史記 / 三王世家
「朕承祖考」,祖者先也,考者父也。「維稽古」,維者度也,念也,稽者當也,當順古之道也。齊地多變詐,不習於禮義,故戒之曰「恭朕之詔,唯命不可為常。人之好德,能明顯光。不圖於義,使君子怠慢。悉若心,信執其中,天祿長終。有過不善,乃凶于而國,而害于若身」。齊王之國,左右維持以禮義,不幸中年早夭。然全身無過,如其策意。傳曰「青采出於藍,而質青於藍」者,教使然也。遠哉賢主,昭然獨見:誡齊王以慎內;誡燕王以無作怨,無修德;誡廣陵王以慎外,無作威與福。夫廣陵在吳越之地,其民精而輕,故誡之曰「江湖之閒,其人輕心。楊州葆疆,三代之時,迫要使從中國俗服,不大及以政教,以意御之而已。無侗好佚,無邇宵人,維法是則。無長好佚樂馳騁弋獵淫康,而近小人。常念法度,則無羞辱矣」。三江、五湖有魚鹽之利,銅山之富,天下所仰。故誡之曰「臣不作福」者,勿使行財幣,厚賞賜,以立聲譽,為四方所歸也。又曰「臣不作威」者,勿使因輕以倍義也。會孝武帝崩,孝昭帝初立,先朝廣陵王胥,厚賞賜金錢財幣,直三千餘萬,益地百里,邑萬戶。
新字:「朕承祖考」,祖者先也,考者父也。「維稽古」,維者度也,念也,稽者当也,当順古之道也。斉地多変詐,不習於礼義,故戒之曰「恭朕之詔,唯命不可為常。人之好徳,能明顕光。不図於義,使君子怠慢。悉若心,信執其中,天禄長終。有過不善,乃凶于而国,而害于若身」。斉王之国,左右維持以礼義,不幸中年早夭。然全身無過,如其策意。伝曰「青采出於藍,而質青於藍」者,教使然也。遠哉賢主,昭然独見:誡斉王以慎内;誡燕王以無作怨,無修徳;誡広陵王以慎外,無作威与福。夫広陵在呉越之地,其民精而軽,故誡之曰「江湖之閒,其人軽心。楊州葆疆,三代之時,迫要使従中国俗服,不大及以政教,以意御之而已。無侗好佚,無邇宵人,維法是則。無長好佚楽馳騁弋猟淫康,而近小人。常念法度,則無羞辱矣」。三江、五湖有魚塩之利,銅山之富,天下所仰。故誡之曰「臣不作福」者,勿使行財幣,厚賞賜,以立声誉,為四方所帰也。又曰「臣不作威」者,勿使因軽以倍義也。会孝武帝崩,孝昭帝初立,先朝広陵王胥,厚賞賜金銭財幣,直三千余万,益地百里,邑万戸。
書き下し
「朕祖考を承く」とは、祖は先なり、考は父なり。「維れ古を稽ふ」とは、維は度なり、念なり、稽は当なり、当に古の道に順ふべきなり。斉の地は変詐多く、礼義に習はず、故に之を戒めて曰く「朕の詔を恭め、唯れ命は常と為すべからず。人の徳を好めば、能く顕光を明らかにす。義を図らざれば、君子をして怠慢ならしむ。若の心を悉くし、信に其の中を執れ、天禄長く終へん。過ちありて善からざること有らば、乃ち而の国に凶あり、而して若の身を害せん」と。斉王の国に之くや、左右維持するに礼義を以てす、不幸にして中年にして早く夭す。然れども身を全うして過ち無く、其の策の意の如し。伝に曰く「青采は藍より出でて、質は藍より青し」とは、教へ然らしむるなり。遠きかな賢主、昭然として独り見る。斉王を誡むるに内を慎むを以てし、燕王を誡むるに怨みを作す無く、徳を俷る無きを以てし、広陵王を誡むるに外を慎み、威と福とを作す無きを以てす。夫れ広陵は呉越の地に在り、其の民精にして軽し、故に之を誡めて曰く「江湖の間、其の人心軽し。楊州は疆を葆ち、三代の時、迫りて要として中国の俗服に従はしむるも、大いには政教に及ばず、意を以て之を御するのみ。侗として佚を好む無かれ、宵人に邇づく無かれ、維れ法に是れ則れ。長く佚楽を好み馳騁弋猟淫康にして、小人に近づく無かれ。常に法度を念はば、則ち羞辱無し」と。三江・五湖に魚塩の利、銅山の富有り、天下の仰ぐ所なり。故に之を誡めて「臣は福を作さず」と曰ふ者は、財幣を行ひ、賞賜を厚くし、以て声誉を立て、四方の帰する所と為らしむる勿かれとなり。又「臣は威を作さず」と曰ふ者は、軽きに因りて以て義に倍かしむる勿かれとなり。会々孝武帝崩じ、孝昭帝初めて立つ、先づ広陵王胥を朝せしめ、厚く金銭財幣を賞賜すること、直三千余万、地を益すこと百里、邑万戸なり。
