史記 / 三王世家
輿械之費,不賦於民。虛御府之藏以賞元戎,開禁倉以振貧窮,減戍卒之半。百蠻之君,靡不鄉風,承流稱意。遠方殊俗,重譯而朝,澤及方外。故珍獸至,嘉穀興,天應甚彰。今諸侯支子封至諸侯王,而家皇子為列侯,臣青翟、臣湯等竊伏孰計之,皆以為尊卑失序,使天下失望,不可。臣請立臣閎、臣旦、臣胥為諸侯王。」四月癸未,奏未央宮,留中不下。「丞相臣青翟、太仆臣賀、行御史大夫事太常臣充、太子少傅臣安行宗正事昧死言:臣青翟等前奏大司馬臣去病上疏言,皇子未有號位,臣謹與御史大夫臣湯、中二千石、二千石、諫大夫、博士臣慶等昧死請立皇子臣閎等為諸侯王。陛下讓文武,躬自切,及皇子未教。群臣之議,儒者稱其術,或誖其心。陛下固辭弗許,家皇子為列侯。臣青翟等竊與列侯臣壽成等二十七人議,皆曰以為尊卑失序。高皇帝建天下,為漢太祖,王子孫,廣支輔。先帝法則弗改,所以宣至尊也。臣請令史官擇吉日,具禮儀上,御史奏輿地圖,他皆如前故事。」制曰:「可。」四月丙申,奏未央宮。「太仆臣賀行御史大夫事昧死言:太常臣充言卜入四月二十八日乙巳,可立諸侯王。臣昧死奏輿地圖,請所立國名。禮儀別奏。臣昧死請。」
新字:輿械之費,不賦於民。虚御府之蔵以賞元戎,開禁倉以振貧窮,減戍卒之半。百蠻之君,靡不郷風,承流称意。遠方殊俗,重訳而朝,沢及方外。故珍獣至,嘉穀興,天応甚彰。今諸侯支子封至諸侯王,而家皇子為列侯,臣青翟、臣湯等窃伏孰計之,皆以為尊卑失序,使天下失望,不可。臣請立臣閎、臣旦、臣胥為諸侯王。」四月癸未,奏未央宮,留中不下。「丞相臣青翟、太仆臣賀、行御史大夫事太常臣充、太子少傅臣安行宗正事昧死言:臣青翟等前奏大司馬臣去病上疏言,皇子未有号位,臣謹与御史大夫臣湯、中二千石、二千石、諫大夫、博士臣慶等昧死請立皇子臣閎等為諸侯王。陛下譲文武,躬自切,及皇子未教。群臣之議,儒者称其術,或誖其心。陛下固辞弗許,家皇子為列侯。臣青翟等窃与列侯臣寿成等二十七人議,皆曰以為尊卑失序。高皇帝建天下,為漢太祖,王子孫,広支輔。先帝法則弗改,所以宣至尊也。臣請令史官択吉日,具礼儀上,御史奏輿地図,他皆如前故事。」制曰:「可。」四月丙申,奏未央宮。「太仆臣賀行御史大夫事昧死言:太常臣充言卜入四月二十八日乙巳,可立諸侯王。臣昧死奏輿地図,請所立国名。礼儀別奏。臣昧死請。」
書き下し
輿械の費、民に賦さず。御府の蔵を虚しくして以て元戎を賞し、禁倉を開きて以て貧窮を振ひ、戍卒の半ばを減ず。百蛮の君、風に郷ひ、流れを承けて意に称はざるは靡し。遠方殊俗、訳を重ねて朝し、沢方外に及ぶ。故に珍獣至り、嘉穀興り、天の応甚だ彰らかなり。今諸侯の支子封ぜられて諸侯王に至るに、而して皇子を家して列侯と為す、臣青翟・臣湯等竊かに伏して孰々之を計るに、皆以為へらく尊卑序を失ひ、天下をして望みを失はしむ、不可なりと。臣請ふ臣閎・臣旦・臣胥を立てて諸侯王と為さん」と。四月癸未、未央宮に奏す、中に留めて下さず。「丞相臣青翟・太僕臣賀・行御史大夫事太常臣充・太子少傅臣安行宗正事昧死して言ふ。臣青翟等前に大司馬臣去病の上疏して皇子未だ号位有らずと言ふを奏す、臣謹んで御史大夫臣湯・中二千石・二千石・諫大夫・博士臣慶等と昧死して皇子臣閎等を立てて諸侯王と為さんことを請ふ。陛下文武を譲り、躬ら自ら切にし、皇子の未だ教へられざるに及ぶ。群臣の議、儒者は其の術を称し、或いは其の心に誖る。陛下固辞して許さず、皇子を家して列侯と為す。臣青翟等竊かに列侯臣寿成等二十七人と議す、皆曰く以為へらく尊卑序を失ふと。高皇帝天下を建て、漢の太祖と為り、子孫を王とし、支輔を広む。先帝の法則改めざるは、至尊を宣ぶる所以なり。臣請ふ史官をして吉日を択ばしめ、礼儀を具へて上り、御史輿地図を奏し、他は皆前の故事の如くせん」と。制して曰く、「可なり」と。四月丙申、未央宮に奏す。「太僕臣賀行御史大夫事昧死して言ふ。太常臣充言ふ、卜して四月二十八日乙巳に入る、諸侯王を立つべしと。臣昧死して輿地図を奏し、立つる所の国名を請ふ。礼儀は別に奏す。臣昧死して請ふ」と。
