史記 / 魏公子列伝
魏王見公子,相與泣,而以上將軍印授公子,公子遂將。魏安釐王三十年,公子使使遍告諸侯。諸侯聞公子將,各遣將將兵救魏。
新字:魏王見公子,相与泣,而以上将軍印授公子,公子遂将。魏安釐王三十年,公子使使遍告諸侯。諸侯聞公子将,各遣将将兵救魏。
書き下し
魏王、公子に見え、相与に泣き、而して上将軍の印を以て公子に授け、公子遂に将たり。魏の安釐王の三十年、公子、使ひをして遍く諸侯に告げしむ。諸侯、公子の将たるを聞き、各々将を遣りて兵を将ゐて魏を救はしむ。
現代語訳
魏王は公子に会うと、互いに泣き合い、上将軍の印綬を公子に授けて、公子はついに将となった。魏の安釐王の三十年、公子は使者を送って諸侯に広く知らせた。諸侯は公子が将になったと聞いて、それぞれ将に兵を率いさせて魏の救援に向かわせた。
解説
十年に及ぶ趙での亡命生活を終え、信陵君が魏に戻って上将軍となる場面です。信陵君が趙にとどまっている間、秦は魏を激しく攻め立てました。魏王は使者を送って帰国を求めましたが、信陵君は兵符を盗んだ罪を恐れて応じませんでした。そこへ博打打ちの毛公と酒売りの薛公が「魏が滅べば先祖の廟が壊される。そのとき公子は何の顔をして天下に立つのか」と諫め(この部分は直前の章句にあります)、信陵君は顔色を変えて帰国を決意します。兄弟が再会して泣き合い、魏王が上将軍の印を授けるこの場面は、長い確執の終わりを示しています。信陵君が諸侯に知らせると、各国はすぐに援軍を送りました。趙を救った信義と、身分を問わず士を敬った人望が、ここで魏を救う力として返ってきたのです。人との信頼を積み重ねておくことが、組織の危機に最も頼りになる資産になることを教えてくれる短い段です。
関連する章句
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史記 魏公子列伝公子趙に留まること十年帰らず。秦公子の趙に在るを聞き、日夜兵を出だして東のかた魏を伐つ。魏王之を患ひ、使をして往きて公子を請はしむ。公子其の之を怒るを恐れ、乃ち門下を誡む、「敢て魏王の使の為に通ずる者有らば死せしむ」と。賓客皆魏に背きて趙に之き、敢て公子に帰るを勧むる莫し。毛公・薛公両人往きて公子に見えて曰く、「公子の趙に重んぜられ、名諸侯に聞こゆる所以は、徒だ魏有るを以てなり。今秦魏を攻め、魏急にして公子恤へずんば、秦をして大梁を破りて先王の宗廟を夷がしめば、公子当に何の面目ありて天下に立つべきか」と。語未だ卒ふるに及ばず、公子立ちどころに色を変じ、車を告げて駕を趣し帰りて魏を救ふ。
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史記 魏公子列伝魏王、公子のその兵符を盗み、矯めて晋鄙を殺せしを怒る、公子もまた自ら知るなり。已に秦を卻けて趙を存し、将をしてその軍を将ゐて魏に帰らしめ、而して公子は独り客と趙に留まる。趙の孝成王、公子の晋鄙の兵を矯め奪ひて趙を存せしを徳とし、乃ち平原君と計り、五城を以て公子を封ぜんとす。公子これを聞き、意驕矜して自ら功とするの色有り。客に公子に説く有りて曰く、「物に忘るべからざる有り、或いは忘れざるべからざる有り。夫れ人の公子に徳有るは、公子忘るべからざるなり。公子の人に徳有るは、願はくは公子これを忘れよ。且つ魏王の令を矯め、晋鄙の兵を奪ひて以て趙を救ふは、趙に於いては則ち功有り、魏に於いては則ち未だ忠臣たらざるなり。公子乃ち自ら驕りてこれを功とす、竊かに公子の為に取らざるなり」と。是に於いて公子立ちどころに自ら責め、容るる所無きが若きに似たり。趙王、埽除して自ら迎へ、主人の礼を執り、公子を引きて西階に就かしむ。公子側行して辞譲し、東階より上る。自ら罪過を言ひ、以て魏に負き、趙に功無しとす。趙王侍酒して暮れに至るも、口に五城を献ずるに忍びず、公子の退譲するを以てなり。公子竟に趙に留まる。趙王、鄗を以て公子の湯沐の邑と為し、魏もまた信陵を以て復た公子に奉ず。公子趙に留まる。公子聞く、趙に処士毛公の博徒に蔵れ、薛公の売漿の家に蔵るる有りと。公子両人に見えんと欲す、両人自ら匿れて公子に見ゆるを肯んぜず。公子所在を聞き、乃ち閒歩して往きて此の両人に従ひて遊び、甚だ歓ぶ。平原君これを聞き、その夫人に謂ひて曰く、「始め吾、夫人の弟公子は天下に双び無しと聞く。今吾これを聞くに、乃ち妄りに博徒・売漿者に従ひて游ぶ、公子は妄人なるのみ」と。夫人以て公子に告ぐ。公子乃ち夫人に謝して去らんとして曰く、「始め吾、平原君の賢なるを聞く、故に魏王に負きて趙を救ひ、以て平原君に称ふ。平原君の遊ぶや、徒だ豪挙のみ、士を求めざるなり。
