に如きてこれを迎ふ。魏斉、信陵君の初めこれに見ゆるを難るを聞き、怒りて自剄す。趙王これを聞き、卒にその頭を取りて秦に予ふ。秦の昭王乃ち平原君を出だして趙に帰す。昭王の四十三年、秦韓の汾陘を攻め、これを抜き、因りて河上の広武に城く。後五年、昭王、応侯の謀を用ひ、反閒を縦にして趙を売る。趙その故を以て、馬服子をして廉頗に代はりて将たらしむ。
現代語訳
「范君の仇はあなたの家にいる。どうか人をやって、その首を取って来させてほしい。そうしなければ、わしはあなたを関所から出さない。」平原君は言った。「身分が高いときに人と交わりを結ぶのは、身分が低くなったときのためだ。富んでいるときに人と交わりを結ぶのは、貧しくなったときのためだ。魏斉は私の友だ。たとえ家にいたとしても、決して差し出しはしない。まして今は私のところにはいない。」昭王はそこで趙王に手紙を送った。「王の弟(平原君)は秦にいる。范君の仇の魏斉は平原君の家にいる。王は人をやって、急いでその首を持って来させよ。そうしなければ、わしは兵を挙げて趙を討ち、しかも王の弟を関所から出さない。」趙の孝成王はそこで兵を出して平原君の家を包囲した。事態が急になると、魏斉は夜のうちに逃げ出して、趙の宰相の虞卿に会った。虞卿は、趙王をとても説得できないと見きわめ、宰相の印綬を返上して魏斉と共に逃げ、間道を通って進んだ。諸侯の中に急いで頼れる者がいないと考え、再び大梁に走り、信陵君を頼って楚へ逃れようとした。信陵君はこれを聞くと、秦を恐れて、ためらって会おうとせず、言った。「虞卿とはどんな人物か。」ちょうど侯嬴がそばにいて言った。「人というものはもともと知るのがたやすくないが、人を知ることもまたたやすいことではない。虞卿は草鞋をはき、長柄の笠を担いで趙王に会いに行き、一度会っただけで白い璧一対と黄金百鎰を賜り、二度会って上卿に任じられ、三度会ってついに宰相の印綬を受けて万戸侯に封ぜられた。そのころは、天下の人々が争って彼を知ろうとした。いま魏斉が困窮して虞卿のもとに身を寄せると、虞卿は爵位や俸禄の尊さを惜しまず、宰相の印綬を返上し、万戸侯の地位を捨てて間道を逃げてきた。士の困窮を見て急いで助け、公子を頼ってきたのに、公子は『どんな人物か』とおっしゃる。人というものはもともと知るのがたやすくないが、人を知ることもまたたやすいことではない。」信陵君は大いに恥じて、車を走らせて郊外まで迎えに出た。しかし魏斉は、信陵君がはじめ会うのをためらったと聞いて、怒って自ら首をはねてしまった。趙王はこれを聞くと、結局その首を取って秦に渡した。秦の昭王はそこで平原君を釈放して趙に帰した。昭王の四十三年、秦は韓の汾陘を攻めて落とし、黄河のほとりの広武に城を築いた。その五年後、昭王は応侯の計略を用い、離間工作を仕掛けて趙を陥れた。趙はそのために、馬服子(趙括)を廉頗に代わる将とした。
解説
関連する章句
-