現代語訳
(丞相らの三度目の上奏は続く。)「陛下は車や武器の費用を民に課税せず、宮中の御府の蔵を空にして大軍の将兵を賞し、禁中の倉を開いて貧しい者を救い、辺境の守備兵を半分に減らされた。四方の異民族の君主で、陛下の徳風に向かい、その流れを受けて心服しない者はない。遠方の風俗の異なる国々も、通訳を重ねて朝貢し、陛下の恩沢は国外にまで及んでいる。だからこそ珍しい獣が現れ、めでたい穀物が実り、天の感応ははっきりと現れている。いま諸侯の庶子でさえ封ぜられて諸侯王に至っているのに、皇子を列侯として家を立てさせるのは、わたくし青翟・湯らがひそかに熟慮したところ、皆、尊卑の秩序を失い、天下を失望させるもので、よくないと考える。わたくしどもは、閎・旦・胥を諸侯王に立てることを願う。」四月癸未の日、未央宮に奏上したが、帝は宮中に留めて下さなかった。「丞相の臣青翟、太僕の臣賀、御史大夫の職務を代行する太常の臣充、宗正の職務を代行する太子少傅の臣安が、死を覚悟して申し上げる。わたくし青翟らは先に、大司馬の臣去病が皇子にまだ称号と位がないと上奏したことを奏上し、謹んで御史大夫の臣湯、中二千石・二千石・諫大夫・博士の臣慶らとともに、死を覚悟して皇子閎らを諸侯王に立てるよう願った。陛下は文武の功をへりくだって辞退し、自らを厳しく戒め、皇子がまだ教育されていないことにまで言及された。群臣の議論では、儒者はそれぞれの学説を称え、中には陛下のお心に背くものもあった。陛下は固く辞退して許さず、皇子を列侯として家を立てさせるとされた。わたくし青翟らはひそかに列侯の臣寿成ら二十七人と議したが、皆、尊卑の秩序を失うと考えた。高皇帝は天下を建てて漢の太祖となり、子孫を王とし、一族の支えを広げられた。先帝の規範を改めないのは、至尊の地位を明らかにするためである。どうか史官に吉日を選ばせ、礼儀を整えて奉り、御史に地図を奏上させ、その他はすべて以前の先例どおりにしていただきたい。」帝は詔して「よろしい」と言った。四月丙申の日、未央宮に奏上した。「太僕で御史大夫の職務を代行する臣賀が、死を覚悟して申し上げる。太常の臣充の申すところでは、占ったところ四月二十八日乙巳の日が、諸侯王を立てるのによいとのことである。わたくしは死を覚悟して地図を奏上し、立てる国の名をお定めいただくよう願う。礼儀については別に奏上する。わたくしは死を覚悟してお願いする。」
解説
関連する章句
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史記 三王世家今臣去病上疏す、其の職を忘れず、因りて以て恩を宣べ、乃ち天子の卑譲自貶して以て天下に労するを道ひ、皇子の未だ号位有らざるを慮る。臣青翟・臣湯等宜しく義を奉じ職に遵ふべきに、愚憧にして事に逮ばず。方今盛夏の吉時、臣青翟・臣湯等昧死して皇子臣閎・臣旦・臣胥を立てて諸侯王と為さんことを請ふ。昧死して立つる所の国名を請ふ」と。制して曰く、「蓋し聞く周八百を封じ、姫姓并び列し、或いは子・男・附庸なり。礼に『支子は祭らず』と。