史記 / 樗里子甘茂列伝
還擊皮氏,皮氏未降,又去。昭王七年,樗里子卒,葬于渭南章臺之東。曰:「後百歲,是當有天子之宮夾我墓。」樗里子疾室在於昭王廟西渭南陰鄉樗裏,故俗謂之樗里子。至漢興,長樂宮在其東,未央宮在其西,武庫正直其墓。秦人諺曰:「力則任鄙,智則樗裏。」甘茂者,下蔡人也。事下蔡史舉先生,學百家之說。因張儀、樗里子而求見秦惠王。王見而說之,使將,而佐魏章略定漢中地。惠王卒,武王立。張儀、魏章去,東之魏。蜀侯煇、相壯反,秦使甘茂定蜀。還,而以甘茂為左丞相,以樗里子為右丞相。
新字:還撃皮氏,皮氏未降,又去。昭王七年,樗里子卒,葬于渭南章台之東。曰:「後百歳,是当有天子之宮夾我墓。」樗里子疾室在於昭王廟西渭南陰郷樗裏,故俗謂之樗里子。至漢興,長楽宮在其東,未央宮在其西,武庫正直其墓。秦人諺曰:「力則任鄙,智則樗裏。」甘茂者,下蔡人也。事下蔡史舉先生,学百家之説。因張儀、樗里子而求見秦恵王。王見而説之,使将,而佐魏章略定漢中地。恵王卒,武王立。張儀、魏章去,東之魏。蜀侯煇、相壮反,秦使甘茂定蜀。還,而以甘茂為左丞相,以樗里子為右丞相。
書き下し
還りて皮氏を撃つ、皮氏未だ降らず、また去る。昭王の七年、樗里子卒し、渭南の章台の東に葬る。曰く、「後百歳、是れ当に天子の宮の我が墓を夾む有るべし」と。樗里子疾の室は昭王の廟の西、渭南の陰郷の樗裏に在り、故に俗にこれを樗里子と謂ふ。漢興るに至りて、長楽宮その東に在り、未央宮その西に在り、武庫正にその墓に直る。秦人の諺に曰く、「力は則ち任鄙、智は則ち樗裏」と。甘茂は、下蔡の人なり。下蔡の史挙先生に事へ、百家の説を学ぶ。張儀・樗里子に因りて秦の恵王に見えんことを求む。王見てこれを説び、将たらしめて、魏章を佐けて漢中の地を略定せしむ。恵王卒し、武王立つ。張儀・魏章去り、東して魏に之く。蜀侯煇・相の壮反す、秦、甘茂をして蜀を定めしむ。還りて、甘茂を以て左丞相と為し、樗里子を以て右丞相と為す。
現代語訳
(樗里子は蒲から)引き返して皮氏(魏の邑)を攻めたが、皮氏がまだ降らないうちに、また去った。昭王の七年、樗里子は亡くなり、渭水の南、章台の東に葬られた。彼は生前こう言っていた。「百年後には、天子の宮殿が私の墓を両側から挟むことになるだろう。」樗里子疾の家は昭王の廟の西、渭水南岸の陰郷の樗裏にあったので、世間では彼を樗里子と呼んだのである。漢が興ると、長楽宮がその東に、未央宮がその西に建ち、武器庫がちょうど彼の墓の真上に当たった。秦の人々のことわざに「力なら任鄙(秦の力士)、知恵なら樗裏」とある。甘茂は下蔡(楚の地)の人である。下蔡の史挙先生に仕え、諸子百家の学説を学んだ。張儀と樗里子のつてで秦の恵王に目通りを求めた。王は会って彼を気に入り、将に任じて、魏章を補佐して漢中の地を攻め取らせた。恵王が亡くなり、武王が即位した。張儀と魏章は秦を去り、東の魏へ行った。蜀侯の煇と蜀の相の壮が反乱を起こしたので、秦は甘茂に蜀を平定させた。甘茂が帰還すると、秦は甘茂を左丞相、樗里子を右丞相とした。
解説
関連する章句
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史記 樗里子甘茂列伝樗里子(ちょりし)は、名は疾、秦の恵王の弟なり、恵王と母を異にす。母は韓の女なり。樗里子は滑稽にして智多し、秦人号して「智囊」と曰ふ。秦の恵王の八年、樗里子に右更を爵し、将として曲沃を伐たしむ。尽くその人を出だし、その城を取り、地は秦に入る。秦の恵王の二十五年、樗里子をして将と為りて趙を伐たしめ、趙の将軍荘豹を虜にし、藺を抜く。明年、魏章を助けて楚を攻め、楚将屈丐を敗り、漢中の地を取る。秦、樗里子を封じ、号して厳君と為す。秦の恵王卒し、太子武王立ち、張儀・魏章を逐ひ、樗里子・甘茂を以て左右の丞相と為す。秦、甘茂をして韓を攻めしめ、宜陽を抜く。樗里子をして車百乗を以て周に入らしむ。周は卒を以てこれを迎へ、意甚だ敬す。楚王怒り、周を譲む、その秦の客を重んずるを以てなり。游騰、周の為に楚王に説きて曰く、「知伯の仇猶を伐つや、これに広車を遺り、因りてこれに随ふに兵を以てし、仇猶遂に亡ぶ。何となれば則ち備へ無きが故なり。斉の桓公の蔡を伐つや、号して楚を誅すと曰ひ、その実は蔡を襲ふ。今、秦は虎狼の国なり、樗里子をして車百乗を以て周に入らしむ。周は仇猶・蔡を以てこれを観る、故に長戟をして前に居らしめ、彊弩を後に在らしめ、名づけて疾を衛ると曰ひて、実はこれを囚ふるなり。且つ夫れ周、豈に能くその社稷を憂ふること無からんや。恐らくは一旦国を亡ぼして以て大王を憂へしめん」と。楚王乃ち悦ぶ。秦の武王卒し、昭王立つ。樗里子また益々尊重せらる。
