史記 / 張儀列伝
燕王曰:「寡人蠻夷僻處,雖大男子裁如嬰兒,言不足以采正計。今上客幸教之,請西面而事秦,獻恒山之尾五城。」燕王聽儀。儀歸報,未至咸陽而秦惠王卒,武王立。武王自為太子時不說張儀,及即位,群臣多讒張儀曰:「無信,左右賣國以取容。秦必復用之,恐為天下笑。」諸侯聞張儀有卻武王,皆畔衡,復合從。
新字:燕王曰:「寡人蠻夷僻処,雖大男子裁如嬰児,言不足以采正計。今上客幸教之,請西面而事秦,献恒山之尾五城。」燕王聴儀。儀帰報,未至咸陽而秦恵王卒,武王立。武王自為太子時不説張儀,及即位,群臣多讒張儀曰:「無信,左右売国以取容。秦必復用之,恐為天下笑。」諸侯聞張儀有却武王,皆畔衡,復合従。
書き下し
燕王曰く、「寡人は蛮夷の僻処なり、大男子と雖も裁かに嬰児の如く、言以て正計を采るに足らず。今上客幸ひに之に教ふ、請ふ西面して秦に事へ、恒山の尾の五城を献ぜん」と。燕王儀に聴く。儀帰報す、未だ咸陽に至らずして秦の恵王卒し、武王立つ。武王太子為りし時より張儀を説ばず、即位するに及び、群臣多く張儀を讒して曰く、「信無く、左右に国を売りて以て容を取る。秦必ず復た之を用ひば、恐らくは天下の笑ひと為らん」と。諸侯張儀の武王と卻有るを聞き、皆衡に畔き、復た従に合す。
現代語訳
燕王は言った。「わたしは辺境の蛮夷の地にいる者で、大の男ではあっても、まるで赤ん坊のようなもので、自分の言葉では正しい策を選ぶこともできない。いま上客のあなたが幸いにも教えてくれた。どうか西を向いて秦に仕え、恒山のふもとの五城を献上させてほしい。」燕王は張儀の説を受け入れた。張儀は秦に帰って報告しようとしたが、まだ咸陽に着かないうちに秦の恵王が亡くなり、武王が即位した。武王は太子の時から張儀を好まなかった。武王が即位すると、群臣の多くが張儀を讒言して言った。「信義がなく、あちこちで国を売って取り入っている。秦がもしまた彼を用いれば、天下の笑い者になるだろう。」諸侯は張儀が武王と不仲だと聞くと、皆連衡に背き、再び合従した。
解説
関連する章句
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戦国策・張儀為秦破從連橫謂燕王張儀秦の爲に從を破りて連橫し、燕王に謂いて曰く、「大王の親しむ所、趙に如くは莫し。昔趙王其の姊を以て代王の妻と為し、代を并せんと欲し、代王と句注の塞に遇わんことを約す。乃ち工人をして金斗を作らしめ、其の尾を長くし、之をして以て人を擊つべからしむ。代王と飲むに、陰かに廚人に告げて曰く、『酒酣樂に即かば、熱歠を進め、即ち斗を反して之を擊て』と。是に於て酒酣樂進みて熱歠を取る。廚人斟羹を進め、斗を反して之を擊ち、代王腦塗地す。其の姊之を聞き、笄を摩して以て自刺す。故に今に至るまで摩笄の山有り、天下聞かざるは莫し。夫れ趙王の狼戾にして親しむ無きは、大王の明らかに見知る所なり。且つ趙王を以て親しむべしと為すか。趙兵を興して燕を攻め、再び燕都を圍みて大王を劫かし、大王十城を割きて乃ち郤きて謝す。今趙王已に澠池に入朝し、河間を效して以て秦に事う。大王秦に事えずんば、秦雲中・九原に甲を下し、趙を驅りて燕を攻めしめば、則ち易水・長城王の有に非ざらん。且つ今の時、趙の秦に於けるや、猶郡縣のごとし、敢えて妄りに師を興して以て征伐せず。今大王秦に事えば、秦王必ず喜び、趙敢えて妄りに動かざらん。是れ西に強秦の援有りて、南に齊・趙の患無し、是の故に願わくは大王之を熟計せんことを」と。燕王曰く、「寡人蠻夷の辟處にして、大男子と雖も、裁ち嬰兒の如し、言正を求むるに足らず、謀事を決するに足らず。今大客幸いに之を教うれば、請う社稷を奉じて西面して秦に事え、常山の尾五城を獻ぜん」と。