現代語訳
(褚先生は策文の語句を解説する。)「朕祖考を承く」の祖とは先祖、考とは父のことである。「維れ古を稽ふ」の維とは、はかる、思うという意味であり、稽とは当てはめる、つまり古の道に従うべきだということである。斉の地は変わり身が早く詐りが多く、礼義に慣れていないので、斉王を戒めて「わたしの詔を慎んで守れ。天命は常に変わらぬものと思ってはならない。人が徳を好めば、その光を明らかにできる。義を心がけなければ、君子を怠らせる。おまえの心を尽くし、まことに中庸を守れ。そうすれば天の恵みは永く続く。過ちがあって善くないことをすれば、おまえの国に災いが起こり、おまえの身を害するだろう」と言ったのである。斉王が国に赴くと、側近たちは礼義をもって王を支えた。王は不幸にも若くして早世したが、身を全うして過ちがなく、策文の意図どおりであった。古い書物に「青い染料は藍から採るが、その色は藍よりも青い」とあるのは、教育がそうさせるということである。賢明な君主の見通しは何と遠くまで及ぶことか。はっきりと一人だけ見抜いていた。斉王には内を慎めと戒め、燕王には恨みを抱くな、徳に背くなと戒め、広陵王には外を慎め、威を振るうな、恩を売るなと戒めたのである。広陵は呉・越の地にあり、その民は賢いが軽々しい。だから戒めて言った。「長江と湖の間の人は心が軽い。揚州は辺境を守る地で、三代の時代には、これを迫って要服として中原の風俗に従わせはしたが、政治と教化は十分には及ばず、ただ意を通じて治めるだけだった。愚かに気ままな遊びを好んではならない。小人に近づいてはならない。ただ法を手本とせよ。遊び楽しみ、馬を走らせ、狩りにふけり、放縦に過ごして、小人に近づくことを長く好んではならない。常に法度を心にかけていれば、恥辱を受けることはない。」三江・五湖には魚と塩の利益や銅山の富があり、天下が頼りにする土地である。だから「臣下は福を施さない」と戒めたのは、財貨を配り、恩賞を厚くして評判を立て、四方の人々が帰服するような存在になってはならないということである。また「臣下は威を振るわない」と戒めたのは、土地柄の軽々しさに流されて義に背いてはならないということである。やがて孝武帝が崩じ、孝昭帝が即位したばかりのとき、まず広陵王胥を朝見させ、金銭や財貨を手厚く賜り、その値は三千余万に上り、領地を百里広げ、万戸の邑を加えた。
解説
関連する章句
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史記 三王世家古人言有りて曰く、『大江の南、五湖の間、其の人心軽し。楊州は疆を保ち、三代は要服にして、政を以てするに及ばず』と。於戯。爾の心を悉くし、戦戦兢兢として、乃ち恵に乃ち順に、侗として軼を好む毋かれ、宵人に邇づく毋かれ、維れ法維れ則れ。書に云ふ、『臣は威を作さず、福を作さず、後の羞有る靡し』と。於戯、国を保ち民を艾むること、敬まざるべけんや。王其れ之を戒めよ」と。右は広陵王の策なり。太史公曰く、古人言有りて曰く「之を愛しては其の富まんことを欲し、之を親しみては其の貴からんことを欲す」と。故に王者は土を壃り国を建て、子弟を封立す、親を親しむを褒め、骨肉を序し、先祖を尊び、支体を貴び、同姓を天下に広むる所以なり。是を以て形勢彊くして王室安し。古より今に至るまで、由りて来たる所久し。異有るに非ざるなり、故に論著せず。燕斉の事は、采るに足る者無し。