史記 / 三王世家
會昭帝崩,宣帝初立,緣恩行義,以本始元年中,裂漢地,盡以封廣陵王胥四子:一子為朝陽侯;一子為平曲侯;一子為南利侯;最愛少子弘,立以為高密王。其後胥果作威福,通楚王使者。楚王宣言曰:「我先元王,高帝少弟也,封三十二城。今地邑益少,我欲與廣陵王共發兵云。立廣陵王為上,我復王楚三十二城,如元王時。」事發覺,公卿有司請行罰誅。天子以骨肉之故,不忍致法於胥,下詔書無治廣陵王,獨誅首惡楚王。傳曰「蓬生麻中,不扶自直;白沙在泥中,與之皆黑」者,土地教化使之然也。其後胥復祝詛謀反,自殺,國除。燕土墝埆,北迫匈奴,其人民勇而少慮,故誡之曰「葷粥氏無有孝行而禽獸心,以竊盜侵犯邊民。朕詔將軍往征其罪,萬夫長,千夫長,三十有二君皆來,降旗奔師。葷粥徙域遠處,北州以安矣」。「悉若心,無作怨」者,勿使從俗以怨望也。「無俷德」者,勿使王背德也。「無廢備」者,無乏武備,常備匈奴也。「非教士不得從徵」者,言非習禮義不得在於側也。會武帝年老長,而太子不幸薨,未有所立,而旦使來上書,請身入宿衛於長安。孝武見其書,擊地,怒曰:「生子當置之齊魯禮義之鄉,乃置之燕趙,果有爭心,不讓之端見矣。」
新字:会昭帝崩,宣帝初立,縁恩行義,以本始元年中,裂漢地,尽以封広陵王胥四子:一子為朝陽侯;一子為平曲侯;一子為南利侯;最愛少子弘,立以為高密王。其後胥果作威福,通楚王使者。楚王宣言曰:「我先元王,高帝少弟也,封三十二城。今地邑益少,我欲与広陵王共発兵云。立広陵王為上,我復王楚三十二城,如元王時。」事発覚,公卿有司請行罰誅。天子以骨肉之故,不忍致法於胥,下詔書無治広陵王,独誅首悪楚王。伝曰「蓬生麻中,不扶自直;白沙在泥中,与之皆黒」者,土地教化使之然也。其後胥復祝詛謀反,自殺,国除。燕土墝埆,北迫匈奴,其人民勇而少慮,故誡之曰「葷粥氏無有孝行而禽獣心,以窃盗侵犯辺民。朕詔将軍往征其罪,万夫長,千夫長,三十有二君皆来,降旗奔師。葷粥徙域遠処,北州以安矣」。「悉若心,無作怨」者,勿使従俗以怨望也。「無俷徳」者,勿使王背徳也。「無廃備」者,無乏武備,常備匈奴也。「非教士不得従徴」者,言非習礼義不得在於側也。会武帝年老長,而太子不幸薨,未有所立,而旦使来上書,請身入宿衛於長安。孝武見其書,撃地,怒曰:「生子当置之斉魯礼義之郷,乃置之燕趙,果有争心,不譲之端見矣。」
書き下し
会々昭帝崩じ、宣帝初めて立つ、恩に縁りて義を行ひ、本始元年中を以て、漢の地を裂き、尽く以て広陵王胥の四子を封ず。一子は朝陽侯と為り、一子は平曲侯と為り、一子は南利侯と為り、最も愛する少子弘は、立てて以て高密王と為す。其の後胥果たして威福を作し、楚王の使者に通ず。楚王宣言して曰く、「我が先の元王は、高帝の少弟なり、三十二城を封ぜらる。今地邑益々少なし、我広陵王と共に兵を発せんと欲すと云ふ。広陵王を立てて上と為し、我復た楚の三十二城に王たること、元王の時の如くせん」と。事発覚し、公卿有司罰誅を行はんことを請ふ。天子骨肉の故を以て、法を胥に致すに忍びず、詔書を下して広陵王を治むる無からしめ、独り首悪の楚王を誅す。伝に曰く「蓬麻中に生ずれば、扶けずして自ら直し。白沙泥中に在れば、之と皆黒し」とは、土地の教化之をして然らしむるなり。其の後胥復た祝詛して謀反し、自殺し、国除かる。燕の土は墝埆にして、北は匈奴に迫り、其の人民勇にして慮少なし、故に之を誡めて曰く「葷粥氏は孝行有る無くして禽獣の心あり、以て窃盗して辺民を侵犯す。朕将軍に詔して往きて其の罪を征せしむ、万夫の長、千夫の長、三十有二君皆来たり、旗を降し師に奔る。