史記 / 張儀列伝
張儀去楚、遂之韓、說韓王曰、韓地險惡山居、地不過九百里、無二歲之食。大王不事秦、秦下甲據宜陽、斷韓之上地、雖欲事秦不可得也。故為大王計、莫如為秦。韓王聽儀計。張儀又東說齊王、北說趙王、之燕說燕昭王、皆以事秦為便、諸侯畢聽。張儀歸報、秦惠王封儀五邑、號曰武信君。
新字:張儀去楚、遂之韓、説韓王曰、韓地険悪山居、地不過九百里、無二歳之食。大王不事秦、秦下甲拠宜陽、断韓之上地、雖欲事秦不可得也。故為大王計、莫如為秦。韓王聴儀計。張儀又東説斉王、北説趙王、之燕説燕昭王、皆以事秦為便、諸侯畢聴。張儀帰報、秦恵王封儀五邑、号曰武信君。
書き下し
張儀楚を去り、遂に韓に之き、韓王に説きて曰く、「韓は地険悪にして山居し、地は九百里に過ぎず、二歳の食無し。大王秦に事へずんば、秦甲を下して宜陽に拠り、韓の上地を断たば、秦に事へんと欲すと雖も得可からざるなり。故に大王の為に計るに、秦の為にするに如くは莫し」と。韓王儀の計を聴く。張儀又東のかた斉王に説き、北のかた趙王に説き、燕に之きて燕の昭王に説き、皆秦に事ふるを以て便と為し、諸侯畢く聴く。張儀帰り報じ、秦の恵王儀を五邑に封じ、号して武信君と曰ふ。
現代語訳
張儀は楚を去り、そのまま韓へ行って韓王に説いて言った。「韓は土地が険しく痩せていて山ばかり、領土は九百里に過ぎず、二年分の食糧の蓄えもありません。大王が秦に仕えなければ、秦は兵を下して宜陽を押さえ、韓の北の地を断ち切るでしょう。そうなれば、秦に仕えたいと思っても、もう叶いません。ですから大王のために考えますに、秦の側につくに越したことはありません」。韓王は張儀の計を容れた。張儀はさらに東へ行って斉王を説き、北へ行って趙王を説き、燕へ行って燕の昭王を説いた。いずれも秦に仕えるのが得策だと説き、諸侯はみなこれに従った。張儀が帰って報告すると、秦の恵王は彼を五つの邑に封じ、武信君と号させた。
解説
一つの成功パターンを、相手を変えながら次々と横展開して大局を制する——蘇秦の合従に対する張儀の連衡が、六国すべてを切り崩していく過程を描いた一段です。張儀は、楚を欺いて弱らせた後、韓・斉・趙・燕を次々と訪れ、各国に「秦に従うのが最も得策だ」と説いて回ります。その論法は基本的に同じで、各国の弱み(韓なら国土が狭く食糧が乏しい等)を突き、秦に逆らえば攻められて滅ぶ、従えば安泰だ、と説く。相手ごとに具体的な弱点は変えつつ、「単独では秦に勝てない、従うのが利口だ」という核心のロジックは一貫していました。かつて蘇秦が各国を一つずつ説得して合従(連合)を成したのと、まったく同じ手法を、張儀は逆方向(連衡=各個撃破・秦への従属)に使って、その連合を解体していったのです。ここに戦略の要諦があります。第一に、有効な説得・攻略のパターンを確立したら、相手を変えて横展開することで、大きな構造(六国連合)全体を動かせる。個別の成功を、再現可能な「型」にして展開する力です。第二に、同じ相手(六国)が、蘇秦の合従にも張儀の連衡にも従ったという事実は、人や組織が「その時々に力を持つ者・説得力のある論理」に流されやすいことを示します。確固たる主体性がなければ、巧みな説得者の描く構図に、良いようにも悪いようにも動かされてしまう。攻める側は再現可能な型を、動かされる側は流されない軸を——この二つの教訓が、連衡の展開に凝縮されています。
この章句が説くこと
張儀連衡の横展開成功パターンの再現各個撃破流されない軸六国切り崩し
関連する章句
