史記 / 留侯世家
良說項王曰:「漢王燒絕棧道,無還心矣。」乃以齊王田榮反,書告項王。項王以此無西憂漢心,而發兵北擊齊。項王竟不肯遣韓王,乃以為侯,又殺之彭城。良亡,間行歸漢王,漢王亦已還定三秦矣。復以良為成信侯,從東擊楚。至彭城,漢敗而還。至下邑,漢王下馬踞鞍而問曰:「吾欲捐關以東等棄之,誰可與共功者?」良進曰:「九江王黥布,楚梟將,與項王有郄;彭越與齊王田榮反梁地:此兩人可急使。而漢王之將獨韓信可屬大事,當一面。即欲捐之,捐之此三人,則楚可破也。」漢王乃遣隨何說九江王布,而使人連彭越。及魏王豹反,使韓信將兵擊之,因舉燕、代、齊、趙。然卒破楚者,此三人力也。張良多病,未嘗特將也,常為畫策,時時從漢王。漢三年,項羽急圍漢王滎陽,漢王恐憂,與酈食其謀橈楚權。食其曰:「昔湯伐桀,封其後於杞。武王伐紂,封其後於宋。今秦失德棄義,侵伐諸侯社稷,滅六國之後,使無立錐之地。陛下誠能復立六國後世,畢已受印,此其君臣百姓必皆戴陛下之德,莫不鄉風慕義,願為臣妾。德義已行,陛下南鄉稱霸,楚必斂衽而朝。」漢王曰:「善。趣刻印,先生因行佩之矣。」食其未行,張良從外來謁。漢王方食,曰:「子房前!
新字:良説項王曰:「漢王焼絶棧道,無還心矣。」乃以斉王田栄反,書告項王。項王以此無西憂漢心,而発兵北撃斉。項王竟不肯遣韓王,乃以為侯,又殺之彭城。良亡,間行帰漢王,漢王亦已還定三秦矣。復以良為成信侯,従東撃楚。至彭城,漢敗而還。至下邑,漢王下馬踞鞍而問曰:「吾欲捐関以東等棄之,誰可与共功者?」良進曰:「九江王黥布,楚梟将,与項王有郄;彭越与斉王田栄反梁地:此両人可急使。而漢王之将独韓信可属大事,当一面。即欲捐之,捐之此三人,則楚可破也。」漢王乃遣随何説九江王布,而使人連彭越。及魏王豹反,使韓信将兵撃之,因舉燕、代、斉、趙。然卒破楚者,此三人力也。張良多病,未嘗特将也,常為画策,時時従漢王。漢三年,項羽急囲漢王滎陽,漢王恐憂,与酈食其謀橈楚権。食其曰:「昔湯伐桀,封其後於杞。武王伐紂,封其後於宋。今秦失徳棄義,侵伐諸侯社稷,滅六国之後,使無立錐之地。陛下誠能復立六国後世,畢已受印,此其君臣百姓必皆戴陛下之徳,莫不郷風慕義,願為臣妾。徳義已行,陛下南郷称覇,楚必斂衽而朝。」漢王曰:「善。趣刻印,先生因行佩之矣。」食其未行,張良従外来謁。漢王方食,曰:「子房前!