葷粥域を徙して遠く処り、北州以て安し」と。「若の心を悉くし、怨みを作す無かれ」とは、俗に従ひて以て怨望せしむる勿かれとなり。「徳を俷る無かれ」とは、王をして徳に背かしむる勿かれとなり。「備へを廃する無かれ」とは、武備を乏しくする無く、常に匈奴に備へよとなり。「教へられし士に非ざれば徴に従ふを得ず」とは、言ふこころは礼義に習ふに非ざれば側に在るを得ずとなり。会々武帝年老い長じ、而して太子不幸にして薨じ、未だ立つる所有らず、而して旦使をして来たりて上書せしめ、身入りて長安に宿衛せんことを請ふ。孝武其の書を見、地を撃ち、怒りて曰く、「子を生まば当に之を斉魯礼義の郷に置くべし、乃ち之を燕趙に置く、果たして争ふ心有り、譲らざるの端見はる」と。
現代語訳
(褚先生は続ける。)やがて昭帝が崩じ、宣帝が即位したばかりのとき、恩情によって義を施し、本始元年のうちに漢の土地を割いて、すべて広陵王胥の四人の子に封じた。一人は朝陽侯、一人は平曲侯、一人は南利侯とし、最も愛された末子の弘は高密王に立てた。その後、胥は案の定、威を振るい恩を売って、楚王の使者と通じた。楚王は公言した。「わが祖先の元王は高帝の末弟で、三十二城を封ぜられた。いまは領地がますます少なくなったので、広陵王とともに兵を挙げたい。広陵王を天子に立て、わたしは再び楚の三十二城の王となって、元王の時代のようにするのだ。」事が発覚すると、公卿や担当官は処罰と誅殺を求めた。天子は骨肉の間柄であることから、胥に法を適用するのに忍びず、詔書を下して広陵王を取り調べないこととし、首謀者の楚王だけを誅殺した。古い書物に「蓬(よもぎ)も麻の中に生えれば、支えなくてもまっすぐに育つ。白い砂も泥の中にあれば、泥と同じく黒くなる」とあるのは、土地の風俗と教化がそうさせるということである。その後、胥は再び呪詛して謀反を企て、自殺し、国は廃された。燕の土地はやせて石が多く、北は匈奴に迫り、その民は勇敢だが思慮が浅い。だから燕王を戒めて言った。「葷粥(匈奴)は孝行を知らず、禽獣の心を持ち、盗みを働いて辺境の民を侵す。わたしは将軍に詔してその罪を討たせたところ、万人の長、千人の長、三十二人の君長がみな来て、旗を下ろして漢軍に身を投じた。匈奴は住む地を遠くへ移し、北方の州は安らかになった。」「おまえの心を尽くし、恨みを抱くな」とは、土地の風俗に染まって不満を抱いてはならないということである。「徳に背くな」とは、王が徳に背いてはならないということである。「備えを廃するな」とは、武備を欠かさず、常に匈奴に備えよということである。「教育を受けた士でなければ召し出して従わせるな」とは、礼義を身につけた者でなければそばに置いてはならないということである。やがて武帝が年老い、太子(戻太子)が不幸にも亡くなって、まだ後継ぎが立てられていなかったとき、旦は使者を遣わして上書し、自ら長安に入って宮中の宿衛をしたいと願い出た。孝武帝はその上書を見ると、地面を打って怒り、言った。「子を生んだら斉や魯のような礼義の土地に置くべきであった。それを燕や趙に置いたために、案の定争う心を持ち、譲らない兆しが現れた。」
解説
関連する章句