并せて諸侯を建つるは社稷を重んずる所以なりと云ふは、朕聞く無し。且つ天は君の為に民を生ずるに非ざるなり。朕の不徳、海内未だ洽からず、乃ち未だ教へ成らざる者を以て彊ひて城を連ぬるに君とせば、即ち股肱何をか勧めん。其れ更めて議して列侯を以て之を家せしめよ」と。三月丙子、未央宮に奏す。「丞相臣青翟・御史大夫臣湯昧死して言ふ。臣謹んで列侯臣嬰斉・中二千石二千石臣賀・諫大夫博士臣安等と議して曰く、伏して聞く周八百を封じ、姫姓并び列して、天子を奉承す。康叔は祖考を以て顕れ、而して伯禽は周公を以て立ち、咸建国の諸侯と為り、以て相傅して輔と為る。百官憲を奉じ、各々其の職に遵ひて、国統備はる。竊かに以為へらく并せて諸侯を建つるは社稷を重んずる所以なりとは、四海の諸侯各々其の職を以て貢祭を奉ず。支子は宗祖を奉祭するを得ざるは、礼なり。封建して藩国を守らしむるは、帝王の徳を扶け化を施す所以なり。陛下天統を奉承し、明らかに聖緒を開き、賢を尊び功を顕し、滅を興し絶を継ぐ。蕭文終の後を酇に続ぎ、群臣平津侯等を褒厲す。六親の序を昭らかにし、天施の属を明らかにし、諸侯王封君をして私恩を推して子弟に戸邑を分かつを得しめ、号を錫ひ尊建すること百有余国なり。而るに皇子を家して列侯と為さば、則ち尊卑相踰え、列位序を失ひ、以て統を万世に垂るべからず。
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史記 三王世家臣請ふ臣閎・臣旦・臣胥を立てて諸侯王と為さん」と。三月丙子、未央宮に奏す。制して曰く、「康叔は親属十有りて独り尊き者は、有徳を褒むるなり。周公は天を祭り郊を命ぜらる、故に魯に白牡・騂剛の牲有り。群公は毛ならず、賢不肖の差なり。『高山は之を仰ぎ、景行は之に向かふ』、朕甚だ焉を慕ふ。未だ成らざるを抑ふる所以、家するに列侯を以てして可なり」と。四月戊寅、未央宮に奏す。「丞相臣青翟・御史大夫臣湯昧死して言ふ。臣青翟等列侯・吏二千石・諫大夫・博士臣慶等と議す。昧死して皇子を立てて諸侯王と為さんことを奏請す。制して曰く、『康叔は親属十有りて独り尊き者は、有徳を褒むるなり。周公は天を祭り郊を命ぜらる、故に魯に白牡・騂剛の牲有り。群公は毛ならず、賢不肖の差なり。「高山は之を仰ぎ、景行は之に向かふ」、朕甚だ焉を慕ふ。未だ成らざるを抑ふる所以、家するに列侯を以てして可なり』と。臣青翟・臣湯・博士臣将行等伏して聞く、康叔は親属十有り、武王体を継ぎ、周公成王を輔け、其の八人は皆祖考の尊きを以て建てて大国と為る。康叔の年幼く、周公三公の位に在り、而して伯禽国に魯に拠る、蓋し爵命の時、未だ成人に至らず。康叔後に禄父の難を捍ぎ、伯禽淮夷の乱を殄す。昔五帝制を異にし、周の爵は五等、春秋は三等、皆時に因りて尊卑を序す。高皇帝乱世を撥めて諸を正に反し、至徳を昭らかにし、海内を定め、諸侯を封建し、爵位は二等なり。皇子或いは繦緥に在りて立ちて諸侯王と為り、天子を奉承す、万世の法則と為して、易ふべからず。陛下躬ら仁義を親しみ、聖徳を体行し、文武を表裏す。慈孝の行ひを顕し、賢能の路を広む。内に有徳を褒め、外に彊暴を討つ。極めて北海に臨み、西のかた月氏に溱り、匈奴・西域、国を挙げて師を奉ず。
