史記 / 白起王翦列伝
因南征百越之君。而王翦子王賁,與李信破定燕、齊地。秦始皇二十六年,盡并天下,王氏、蒙氏功為多,名施於後世。秦二世之時,王翦及其子賁皆已死,而又滅蒙氏。陳勝之反秦,秦使王翦之孫王離擊趙,圍趙王及張耳鉅鹿城。或曰:「王離,秦之名將也。今將彊秦之兵,攻新造之趙,舉之必矣。」客曰:「不然。夫為將三世者必敗。必敗者何也?必其所殺伐多矣,其後受其不祥。今王離已三世將矣。」居無何,項羽救趙,擊秦軍,果虜王離,王離軍遂降諸侯。
新字:因南征百越之君。而王翦子王賁,与李信破定燕、斉地。秦始皇二十六年,尽并天下,王氏、蒙氏功為多,名施於後世。秦二世之時,王翦及其子賁皆已死,而又滅蒙氏。陳勝之反秦,秦使王翦之孫王離撃趙,囲趙王及張耳鉅鹿城。或曰:「王離,秦之名将也。今将彊秦之兵,攻新造之趙,舉之必矣。」客曰:「不然。夫為将三世者必敗。必敗者何也?必其所殺伐多矣,其後受其不祥。今王離已三世将矣。」居無何,項羽救趙,撃秦軍,果虜王離,王離軍遂降諸侯。
書き下し
因りて南のかた百越の君を征す。而して王翦の子王賁、李信と燕・斉の地を破り定む。秦の始皇の二十六年、尽く天下を并す、王氏・蒙氏の功多しと為し、名は後世に施す。秦の二世の時、王翦及びその子賁皆已に死し、而してまた蒙氏を滅ぼす。陳勝の秦に反するや、秦、王翦の孫王離をして趙を撃たしめ、趙王及び張耳を鉅鹿城に囲む。或ひと曰く、「王離は秦の名将なり。今、彊秦の兵を将ゐて、新造の趙を攻む、これを挙ぐること必せり」と。客曰く、「然らず。夫れ将たること三世なる者は必ず敗る。必ず敗るとは何ぞや。必ずその殺伐する所多し、その後その不祥を受くればなり。今、王離は已に三世の将なり」と。居ること何も無くして、項羽趙を救ひ、秦の軍を撃ち、果たして王離を虜にし、王離の軍遂に諸侯に降る。
現代語訳
(楚を平定した王翦は)そのまま南へ進んで百越の君たちを征伐した。また王翦の子の王賁は、李信と共に燕と斉の地を破って平定した。秦の始皇の二十六年、秦はついに天下をすべて併合したが、そこでは王氏と蒙氏の功績が大きく、その名は後世にまで伝わった。秦の二世皇帝の時には、王翦とその子王賁はすでに亡くなっており、また蒙氏は滅ぼされていた。陳勝が秦に反旗を翻すと、秦は王翦の孫の王離に趙を攻撃させ、趙王と張耳を鉅鹿の城に包囲した。ある人が言った。「王離は秦の名将だ。いま強い秦の兵を率いて、できたばかりの趙を攻めるのだから、必ず落とすだろう。」ある客が言った。「そうではない。三代続けて将となった家は必ず敗れる。なぜ必ず敗れるのか。殺したり討ったりしたことがきっと多く、その子孫がその不吉な報いを受けるからだ。いま王離はもう三代目の将である。」それから間もなく、項羽が趙を救って秦軍を攻撃し、案の定王離を捕虜にし、王離の軍はとうとう諸侯に降伏した。
解説
関連する章句
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史記 白起王翦列伝王翦は、頻陽の東郷の人なり。少くして兵を好み、秦の始皇に事ふ。始皇の十一年、翦将として趙の閼与を攻め、これを破り、九城を抜く。十八年、翦将として趙を攻む。歳余にして、遂に趙を抜き、趙王降り、尽く趙の地を定めて郡と為す。明年、燕、荊軻をして秦に賊を為さしむ、秦王、王翦をして燕を攻めしむ。燕王喜、遼東に走り、翦遂に燕の薊を定めて還る。秦、翦の子王賁をして荊を撃たしむ、荊の兵敗る。還りて魏を撃ち、魏王降り、遂に魏の地を定む。秦の始皇既に三晋を滅ぼし、燕王を走らせ、而して数々荊の師を破る。秦の将李信なる者は、年少く壮勇、嘗て兵数千を以て燕の太子丹を逐ひて衍水の中に至り、卒に丹を破り得たり。始皇以て賢勇と為す。是に於いて始皇、李信に問ふ、「吾、荊を攻め取らんと欲す、将軍に於いて度るに幾何人を用ひて足らん」と。李信曰く、「二十万人を用ふるに過ぎず」と。始皇、王翦に問ふ、王翦曰く、