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史記 三王世家其の後旦復た左将軍上官桀等と謀反し、宣言して曰く「我は太子に次ぐ、太子在らず、我当に立つべし、大臣共に我を抑ふ」と云云。大将軍光政を輔け、公卿大臣と議して曰く、「燕王旦過ちを改め正に悔いず、悪を行ひて変ぜず」と。是に於いて法を修めて直断し、罰誅を行ふ。旦自殺し、国除かる、其の策の指の如し。有司旦の妻子を誅せんことを請ふ。孝昭骨肉の親を以て、法を致すに忍びず、旦の妻子を寛赦し、免じて庶人と為す。伝に曰く「蘭根と白芷と、之を滫中に漸せば、君子近づかず、庶人服せず」とは、漸す所然らしむるなり。宣帝初めて立ち、恩を推し徳を宣べ、以て中に尽く燕王旦の両子を復封す。一子は安定侯と為り、燕の故の太子建を立てて広陽王と為し、以て燕王の祭祀を奉ぜしむ。
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史記 三王世家制して曰く、「皇子閎を立てて斉王と為し、旦を燕王と為し、胥を広陵王と為せ」と。四月丁酉、未央宮に奏す。六年四月戊寅朔、癸卯、御史大夫湯丞相に下し、丞相中二千石に下し、二千石郡太守・諸侯の相に下し、丞書して事に従ひて当に用ふべき者に下す。律令の如くせよ。「維れ六年四月乙巳、皇帝御史大夫湯をして廟にて子閎を立てて斉王と為さしむ。曰く、於戯、小子閎、茲の青社を受けよ。朕祖考を承け、維れ古を稽へて爾の国家を建て、東土に封じ、世々漢の藩輔と為す。於戯念へや。朕の詔を抱け、惟れ命は常に于てせず。人の徳を好めば、克く顕光を明らかにす。義を之れ図らざれば、君子をして怠らしむ。爾の心を悉くし、允に其の中を執れ、天禄永く終へん。厥れ愆ちありて臧からざること有らば、乃ち而の国に凶あり、爾の躬を害せん。於戯、国を保ち民を艾むること、敬まざるべけんや。王其れ之を戒めよ」と。右は斉王の策なり。「維れ六年四月乙巳、皇帝御史大夫湯をして廟にて子旦を立てて燕王と為さしむ。曰く、於戯、小子旦、茲の玄社を受けよ。朕祖考を承け、維れ古を稽へ、爾の国家を建て、北土に封じ、世々漢の藩輔と為す。於戯。葷粥氏老を虐げ獣心あり、侵犯寇盗し、加ふるに姦巧を以て辺萌をす。於戯。朕将率に命じて徂きて厥の罪を征せしむ、万夫の長、千夫の長、三十有二君皆来たり、期を降し師に奔る。葷粥域を徙し、北州以て綏んず。爾の心を悉くし、怨みを作す毋かれ、徳を卹る毋かれ、乃ち備へを廃する毋かれ。教へられし士に非ざれば徴に従ふを得ず。於戯、国を保ち民を艾むること、敬まざるべけんや。王其れ之を戒めよ」と。右は燕王の策なり。「維れ六年四月乙巳、皇帝御史大夫湯をして廟にて子胥を立てて広陵王と為さしむ。曰く、於戯、小子胥、茲の赤社を受けよ。朕祖考を承け、維れ古を稽へて爾の国家を建て、南土に封じ、世々漢の藩輔と為す。
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史記 三王世家是に於いて使をして即ち其の使者を闕下に斬らしむ。会々武帝崩じ、昭帝初めて立つ、旦果たして怨みを作して大臣を望む。自ら以へらく長子当に立つべしと、斉王の子劉沢等と謀りて叛逆を為し、言を出だして曰く、「我安くんぞ弟の在る者を得んや。今立つ者は乃ち大将軍の子なり」と。兵を発せんと欲す。事発覚し、当に誅すべし。昭帝恩に縁りて寛忍し、抑案して揚げず。公卿大臣をして請はしめ、宗正と太中大夫公戸満意、御史二人を遣はし、偕に往きて燕に使ひせしめ、之を風喩せしむ。燕に到り、各々日を異にし、更々見えて王を責む。宗正は、宗室諸劉の属籍を主る、先づ王に見え、為に列陳して昭帝の実に武帝の子なる状を道ふ。