然れども三王を封立するに、天子恭譲し、群臣義を守り、文辞爛然として、甚だ観るべきなり、是を以て之を世家に附す。褚先生曰く、臣幸ひに文学を以て侍郎と為るを得、好んで太史公の列伝を覧観す。伝中に三王世家の文辞観るべしと称するも、其の世家を求むるに終に得る能はず。竊かに長老の故事を好む者より其の封策の書を取り、其の事を編列して之を伝へ、後世をして賢主の指意を観るを得しむ。蓋し聞く孝武帝の時、同日にして倶に三子を拝して王と為す。一子を斉に封じ、一子を広陵に、一子を燕に。各々子の才力智能、及び土地の剛柔、人民の軽重に因りて、為に策を作りて以て之を申戒す。王に謂ふ、「世々漢の藩輔と為り、国を保ち民を治むること、敬まざるべけんや。王其れ之を戒めよ」と。夫れ賢主の作る所は、固より浅聞の者の能く知る所に非ず、博聞彊記の君子に非ざれば其の意を究竟する能はざる所なり。其の次序分絶、文字の上下、簡の参差長短に至るまで、皆意有り、人之を能く知る莫し。
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史記 三王世家制して曰く、「皇子閎を立てて斉王と為し、旦を燕王と為し、胥を広陵王と為せ」と。四月丁酉、未央宮に奏す。六年四月戊寅朔、癸卯、御史大夫湯丞相に下し、丞相中二千石に下し、二千石郡太守・諸侯の相に下し、丞書して事に従ひて当に用ふべき者に下す。律令の如くせよ。「維れ六年四月乙巳、皇帝御史大夫湯をして廟にて子閎を立てて斉王と為さしむ。曰く、於戯、小子閎、茲の青社を受けよ。朕祖考を承け、維れ古を稽へて爾の国家を建て、東土に封じ、世々漢の藩輔と為す。於戯念へや。朕の詔を抱け、惟れ命は常に于てせず。人の徳を好めば、克く顕光を明らかにす。義を之れ図らざれば、君子をして怠らしむ。爾の心を悉くし、允に其の中を執れ、天禄永く終へん。厥れ愆ちありて臧からざること有らば、乃ち而の国に凶あり、爾の躬を害せん。於戯、国を保ち民を艾むること、敬まざるべけんや。王其れ之を戒めよ」と。右は斉王の策なり。「維れ六年四月乙巳、皇帝御史大夫湯をして廟にて子旦を立てて燕王と為さしむ。曰く、於戯、小子旦、茲の玄社を受けよ。朕祖考を承け、維れ古を稽へ、爾の国家を建て、北土に封じ、世々漢の藩輔と為す。於戯。葷粥氏老を虐げ獣心あり、侵犯寇盗し、加ふるに姦巧を以て辺萌をす。於戯。朕将率に命じて徂きて厥の罪を征せしむ、万夫の長、千夫の長、三十有二君皆来たり、期を降し師に奔る。葷粥域を徙し、北州以て綏んず。爾の心を悉くし、怨みを作す毋かれ、徳を卹る毋かれ、乃ち備へを廃する毋かれ。教へられし士に非ざれば徴に従ふを得ず。於戯、国を保ち民を艾むること、敬まざるべけんや。王其れ之を戒めよ」と。右は燕王の策なり。「維れ六年四月乙巳、皇帝御史大夫湯をして廟にて子胥を立てて広陵王と為さしむ。曰く、於戯、小子胥、茲の赤社を受けよ。朕祖考を承け、維れ古を稽へて爾の国家を建て、南土に封じ、世々漢の藩輔と為す。
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史記 三王世家会々昭帝崩じ、宣帝初めて立つ、恩に縁りて義を行ひ、本始元年中を以て、漢の地を裂き、尽く以て広陵王胥の四子を封ず。一子は朝陽侯と為り、一子は平曲侯と為り、一子は南利侯と為り、最も愛する少子弘は、立てて以て高密王と為す。其の後胥果たして威福を作し、楚王の使者に通ず。楚王宣言して曰く、「我が先の元王は、高帝の少弟なり、三十二城を封ぜらる。今地邑益々少なし、我広陵王と共に兵を発せんと欲すと云ふ。広陵王を立てて上と為し、我復た楚の三十二城に王たること、元王の時の如くせん」と。事発覚し、公卿有司罰誅を行はんことを請ふ。