史記 / 張儀列伝
夫守易危之功而逆彊秦之心,臣竊為大王危之。「且夫秦之所以不出兵函谷十五年以攻齊、趙者,陰謀有合天下之心。楚嘗與秦構難,戰於漢中,楚人不勝,列侯執珪死者七十餘人,遂亡漢中。楚王大怒,興兵襲秦,戰於藍田。此所謂兩虎相搏者也。夫秦楚相敝而韓魏以全制其後,計無危於此者矣。願大王孰計之。「秦下甲攻衛陽晉,必大關天下之匈。大王悉起兵以攻宋,不至數月而宋可舉,舉宋而東指,則泗上十二諸侯盡王之有也。「凡天下而以信約從親相堅者蘇秦,封武安君,相燕,即陰與燕王謀伐破齊而分其地;乃詳有罪出走入齊,齊王因受而相之;居二年而覺,齊王大怒,車裂蘇秦於市。夫以一詐偽之蘇秦,而欲經營天下,混一諸侯,其不可成亦明矣。「今秦與楚接境壤界,固形親之國也。大王誠能聽臣,臣請使秦太子入質於楚,楚太子入質於秦,請以秦女為大王箕帚之妾,效萬室之都以為湯沐之邑,長為昆弟之國,終身無相攻伐。臣以為計無便於此者。」於是楚王已得張儀而重出黔中地與秦,欲許之。屈原曰:「前大王見欺於張儀,張儀至,臣以為大王烹之;今縱弗忍殺之,又聽其邪說,不可。」懷王曰:「許儀而得黔中,美利也。後而倍之,不可。」故卒許張儀,與秦親。張儀去楚,
新字:夫守易危之功而逆彊秦之心,臣窃為大王危之。「且夫秦之所以不出兵函谷十五年以攻斉、趙者,陰謀有合天下之心。楚嘗与秦構難,戦於漢中,楚人不勝,列侯執珪死者七十余人,遂亡漢中。楚王大怒,興兵襲秦,戦於藍田。此所謂両虎相搏者也。夫秦楚相敝而韓魏以全制其後,計無危於此者矣。願大王孰計之。「秦下甲攻衛陽晋,必大関天下之匈。大王悉起兵以攻宋,不至数月而宋可舉,舉宋而東指,則泗上十二諸侯尽王之有也。「凡天下而以信約従親相堅者蘇秦,封武安君,相燕,即陰与燕王謀伐破斉而分其地;乃詳有罪出走入斉,斉王因受而相之;居二年而覚,斉王大怒,車裂蘇秦於市。夫以一詐偽之蘇秦,而欲経営天下,混一諸侯,其不可成亦明矣。「今秦与楚接境壤界,固形親之国也。大王誠能聴臣,臣請使秦太子入質於楚,楚太子入質於秦,請以秦女為大王箕帚之妾,効万室之都以為湯沐之邑,長為昆弟之国,終身無相攻伐。臣以為計無便於此者。」於是楚王已得張儀而重出黔中地与秦,欲許之。屈原曰:「前大王見欺於張儀,張儀至,臣以為大王烹之;今縦弗忍殺之,又聴其邪説,不可。」懐王曰:「許儀而得黔中,美利也。後而倍之,不可。」故卒許張儀,与秦親。張儀去楚,
書き下し
夫れ易危の功を守りて彊秦の心に逆ふ、臣竊かに大王の為に之を危ぶむ。且つ夫れ秦の兵を函谷より出だして以て斉・趙を攻めざること十五年なる所以の者は、陰かに天下を合するの心有るを謀ればなり。楚嘗て秦と難を構へ、漢中に戦ひ、楚人勝たず、列侯執珪の死する者七十余人、遂に漢中を亡ふ。楚王大いに怒り、兵を興して秦を襲ひ、藍田に戦ふ。此れ所謂両虎相搏つ者なり。夫れ秦楚相敝れて韓魏全きを以て其の後を制す、計此れより危ふき者無し。願はくは大王孰々之を計れ。秦甲を下して衛の陽晋を攻めば、必ず大いに天下の匈を関さん。大王悉く兵を起こして以て宋を攻めば、数月に至らずして宋挙ぐべし、宋を挙げて東に指さば、則ち泗上の十二諸侯尽く王の有なり。凡そ天下にして信約を以て従親し相堅むる者は蘇秦なり、武安君に封ぜられ、燕に相たり、即ち陰かに燕王と謀りて斉を伐破して其の地を分かたんとす。乃ち詳りて罪有りとして出で走りて斉に入る、斉王因りて受けて之を相とす。居ること二年にして覚る、斉王大いに怒り、蘇秦を市に車裂す。夫れ一詐偽の蘇秦を以て、天下を経営し、諸侯を混一せんと欲す、其の成るべからざるも亦明らかなり。