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史記 張儀列伝秦復た魏を攻めんと欲す。張儀魏王に説きて曰く、「且つ夫れ諸侯の従を為すは、将に以て社稷を安んじ主を尊び兵を彊くし名を顕はさんとするなり。今従なる者は天下を一にし、約して昆弟と為り、白馬を刑して以て洹水の上に盟ひ、以て相ひ堅くす。而れども親昆弟の父母を同じくするすら、尚ほ銭財を争ふ有り、而して詐偽反覆せる蘇秦の余謀を恃まんと欲するは、其の成る可からざるも亦た明らかなり。大王秦に事へずんば、秦兵を下して河外を攻め、卷・衍・酸棗に拠らば、則ち趙南せず、趙南せずして梁北せず、梁北せざれば則ち従の道絶ゆ、従の道絶ゆれば則ち大王の国危からんと欲する毋きも得可からざるなり。大王の為に計るに、秦に事ふるに如くは莫し。秦に事へば則ち楚韓必ず敢て動かず、楚韓の患ひ無くば、則ち大王高枕して臥し、国必ず憂ひ無からん。臣之を聞く、積羽舟を沈め、群軽軸を折り、衆口金を鑠かし、積毀骨を銷す、と。故に願はくは大王審らかに計議を定めよ」と。哀王是に於いて乃ち従約に倍きて儀に因りて成を秦に請ふ。
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戦国策・張儀為秦連橫齊王張儀秦の爲に齊王に連橫して曰く、「天下の強國齊に過ぐる無く、大臣父兄の殷眾富樂も、齊に過ぐる無し。然れども大王の爲に計る者、皆な一時の說を爲して萬世の利を顧みず。從人大王に說く者は、必ず齊西に強趙有り、南に韓・魏有り、海を負ふの國なり、地廣く人眾く、兵強く士勇なれば、百秦有りと雖も、將に我を奈何ともする無からんと謂ふ。大王其の說を覽て、其の至實を察せず。「夫れ從人朋黨比周し、從を以て可と爲さざる莫し。臣之を聞く、齊魯と三たび戰ひて魯三たび勝つも、國以て危ふく、亡其の後に隨ふ。勝の名有りと雖も亡の實有り、是れ何の故ぞや。齊大にして魯小なればなり。今趙の秦に於けるや、猶ほ齊の魯に於けるがごときなり。秦・趙河漳の上に戰ひて、再び戰ひて再び秦に勝つ。番吾の下に戰ひて、再び戰ひて再び秦に勝つ。四戰の後、趙亡卒數十萬、邯鄲僅かに存す。秦に勝つの名有りと雖も、國破れたり。是れ何の故ぞや。秦強くして趙弱ければなり。今秦・楚子を嫁し婦を取り、昆弟の國と爲る。韓宜陽を獻じ、魏河外を效し、趙黽池に入朝し、河間を割きて以て秦に事ふ。大王秦に事へずんば、秦韓・魏を驅りて齊の南地を攻め、趙を悉くして河關を涉り、摶關を指し、臨淄・即墨王の有に非ざらん。國一日攻めらるれば、秦に事へんと欲すと雖も、得べからず。是の故に願はくは大王の熟計せんことを。」齊王曰く、「齊僻陋にして東海の上に隱居し、未だ嘗て社稷の長利を聞かず。今大客幸ひに之を教ふ、請ふ社稷を奉じて以て秦に事へん。」魚鹽の地三百を秦に獻ずるなり。
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戦国策・張儀為秦連橫說韓王張儀秦の為に連衡して韓王に説きて曰く、「韓の地険悪にして、山居し、五穀の生ずる所、麦に非ざれば豆なり。民の食する所、大抵豆飯藿羹なり。一歳収めざれば、民糟糠にも饜かず。地方九百里に満たず、二歳の食う所無し。大王の卒を料るに、之を悉くすれども三十万に過ぎず、而して廝徒負養其の中に在り。徼を守り亭鄣塞を除くを為せば、見卒二十万に過ぎざるのみ。秦の帯甲百余万、車千乗、騎万匹、虎摯の士、跿跔科頭、頤を貫き戟を奮う者、勝げて計うべからざるに至る。秦馬の良、戎兵の衆、前を探り後を趹り、蹄間三尋なる者、称数すべからず。山東の卒は、甲を被り冑を冒りて以て戦いに会す。秦人は甲を捐て裎を徒にして以て敵に趨り、左に人頭を挈げ、右に生虜を挟む。夫れ秦の卒の山東の卒と与にするや、猶お孟賁の怯夫と与にするがごとし。重力を以て相い圧するや、猶お烏獲の嬰児と与にするがごとし。夫れ孟賁・烏獲の士を戦わしめて、以て服せざるの弱国を攻めしむるは、千鈞の重きを堕として、鳥卵の上に集むるに異なる無し、必ず幸い無からん。