侍御史乃ち復た王に見え、之を責むるに正法を以てし、問ふ、「王兵を発せんと欲する罪名明白なり、当に之に坐すべし。漢家に正法有り、王繊介の小罪過を犯せば、即ち法を行ひて直断するのみ、安くんぞ能く王を寛くせん」と。驚動するに文法を以てす。王の意益々下り、心恐る。公戸満意は経術に習ふ、最後に王に見え、古今の通義、国家の大礼を称引し、文章爾雅なり。王に謂ひて曰く、「古は天子必ず内に異姓の大夫有り、骨肉を正す所以なり。外に同姓の大夫有り、異族を正す所以なり。周公成王を輔け、其の両弟を誅す、故に治まる。武帝在りし時は、尚ほ能く王を寛くす。今昭帝始めて立ち、年幼く、春秋に富み、未だ政に臨まず、大臣に委任す。古は誅罰親戚に阿らず、故に天下治まる。方今大臣政を輔け、法を奉じて直行し、敢へて阿る所無し、恐らくは王を寛くする能はず。王自ら謹むべし、自ら身死し国滅びて、天下の笑ひと為らしむる無かれ」と。是に於いて燕王旦乃ち恐懼して罪に服し、叩頭して過ちを謝す。大臣骨肉を和合せんと欲し、之を傷つくるに法を以てするを難る。
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史記 三王世家古人言有りて曰く、『大江の南、五湖の間、其の人心軽し。楊州は疆を保ち、三代は要服にして、政を以てするに及ばず』と。於戯。爾の心を悉くし、戦戦兢兢として、乃ち恵に乃ち順に、侗として軼を好む毋かれ、宵人に邇づく毋かれ、維れ法維れ則れ。書に云ふ、『臣は威を作さず、福を作さず、後の羞有る靡し』と。於戯、国を保ち民を艾むること、敬まざるべけんや。王其れ之を戒めよ」と。右は広陵王の策なり。太史公曰く、古人言有りて曰く「之を愛しては其の富まんことを欲し、之を親しみては其の貴からんことを欲す」と。故に王者は土を壃り国を建て、子弟を封立す、親を親しむを褒め、骨肉を序し、先祖を尊び、支体を貴び、同姓を天下に広むる所以なり。是を以て形勢彊くして王室安し。古より今に至るまで、由りて来たる所久し。異有るに非ざるなり、故に論著せず。燕斉の事は、采るに足る者無し。然れども三王を封立するに、天子恭譲し、群臣義を守り、文辞爛然として、甚だ観るべきなり、是を以て之を世家に附す。褚先生曰く、臣幸ひに文学を以て侍郎と為るを得、好んで太史公の列伝を覧観す。伝中に三王世家の文辞観るべしと称するも、其の世家を求むるに終に得る能はず。竊かに長老の故事を好む者より其の封策の書を取り、其の事を編列して之を伝へ、後世をして賢主の指意を観るを得しむ。蓋し聞く孝武帝の時、同日にして倶に三子を拝して王と為す。一子を斉に封じ、一子を広陵に、一子を燕に。各々子の才力智能、及び土地の剛柔、人民の軽重に因りて、為に策を作りて以て之を申戒す。王に謂ふ、「世々漢の藩輔と為り、国を保ち民を治むること、敬まざるべけんや。王其れ之を戒めよ」と。夫れ賢主の作る所は、固より浅聞の者の能く知る所に非ず、博聞彊記の君子に非ざれば其の意を究竟する能はざる所なり。其の次序分絶、文字の上下、簡の参差長短に至るまで、皆意有り、人之を能く知る莫し。