書き下し
良項王に説きて曰く、「漢王桟道を焼絶す、還る心無し」と。乃ち斉王田栄の反くを以て、項王に書告す。項王此を以て西に漢を憂ふる心無く、而して兵を発して北のかた斉を撃つ。項王竟に肯へて韓王を遣はさず、乃ち以て侯と為し、又之を彭城に殺す。良亡げ、間行して漢王に帰す、漢王も亦た已に還りて三秦を定む。復た良を以て成信侯と為し、従ひて東のかた楚を撃つ。彭城に至り、漢敗れて還る。下邑に至り、漢王馬を下り鞍に踞して問ひて曰く、「吾関以東を捐てて等しく之を棄てんと欲す、誰か与に功を共にすべき者ぞ」と。良進みて曰く、「九江王黥布は、楚の梟将なり、項王と郄有り。彭越は斉王田栄と梁の地に反く。此の両人急ぎ使ふべし。而して漢王の将は独り韓信のみ大事を属し、一面に当たらしむべし。即し之を捐てんと欲せば、之を此の三人に捐てよ、則ち楚破るべきなり」と。漢王乃ち隨何をして九江王布に説かしめ、而して人をして彭越に連ならしむ。魏王豹の反くに及び、韓信をして兵を将ゐて之を撃たしめ、因りて燕・代・斉・趙を挙ぐ。然れども卒に楚を破る者は、此の三人の力なり。張良多病にして、未だ嘗て特に将たらず、常に画策を為し、時時漢王に従ふ。漢三年、項羽急に漢王を滎陽に囲む、漢王恐憂し、酈食其と楚の権を橈めんことを謀る。食其曰く、「昔湯桀を伐ち、其の後を杞に封ず。武王紂を伐ち、其の後を宋に封ず。今秦徳を失ひ義を棄て、諸侯の社稷を侵伐し、六国の後を滅ぼし、錐を立つるの地無からしむ。陛下誠に能く復た六国の後世を立て、畢く已に印を受けしめば、此れ其の君臣百姓必ず皆陛下の徳を戴き、風に郷ひ義を慕ひ、臣妾と為らんことを願はざる莫からん。徳義已に行はれ、陛下南郷して霸を称せば、楚必ず衽を斂めて朝せん」と。漢王曰く、「善し。趣やかに印を刻せ、先生因りて行きて之を佩ばしめよ」と。食其未だ行かず、張良外より来たりて謁す。漢王方に食す、曰く、「子房前め。
現代語訳
張良は項王に説いた。「漢王は桟道を焼き払った。戻ってくる気はない」。そして斉王田栄が背いたことを書面で項王に知らせた。項王はこれによって西の漢を気にかける心がなくなり、兵を発して北の斉を攻撃した。項王は結局韓王を国へ行かせず、侯に格下げしたうえ、彭城で殺してしまった。張良は逃げ出し、抜け道を通って漢王のもとに帰った。漢王もすでに引き返して三秦を平定していた。漢王は再び張良を成信侯とし、張良は漢王に従って東の楚を攻撃した。彭城に至ったが、漢は敗れて引き返した。下邑に至ると、漢王は馬を下りて鞍に腰掛けて尋ねた。「わしは函谷関より東の地を、いっそすべて捨ててしまおうと思う。誰とならともに功業を成し遂げられるか」。張良は進み出て言った。「九江王黥布は楚の勇将だが、項王と不和になっている。彭越は斉王田栄とともに梁の地で楚に背いた。この二人は急いで味方につけるべきだ。そして漢王の将軍の中では、ただ韓信だけが大事を任せて一方面を担わせることができる。もし関東の地を捨てるなら、この三人に与えてしまえばよい。そうすれば楚を破ることができる」。漢王はそこで隨何(ずいか)を遣わして九江王黥布を説かせ、また人を遣わして彭越と手を結んだ。魏王豹が背くと、韓信に兵を率いて討たせ、そのまま燕・代・斉・趙を攻め取った。結局、楚を破ったのはこの三人の力であった。張良は病弱で、自ら一軍の将となったことはなく、いつも計略を立て、ときどき漢王に従って行動した。漢三年、項羽が滎陽で漢王を激しく包囲すると、漢王は恐れ憂え、酈食其とともに楚の勢いを削ぐ策を練った。酈食其は言った。「昔、殷の湯王は夏の桀を討つと、その子孫を杞に封じた。周の武王は殷の紂を討つと、その子孫を宋に封じた。いま秦は徳を失い義を捨て、諸侯の国々を侵略して、六国の子孫を滅ぼし、錐を立てるほどの土地もなくさせた。陛下がもし六国の子孫を再び王に立て、みなに印綬を受けさせれば、その君臣も民も必ずみな陛下の徳を仰ぎ、陛下の教えになびいて義を慕い、臣下となることを願わない者はいない。徳と義が行き渡った上で、陛下が南面して覇者を名乗れば、楚は必ず襟を正して朝貢してくるだろう」。漢王は言った。「よろしい。急いで印を刻め。先生はそれを持って出向き、彼らに帯びさせてくれ」。酈食其がまだ出発しないうちに、張良が外からやって来て拝謁した。漢王はちょうど食事中で、言った。「子房(張良)、近う寄れ。