天子骨肉の故を以て、法を胥に致すに忍びず、詔書を下して広陵王を治むる無からしめ、独り首悪の楚王を誅す。伝に曰く「蓬麻中に生ずれば、扶けずして自ら直し。白沙泥中に在れば、之と皆黒し」とは、土地の教化之をして然らしむるなり。其の後胥復た祝詛して謀反し、自殺し、国除かる。燕の土は墝埆にして、北は匈奴に迫り、其の人民勇にして慮少なし、故に之を誡めて曰く「葷粥氏は孝行有る無くして禽獣の心あり、以て窃盗して辺民を侵犯す。朕将軍に詔して往きて其の罪を征せしむ、万夫の長、千夫の長、三十有二君皆来たり、旗を降し師に奔る。葷粥域を徙して遠く処り、北州以て安し」と。「若の心を悉くし、怨みを作す無かれ」とは、俗に従ひて以て怨望せしむる勿かれとなり。「徳を俷る無かれ」とは、王をして徳に背かしむる勿かれとなり。「備へを廃する無かれ」とは、武備を乏しくする無く、常に匈奴に備へよとなり。「教へられし士に非ざれば徴に従ふを得ず」とは、言ふこころは礼義に習ふに非ざれば側に在るを得ずとなり。会々武帝年老い長じ、而して太子不幸にして薨じ、未だ立つる所有らず、而して旦使をして来たりて上書せしめ、身入りて長安に宿衛せんことを請ふ。孝武其の書を見、地を撃ち、怒りて曰く、「子を生まば当に之を斉魯礼義の郷に置くべし、乃ち之を燕趙に置く、果たして争ふ心有り、譲らざるの端見はる」と。
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史記 三王世家謹んで其の真草の詔書を論次し、左方に編む。覧る者をして自ら其の意に通じて之を解説せしむ。王夫人は、趙の人なり、衛夫人と并びに武帝に幸せられ、而して子閎を生む。閎且に立ちて王と為らんとする時、其の母病む、武帝自ら臨みて之を問ふ。曰く、「子当に王と為るべし、安くに之を置かんと欲する」と。王夫人曰く、「陛下在り、妾又何等の言ふべき者あらん」と。帝曰く、「然りと雖も、意の欲する所、何れの所に於いて之を王とせんと欲する」と。王夫人曰く、「願はくは之を雒陽に置かん」と。武帝曰く、「雒陽は武庫敖倉有り、天下の衝阸にして、漢国の大都なり。先帝以来、子の雒陽に王たる者無し。雒陽を去りては、余は尽く可なり」と。王夫人応へず。武帝曰く、「関東の国は斉より大なる者無し。斉は東のかた海を負ひて城郭大なり、古時独り臨菑の中十万戸、天下の膏腴の地斉より盛んなる者莫し」と。王夫人手を以て頭を撃ち、謝して曰く、「幸甚なり」と。王夫人死して帝之を痛み、使者をして之を拝せしめて曰く、「皇帝謹んで使をして太中大夫明をして璧一を奉じ、夫人に賜ひて斉王の太后と為さしむ」と。子閎斉に王たり、年少くして、子有る無く、立ちて、不幸にして早く死し、国絶え、郡と為る。天下斉は王たるに宜しからずと称すと云ふ。所謂「此の土を受けよ」とは、諸侯王の始めて封ぜらるる者は必ず土を天子の社に受け、帰りて之を立てて以て国社と為し、歳時を以て之を祠る。春秋大伝に曰く、「天子の国に泰社有り。東方は青、南方は赤、西方は白、北方は黒、上方は黄」と。故に将に東方に封ぜられんとする者は青土を取り、南方に封ぜらるる者は赤土を取り、西方に封ぜらるる者は白土を取り、北方に封ぜらるる者は黒土を取り、上方に封ぜらるる者は黄土を取る。各々其の色の物を取り、裹むに白茅を以てし、封じて以て社と為す。此れ始めて封を天子より受くる者なり。此れを之れ主土と為す。主土とは、社を立てて之を奉ずるなり。