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史記 樗里子甘茂列伝太史公曰く、「樗里子は骨肉を以て重んぜらる、固より其の理なり、而して秦人其の智を称す、故に頗る采る。甘茂は下蔡の閭閻より起こり、名を諸侯に顕はし、斉楚を重彊す。甘羅は年少なり、然れども一奇計を出だし、声後世に称せらる。篤行の君子に非ずと雖も、然れども亦た戦国の策士なり。秦の彊き時に方り、天下尤も謀詐に趨るかな」と。
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史記 樗里子甘茂列伝彼をして来たらしめば則ちこれを鬼谷に置き、終身出だすこと勿かれ」と。秦王曰く、「善し」と。即ちこれに上卿を賜ひ、相印を以てこれを斉に迎ふ。甘茂往かず。蘇代、斉の湣王に謂ひて曰く、「夫れ甘茂は賢人なり。今、秦これに上卿を賜ひ、相印を以てこれを迎ふ。甘茂は王の賜を徳とし、好んで王の臣と為らんとす、故に辞して往かず。今、王何を以てこれを礼せん」と。斉王曰く、「善し」と。即ちこれを上卿に位してこれを処く。秦因りて甘茂の家を復して以て斉に市す。斉、甘茂を楚に使はす。楚の懐王新たに秦と婚を合はせて驩ぶ。而して秦、甘茂の楚に在るを聞き、人をして楚王に謂はしめて曰く、「願はくは甘茂を秦に送れ」と。楚王、范蜎に問ひて曰く、「寡人、相を秦に置かんと欲す、孰か可なる」と。対へて曰く、「臣は以てこれを識るに足らず」と。楚王曰く、「寡人、甘茂を相とせんと欲す、可なるか」と。対へて曰く、「不可なり。夫れ史挙は下蔡の監門なり、大にしては君に事ふることを為さず、小にしては家室を為さず、茍賤不廉を以て世に聞こゆ。甘茂これに事へて順なり。故に恵王の明、武王の察、張儀の弁にして、甘茂これに事へ、十官を取りて罪無し。茂は誠に賢者なり、然れども秦に相とすべからず。夫れ秦の賢相有るは、楚国の利に非ざるなり。且つ王、前に嘗て召滑を越に用ひて、内に章義の難を行はしむ。越国乱る、故に楚は南のかた厲門を塞ぎて江東を郡とす。王の功の能く此くの如き所以の者を計るに、越国乱れて楚治まればなり。今、王はこれを越に用ふるを知りて、これを秦に用ふるを忘る。臣は王を以て鉅過と為す。然らば則ち王若し相を秦に置かんと欲せば、則ち向寿の者に若くは莫くして可なり。夫れ向寿の秦王に於けるや、親なり。少くしては与に衣を同じくし、長じては与に車を同じくして、以て事を聴く。王必ず向寿を秦に相とせば、則ち楚国の利なり」と。是に於いて使ひをして秦に向寿を相とせんことを請はしむ。秦、卒に向寿を相とす。而して甘茂は竟に復た秦に入るを得ず、魏に卒す。
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史記 樗里子甘茂列伝今、二人の者皆秦の事に親しむを得ずして、公独り王と国に主断するは何ぞや。彼、以てこれを失ふ有ればなり。公孫奭は韓に党し、甘茂は魏に党す、故に王信ぜざるなり。今、秦楚彊を争ひて公は楚に党す、是れ公孫奭・甘茂と道を同じくするなり、公何を以てこれに異ならん。人皆楚の善く変ずるを言ふ、而るに公必ずこれに亡びば、是れ自ら責を為すなり。公は王とその変を謀り、韓を善くして以て楚に備ふるに如かず。此くの如くんば則ち患ひ無からん。韓氏は必ず先に国を以て公孫奭に従ひて後に国を甘茂に委ねん。韓は公の讎なり。今、公、韓を善くして以て楚に備へんと言ふ、是れ外に挙ぐるに讎を僻けざるなり」と。向寿曰く、「然り、吾甚だ韓の合せんことを欲す」と。対へて曰く、「甘茂は公仲に許すに武遂を以てし、宜陽の民を反す。今、公徒らにこれを収めんとするは、甚だ難し」と。