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史記 白起王翦列伝王翦果たして李信に代はりて荊を撃つ。荊、王翦の軍を益して来たるを聞き、乃ち国中の兵を悉くして以て秦を拒ぐ。王翦至り、壁を堅くしてこれを守り、戦ふことを肯んぜず。荊の兵数々出でて戦ひを挑むも、終に出でず。王翦日に士を休めて洗沐せしめ、善く飲食してこれを撫循し、親ら士卒と食を同じくす。これを久しくして、王翦人をして軍中に戯るるかと問はしむ。対へて曰く、「方に投石超距す」と。是に於いて王翦曰く、「士卒用ふべし」と。荊数々戦ひを挑むも秦出でず、乃ち引きて東す。翦因りて兵を挙げてこれを追ひ、壮士をして撃たしめ、大いに荊の軍を破る。蘄の南に至り、その将軍項燕を殺し、荊の兵遂に敗走す。秦因りて勝ちに乗じて荊の地の城邑を略定す。歳余にして、荊王負芻を虜にし、竟に荊の地を平らげて郡県と為す。
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史記 秦始皇本紀秦王還り、太原・上郡より帰る。始皇帝の母太后崩ず。趙の公子嘉其の宗数百人を率ゐて代に之き、自ら立ちて代王と為り、東のかた燕と兵を合せ、上谷に軍す。大いに饑う。二十年、燕の太子丹秦の兵の国に至らんことを患ひ、恐れて、荊軻をして秦王を刺さしむ。秦王之を覚り、軻を体解して以て徇へ、而して王翦・辛勝をして燕を攻めしむ。燕・代兵を発して秦の軍を撃つ。秦の軍燕を易水の西に破る。二十一年、王賁荊を攻む。乃ち益卒を発して王翦の軍に詣らしめ、遂に燕の太子の軍を破り、燕の薊城を取り、太子丹の首を得たり。燕王東のかた遼東を収めて之に王たり。王翦病と謝して老いて帰る。新鄭反く。昌平君郢に徙る。大いに雪雨ふり、深さ二尺五寸。二十二年、王賁魏を攻め、河溝を引きて大梁に灌ぐ。大梁の城壊れ、其の王降らんことを請ふ。尽く其の地を取る。二十三年、秦王復た王翦を召し、彊ひて之を起こし、将として荊を撃たしむ。陳以南を取りて平輿に至り、荊王を虜にす。秦王游びて郢陳に至る。荊の将項燕昌平君を立てて荊王と為し、秦に淮南に反く。二十四年、王翦・蒙武荊を攻め、荊の軍を破る。昌平君死し、項燕遂に自殺す。二十五年、大いに兵を興し、王賁をして将たらしめ、燕の遼東を攻め、燕王喜を得たり。還りて代を攻め、代王嘉を虜にす。王翦遂に荊の江南の地を定め、越君を降し、会稽郡を置く。五月、天下大いに酺す。二十六年、斉王建其の相后勝と兵を発して其の西界を守り、秦に通ぜず。秦将軍王賁をして燕より南して斉を攻めしめ、斉王建を得たり。秦王初めて天下を并せ、丞相・御史に令して曰く、「異日韓王地を納れ璽を効し、藩臣と為らんことを請ふ。已にして約に倍き、趙・魏と合従して秦に畔く。故に兵を興して之を誅し、其の王を虜にす。寡人以為へらく善し、庶幾はくは兵革を息めんと。
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史記 陳渉世家周文は、陳の賢人なり、嘗て項燕の軍の視日と為り、春申君に事ふ、自ら兵を習ふと言ふ、陳王之に将軍の印を与へ、西のかた秦を撃たしむ。行くゆく兵を収めて関に至る、車千乗、卒数十万、戯に至り、焉に軍す。秦、少府章邯をして酈山の徒・人奴産子の生を免じ、悉く発して以て楚の大軍を撃たしめ、尽く之を敗る。周文敗れ、走りて関を出で、曹陽に止次すること二三月。章邯追ひて之を敗る、復た走りて澠池に次すること十余日。章邯撃ちて、大いに之を破る。周文自剄し、軍遂に戦はず。武臣邯鄲に到り、自ら立ちて趙王と為る、陳余は大将軍と為り、張耳・召騒は左右の丞相と為る。陳王怒り、武臣等の家室を捕系し、之を誅せんと欲す。柱国曰く、「秦未だ亡びざるに趙王将相の家属を誅するは、此れ一秦を生ずるなり。因りて之を立つるに如かず」と。陳王乃ち使者を遣はして趙を賀し、武臣等の家属を宮中に徙系し、耳の子張敖を封じて成都君と為し、趙の兵を趣して亟やかに関に入らしむ。趙王の将相相与に謀りて曰く、「王の趙に王たるは、楚の意に非ざるなり。楚已に秦を誅せば、必ず兵を趙に加へん。計は西に兵すること毋く、使をして北のかた燕の地を徇へしめて以て自ら広むるに如くは莫し。趙南は大河に拠り、北は燕・代有り、楚秦に勝つと雖も、敢へて趙を制せず。若し楚秦に勝たずんば、必ず趙を重んぜん。趙秦の獘に乗じ、以て志を天下に得べし」と。趙王以て然りと為し、因りて西に兵せず、而して故の上谷の卒史韓広をして兵を将ゐて北のかた燕の地を徇へしむ。燕の故の貴人豪傑韓広に謂ひて曰く、「楚已に王を立て、趙も又已に王を立つ。燕は小なりと雖も、亦た万乗の国なり、願はくは将軍立ちて燕王と為れ」と。韓広曰く、「広の母趙に在り、不可なり」と。燕人曰く、「趙は方に西に秦を憂ひ、南に楚を憂ふ、其の力我を禁ずる能はず。且つ楚の彊を以てするも、敢へて趙王将相の家を害せず、趙独り安んぞ敢へて将軍の家を害せんや」と。