今秦と楚とは境を接し界を壌にし、固より形親の国なり。大王誠に能く臣に聴かば、臣請ふ秦の太子をして入りて楚に質たらしめ、楚の太子をして入りて秦に質たらしめ、請ふ秦の女を以て大王の箕帚の妾と為し、万室の都を効して以て湯沐の邑と為し、長く昆弟の国と為り、終身相攻伐すること無からん。臣以為へらく計此れより便なる者無しと」と。是に於いて楚王已に張儀を得て、黔中の地を出だして秦に与ふるを重り、之を許さんと欲す。屈原曰く、「前に大王張儀に欺かる、張儀至らば、臣以為へらく大王之を烹んと。今縦ひ之を殺すに忍びずとも、又其の邪説を聴くは、不可なり」と。懐王曰く、「儀を許して黔中を得るは、美利なり。後にして之に倍くは、不可なり」と。故に卒に張儀を許し、秦と親しむ。張儀楚を去り、
現代語訳
(張儀は続けた。)「危うくなりやすい功を守りながら、強い秦の意向に逆らうのは、わたしはひそかに大王のために危ぶむ。そもそも秦がこの十五年、函谷関から兵を出して斉や趙を攻めなかったのは、ひそかに天下を一つにまとめようという心を持って謀っていたからである。楚はかつて秦と争い、漢中で戦ったが、楚は勝てず、珪を手にする列侯で戦死した者は七十余人に及び、ついに漢中を失った。楚王は激怒して兵を起こし秦を襲い、藍田で戦った。これがいわゆる二頭の虎の格闘である。秦と楚が互いに疲れ果て、韓と魏が無傷のままその後ろを押さえる。これほど危うい策はない。大王にはよくよくお考えいただきたい。秦が兵を下して衛の陽晋を攻めれば、必ず天下の胸元を大きく塞ぐことになる。大王が兵をすべて起こして宋を攻めれば、数か月もたたずに宋を取ることができ、宋を取って東へ向かえば、泗水のほとりの十二の諸侯はすべて王のものとなる。天下で信義の盟約によって合従し、結束を固めたのは蘇秦である。彼は武安君に封じられ、燕の宰相となったが、ひそかに燕王と謀って斉を討ち破り、その地を分けようとした。そこで罪を得たふりをして燕を逃げ出し、斉に入った。斉王はそのまま受け入れて宰相とした。二年たって事が発覚すると、斉王は激怒し、蘇秦を市場で車裂きにした。たった一人の偽り者の蘇秦で天下を治め、諸侯を一つにしようとしたのだから、それが成功しないのは明らかである。いま秦と楚は国境を接しており、もともと地勢の上で親しむべき国である。大王がまことにわたしの言うことを聞いてくだされば、秦の太子を人質として楚に入れ、楚の太子を人質として秦に入れ、秦の王女を大王の妻妾とし、一万戸の都市を化粧料の領地として差し上げ、末永く兄弟の国となって、生涯互いに攻め合うことはないようにしたい。わたしはこれほど都合のよい計略はないと思う。」楚王はすでに張儀を手に入れていたが、黔中の地を秦に差し出すのは惜しかったので、張儀の提案を受け入れようとした。屈原が言った。「以前、大王は張儀に欺かれた。張儀が来たら、わたしは大王が彼を煮殺すものと思っていた。いま、たとえ殺すに忍びないとしても、またその邪な説を聞き入れるのはいけない。」懐王は言った。「張儀の申し出を受け入れて黔中を失わずにすむのは、よい利益だ。いったん約束しておいて後で背くのはよくない。」こうしてついに張儀の申し出を受け入れ、秦と親しくした。張儀は楚を去り、
解説