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史記 三王世家「朕祖考を承く」とは、祖は先なり、考は父なり。「維れ古を稽ふ」とは、維は度なり、念なり、稽は当なり、当に古の道に順ふべきなり。斉の地は変詐多く、礼義に習はず、故に之を戒めて曰く「朕の詔を恭め、唯れ命は常と為すべからず。人の徳を好めば、能く顕光を明らかにす。義を図らざれば、君子をして怠慢ならしむ。若の心を悉くし、信に其の中を執れ、天禄長く終へん。過ちありて善からざること有らば、乃ち而の国に凶あり、而して若の身を害せん」と。斉王の国に之くや、左右維持するに礼義を以てす、不幸にして中年にして早く夭す。然れども身を全うして過ち無く、其の策の意の如し。伝に曰く「青采は藍より出でて、質は藍より青し」とは、教へ然らしむるなり。遠きかな賢主、昭然として独り見る。斉王を誡むるに内を慎むを以てし、燕王を誡むるに怨みを作す無く、徳を俷る無きを以てし、広陵王を誡むるに外を慎み、威と福とを作す無きを以てす。夫れ広陵は呉越の地に在り、其の民精にして軽し、故に之を誡めて曰く「江湖の間、其の人心軽し。楊州は疆を葆ち、三代の時、迫りて要として中国の俗服に従はしむるも、大いには政教に及ばず、意を以て之を御するのみ。侗として佚を好む無かれ、宵人に邇づく無かれ、維れ法に是れ則れ。長く佚楽を好み馳騁弋猟淫康にして、小人に近づく無かれ。常に法度を念はば、則ち羞辱無し」と。三江・五湖に魚塩の利、銅山の富有り、天下の仰ぐ所なり。故に之を誡めて「臣は福を作さず」と曰ふ者は、財幣を行ひ、賞賜を厚くし、以て声誉を立て、四方の帰する所と為らしむる勿かれとなり。又「臣は威を作さず」と曰ふ者は、軽きに因りて以て義に倍かしむる勿かれとなり。会々孝武帝崩じ、孝昭帝初めて立つ、先づ広陵王胥を朝せしめ、厚く金銭財幣を賞賜すること、直三千余万、地を益すこと百里、邑万戸なり。
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史記 楚元王世家王純立ち、地節二年、中人上書して楚王の謀反を告ぐ、王自殺し、国除かれ、漢に入りて彭城郡と為る。趙王劉遂は、其の父は高祖の中子、名は友、謚して「幽」と曰ふ。幽王憂ひを以て死す、故に「幽」と為す。高后呂禄を趙に王とす、一歳にして高后崩ず。大臣諸呂呂禄等を誅し、乃ち幽王の子遂を立てて趙王と為す。孝文帝即位して二年、遂の弟辟彊を立て、趙の河間郡を取りて河間王と為す、[是れ]を文王と為す。立ちて十三年にして卒し、子哀王福立つ。一年にして卒し、子無く、後を絶ち、国除かれ、漢に入る。遂既に趙に王たること二十六年、孝景帝の時晁錯に坐して適を以て趙王の常山の郡を削らる。呉楚反き、趙王遂与に合謀して兵を起こす。其の相建徳・内史王悍諫む、聴かず。遂建徳・王悍を焼殺し、兵を発して其の西界に屯し、呉と倶に西せんことを待たんと欲す。北のかた匈奴に使ひし、与に連和して漢を攻む。漢、曲周侯酈寄をして之を撃たしむ。趙王遂還り、邯鄲に城守し、相距ぐこと七月。呉楚梁に敗れ、西する能はず。匈奴之を聞き、亦た止みて、肯へて漢の辺に入らず。欒布斉を破りて還り、乃ち兵を并せ水を引きて趙の城に灌ぐ。趙の城壊れ、趙王自殺し、邯鄲遂に降る。趙の幽王後を絶つ。太史公曰く、国の将に興らんとするや、必ず禎祥有り、君子用ひられて小人退く。国の将に亡びんとするや、賢人隠れ、乱臣貴し。楚王戊をして申公を刑すること毋く、其の言に遵はしめ、趙をして防与先生に任ぜしめば、豈に簒殺の謀有りて、天下の僇と為らんや。賢人か、賢人か。質其の内に有るに非ずんば、悪んぞ能く之を用ひんや。甚だしいかな、「安危は令を出だすに在り、存亡は任ずる所に在り」と、誠なるかな是の言や。
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