解説
関連する章句
-
史記 留侯世家且つ夫れ楚唯彊きこと無からしめば、六国の立つ者復た橈みて之に従はん、陛下焉んぞ得て之を臣とせん。誠に客の謀を用ひば、陛下の事去らん」と。漢王食を輟め哺を吐き、罵りて曰く、「豎儒、幾ど而公の事を敗らんとす」と。趣やかに印を銷さしむ。漢四年、韓信斉を破りて自ら立ちて斉王と為らんと欲す、漢王怒る。張良漢王に説き、漢王良をして斉王信に印を授けしむ、語は淮陰の事の中に在り。其の秋、漢王楚を追ひて陽夏の南に至り、戦ひ利あらずして固陵に壁す、諸侯期して至らず。良漢王に説く、漢王其の計を用ひ、諸侯皆至る。語は項籍の事の中に在り。漢六年正月、功臣を封ず。良未だ嘗て戦闘の功有らず、高帝曰く、「策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、子房の功なり。自ら斉の三万戸を択べ」と。良曰く、「始め臣下邳に起こり、上と留に会す、此れ天臣を以て陛下に授くるなり。陛下臣の計を用ひ、幸ひにして時に中る、臣願はくは留に封ぜらるれば足れり、敢へて三万戸に当たらず」と。乃ち張良を封じて留侯と為し、蕭何等と倶に封ず。六年、上已に大功臣二十余人を封ず、其の余は日夜功を争ひて決せず、未だ封を行ふを得ず。上雒陽の南宮に在り、複道より諸将の往往に相与に沙中に坐して語るを望み見る。上曰く、「此れ何をか語る」と。留侯曰く、「陛下知らざるか。此れ反を謀るのみ」と。上曰く、「天下属々安定す、何の故にか反せん」と。留侯曰く、「陛下布衣より起こり、此の属を以て天下を取る、今陛下天子と為り、而して封ずる所は皆蕭・曹の故人の親愛する所、而して誅する所は皆生平の仇怨する所なり。今軍吏功を計り、天下を以て遍く封ずるに足らずとす、此の属陛下の尽く封ずる能はざるを畏れ、恐らくは又平生の過失を疑はれて誅せられんことを恐る、故に即ち相聚まりて反を謀るのみ」と。上乃ち憂ひて曰く、「之を為すこと奈何」と。留侯曰く、「上の平生憎む所にして、羣臣の共に知る所、誰か最も甚だしき者ぞ」と。
-
史記 留侯世家項伯嘗て人を殺し、良に従ひて匿る。後十年、陳渉等兵を起こす、良も亦た少年百余人を聚む。景駒自ら立ちて楚の仮王と為り、留に在り。良往きて之に従はんと欲し、道にして沛公に還ふ。沛公数千人を将ゐ、地を下邳の西に略す、遂に焉に属す。沛公良を拝して廄将と為す。良数々太公兵法を以て沛公に説く、沛公之を善しとし、常に其の策を用ふ。良他人の為にする者は、皆省みず。良曰く、「沛公は殆ど天授なり」と。故に遂に之に従ひ、去りて景駒に見えず。沛公の薛に之きて、項梁に見ゆるに及び、項梁楚の懐王を立つ。良乃ち項梁に説きて曰く、「君已に楚の後を立つ、而して韓の諸公子横陽君成は賢なり、立てて王と為すべし、益々党を樹てん」と。項梁良をして韓成を求めしめ、立てて以て韓王と為す。良を以て韓の申徒と為し、韓王と千余人を将ゐて西のかた韓の地を略し、数城を得るも、秦輒ち復た之を取る、往来して游兵を潁川に為す。沛公の雒陽より南のかた轘轅に出づるや、良兵を引きて沛公に従ひ、韓の十余城を下し、楊熊の軍を撃破す。沛公乃ち韓王成をして陽翟に留守せしめ、良と倶に南し、宛を攻め下し、西のかた武関に入る。沛公兵二万人を以て秦の嶢下の軍を撃たんと欲す、良説きて曰く、「秦の兵尚ほ強し、未だ軽んずべからず。臣聞く、其の将は屠者の子なりと、賈豎は動かすに利を以てし易し。願はくは沛公且く留まりて壁し、人をして先行せしめ、五万人の為に食を具へ、益々為に旗幟を諸山の上に張り、疑兵と為し、酈食其をして重宝を持して秦の将に啗はしめよ」と。秦の将果たして叛き、連和して倶に西のかた咸陽を襲はんと欲す、沛公之を聴かんと欲す。良曰く、「此れ独り其の将叛かんと欲するのみ、恐らくは士卒従はざらん。従はずんば必ず危ふし、其の解くるに因りて之を撃つに如かず」と。沛公乃ち兵を引きて秦軍を撃ち、大いに之を破る。遂に北のかた藍田に至り、再び戦ひ、秦の兵竟に敗る。遂に咸陽に至り、秦王子嬰沛公に降る。