史記 范雎蔡沢列伝平原君の所に匿る。范睢既に相たり、王稽、范睢に謂ひて曰く、「事に知るべからざる者三有り、柰何ともせざる者もまた三有り。宮車一日晏駕す、是れ事の知るべからざる者一なり。君卒然として館舎を捐つ、是れ事の知るべからざる者二なり。臣をして卒然として溝壑を填めしむ、是れ事の知るべからざる者三なり。宮車一日晏駕せば、君臣を恨むと雖も、柰何ともすべき無し。君卒然として館舎を捐てば、君臣を恨むと雖も、また柰何ともすべき無し。臣をして卒然として溝壑を填めしめば、君臣を恨むと雖も、また柰何ともすべき無し」と。范睢懌ばず、乃ち入りて王に言ひて曰く、「王稽の忠に非ずんば、能く臣を函谷関に内るる莫し。大王の賢聖に非ずんば、能く臣を貴くする莫し。今、臣の官は相に至り、爵は列侯に在り、王稽の官は尚ほ謁者に止まる、その臣を内るるの意に非ざるなり」と。昭王、王稽を召し、拝して河東の守と為し、三歳上計せず。また鄭安平を任じ、昭王以て将軍と為す。范睢是に於いて家の財物を散じ、尽く以て嘗て困戹せし所の者に報ゆ。一飯の徳も必ず償ひ、睚眥の怨みも必ず報ゆ。范睢秦に相たること二年、秦の昭王の四十二年、東のかた韓の少曲・高平を伐ち、これを抜く。秦の昭王、魏斉の平原君の所に在るを聞き、范睢の為に必ずその仇に報いんと欲し、乃ち詳りて好き書を為りて平原君に遺りて曰く、「寡人、君の高義を聞く、願はくは君と布衣の友と為らん。君幸ひに寡人に過らば、寡人願はくは君と十日の飲を為さん」と。平原君、秦を畏れ、且つ以て然りと為して、秦に入りて昭王に見ゆ。昭王、平原君と飲むこと数日、昭王平原君に謂ひて曰く、「昔、周の文王は呂尚を得て以て太公と為し、斉の桓公は管夷吾を得て以て仲父と為す。今、范君もまた寡人の叔父なり。
-
戦国策・虞卿請趙王虞卿趙王に請いて曰わく、「人の情、寧ろ人を朝せしめんか、寧ろ人に朝せんか。」趙王曰わく、「人も亦寧ろ人を朝せしめんのみ、何の故にか寧ろ人に朝せん。」虞卿曰わく、「夫れ魏は従主為るも、違う者は范座なり。今王能く百里の地、万戸の都を以て、范座を魏に殺さんことを請わば、范座死せば、則ち従事趙に移すべし。」趙王曰わく、「善し。」乃ち人をして百里の地を以て、范座を魏に殺さんことを請わしむ。魏王許諾し、司徒をして范座を執えしむるも、未だ殺さず。范座書を魏王に献じて曰わく、「臣聞く、趙王百里の地を以て、座の身を殺さんことを請うと。夫れ無罪の范座を殺すは、座の故薄ければなり。而して百里の地を得るは、大利なり。臣竊かに大王の為に之を美とす。然りと雖も、一有り、百里の地得べからずして、死せる者は復た生くべからざれば、則ち主必ず天下の笑いと為らん。臣竊かに以為えらく、死人を以て市するよりは、生人を以て市せしむるに若かず、と。」又其の後の相信陵君に書を遺りて曰わく、「夫れ趙・魏は敵戦の国なり。趙王咫尺の書を以て来たるに、魏王軽々しく之が為に無罪の座を殺す、座不肖と雖も、故に魏の相を免ぜられて望まる。嘗て魏の故を以て、罪を趙に得たり。夫れ国内に用うべき臣無くば、外地を得と雖も、勢い守る能わず。然れども今能く魏を守る者は、君に若くは莫し。王趙の座を殺すを聴くの後、強秦趙を襲うの欲、趙の割くに倍せば、則ち君将に何を以て之を止めんとするか。此れ君の累なり。」信陵君曰わく、「善し。」遽かに之を王に言いて之を出だす。
-