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戦国策・張儀事秦惠王張儀、秦の惠王に事ふ。惠王死し、武王立つ。左右、張儀を惡みて曰く、「儀、先王に事へて忠ならず。」言未だ已(や)まざるに、齊の讓(せ)め又た至る。張儀之を聞き、武王に謂ひて曰く、「儀に愚計有り、願はくは之を王に效(いた)さん。」王曰く、「奈何(いかん)。」曰く、「社稷の爲に計る者は、東方に大變有り、然る後に王多く地を割く可し。今、齊王甚だ張儀を憎み、儀の在る所には、必ず兵を舉げて之を伐たん。故に儀願はくは不肖の身を乞ひて梁に之かん、齊必ず兵を舉げて之を伐たん。齊・梁の兵、城下に連なりて相去る能はず、王其の間を以て韓を伐ち、三川に入り、兵を函谷に出だして伐つこと無く、以て周に臨まば、祭器必ず出で、天子を挾み、圖籍を案ぜん、此れ王業なり。」王曰く、「善し。」乃ち革車三十乘を具へ、之を梁に納る。齊果たして兵を擧げて之を伐つ。梁王大いに恐る。張儀曰く、「王患ふる勿かれ、請ふ齊の兵を罷めしめん。」乃ち其の舍人馮喜をして楚に之かしめ、藉りて之を齊に之かしむ。齊・楚の事已に畢はり、因りて齊王に謂ふ、「王甚だ張儀を憎むと雖も、然れども厚きかな、王の儀を秦王に託するや。」齊王曰く、「寡人甚だ儀を憎む、儀の在る所には、必ず兵を擧げて之を伐たん、何を以て儀を託すと爲すや。」對へて曰く、「是れ乃ち王の儀を託するなり。儀、秦を出づるに因りて秦王と約して曰く、『王の爲に計る者は、東方に大變有り、然る後に王多く地を割く可し。齊王甚だ儀を憎み、儀の在る所には、必ず兵を擧げて之を伐たん。故に儀願はくは不肖の身を乞ひて梁に之かん、齊必ず兵を擧げて梁を伐たん。梁・齊の兵、城下に連なりて去る能はず、王其の間を以て韓を伐ち、三川に入り、兵を函谷に出だして伐つこと無く、以て周に臨まば、祭器必ず出で、天子を挾み、圖籍を案ぜん、是れ王業なり。』秦王以て然りと爲し、革車三十乘を與へて儀を梁に納る。而して果たして之を伐つ、是れ王内自ら罷めて與國を伐ち、鄰敵を廣げて以て自ら臨み、儀を秦王に信ぜしむるなり。此れ臣の謂ふ所の儀を託するなり。」王曰く、「善し。」乃ち止む。
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『長短経』七雄略夫れ趙王の狼戻にして親無きは、大王の明らかに見る所なり。且つ趙を以て親しむべしと為すか。趙は兵を興して燕を攻め、再び燕の都を囲みて大王を劫かし、大王は十城を割きて以て謝す。今、趙王は已に澠池に入朝し、河間を効して以て秦に事う。今、大王秦に事えずんば、秦は甲を雲中・九原に下し、趙を駆りて燕を攻めしめん。則ち易水・長城は王の有に非ざらん。今、王秦に事えば、秦王必ず喜び、趙は敢えて妄りに動かず。是れ西に強秦の援有りて、南に斉・趙の患い無きなり。是の故に、願わくは大王之を熟計せよ」と。燕王、張儀に聴く。張儀帰りて秦に報ず。
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史記 張儀列伝秦の武王の元年、群臣日夜張儀を悪みて未だ已まず、而して斉の譲め又至る。張儀誅せられんことを懼れ、乃ち因りて秦の武王に謂ひて曰く、「儀に愚計有り、願はくは之を効さん」と。王曰く、「柰何」と。対へて曰く、「秦の社稷の為に計る者は、東方に大変有りて、然る後に王以て多く地を割き得べきなり。今聞く斉王甚だ儀を憎む、儀の在る所、必ず師を興して之を伐たんと。故に儀願はくは其の不肖の身を乞ひて梁に之かん、斉必ず師を興して梁を伐たん。梁斉の兵城下に連なりて相去る能はずんば、王其の間を以て韓を伐ち、三川に入り、兵を函谷に出だして伐つこと毋く、以て周に臨まば、祭器必ず出でん。天子を挟み、図籍を按ず、此れ王業なり」と。秦王以て然りと為し、乃ち革車三十乗を具へ、儀を梁に入る。斉果たして師を興して之を伐つ。梁の哀王恐る。張儀曰く、「王患ふること勿かれ、請ふ斉の兵を罷めしめん」と。乃ち其の舎人馮喜をして楚に之かしめ、借りて斉に使ひせしめ、斉王に謂ひて曰く、「王甚だ張儀を憎む。然りと雖も、亦厚きかな王の儀を秦に託するや」と。斉王曰く、「寡人儀を憎む、儀の在る所、必ず師を興して之を伐たん、何を以て儀を託すや」と。対へて曰く、「是れ乃ち王の儀を託するなり。夫れ儀の出づるや、固より秦王と約して曰く、『王の為に計る者は、東方に大変有りて、然る後に王以て多く地を割き得べし。今斉王甚だ儀を憎む、儀の在る所、必ず師を興して之を伐たん。故に儀願はくは其の不肖の身を乞ひて梁に之かん、斉必ず師を興して之を伐たん。斉梁の兵城下に連なりて相去る能はずんば、王其の間を以て韓を伐ち、三川に入り、兵を函谷に出だして伐つこと無く、以て周に臨まば、祭器必ず出でん。天子を挟み、図籍を案ず、此れ王業なり』と。秦王以て然りと為す、故に革車三十乗を具へて之を梁に入る。今儀梁に入り、王果たして之を伐つ、是れ王内に国を罷らせて外に与国を伐ち、鄰敵を広めて以て内に自ら臨み、而して儀を秦王に信ぜしむるなり。此れ臣の所謂『儀を託す』なり」と。斉王曰く、「善し」と。乃ち兵を解かしむ。張儀魏に相たること一歳、魏に卒するなり。
