史記 / 孟子荀卿列伝
而趙亦有公孫龍為堅白同異之辯,劇子之言;魏有李悝,盡地力之教;楚有尸子、長盧;阿之吁子焉。自如孟子至于吁子,世多有其書,故不論其傳云。蓋墨翟,宋之大夫,善守御,為節用。或曰并孔子時,或曰在其後。
新字:而趙亦有公孫竜為堅白同異之弁,劇子之言;魏有李悝,尽地力之教;楚有尸子、長盧;阿之吁子焉。自如孟子至于吁子,世多有其書,故不論其伝云。蓋墨翟,宋之大夫,善守御,為節用。或曰并孔子時,或曰在其後。
書き下し
而して趙にもまた公孫竜有りて堅白同異の弁を為す、劇子の言あり。魏に李悝有り、地力を尽くすの教へあり。楚に尸子・長盧有り。阿の吁子あり。孟子より吁子に至るまでの如きは、世多くその書有り、故にその伝を論ぜずと云ふ。蓋し墨翟は宋の大夫なり、守御を善くし、節用を為す。或いは曰く孔子と時を并す、或いは曰くその後に在りと。
現代語訳
また趙には公孫竜がいて、「堅白同異」の弁論(堅い白い石の、堅さと白さは別物かという議論など)を行い、劇子の言説もあった。魏には李悝がいて、土地の生産力を尽くす教えを説いた。楚には尸子と長盧がいた。阿の地には吁子がいた。孟子から吁子に至るまでの人々は、その書物が世に多く伝わっているので、ここではその伝記を論じないという。思うに、墨翟(墨子)は宋の大夫で、城の守りに優れ、節約を説いた。孔子と同じ時代の人だとも言い、孔子より後の人だとも言う。
解説
孟子荀卿列伝の結びとして、他の諸子を短く列挙した段です。趙の公孫竜は「堅白同異」の論で知られる名家の代表で、堅くて白い石の「堅さ」と「白さ」は同時には知覚できないから別物だといった議論を展開しました。魏の李悝は農地の生産力を最大に引き出す政策を説き、法家の先駆けとされます。楚の尸子・長盧、阿の吁子も名を挙げられますが、司馬遷は「その書が世に多く伝わっているので伝記は論じない」とあっさり述べています。そして最後に墨子について、宋の大夫で城の守りに長け、節約を説いたこと、孔子と同時代とも後の人ともいわれることを、わずか一文で記しています。後に儒家と並び称された墨家の祖に、これほど短い記述しかないことは、司馬遷の時代にすでに墨家の伝承が薄れていたことを示すものとされます。記録に残るかどうかで後世の評価が大きく変わるということも考えさせられます。
関連する章句
-
史記 孟子荀卿列伝孟軻は、騶の人なり。業を子思の門人に受く。道既に通じ、游びて斉の宣王に事ふるも、宣王用ふる能はず。梁に適くも、梁の恵王言ふ所を果たさず、則ち以て迂遠にして事情に闊しと見なさる。是の時に当り、秦は商君を用ひて国を富まし兵を彊くし、楚魏は呉起を用ひて戦勝し敵を弱くし、斉の威王・宣王は孫子・田忌の徒を用ひて、諸侯東面して斉に朝す。天下方に合従連衡に務め、攻伐を以て賢と為す。而して孟軻乃ち唐・虞・三代の徳を述ぶ、是を以て如く所の者合はず。退きて万章の徒と詩書を序し、仲尼の意を述べ、孟子七篇を作る。
-
史記 孟子荀卿列伝荀卿は趙人。年五十にして始めて来たりて斉に游学す。騶衍の術は迂大にして閎弁、奭や文具はるも施し難し。淳于髡は久しく与に処れば、時に善言を得る有り。故に斉人頌して曰く、「天を談ずるは衍、竜を雕るは奭、轂を炙るは過(か)髡」と。田駢の属皆已に斉の襄王の時に死し、而して荀卿最も老師たり。斉尚ほ列大夫の欠を修む、而して荀卿三たび祭酒と為る。斉人或ひと荀卿を讒す、荀卿乃ち楚に適く、而して春申君以て蘭陵の令と為す。春申君死して荀卿廃せられ、因りて蘭陵に家す。李斯嘗て弟子と為り、已にして秦に相たり。荀卿は濁世の政、亡国乱君の相属き、大道を遂げずして巫祝を営み、禨祥を信じ、鄙儒の小拘、荘周等の如きのまた猾稽にして俗を乱すを嫉み、是に於いて儒・墨・道徳の行事の興壊を推し、序列して数万言を著して卒す。因りて蘭陵に葬る。
-
荀子・非十二子篇天下を壹にし國家を建つるの權稱(けんしょう)を知らず、功用を上(たっと)び、儉約を大とし、而して差等を僈(あなど)り、曾(すなわ)ち以て辨異を容れ君臣を縣(か)くるに足らず。然れども其の之を持するに故有り、其の之を言うに理を成し、以て愚衆を欺惑するに足る。是れ墨翟(ぼくてき)・宋鈃(そうけん)なり。
-
『慎思録』巻之二孟子の文七篇は、皆是れ一人の作なり。苟も孟子の親ら作るに非ざれば、則ち首尾一体にして、些子の瑕疵無きこと此くの如くなること能はず。是れ朱子の史記を以て是に近しと為す所以の意なり。韓子謂ふ、孟軻の書は、軻の自ら著す者に非ず、と。恐らくは信じ難し。
-
史記 孟子荀卿列伝故に武王は仁義を以て紂を伐ちて王たり、伯夷は餓ゑて周の粟を食まず。衛の霊公陳を問ひて、孔子答へず。梁の恵王謀りて趙を攻めんと欲し、孟軻は大王の邠を去るを称す。此れ豈に意有りて世俗に阿りて茍合せんとするのみならんや。方枘を持して圜鑿に内れんと欲す、それ能く入らんや。或ひと曰く、伊尹は鼎を負ひて湯を勉めて以て王たらしめ、百里奚は牛を車下に飯ひて繆公用ひて霸たり、先づ合ふことを作して、然る後にこれを大道に引く。騶衍はその言軌せずと雖も、儻しくはまた牛鼎の意有らんか。騶衍と斉の稷下の先生、淳于髡・慎到・環淵・接子・田駢・騶奭の徒の如きより、各々書を著して治乱の事を言ひ、以て世主に干む、豈に勝げて道ふべけんや。
-
史記 孟子荀卿列伝これ有り」と。後に淳于髡見え、壹たび語りて連ぬること三日三夜にして倦むこと無し。恵王、卿相の位を以てこれを待たんと欲す、髡因りて謝して去る。是に於いて送るに安車駕駟、束帛に璧を加へ、黄金百鎰を以てす。終身仕へず。慎到は趙人。田駢・接子は斉人。環淵は楚人。皆黄老道徳の術を学び、因りてその指意を発明して序す。故に慎到は十二論を著し、環淵は上下篇を著し、而して田駢・接子は皆論ずる所有り。騶奭なる者は、斉の諸騶子にして、また頗る騶衍の術を采りて以て文を紀す。是に於いて斉王これを嘉し、淳于髡より以下の如き、皆命じて列大夫と曰ひ、為に第を康荘の衢に開き、高門大屋、これを尊寵す。天下諸侯の賓客に覧せて、斉は能く天下の賢士を致すと言ふなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る