史記 / 魏公子列伝
其歲,魏安釐王亦薨。秦聞公子死,使蒙驁攻魏,拔二十城,初置東郡。其後秦稍蠶食魏,十八歲而虜魏王,屠大梁。高祖始微少時,數聞公子賢。及即天子位,每過大梁,常祠公子。高祖十二年,從擊黥布還,為公子置守冢五家,世世歲以四時奉祠公子。
新字:其歳,魏安釐王亦薨。秦聞公子死,使蒙驁攻魏,抜二十城,初置東郡。其後秦稍蠶食魏,十八歳而虜魏王,屠大梁。高祖始微少時,数聞公子賢。及即天子位,毎過大梁,常祠公子。高祖十二年,従撃黥布還,為公子置守冢五家,世世歳以四時奉祠公子。
書き下し
その歳、魏の安釐王もまた薨ず。秦、公子の死せるを聞き、蒙驁をして魏を攻めしめ、二十城を抜き、初めて東郡を置く。その後、秦稍く魏を蚕食し、十八歳にして魏王を虜にし、大梁を屠る。高祖始め微少なりし時、数々公子の賢を聞く。天子の位に即くに及び、大梁を過ぐる毎に、常に公子を祠る。高祖の十二年、黥布を撃つに従ひて還り、公子の為に守冢五家を置き、世世歳に四時を以て公子を奉祠せしむ。
現代語訳
その年、魏の安釐王もまた亡くなった。秦は公子が死んだと聞くと、蒙驁に魏を攻めさせ、二十の城を落とし、初めて東郡を置いた。その後、秦は少しずつ魏を蚕が桑を食べるように侵し、十八年後には魏王を捕虜にし、大梁の住民を皆殺しにした。漢の高祖は、まだ身分の低かった若いころ、たびたび公子が賢いと聞いていた。天子の位に就くと、大梁を通るたびに、いつも公子を祭った。高祖の十二年、黥布の討伐から帰る途中、公子のために墓守の家を五戸置き、代々、毎年四季ごとに公子を祭らせた。
解説
信陵君の死後、魏が滅亡に向かう流れと、漢の高祖劉邦による顕彰を記した段です。信陵君が亡くなったその年に兄の安釐王も世を去り、秦はすぐに蒙驁に魏を攻めさせて二十城を奪い、東郡を置きました。十八年後には魏王が捕らえられ、都の大梁は徹底的に破壊されます。信陵君一人の存在が秦の侵攻を押しとどめていたことが、その死後の急速な崩壊によって裏付けられた形です。一方で、若いころから信陵君の評判を聞いていた劉邦は、皇帝となってからも大梁を通るたびに信陵君を祭り、晩年には墓守を置いて四季の祭祀を絶やさないよう命じました。司馬遷が戦国四君の中で信陵君を特別に敬ったことは、この段で終わる構成からもうかがえます。人を大切にした人物は、たとえ報われずに亡くなっても、後の世の人に敬われ続けるということを、静かに伝える結びです。
関連する章句
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史記 魏公子列伝魏の公子無忌は、魏の昭王の少子にして魏の安釐王の異母弟なり。昭王薨じ、安釐王即位し、公子を封じて信陵君と為す。是の時、范睢魏を亡げて秦に相たり、魏斉を怨むの故を以て、秦の兵大梁を囲み、魏の華陽の下の軍を破り、芒卯を走らす。魏王及び公子これを患ふ。公子は人と為り仁にして士に下り、士は賢不肖と無く皆謙りて礼もてこれに交はり、敢へてその富貴を以て士に驕らず。士は此を以て方数千里争ひ往きてこれに帰し、食客三千人を致す。是の時に当たりて、諸侯は公子の賢にして客多きを以て、敢へて兵を加へて魏を謀らざること十余年。
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史記 魏公子列伝太史公曰く、「吾大梁の墟を過ぎ、其の所謂夷門を求問す。夷門は、城の東門なり。天下の諸公子も亦た士を喜ぶ者有り、然れども信陵君の巌穴の隠者に接し、下交を恥ぢざるは、以有るなり。名諸侯に冠たるは、虚しからざるのみ。高祖過ぐる每に民をして祠を奉じて絶えざらしむるなり」と。
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史記 魏公子列伝公子、五国の兵を率ゐて秦の軍を河外に破り、蒙驁を走らす。遂に勝ちに乗じて秦の軍を逐ひて函谷関に至り、秦の兵を抑へ、秦の兵敢へて出でず。是の時に当たりて、公子の威天下に振ひ、諸侯の客兵法を進む、公子皆これに名づく、故に世俗魏公子兵法と称す。秦王これを患へ、乃ち金万斤を魏に行ひ、晋鄙の客を求め、公子を魏王に毀らしめて曰く、「公子亡げて外に在ること十年なり、今魏の将と為り、諸侯の将皆属す。諸侯は徒だ魏の公子を聞きて、魏王を聞かず。公子もまた此の時に因りて南面を定めて王たらんと欲す、諸侯は公子の威を畏れ、方に共にこれを立てんと欲す」と。秦数々反間を使ひ、偽りて公子の立ちて魏王と為るを得たるや未だしやを賀す。魏王日にその毀りを聞き、信ぜざる能はず、後果たして人をして公子に代はりて将たらしむ。公子自ら再び毀りを以て廃せらるるを知り、乃ち病と謝して朝せず、賓客と長夜の飲を為し、醇酒を飲み、多く婦女に近づく。日夜楽飲を為すこと四歳、竟に酒に病みて卒す。