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史記 張儀列伝願はくは大王の計を定めよ」と。趙王曰く、「先王の時、奉陽君権を専らにし勢を擅にし、先王を蔽ひ欺き、独り事を擅綰し、寡人は師傅に居属して、国の謀計に与からず。先王群臣を棄て、寡人年幼く、祀を奉ずるの日新たなり、心固より竊かに疑ふ、以為へらく一たび従して秦に事へざるは、国の長利に非ずと。乃ち且に心を変じ慮を易へ、地を割きて前過を謝して以て秦に事へんと願ふ。方に将に車を約して趨り行かんとするに、適々使者の明詔を聞く」と。趙王張儀を許し、張儀乃ち去る。北のかた燕に之き、燕の昭王に説きて曰く、「大王の親しむ所は趙に如くは莫し。昔趙襄子嘗て其の姊を以て代王の妻と為し、代を并はせんと欲し、代王と句注の塞に遇はんことを約す。乃ち工人をして金斗を作為せしめ、其の尾を長くし、以て人を撃つべからしむ。代王と飲み、陰かに廚人に告げて曰く、『即し酒酣にして楽しまば、熱啜を進め、反して闘りて以て之を撃て』と。是に於いて酒酣にして楽しむ、熱啜を進め、廚人進みて斟み、因りて反して闘りて以て代王を撃ち、之を殺す、王の脳地に塗る。其の姊之を聞き、因りて笄を摩して以て自ら刺す、故に今に至るまで摩笄の山有り。代王の亡ぶるは、天下聞かざる莫し。夫れ趙王の很戾にして親無きは、大王の明らかに見る所なり、且つ趙王を以て親しむべしと為すか。趙兵を興して燕を攻め、再び燕の都を囲みて大王を劫し、大王十城を割きて以て謝す。今趙王已に澠池に入朝し、河間を効して以て秦に事ふ。今大王秦に事へずんば、秦甲を雲中・九原に下し、趙を駆りて燕を攻めしめば、則ち易水・長城は大王の有に非ず。且つ今時趙の秦に於けるは猶ほ郡県のごときなり、敢へて妄りに師を挙げて以て攻伐せず。今王秦に事へば、秦王必ず喜び、趙敢へて妄動せず、是れ西に彊秦の援け有りて、南に斉趙の患ひ無し、是の故に願はくは大王孰々之を計れ」と。
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戦国策・張儀為秦連橫齊王張儀秦の爲に齊王に連橫して曰く、「天下の強國齊に過ぐる無く、大臣父兄の殷眾富樂も、齊に過ぐる無し。然れども大王の爲に計る者、皆な一時の說を爲して萬世の利を顧みず。從人大王に說く者は、必ず齊西に強趙有り、南に韓・魏有り、海を負ふの國なり、地廣く人眾く、兵強く士勇なれば、百秦有りと雖も、將に我を奈何ともする無からんと謂ふ。大王其の說を覽て、其の至實を察せず。「夫れ從人朋黨比周し、從を以て可と爲さざる莫し。臣之を聞く、齊魯と三たび戰ひて魯三たび勝つも、國以て危ふく、亡其の後に隨ふ。勝の名有りと雖も亡の實有り、是れ何の故ぞや。齊大にして魯小なればなり。今趙の秦に於けるや、猶ほ齊の魯に於けるがごときなり。秦・趙河漳の上に戰ひて、再び戰ひて再び秦に勝つ。番吾の下に戰ひて、再び戰ひて再び秦に勝つ。四戰の後、趙亡卒數十萬、邯鄲僅かに存す。秦に勝つの名有りと雖も、國破れたり。是れ何の故ぞや。秦強くして趙弱ければなり。今秦・楚子を嫁し婦を取り、昆弟の國と爲る。韓宜陽を獻じ、魏河外を效し、趙黽池に入朝し、河間を割きて以て秦に事ふ。大王秦に事へずんば、秦韓・魏を驅りて齊の南地を攻め、趙を悉くして河關を涉り、摶關を指し、臨淄・即墨王の有に非ざらん。國一日攻めらるれば、秦に事へんと欲すと雖も、得べからず。是の故に願はくは大王の熟計せんことを。」齊王曰く、「齊僻陋にして東海の上に隱居し、未だ嘗て社稷の長利を聞かず。今大客幸ひに之を教ふ、請ふ社稷を奉じて以て秦に事へん。」魚鹽の地三百を秦に獻ずるなり。
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