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史記 三王世家「大司馬臣去病、昧死再拝して皇帝陛下に上疏す。陛下過聴し、臣去病をして罪を行間に待たしむ。宜しく辺塞の思慮を専らにすべし、骸を中野に暴すも以て報ゆる無し、乃ち敢へて他議を惟ひて以て事を用ふる者を干すは、誠に陛下の天下を憂労し、百姓を哀憐して以て自ら忘れ、膳を虧き楽を貶し、郎員を損ずるを見ればなり。皇子天に頼りて、能く衣に勝へ趨拝す、今に至るまで号位師傅の官無し。陛下恭譲して恤へず、群臣私かに望むも、敢へて職を越えて言はず。臣竊かに犬馬の心に勝へず、昧死して願はくは陛下有司に詔し、盛夏の吉時に因りて皇子の位を定めよ。唯だ陛下幸ひに察せよ。臣去病昧死再拝して以て皇帝陛下に聞す」と。三月乙亥、御史臣光守尚書令未央宮に奏す。制して曰く、「御史に下せ」と。六年三月戊申朔、乙亥、御史臣光守尚書令・丞非、御史に下す書到る、言ふ、丞相臣青翟・御史大夫臣湯・太常臣充・大行令臣息・太子少傅臣安行宗正事、昧死して上言す。大司馬去病上疏して曰く、『陛下過聴し、臣去病をして罪を行間に待たしむ。宜しく辺塞の思慮を専らにすべし、骸を中野に暴すも以て報ゆる無し、乃ち敢へて他議を惟ひて以て事を用ふる者を干すは、誠に陛下の天下を憂労し、百姓を哀憐して以て自ら忘れ、膳を虧き楽を貶し、郎員を損ずるを見ればなり。皇子天に頼りて、能く衣に勝へ趨拝す、今に至るまで号位師傅の官無し。陛下恭譲して恤へず、群臣私かに望むも、敢へて職を越えて言はず。臣竊かに犬馬の心に勝へず、昧死して願はくは陛下有司に詔し、盛夏の吉時に因りて皇子の位を定めよ。唯だ願はくは陛下幸ひに察せよ』と。制して曰く『御史に下せ』と。臣謹んで中二千石・二千石臣賀等と議す。古は地を裂きて国を立て、并せて諸侯を建てて以て天子を承く、宗廟を尊び社稷を重んずる所以なり。
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史記 三王世家制して曰く、「皇子閎を立てて斉王と為し、旦を燕王と為し、胥を広陵王と為せ」と。四月丁酉、未央宮に奏す。六年四月戊寅朔、癸卯、御史大夫湯丞相に下し、丞相中二千石に下し、二千石郡太守・諸侯の相に下し、丞書して事に従ひて当に用ふべき者に下す。律令の如くせよ。「維れ六年四月乙巳、皇帝御史大夫湯をして廟にて子閎を立てて斉王と為さしむ。曰く、於戯、小子閎、茲の青社を受けよ。朕祖考を承け、維れ古を稽へて爾の国家を建て、東土に封じ、世々漢の藩輔と為す。於戯念へや。朕の詔を抱け、惟れ命は常に于てせず。人の徳を好めば、克く顕光を明らかにす。義を之れ図らざれば、君子をして怠らしむ。爾の心を悉くし、允に其の中を執れ、天禄永く終へん。厥れ愆ちありて臧からざること有らば、乃ち而の国に凶あり、爾の躬を害せん。於戯、国を保ち民を艾むること、敬まざるべけんや。王其れ之を戒めよ」と。右は斉王の策なり。「維れ六年四月乙巳、皇帝御史大夫湯をして廟にて子旦を立てて燕王と為さしむ。曰く、於戯、小子旦、茲の玄社を受けよ。朕祖考を承け、維れ古を稽へ、爾の国家を建て、北土に封じ、世々漢の藩輔と為す。於戯。葷粥氏老を虐げ獣心あり、侵犯寇盗し、加ふるに姦巧を以て辺萌をす。於戯。朕将率に命じて徂きて厥の罪を征せしむ、万夫の長、千夫の長、三十有二君皆来たり、期を降し師に奔る。葷粥域を徙し、北州以て綏んず。爾の心を悉くし、怨みを作す毋かれ、徳を卹る毋かれ、乃ち備へを廃する毋かれ。教へられし士に非ざれば徴に従ふを得ず。於戯、国を保ち民を艾むること、敬まざるべけんや。王其れ之を戒めよ」と。右は燕王の策なり。「維れ六年四月乙巳、皇帝御史大夫湯をして廟にて子胥を立てて広陵王と為さしむ。曰く、於戯、小子胥、茲の赤社を受けよ。朕祖考を承け、維れ古を稽へて爾の国家を建て、南土に封じ、世々漢の藩輔と為す。