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史記 魏世家是の故に臣願はくは従を以て王に事へん。王速やかに楚・趙の約を受け、而して韓の質を挟みて以て韓を存し、而して故地を求めば、韓必ず之を效さん。此れ士民労せずして故地得られ、其の功は秦と共に韓を伐ちて、而も又彊秦と鄰する禍に多し。夫れ韓を存し魏を安んじて天下を利するは、此れ亦王の天時のみ。韓の上党を共・甯に通じ、道をして成を安んぜしめ、出入に之に賦せば、是れ魏重ねて韓を質とするに其の上党を以てするなり。今其の賦有らば、以て国を富ますに足る。韓必ず魏を徳とし魏を愛し魏を重んじ魏を畏れ、韓必ず敢へて魏に反かず。是れ韓は則ち魏の県なり。魏韓を得て以て県と為さば、衛・大梁・河外必ず安からん。今韓を存せずんば、二周・安陵必ず危ふく、楚・趙大いに破れ、衛・斉甚だ卑く、天下西に郷ひて秦に馳せ、入朝して臣と為ること久しからざらん。廿年、秦邯鄲を囲む。信陵君無忌、将軍晋鄙の兵を矯め奪ひて以て趙を救ふ。趙全きを得たり。無忌因りて趙に留まる。廿六年、秦の昭王卒す。卅年、無忌魏に帰り、五国の兵を率ゐて秦を攻め、之を河外に敗り、蒙驁を走らす。魏の太子増秦に質たり。秦怒り、魏の太子増を囚へんと欲す。或ひと増の為に秦王に謂ひて曰く、『公孫喜固より魏の相に謂ひて曰く「請ふ魏を以て疾く秦を撃たん。秦王怒りて、必ず増を囚へん。魏王又怒りて、秦を撃たば、秦必ず傷つかん」と。今王増を囚ふるは、是れ喜の計中るなり。故に増を貴びて魏と合し、以て之を斉・韓に疑はしむるに若かず』と。秦乃ち増を止む。卅一年、秦王政初めて立つ。卅四年、安釐王卒し、太子増立つ、是を景湣王と為す。信陵君無忌卒す。景湣王元年、秦我が廿城を抜き、以て秦の東郡と為す。二年、秦我が朝歌を抜く。衛野王に徙る。三年、秦我が汲を抜く。五年、秦我が垣・蒲陽・衍を抜く。十五年、景湣王卒し、子王仮立つ。王仮元年、燕の太子丹、荊軻をして秦王を刺さしむ。秦王之を覚る。三年、秦大梁に灌ぎ、王仮を虜にし、遂に魏を滅ぼして以て郡県と為す。
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史記 魏世家太史公曰く、「吾故の大梁の墟に適く。説く者皆魏の信陵君を用ゐざるを以ての故に、国削弱して亡ぶに至ると曰ふ。余以て然らずと為す。天方に秦をして海内を平らげしむ、其の業未だ成らず、魏阿衡の佐を得と雖も、曷ぞ益あらんや」と。
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史記 魏世家若し河外に道し、大梁を倍にし、上蔡・召陵を右にして、楚の兵と陳の郊に決するは、秦又敢へてせず。故に曰く秦必ず楚と趙とを伐たず、又衛と斉とを攻めずと。夫れ韓亡びし後、兵出づるの日は、魏に非ずんば攻むる無きのみ。秦固より懐・茅・邢丘を有ち、垝津に城きて以て河内に臨まば、河内の共・汲必ず危ふし。鄭の地を有ち、垣雍を得て、熒沢の水を決して大梁に灌がば、大梁必ず亡びん。王の使者出でて過ちて安陵氏を秦に悪む。秦の之を誅せんと欲すること久し。秦の葉陽・昆陽は舞陽と鄰す。使者の之を悪むを聴き、安陵氏に随ひて之を亡ぼし、舞陽の北を繞りて、以て東のかた許に臨まば、南国必ず危ふし。国先づ害せられん。夫れ韓を憎みて安陵氏を愛せざるは可なり。夫れ秦の南国を愛せざるを患へざるは非なり。異日は、秦河西の晋に在り、国は梁を去ること千里、河山有りて以て之を闌り、周・韓有りて以て之を閒つ。林郷の軍より以て今に至るまで、秦七たび魏を攻め、五たび囿中に入り、辺城尽く抜かれ、文台墮ち、垂都焚かれ、林木伐られ、麋鹿尽き、而して国継ぐに囲みを以てす。又長駆して梁の北に至り、東は陶・衛の郊に至り、北は平監に至る。秦に亡ふ所の者は、山南山北、河外・河内、大県数十、名都数百なり。秦乃ち河西の晋に在りて、梁を去ること千里にして、禍是の若し。又況んや秦をして韓無く、鄭の地を有ち、河山の之を闌る無く、周・韓の之を閒つる無く、大梁を去ること百里ならしめば、禍必ず此に百せん。異日は、従の成らざるや、楚・魏疑ひて韓得べからざればなり。今韓兵を受くること三年、秦之を橈めて以て講ず。亡ぶるを識るも聴かず、質を趙に投じ、天下の為に鴈行して刃を頓さんことを請ふ。楚・趙必ず兵を集めん。皆秦の欲の窮まり無きを識ればなり。尽く天下の国を亡ぼして海内を臣とするに非ずんば、必ず休まざらん。
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