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史記 屈原賈生列伝屈平既に絀けらる。其の後秦斉を伐たんと欲す。斉と楚と従親す。恵王之を患ふ。乃ち張儀をして詳りて秦を去り、厚幣もて質を委ねて楚に事へしめて曰く、「秦は甚だ斉を憎む。斉と楚と従親す。楚誠に能く斉と絶たば、秦は商・於の地六百里を献ぜんことを願ふ」と。楚の懐王貪りて張儀を信じ、遂に斉と絶ち、使をして秦に如きて地を受けしむ。張儀之を詐りて曰く、「儀は王と六里を約せり。六百里を聞かず」と。楚の使怒りて去り、帰りて懐王に告ぐ。懐王怒り、大いに師を興して秦を伐つ。秦兵を発して之を撃ち、大いに楚の師を丹・淅に破り、首を斬ること八万、楚将屈丐を虜にし、遂に楚の漢中の地を取る。懐王乃ち悉く国中の兵を発して以て深く入りて秦を撃ち、藍田に戦ふ。魏之を聞き、楚を襲ひて鄧に至る。楚兵懼れ、秦より帰る。而して斉竟に怒りて楚を救はず。楚大いに困しむ。明年、秦漢中の地を割きて楚に与へ以て和す。楚王曰く、「地を得るを願はず。張儀を得て心を甘んぜんことを願ふ」と。張儀聞き、乃ち曰く、「一儀を以て漢中の地に当つ。臣請ふ往きて楚に如かん」と。楚に如き、又因りて厚幣もて事を用ふる者の臣靳尚に用ひ、而して詭弁を懐王の寵姫鄭袖に設く。懐王竟に鄭袖に聴き、復た張儀を釈し去らしむ。是の時屈平既に疏んぜられ、復た位に在らず。斉に使ひし、顧反し、懐王を諫めて曰く、「何ぞ張儀を殺さざる」と。懐王悔い、張儀を追へども及ばず。其の後諸侯共に楚を撃ち、大いに之を破り、其の将唐眛を殺す。時に秦の昭王楚と婚し、懐王と会せんと欲す。懐王行かんと欲す。屈平曰く、「秦は虎狼の国なり。信ずべからず。行くこと毋きに如かず」と。懐王の稚子子蘭、王に行くを勧む。「奈何ぞ秦の歓を絶たん」と。懐王卒に行く。武関に入る。秦伏兵もて其の後を絶ち、因りて懐王を留め、以て地を割かんことを求む。懐王怒り、聴かず。亡げて趙に走る。趙内れず。復た秦に之き、竟に秦に死して帰葬せらる。
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史記 楚世家鄭袖卒に張儀を王に言ひて之を出だす。儀出づ。懐王因りて善く儀を遇す。儀因りて楚王に説きて以て従約に叛きて秦と合親し、婚姻を約せしむ。張儀已に去る。屈原使ひして斉より来たり、王を諫めて曰く、「何ぞ張儀を誅せざる」と。懐王悔い、人をして儀を追はしむるも、及ばず。是の歳、秦の恵王卒す。二十年、斉の湣王従長と為らんと欲し、楚の秦と合するを悪み、乃ち使ひをして楚王に書を遺らしめて曰く、「寡人楚の尊名を察せざるを患ふ。今秦の恵王死し、武王立ち、張儀魏に走り、樗里疾・公孫衍用ひらる。而して楚秦に事ふ。夫れ樗里疾は韓に善く、而して公孫衍は魏に善し。楚必ず秦に事へば、韓・魏恐れ、必ず二人に因りて秦に合はんことを求めん。則ち燕・趙も亦た宜しく秦に事ふべし。四国争ひて秦に事へば、則ち楚は郡県と為らん。王何ぞ寡人と力を并せて韓・魏・燕・趙を収め、与に従を為して周室を尊び、以て兵を案じ民を息め、天下に令せざる。敢て楽しみて聴かざる莫くんば、則ち王の名成らん。王諸侯を率ゐて并せ伐たば、秦を破ること必せり。王武関・蜀・漢の地を取り、呉・越の富を私して江海の利を擅にし、韓・魏上党を割き、西のかた函谷に薄らば、則ち楚の彊百万ならん。且つ王張儀に欺かれ、地を漢中に亡ひ、兵を藍田に銼かる。天下王に代はりて怒りを懐かざる莫し。今乃ち先づ秦に事へんと欲す。願はくは大王之を孰計せよ」と。楚王業已に秦に和せんと欲す。斉王の書を見て、猶予して決せず、其の議を群臣に下す。群臣或いは秦に和せんと言ひ、或いは斉に聴かんと曰ふ。昭雎曰く、「王東のかた地を越に取ると雖も、以て恥を刷ふに足らず。必ず且に地を秦に取るべし。而る後に以て恥を諸侯に刷ふに足らん。王深く斉・韓に善くして以て樗里疾を重んずるに如かず。是の如くせば則ち王韓・斉の重きを得て以て地を求めん。