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史記 魏公子列伝魏の公子無忌は、魏の昭王の少子にして魏の安釐王の異母弟なり。昭王薨じ、安釐王即位し、公子を封じて信陵君と為す。是の時、范睢魏を亡げて秦に相たり、魏斉を怨むの故を以て、秦の兵大梁を囲み、魏の華陽の下の軍を破り、芒卯を走らす。魏王及び公子これを患ふ。公子は人と為り仁にして士に下り、士は賢不肖と無く皆謙りて礼もてこれに交はり、敢へてその富貴を以て士に驕らず。士は此を以て方数千里争ひ往きてこれに帰し、食客三千人を致す。是の時に当たりて、諸侯は公子の賢にして客多きを以て、敢へて兵を加へて魏を謀らざること十余年。
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史記 魏公子列伝公子、五国の兵を率ゐて秦の軍を河外に破り、蒙驁を走らす。遂に勝ちに乗じて秦の軍を逐ひて函谷関に至り、秦の兵を抑へ、秦の兵敢へて出でず。是の時に当たりて、公子の威天下に振ひ、諸侯の客兵法を進む、公子皆これに名づく、故に世俗魏公子兵法と称す。秦王これを患へ、乃ち金万斤を魏に行ひ、晋鄙の客を求め、公子を魏王に毀らしめて曰く、「公子亡げて外に在ること十年なり、今魏の将と為り、諸侯の将皆属す。諸侯は徒だ魏の公子を聞きて、魏王を聞かず。公子もまた此の時に因りて南面を定めて王たらんと欲す、諸侯は公子の威を畏れ、方に共にこれを立てんと欲す」と。秦数々反間を使ひ、偽りて公子の立ちて魏王と為るを得たるや未だしやを賀す。魏王日にその毀りを聞き、信ぜざる能はず、後果たして人をして公子に代はりて将たらしむ。公子自ら再び毀りを以て廃せらるるを知り、乃ち病と謝して朝せず、賓客と長夜の飲を為し、醇酒を飲み、多く婦女に近づく。日夜楽飲を為すこと四歳、竟に酒に病みて卒す。
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史記 魏公子列伝軍を留めて鄴に壁し、名は趙を救ふと為し、実は両端を持して以て観望す。平原君の使者の冠蓋魏に相属し、魏の公子を譲めて曰く、「勝の自ら附きて婚姻を為す所以の者は、公子の高義を以て、能く人の困しみに急にすと為せばなり。今、邯鄲旦暮に秦に降らんとして魏の救ひ至らず、安くにか公子の能く人の困しみに急にするに在らん。且つ公子縦ひ勝を軽んじ、これを棄てて秦に降らしむとも、独り公子の姊を憐れまざるか」と。公子これを患へ、数々魏王に請ひ、及び賓客辯士の王に説くこと万端なり。魏王秦を畏れ、終に公子に聴かず。公子自ら度るに終にこれを王に得る能はず、計るに独り生きて趙をして亡ばしめず、乃ち賓客に請ひ、車騎百余乗を約し、客を以て往きて秦の軍に赴き、趙と倶に死せんと欲す。行きて夷門を過ぎ、侯生に見え、具に秦の軍に死せんと欲する所以の状を告ぐ。辞決して行く、侯生曰く、「公子これを勉めよ、老臣は従ふ能はず」と。公子行くこと数里、心快からず、曰く、「吾の侯生を待する所以の者は備はれり、天下聞かざる莫し。今、吾且に死せんとして侯生曾ち一言半辞の我を送る無し、我豈に失ふ所有らんや」と。また車を引きて還り、侯生に問ふ。侯生笑ひて曰く、「臣固より公子の還るを知るなり」と。曰く、「公子士を喜み、名天下に聞こゆ。今難有り、他の端無くして秦の軍に赴かんと欲す、譬へば肉を以て餒虎に投ずるが若し、何の功かこれ有らん。尚ほ安んぞ客を事とせん。然れども公子臣を遇すること厚し、公子往きて臣送らず、是を以て公子これを恨みて復た返るを知るなり」と。公子再拝し、因りて問ふ。侯生乃ち人を屏けて閒語して曰く、「嬴聞く、晋鄙の兵符は常に王の臥内に在り、而して如姫最も幸せられ、王の臥内に出入す、力能くこれを竊まん。嬴聞く、如姫の父は人の殺す所と為り、如姫これを資すること三年、王より以下その父の仇に報ゆることを求めんと欲するも、能く得る莫し。如姫、公子の為に泣く、公子、客をしてその仇の頭を斬らしめ、敬んで如姫に進む。
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史記 魏公子列伝その歳、魏の安釐王もまた薨ず。秦、公子の死せるを聞き、蒙驁をして魏を攻めしめ、二十城を抜き、初めて東郡を置く。その後、秦稍く魏を蚕食し、十八歳にして魏王を虜にし、大梁を屠る。高祖始め微少なりし時、数々公子の賢を聞く。天子の位に即くに及び、大梁を過ぐる毎に、常に公子を祠る。高祖の十二年、黥布を撃つに従ひて還り、公子の為に守冢五家を置き、世世歳に四時を以て公子を奉祠せしむ。
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