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史記 三王世家今臣去病上疏す、其の職を忘れず、因りて以て恩を宣べ、乃ち天子の卑譲自貶して以て天下に労するを道ひ、皇子の未だ号位有らざるを慮る。臣青翟・臣湯等宜しく義を奉じ職に遵ふべきに、愚憧にして事に逮ばず。方今盛夏の吉時、臣青翟・臣湯等昧死して皇子臣閎・臣旦・臣胥を立てて諸侯王と為さんことを請ふ。昧死して立つる所の国名を請ふ」と。制して曰く、「蓋し聞く周八百を封じ、姫姓并び列し、或いは子・男・附庸なり。礼に『支子は祭らず』と。并せて諸侯を建つるは社稷を重んずる所以なりと云ふは、朕聞く無し。且つ天は君の為に民を生ずるに非ざるなり。朕の不徳、海内未だ洽からず、乃ち未だ教へ成らざる者を以て彊ひて城を連ぬるに君とせば、即ち股肱何をか勧めん。其れ更めて議して列侯を以て之を家せしめよ」と。三月丙子、未央宮に奏す。「丞相臣青翟・御史大夫臣湯昧死して言ふ。臣謹んで列侯臣嬰斉・中二千石二千石臣賀・諫大夫博士臣安等と議して曰く、伏して聞く周八百を封じ、姫姓并び列して、天子を奉承す。康叔は祖考を以て顕れ、而して伯禽は周公を以て立ち、咸建国の諸侯と為り、以て相傅して輔と為る。百官憲を奉じ、各々其の職に遵ひて、国統備はる。竊かに以為へらく并せて諸侯を建つるは社稷を重んずる所以なりとは、四海の諸侯各々其の職を以て貢祭を奉ず。支子は宗祖を奉祭するを得ざるは、礼なり。封建して藩国を守らしむるは、帝王の徳を扶け化を施す所以なり。陛下天統を奉承し、明らかに聖緒を開き、賢を尊び功を顕し、滅を興し絶を継ぐ。蕭文終の後を酇に続ぎ、群臣平津侯等を褒厲す。六親の序を昭らかにし、天施の属を明らかにし、諸侯王封君をして私恩を推して子弟に戸邑を分かつを得しめ、号を錫ひ尊建すること百有余国なり。而るに皇子を家して列侯と為さば、則ち尊卑相踰え、列位序を失ひ、以て統を万世に垂るべからず。
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史記 三王世家臣請ふ臣閎・臣旦・臣胥を立てて諸侯王と為さん」と。三月丙子、未央宮に奏す。制して曰く、「康叔は親属十有りて独り尊き者は、有徳を褒むるなり。周公は天を祭り郊を命ぜらる、故に魯に白牡・騂剛の牲有り。群公は毛ならず、賢不肖の差なり。『高山は之を仰ぎ、景行は之に向かふ』、朕甚だ焉を慕ふ。未だ成らざるを抑ふる所以、家するに列侯を以てして可なり」と。四月戊寅、未央宮に奏す。「丞相臣青翟・御史大夫臣湯昧死して言ふ。臣青翟等列侯・吏二千石・諫大夫・博士臣慶等と議す。昧死して皇子を立てて諸侯王と為さんことを奏請す。制して曰く、『康叔は親属十有りて独り尊き者は、有徳を褒むるなり。周公は天を祭り郊を命ぜらる、故に魯に白牡・騂剛の牲有り。群公は毛ならず、賢不肖の差なり。「高山は之を仰ぎ、景行は之に向かふ」、朕甚だ焉を慕ふ。未だ成らざるを抑ふる所以、家するに列侯を以てして可なり』と。臣青翟・臣湯・博士臣将行等伏して聞く、康叔は親属十有り、武王体を継ぎ、周公成王を輔け、其の八人は皆祖考の尊きを以て建てて大国と為る。康叔の年幼く、周公三公の位に在り、而して伯禽国に魯に拠る、蓋し爵命の時、未だ成人に至らず。康叔後に禄父の難を捍ぎ、伯禽淮夷の乱を殄す。昔五帝制を異にし、周の爵は五等、春秋は三等、皆時に因りて尊卑を序す。高皇帝乱世を撥めて諸を正に反し、至徳を昭らかにし、海内を定め、諸侯を封建し、爵位は二等なり。皇子或いは繦緥に在りて立ちて諸侯王と為り、天子を奉承す、万世の法則と為して、易ふべからず。陛下躬ら仁義を親しみ、聖徳を体行し、文武を表裏す。慈孝の行ひを顕し、賢能の路を広む。内に有徳を褒め、外に彊暴を討つ。極めて北海に臨み、西のかた月氏に溱り、匈奴・西域、国を挙げて師を奉ず。
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