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戦国策・張儀為秦破從連橫張儀、秦の為に従を破りて連衡し、楚王に説きて曰わく、「秦の地天下に半ばし、兵四国に敵し、山を被り河を帯び、四塞以て固と為す。虎賁の士百余万、車千乗、騎万疋、粟丘山の如し。法令既に明らかにして、士卒難に安んじ死を楽しむ。主厳にして以て明らかに、将知にして以て武し。兵甲を出だす無しと雖も、常山の険を席巻し、天下の脊を折らば、天下後に服する者は先んじて亡びん。且つ夫れ従を為す者は、群羊を駆りて猛虎を攻むるに異なる無きなり。夫れ虎の羊に与するや、格せざること明らかなり。今大王猛虎に与せずして群羊に与す、竊かに以て大王の計過てりと為す。「凡そ天下の強国は、秦に非ずんば楚、楚に非ずんば秦なり。両国敵侔して交争し、其の勢い両立せず。而して大王秦に与せずんば、秦甲兵を下し、宜陽に拠り、韓の上地通ぜず、河東に下り、成皋を取らば、韓必ず秦に入臣せん。韓入臣すれば、魏則ち風に従いて動かん。秦楚の西を攻め、韓・魏其の北を攻めば、社稷豈に危うき無きを得んや。「且つ夫れ従を約する者は、群弱を聚めて至強を攻むるなり。夫れ弱を以て強を攻め、敵を料らずして軽く戦い、国貧しくして驟に兵を挙ぐるは、此れ危亡の術なり。臣之を聞く、兵如かざれば、与に挑戦する勿かれ、粟如かざれば、与に持久する勿かれと。夫れ従人なる者は、辯を飾り辞を虚しくし、主の節行を高くし、其の利を言いて其の害を言わず、卒に楚の禍い有るも、為す無きに及ばんのみ、是を以て願わくは大王の熟ら之を計られんことを。「秦西のかた巴蜀有り、船を方べて粟を積み、汶山より起こり、江に循いて下れば、郢に至ること三千余里。舫船卒を載せ、一舫五十人を載せ、三月の糧を与え、水を下りて浮かべば、一日行くこと三百余里、里数多しと雖も、馬汗の労を費やさず、十日に至らずして扞関に距らん。扞関驚けば、則ち竟陵より已東、尽く城守せん、黔中・巫郡は王の有に非ざるのみ。秦甲を挙げて之を武関より出だし、南面して攻めば、則ち北地絶えん。秦兵の楚を攻むるや、危難三月の内に在り。而るに楚は諸侯の救いを恃むも、半歳の外に在り、此れ其の勢い相い及ばざるなり。夫れ弱国の救いを恃みて、強秦の禍いを忘るるは、此れ臣の大王の為に患うる所以なり。且つ大王嘗て呉人と五戦して三勝して之を亡ぼすも、陳卒尽きたり、偏に新城を守るありて居民苦しめり。臣之を聞く、大を攻むる者は危うくなり易く、民弊るる者は上を怨むと。夫れ危うくなり易きの功を守りて、強秦の心に逆らうは、臣竊かに大王の為に之を危ぶむ。「且つ夫れ秦の甲を函谷関に出ださずして十五年、以て諸侯を攻めざる所以の者は、陰謀天下を呑むの心有ればなり。楚嘗て秦と難を構え、漢中に戦う。楚人勝たず、通侯・執珪死する者七十余人、遂に漢中を亡う。楚王大いに怒り、師を興して秦を襲い、藍田に戦うも、又郤く。此れ所謂両虎相い搏つ者なり。夫れ秦・楚相い弊れて、韓・魏全きを以て其の後を制せば、計此に過ぐる者無し、是を以て願わくは大王熟ら之を計られんことを。「秦兵を下して衛・陽晉を攻めば、必ず天下の匈を開扃せん、大王悉く兵を起こして以て宋を攻めば、数月に至らずして宋挙ぐべし。