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史記 秦始皇本紀秦を滅ぼしし後、各其の地を分かちて三と為し、名づけて雍王・塞王・翟王と曰ひ、号して三秦と曰ふ。項羽西楚の霸王と為り、命を主りて天下を分かちて諸侯を王とす。秦竟に滅ぶ。後五年、天下漢に定まる。太史公曰く、秦の先伯翳、嘗て勲を唐虞の際に有し、土を受け姓を賜はる。殷夏の間に及びて微散す。周の衰ふるに至りて、秦興り、西垂に邑す。繆公より以来、稍諸侯を蚕食し、竟に始皇を成す。始皇自ら以為へらく功は五帝に過ぎ、地は三王より広しと。而して之と侔しきを羞づ。善きかな賈生の之を推言するや。曰く、秦は諸侯を并兼し、山東三十余郡、津関を繕ひ、険塞に拠り、甲兵を修めて之を守る。然れども陳渉戍卒散乱の衆数百を以て、臂を奮ひて大呼し、弓戟の兵を用ゐず、鉏櫌白梃にて、屋を望みて食し、天下に横行す。秦人険を阻むも守らず、関梁闔ぢず、長戟刺さず、彊弩射ず。楚の師深く入り、鴻門に戦ふ、曾て藩籬の艱無し。是に於て山東大いに擾れ、諸侯并び起こり、豪俊相立つ。秦章邯をして将として東征せしむ。章邯因りて三軍の衆を以て外に要市し、以て其の上を謀る。群臣の信ならざること、此に見る可し。子嬰立ちて、遂に寤らず。藉使子嬰に庸主の材有りて、僅かに中佐を得ば、山東乱ると雖も、秦の地は全くして有つ可く、宗廟の祀未だ絶ゆるに当たらざらん。秦の地は山を被り河を帯びて以て固めと為す、四塞の国なり。繆公より以来、秦王に至るまで、二十余君、常に諸侯の雄為り。豈に世世賢ならんや。其の勢ひ居然たればなり。且つ天下嘗て心を同じくし力を并せて秦を攻む。
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史記 白起王翦列伝「六十万人に非ずんば不可なり」と。始皇曰く、「王将軍老いたり、何ぞ怯なるや。李将軍は果勢壮勇、その言是なり」と。遂に李信及び蒙恬をして二十万を将ゐて南のかた荊を伐たしむ。王翦の言用ひられず、因りて病を謝し、帰りて頻陽に老す。李信は平与を攻め、蒙恬は寝を攻め、大いに荊の軍を破る。信また鄢郢を攻め、これを破る。是に於いて兵を引きて西し、蒙恬と城父に会す。荊人因りてこれに随ひ、三日三夜頓舎せず、大いに李信の軍を破り、両壁に入り、七都尉を殺し、秦の軍走る。始皇これを聞き、大いに怒り、自ら馳せて頻陽に如き、王翦に見え謝して曰く、「寡人、将軍の計を用ひざるを以て、李信果たして秦の軍を辱めたり。今聞く、荊の兵日に進みて西すと。将軍病むと雖も、独り寡人を棄つるに忍びんや」と。王翦謝して曰く、「老臣は罷病悖乱す、唯だ大王更に賢将を択べ」と。始皇謝して曰く、「已みなん、将軍復た言ふこと勿かれ」と。王翦曰く、「大王必ず已むを得ずして臣を用ひんとせば、六十万人に非ずんば不可なり」と。始皇曰く、「為に将軍の計を聴かんのみ」と。是に於いて王翦、兵六十万人を将ゐ、始皇自ら送りて灞上に至る。王翦行くに、美田宅園池を請ふこと甚だ衆し。始皇曰く、「将軍行け、何ぞ貧を憂へんや」と。王翦曰く、「大王の将と為りて、功有るも終に封侯を得ず。故に大王の臣に向かふに及び、臣もまた時に及びて以て園池を請ひて子孫の業と為さんのみ」と。始皇大いに笑ふ。王翦既に関に至り、使ひをして還りて善田を請はしむる者五輩。或ひと曰く、「将軍の乞貸もまた已に甚だし」と。王翦曰く、「然らず。夫れ秦王は怚にして人を信ぜず。今、秦国の甲士を空しくして専ら我に委ぬ。我多く田宅を請ひて子孫の業と為して以て自ら堅くせずんば、顧って秦王をして坐して我を疑はしめんや」と。
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