諸侯兵の弱く、食の寡きを料らずして、従人の甘言好辞を聴き、比周して以て相い飾り、皆言いて曰く、『吾が計を聴けば則ち以て天下に強覇すべし』と。夫れ社稷の長利を顧みずして、須臾の説を聴き、人主を詿誤する者、此れに過ぐる無し。大王秦に事えずんば、秦甲を下して宜陽に拠り、韓の上地を断絶す。東のかた成皋・宜陽を取らば、則ち鴻台の宮、桑林の菀は、王の有に非ざるのみ。夫れ成皋を塞ぎ、上地を絶たば、則ち王の国分かたる。先んじて秦に事うれば則ち安く、秦に事えざれば則ち危うし。夫れ禍を造りて福を求め、計浅くして怨み深く、秦に逆らいて楚に順わば、亡ぶる無からんと欲すと雖も、得べからざるなり。故に大王の為に計るに、秦に事うるに如くは莫し。秦の欲する所は、楚を弱くするに如くは莫く、能く楚を弱くする者は韓に如くは莫し。韓の能く楚より強きを以てするに非ざるなり、其の地勢然るなり。今、王西面して秦に事えて以て楚を攻めば、敝邑の為に、秦王必ず喜ばん。夫れ楚を攻めて其の地を私し、禍を転じて秦を説ばしむるは、計此れより便なる者無し。是の故に秦王使臣をして書を大王の御史に献ぜしめ、須ちて以て事を決せしむ。」韓王曰く、「客幸いに之を教う、請う郡県に比し、帝宮を築き、春秋を祠り、東藩と称し、宜陽を効さん。」
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戦国策・張儀為秦連橫說趙王張儀秦の爲に連橫し、趙王に說きて曰く、「弊邑の秦王臣をして敢えて書を大王の御史に獻ぜしむ。大王天下を收率して以て秦を儐け、秦兵敢えて函谷關より出でざること十五年なり。大王の威、天下山東に行わる。弊邑恐懼懾伏し、甲を繕い兵を厲まし、車騎を飾り、馳射を習い、田に力めて粟を積み、四封の內を守り、愁居懾處し、敢えて動搖せず、唯だ大王の意有りて之を督過せんことを。今秦大王の力を以て、西のかた巴蜀を舉げ、漢中を并せ、東のかた兩周を收めて西のかた九鼎を遷し、白馬の津を守る。秦辟遠なりと雖も、然れども心忿悁して怒りを含むの日久し。今宣君微甲鈍兵有り、澠池に軍す、願わくは河を渡り漳を踰え、番吾に據り、邯鄲の下に迎戰せんことを。願わくは甲子の日を以て合戰し、以て殷紂の事を正さん。敬みて臣をして先に左右に聞かしむ。「凡そ大王の信じて以て從と爲す所の者は、蘇秦の計を恃めばなり。諸侯を熒惑し、是を以て非と爲し、非を以て是と爲す、齊國を反覆せんと欲して能わず、自ら齊の市に車裂せしむ。夫れ天下の一なる可からざるも亦明らかなり。今楚と秦とは昆弟の國と爲り、而して韓・魏東蕃の臣と稱し、齊魚鹽の地を獻ず、此れ趙の右臂を斷つなり。夫れ右臂を斷ちて人と鬬わんことを求む、其の黨を失いて孤居す、危無からんことを求むるも、豈に得可けんや。今秦三將軍を發し、一軍午道を塞ぎ、齊に告げて師を興し清河を度り、邯鄲の東に軍せしめ、一軍成臯に軍し、韓・魏を敺いて河外に軍せしめ、一軍澠池に軍す。約して曰く、四國一と爲りて趙を攻め、趙を破りて四に其の地を分かたんと。是の故に敢えて意を匿し情を隱さず、先に左右に聞かしむ。臣切に大王の爲に計るに、秦と澠池に遇い、面相い見て身相い結ぶに如くは莫し。臣請う兵を案じて攻めず、願わくは大王の計を定めんことを。」趙王曰く、「先王の時、奉陽君相たり、權を專らにし勢を擅にし、先王を蔽晦し、獨り官事を制す。寡人宮に居り、師傅に屬し、國を謀るに與る能わず。先王群臣を棄て、寡人年少く、祠祭を奉ずるの日淺し、私心固より竊かに之を疑う。以爲えらく一從して秦に事えざるは、國の長利に非ずと。乃ち且に心を變じ慮を易え、地を剖き前過を謝して以て秦に事えんとす。方に將に車を約して行に趨かんとするに、而して適々使者の明詔を聞く。」是に於て乃ち車三百乘を以て澠池に入朝し、河間を割きて以て秦に事う。