宋を挙げて東を指せば、則ち泗上十二諸侯、尽く王の有ならんのみ。「凡そ天下信じて従親堅しと為す所の者は蘇秦なり、封ぜられて武安君と為り燕に相たりしも、即ち陰かに燕王と斉を破りて共に其の地を分かたんことを謀る。乃ち罪有るを佯りて、出でて走りて斉に入る、斉王因りて受けて之を相とす。居ること二年にして覚れ、斉王大いに怒り、蘇秦を市に車裂す。夫れ一詐偽反覆の蘇秦を以て、天下を経営し、諸侯を混一せんと欲するは、其の成るべからざること亦た明らかなり。「今秦の楚に与するや、境を接し壌を界し、固に形親の国なり。大王誠に能く臣に聴かば、臣請う秦の太子をして楚に入質せしめ、楚の太子をして秦に入質せしめ、請う秦の女を以て大王の箕箒の妾と為し、万家の都を効し、以て湯沐の邑と為し、長く昆弟の国と為り、終身相い攻撃すること無からんことを。臣以為えらく計此より便なる者無しと。故に敝邑の秦王、使臣をして書を大王の従車の下風に献ぜしめ、須って以て事を決せんことを。」楚王曰わく、「楚国僻陋にして、東海の上に託す。寡人年幼くして、国家の長計に習わず。今上客幸いに教うるに明制を以てす、寡人之を聞き、敬んで国を以て従わん。」乃ち使いを遣わして車百乗、雞駭の犀、夜光の璧を秦王に献ず。
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史記 張儀列伝大いに戦ひ、楚大いに敗る、是に於いて楚両城を割きて以て秦と平らぐ。秦楚に要めて黔中の地を得んと欲し、武関の外を以て之に易へんと欲す。楚王曰く、「地を易ふるを願はず、張儀を得て黔中の地を献ぜんことを願ふ」と。秦王之を遣らんと欲するも、口言ふに忍びず。張儀乃ち行かんことを請ふ。恵王曰く、「彼の楚王子の負くに商於の地を以てせしを怒る、是れ且に心を子に甘んぜんとす」と。張儀曰く、「秦彊く楚弱し、臣靳尚に善し、尚楚の夫人鄭袖に事ふるを得、袖の言ふ所は皆従はる。且つ臣王の節を奉じて楚に使ひす、楚何ぞ敢へて誅を加へん。仮令臣を誅して秦の為に黔中の地を得ば、臣の上願なり」と。遂に楚に使ひす。楚の懐王至れば則ち張儀を囚へ、将に之を殺さんとす。靳尚鄭袖に謂ひて曰く、「子も亦子の王に賤しまれんことを知るか」と。鄭袖曰く、「何ぞや」と。靳尚曰く、「秦王甚だ張儀を愛して之を出だすを欲せず、今将に上庸の地六県を以て楚に賂ひ、美人を楚に聘し、宮中の善く歌謳する者を以て媵と為さんとす。楚王地を重んじ秦を尊ばば、秦の女必ず貴くして夫人斥けられん。為に言ひて之を出だすに若かず」と。是に於いて鄭袖日夜懐王に言ひて曰く、「人臣は各々其の主の為に用ひらる。今地未だ秦に入らざるに、秦張儀をして来たらしむ、至りて王を重んずるなり。王未だ礼有らずして張儀を殺さば、秦必ず大いに怒りて楚を攻めん。妾請ふ子母倶に江南に遷り、秦の魚肉とする所と為る毋からん」と。懐王後に悔い、張儀を赦し、厚く之を礼すること故の如し。張儀既に出で、未だ去らざるに、蘇秦の死するを聞き、乃ち楚王に説きて曰く、「秦の地は天下の半ばにして、兵は四国に敵し、険を被り河を帯び、四塞以て固めと為す。虎賁の士百余万、車千乗、騎万匹、粟を積むこと丘山の如し。法令既に明らかにして、士卒難に安んじ死を楽しみ、主は明にして以て厳、将は智にして以て武、甲を出だすこと無しと雖も、常山の険を席巻し、必ず天下の脊を折らん、天下に後れて服する者有らば先に亡びん。
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