史記 平原君虞卿列伝平原君趙勝は、趙の諸公子なり。諸子の中にて勝最も賢にして、賓客を喜み、賓客蓋し至る者数千人。平原君、趙の恵文王及び孝成王に相たり、三たび相を去り、三たび位に復し、東武城に封ぜらる。平原君の家の楼は民家に臨む。民家に躄者有り、槃散として行きて汲む。平原君の美人楼上に居り、臨み見て、大いにこれを笑ふ。明日、躄者平原君の門に至り、請ひて曰く、「臣聞く、君の士を喜むや、士の千里を遠しとせずして至る者は、君の能く士を貴びて妾を賤しむを以てなり。臣不幸にして罷癃の病有り、而るに君の後宮臨みて臣を笑ふ。臣願はくは臣を笑ふ者の頭を得ん」と。平原君笑ひて応へて曰く、「諾」と。躄者去る、平原君笑ひて曰く、「此の豎子を観よ、乃ち一笑の故を以て吾が美人を殺さんと欲す、亦甚だしからずや」と。終に殺さず。居ること歳余、賓客門下の舎人稍稍引き去る者半ばを過ぐ。平原君これを怪しみて曰く、「勝の諸君を待する所以の者、未だ嘗て敢へて礼を失はず、而るに去る者何ぞ多きや」と。門下の一人前みて対へて曰く、「君の躄者を笑ひしものを殺さざるを以て、君を以て色を愛して士を賤しむと為す、士即ち去るのみ」と。是に於いて平原君乃ち躄者を笑ひし美人の頭を斬り、自ら門に造りて躄者に進め、因りて謝す。その後門下乃ちまた稍稍来たる。
-
史記 魏公子列伝魏王、公子のその兵符を盗み、矯めて晋鄙を殺せしを怒る、公子もまた自ら知るなり。已に秦を卻けて趙を存し、将をしてその軍を将ゐて魏に帰らしめ、而して公子は独り客と趙に留まる。趙の孝成王、公子の晋鄙の兵を矯め奪ひて趙を存せしを徳とし、乃ち平原君と計り、五城を以て公子を封ぜんとす。公子これを聞き、意驕矜して自ら功とするの色有り。客に公子に説く有りて曰く、「物に忘るべからざる有り、或いは忘れざるべからざる有り。夫れ人の公子に徳有るは、公子忘るべからざるなり。公子の人に徳有るは、願はくは公子これを忘れよ。且つ魏王の令を矯め、晋鄙の兵を奪ひて以て趙を救ふは、趙に於いては則ち功有り、魏に於いては則ち未だ忠臣たらざるなり。公子乃ち自ら驕りてこれを功とす、竊かに公子の為に取らざるなり」と。是に於いて公子立ちどころに自ら責め、容るる所無きが若きに似たり。趙王、埽除して自ら迎へ、主人の礼を執り、公子を引きて西階に就かしむ。公子側行して辞譲し、東階より上る。自ら罪過を言ひ、以て魏に負き、趙に功無しとす。趙王侍酒して暮れに至るも、口に五城を献ずるに忍びず、公子の退譲するを以てなり。公子竟に趙に留まる。趙王、鄗を以て公子の湯沐の邑と為し、魏もまた信陵を以て復た公子に奉ず。公子趙に留まる。公子聞く、趙に処士毛公の博徒に蔵れ、薛公の売漿の家に蔵るる有りと。公子両人に見えんと欲す、両人自ら匿れて公子に見ゆるを肯んぜず。公子所在を聞き、乃ち閒歩して往きて此の両人に従ひて遊び、甚だ歓ぶ。平原君これを聞き、その夫人に謂ひて曰く、「始め吾、夫人の弟公子は天下に双び無しと聞く。今吾これを聞くに、乃ち妄りに博徒・売漿者に従ひて游ぶ、公子は妄人なるのみ」と。夫人以て公子に告ぐ。公子乃ち夫人に謝して去らんとして曰く、「始め吾、平原君の賢なるを聞く、故に魏王に負きて趙を救ひ、以て平原君に称ふ。平原君の遊ぶや、徒だ豪挙のみ、士を求めざるなり。
-