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戦国策・張儀事秦惠王張儀、秦の惠王に事ふ。惠王死し、武王立つ。左右、張儀を惡みて曰く、「儀、先王に事へて忠ならず。」言未だ已(や)まざるに、齊の讓(せ)め又た至る。張儀之を聞き、武王に謂ひて曰く、「儀に愚計有り、願はくは之を王に效(いた)さん。」王曰く、「奈何(いかん)。」曰く、「社稷の爲に計る者は、東方に大變有り、然る後に王多く地を割く可し。今、齊王甚だ張儀を憎み、儀の在る所には、必ず兵を舉げて之を伐たん。故に儀願はくは不肖の身を乞ひて梁に之かん、齊必ず兵を舉げて之を伐たん。齊・梁の兵、城下に連なりて相去る能はず、王其の間を以て韓を伐ち、三川に入り、兵を函谷に出だして伐つこと無く、以て周に臨まば、祭器必ず出で、天子を挾み、圖籍を案ぜん、此れ王業なり。」王曰く、「善し。」乃ち革車三十乘を具へ、之を梁に納る。齊果たして兵を擧げて之を伐つ。梁王大いに恐る。張儀曰く、「王患ふる勿かれ、請ふ齊の兵を罷めしめん。」乃ち其の舍人馮喜をして楚に之かしめ、藉りて之を齊に之かしむ。齊・楚の事已に畢はり、因りて齊王に謂ふ、「王甚だ張儀を憎むと雖も、然れども厚きかな、王の儀を秦王に託するや。」齊王曰く、「寡人甚だ儀を憎む、儀の在る所には、必ず兵を擧げて之を伐たん、何を以て儀を託すと爲すや。」對へて曰く、「是れ乃ち王の儀を託するなり。儀、秦を出づるに因りて秦王と約して曰く、『王の爲に計る者は、東方に大變有り、然る後に王多く地を割く可し。齊王甚だ儀を憎み、儀の在る所には、必ず兵を擧げて之を伐たん。故に儀願はくは不肖の身を乞ひて梁に之かん、齊必ず兵を擧げて梁を伐たん。梁・齊の兵、城下に連なりて去る能はず、王其の間を以て韓を伐ち、三川に入り、兵を函谷に出だして伐つこと無く、以て周に臨まば、祭器必ず出で、天子を挾み、圖籍を案ぜん、是れ王業なり。』秦王以て然りと爲し、革車三十乘を與へて儀を梁に納る。而して果たして之を伐つ、是れ王内自ら罷めて與國を伐ち、鄰敵を廣げて以て自ら臨み、儀を秦王に信ぜしむるなり。此れ臣の謂ふ所の儀を託するなり。」王曰く、「善し。」乃ち止む。
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戦国策・張儀為秦破從連橫謂燕王張儀秦の爲に從を破りて連橫し、燕王に謂いて曰く、「大王の親しむ所、趙に如くは莫し。昔趙王其の姊を以て代王の妻と為し、代を并せんと欲し、代王と句注の塞に遇わんことを約す。乃ち工人をして金斗を作らしめ、其の尾を長くし、之をして以て人を擊つべからしむ。代王と飲むに、陰かに廚人に告げて曰く、『酒酣樂に即かば、熱歠を進め、即ち斗を反して之を擊て』と。是に於て酒酣樂進みて熱歠を取る。廚人斟羹を進め、斗を反して之を擊ち、代王腦塗地す。其の姊之を聞き、笄を摩して以て自刺す。故に今に至るまで摩笄の山有り、天下聞かざるは莫し。夫れ趙王の狼戾にして親しむ無きは、大王の明らかに見知る所なり。且つ趙王を以て親しむべしと為すか。趙兵を興して燕を攻め、再び燕都を圍みて大王を劫かし、大王十城を割きて乃ち郤きて謝す。今趙王已に澠池に入朝し、河間を效して以て秦に事う。大王秦に事えずんば、秦雲中・九原に甲を下し、趙を驅りて燕を攻めしめば、則ち易水・長城王の有に非ざらん。且つ今の時、趙の秦に於けるや、猶郡縣のごとし、敢えて妄りに師を興して以て征伐せず。今大王秦に事えば、秦王必ず喜び、趙敢えて妄りに動かざらん。是れ西に強秦の援有りて、南に齊・趙の患無し、是の故に願わくは大王之を熟計せんことを」と。燕王曰く、「寡人蠻夷の辟處にして、大男子と雖も、裁ち嬰兒の如し、言正を求むるに足らず、謀事を決するに足らず。今大客幸いに之を教うれば、請う社稷を奉じて西面して秦に事え、常山の尾五城を獻ぜん」と。