向寿曰く、「然らば則ち奈何せん。武遂は終に得べからざるか」と。対へて曰く、「公奚ぞ秦を以て韓の為に潁川を楚に求めざる。此れ韓の寄地なり。公求めてこれを得ば、是れ令楚に行はれて、その地を以て韓に徳とせらるるなり。公求めて得ずんば、是れ韓楚の怨み解けずして、交々秦に走るなり。秦楚彊を争ひ、公徐ろに楚を過めて以て韓を収めば、此れ秦に利あり」と。向寿曰く、「柰何せん」と。対へて曰く、「此れ善き事なり。甘茂は魏を以て斉を取らんと欲し、公孫奭は韓を以て斉を取らんと欲す。今、公、宜陽を取りて以て功と為し、楚韓を収めて以てこれを安んじ、而して斉魏の罪を誅せば、是れ公孫奭・甘茂を以て事無からしむるなり」と。甘茂竟に秦の昭王に言ひ、武遂を以てまたこれを韓に帰す。向寿・公孫奭これを争ふも、得ること能はず。向寿・公孫奭これに由りて怨み、甘茂を讒す。茂懼れ、魏の蒲阪を伐つを輟めて、亡げ去る。樗里子、魏と講じ、兵を罷む。
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『新序』雜事第二甘茂は下蔡の人なり。西のかた秦に入り、數ミ功有り。武王に至りて以て左丞相と爲し、樗里子を右丞相と爲す。樗里子及び公孫子は、皆な秦の諸公子なり。其の外家は韓なり。數ミ韓を攻む。秦の武王甘茂に謂いて曰く、寡人車を容れて周室に至らんと欲す。其の道は韓の宜陽に乎てす、と。甘茂をして韓を伐ちて宜陽を取り、以て道を通じて周室に至らしめんと欲す。甘茂曰く、請う魏と約して與に韓を伐たん、と。向壽をして行を輔けしむ。甘茂既に魏と約して許さる。甘茂還りて息壤に至り、向壽に謂いて曰く、子歸りて之を王に言え。魏は臣に聽けり。然れども願わくは王伐つ勿かれ、と。向壽歸りて以て王に告ぐ。王甘茂を息壤に迎え、其の故を問う。對えて曰く、宜陽は大縣なり。名は縣と爲すも、其の實は郡なり。今王數險に倍き、千里を行きて之を攻むるは難し、と。
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史記 樗里子甘茂列伝甘茂をしてこれを撃たしむ。斬首六万、遂に宜陽を抜く。韓の襄王、公仲侈をして入りて謝せしめ、秦と平らぐ。武王竟に周に至りて、周に卒す。その弟立ち、昭王と為る。王の母宣太后は、楚の女なり。楚の懐王、前に秦の楚を丹陽に敗りて韓の救はざりしを怨み、乃ち兵を以て韓の雍氏を囲む。韓、公仲侈をして急を秦に告げしむ。秦の昭王新たに立ち、太后は楚人なれば、救ふを肯んぜず。公仲、甘茂に因る。茂、韓の為に秦の昭王に言ひて曰く、「公仲は方に秦の救ひを得る有らんとす、故に敢へて楚を捍ぐなり。今、雍氏囲まれ、秦の師殽を下らずんば、公仲且に首を仰ぎて朝せざらんとし、公叔且に国を以て南のかた楚に合せんとす。楚・韓一と為らば、魏氏敢へて聴かずんばあらず、然らば則ち秦を伐つの形成る。識らず、坐して伐たるるを待つと人を伐つの利といづれぞ」と。秦王曰く、「善し」と。乃ち師を殽に下して以て韓を救ふ。楚の兵去る。秦、向寿をして宜陽を平らげしめ、而して樗里子・甘茂をして魏の皮氏を伐たしむ。向寿は宣太后の外族なり、而して昭王と少くして相長ず、故に任用せらる。向寿、楚に如く、楚は秦の向寿を貴ぶを聞きて、厚く向寿に事ふ。向寿、秦の為に宜陽を守り、将に以て韓を伐たんとす。韓の公仲、蘇代をして向寿に謂はしめて曰く、「禽も困しめば車を覆す。公、韓を破り、公仲を辱めしも、公仲は国を収めてまた秦に事へ、自ら以為へらく必ず封ぜらるべしと。今、公は楚と解口の地を与へ、小令尹を封ずるに杜陽を以てす。秦楚合してまた韓を攻めば、韓必ず亡びん。韓亡びば、公仲且に躬ら其の私徒を率ゐて以て秦を閼がんとす。願はくは公これを孰慮せよ」と。向寿曰く、「吾の秦楚を合するは以て韓に当たるに非ざるなり。子、寿の為にこれを公仲に謁げて、秦韓の交は合すべしと曰へ」と。蘇代対へて曰く、「願はくは公に謁ぐる有らん。人曰く、その貴ぶ所以の者を貴ぶ者は貴しと。王の公を愛習するや、公孫奭に如かず。その公を智能とするや、甘茂に如かず。
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