史記 范雎蔡沢列伝范睢(はんしょ)は、魏人なり、字は叔。諸侯に游説し、魏王に事へんと欲するも、家貧しくして以て自ら資する無し、乃ち先づ魏の中大夫須賈に事ふ。須賈、魏の昭王の為に斉に使ひす、范睢従ふ。留まること数月、未だ報を得ず。斉の襄王、睢の弁口を聞き、乃ち人をして睢に金十斤及び牛酒を賜はしむ、睢辞謝して敢へて受けず。須賈これを知り、大いに怒り、以為へらく睢は魏国の陰事を持して斉に告ぐ、故にこの饋を得たりと。睢をしてその牛酒を受けしめ、その金を還さしむ。既に帰り、心に睢を怒り、以て魏の相に告ぐ。魏の相は魏の諸公子にして、魏斉と曰ふ。魏斉大いに怒り、舎人をして睢を笞撃せしめ、脅を折り歯を摺く。睢詳りて死す、即ち巻くに簀を以てし、厠中に置く。賓客の飲む者酔ひ、更々睢に溺す、故らに僇辱して以て後を懲らし、妄言する者無からしむ。睢、簀中より守者に謂ひて曰く、「公能く我を出ださば、我必ず厚く公に謝せん」と。守者乃ち簀中の死人を出だし棄てんことを請ふ。魏斉酔ひて、曰く、「可なり」と。范睢出づるを得たり。後に魏斉悔い、また召してこれを求む。魏人鄭安平これを聞き、乃ち遂に范睢を操りて亡げ、伏匿し、名姓を更めて張禄と曰ふ。
-
史記 范雎蔡沢列伝秦大いに趙を長平に破り、遂に邯鄲を囲む。已にして武安君白起と隙有り、言ひてこれを殺す。鄭安平を任じ、趙を撃たしむ。鄭安平、趙の囲む所と為り、急にして、兵二万人を以て趙に降る。応侯、槁に席して罪を請ふ。秦の法、人を任じて任ずる所の善からざる者は、各々その罪を以てこれを罪す。是に於いて応侯の罪は当に三族を収むべし。秦の昭王、応侯の意を傷つけんことを恐れ、乃ち令を国中に下す、「敢へて鄭安平の事を言ふ者有らば、その罪を以てこれを罪せん」と。而して相国応侯に食物を加へ賜ふこと日に益々厚く、以てその意に順適せしむ。後二歳、王稽河東の守と為り、諸侯と通じ、法に坐して誅せらる。而して応侯日に益々以て懌ばず。昭王朝に臨みて嘆息す、応侯進みて曰く、「臣聞く『主憂ふれば臣辱められ、主辱めらるれば臣死す』と。今、大王中朝にして憂ふ、臣敢へてその罪を請ふ」と。昭王曰く、「吾聞く、楚の鉄剣は利にして倡優は拙なりと。夫れ鉄剣利なれば則ち士勇に、倡優拙なれば則ち思慮遠し。夫れ遠き思慮を以て勇士を御す、吾楚の秦を図らんことを恐る。夫れ物素より具はらずんば、以て卒に応ずべからず。今、武安君既に死し、而して鄭安平等畔く、内に良将無くして外に敵国多し、吾是を以て憂ふ」と。以て応侯を激励せんと欲す。応侯懼れ、出づる所を知らず。蔡沢これを聞き、往きて秦に入る。蔡沢は燕人なり。游学して諸侯の小大に干むること甚だ衆きも、遇はれず。而して唐挙に従ひて相せしめて曰く、「吾聞く、先生李兌を相して、曰く『百日の内に国秉を持せん』と、これ有るか」と。曰く、「これ有り」と。曰く、「臣の若き者は何如」と。唐挙孰視して笑ひて曰く、「先生は曷鼻、巨肩、魋顔、蹙齃、膝攣なり。吾聞く、聖人は相せずと、殆ど先生か」と。蔡沢、唐挙のこれに戯るるを知り、乃ち曰く、「富貴は吾の自ら有する所なり、吾の知らざる所の者は寿なり、願はくはこれを聞かん」と。唐挙曰く、「先生の寿は、今より以往四十三歳なり」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る