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史記 孝文本紀淮南王は、弟なり、徳を秉りて以て朕に陪す。豈に豫めせずと為さんや。諸侯王宗室昆弟に功臣有り、多く賢及び徳義有る者なり、若し有徳を挙げて以て朕の終ふる能はざるに陪せしめば、是れ社稷の霊、天下の福なり。今選挙せずして、必ず子と曰はば、人其れ朕を以て賢有徳の者を忘れて子に専らにすと為さん、天下を憂ふる所以に非ざるなり。朕甚だ取らざるなり。」と。有司皆固く請ひて曰く、「古者殷周国を有ち、治安なること皆千余歳、古の天下を有つ者焉より長きは莫し、此の道を用ゐればなり。嗣を立つるに必ず子とするは、従りて来たる所遠し。高帝親ら士大夫を率ゐ、始めて天下を平らげ、諸侯を建て、帝者の太祖と為る。諸侯王及び列侯の始めて国を受くる者も皆亦其の国の祖と為る。子孫嗣を継ぎ、世世絶えざるは、天下の大義なり、故に高帝之を設けて以て海内を撫す。今宜しく建つべきを釈きて更に諸侯及び宗室に選ぶは、高帝の志に非ざるなり。更に議するは宜しからず。子某最も長じ、純厚慈仁なり、請ふ建てて以て太子と為さん。」と。上乃ち之を許す。因りて天下の民の当に父の後に代はるべき者に爵各々一級を賜ひ、将軍薄昭を封じて軹侯と為す。三月、有司皇后を立てんことを請ふ。薄太后曰く、「諸侯皆同姓なり、太子の母を立てて皇后と為せ。」と。皇后は姓竇氏なり。上后を立つるが故を為して、天下の鰥寡孤独窮困及び年八十已上、孤児九歳已下に布帛米肉を賜ふこと各々数有り。上代より来り、初めて位に即き、徳恵を天下に施し、諸侯四夷を填撫して皆洽く驩ぶ、乃ち代より来たる功臣を循(ねぎら)ふ。上曰く、「方に大臣の諸呂を誅して朕を迎ふるや、朕狐疑し、皆朕を止む、唯だ中尉宋昌のみ朕に勧む、朕以て宗廟を保ち奉ずるを得たり。已に昌を尊びて衛将軍と為す、其れ昌を封じて壮武侯と為せ。諸々の朕に従ひし六人、官皆九卿に至らしめよ。」と。
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史記 高祖本紀群臣皆曰く、「大王微細より起こり、暴逆を誅し、四海を平定し、功有る者は輒ち地を裂きて封じて王侯と為す。大王号を尊ばずんば、皆疑ひて信ぜず。臣等死を以て之を守らん。」と。漢王三たび譲る、已むを得ずして、曰く、「諸君必ず以て便と為さば、国家に便ならん。」と。甲午、乃ち皇帝の位に汜水の陽に即く。皇帝曰く義帝後無しと。斉王韓信楚の風俗に習ふ、徙して楚王と為し、下邳に都せしむ。建成侯彭越を立てて梁王と為し、定陶に都せしむ。故の韓王信を韓王と為し、陽翟に都せしむ。衡山王呉芮を徙して長沙王と為し、臨湘に都せしむ。番君の将梅鋗功有り、従ひて武関に入る、故に番君を徳とす。淮南王布・燕王臧荼・趙王敖皆故の如し。天下大いに定まる。高祖雒陽に都す、諸侯皆臣属す。故の臨江王驩項羽の為に漢に叛く、盧綰・劉賈をして之を囲ましむ、下らず。数月にして降る、之を雒陽に殺す。五月、兵皆罷めて家に帰る。諸侯の子の関中に在る者は之を復すること十二歳、其の帰る者は之を復すること六歳、之に食ましむること一歳。高祖雒陽の南宮に置酒す。高祖曰く、「列侯諸将敢へて朕に隠す無く、皆其の情を言へ。吾の天下を有する所以の者は何ぞ。項氏の天下を失ふ所以の者は何ぞ。」と。
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