-
『長短経』覇図項王、解きて東す。漢王、西せんと欲す。張良曰く「今、漢は天下の大半を有ちて、諸侯皆な附く。楚兵は疲れ、食は尽く。此れ天の楚を亡ぼすの時なり。其の東するに因りて之を取るに如かず」と。漢王乃ち羽を追う。斉王韓信・魏相彭越と、期して会して楚を撃たんとするも、皆な会せず。張良の計を用い、信等皆な兵を進めて羽を垓下に囲み、遂に項氏を滅ぼす。〈漢王、張良に問いて曰く「諸侯従わず。奈何」と。良曰く「楚兵、且に破れんとするに、未だ分地有らず。其の至らざるは固より宜なり。君王、能く与に天下を共にせば、立ちどころに致す可きなり。斉王信の立つは、君王の意に非ず。信も亦た自ら堅からず。彭越は本と梁地を定む。始め君、魏豹の故を以て、越、相国と為るを拝するを得たり。今、豹死し、越も亦た王を望む。而るに君王、早く定めず。今、能く睢陽以北より穀城に至るを取りて、以て彭越を王とし、陳より以東海に傅うるを、斉王信に与えよ。信の家は楚に在り。其の意、復た故邑を得んと欲す。能く此の地を出捐して、以て両人に許し、各々自ら為に戦わしめば、則ち楚は破り易からん」と。是に於て漢王、使いを発し、韓信・彭越・劉賈等をして皆な兵を引きて羽を垓下に囲ましむ。〉
-
史記 淮陰侯列伝義兵を以て東帰を思ふの士に従はば、何の散ぜざる所あらん。且つ三秦の王は秦の将と為り、秦の子弟を将ゐること数歳なり。殺亡する所勝げて計ふべからず。又其の衆を欺きて諸侯に降る。新安に至り、項王詐りて秦の降卒二十余万を阬にし、唯独り邯・欣・翳のみ脱するを得たり。秦の父兄此の三人を怨み、痛み骨髄に入る。今楚彊にして威を以て此の三人を王とす。秦の民愛するもの莫きなり。大王の武関に入るや、秋豪も害する所無く、秦の苛法を除き、秦の民と約するに、法三章のみ。秦の民大王の秦に王たるを得んと欲せざる者無し。諸侯の約に於て、大王当に関中に王たるべし。関中の民咸之を知る。大王職を失ひて漢中に入る。秦の民恨まざる者無し。今大王挙げて東せば、三秦は檄を伝へて定むべきなり」と。是に於て漢王大いに喜び、自ら以て信を得ること晩しと為す。遂に信の計を聴き、諸将の撃つ所を部署す。八月、漢王兵を挙げて東し陳倉に出で、三秦を定む。漢の二年、関を出で、魏・河南を収む。韓・殷の王皆降る。斉・趙と合して共に楚を撃つ。四月、彭城に至り、漢兵敗散して還る。信復た兵を収めて漢王と滎陽に会し、復た楚を京・索の間に撃破す。故を以て楚の兵卒に西すること能はず。漢の彭城に敗却するや、塞王欣・翟王翳漢を亡げて楚に降る。斉・趙も亦漢に反きて楚と和す。六月、魏王豹謁して帰りて親の疾を視んとし、国に至るや、即ち河関を絶ちて漢に反き、楚と約和す。漢王酈生をして豹に説かしむるも、下らず。其の八月、信を以て左丞相と為し、魏を撃たしむ。魏王兵を蒲阪に盛んにし、臨晋を塞ぐ。信乃ち益々疑兵を為し、船を陳ねて臨晋を度らんと欲するも、伏兵夏陽より木罌缻を以て軍を渡し、安邑を襲ふ。魏王豹驚き、兵を引きて信を迎ふ。信遂に豹を虜にし、魏を定めて河東郡と為す。漢王張耳を遣はして信と倶にせしめ、兵を引きて東し、北のかた趙・代を撃たしむ。
-
史記 高祖本紀漢王酈生をして往きて斉王田広に説かしむ、広楚に叛き、漢と和し、共に項羽を撃たんとす。韓信蒯通の計を用ゐ、遂に襲ひて斉を破る。斉王酈生を烹、東のかた高密に走る。項羽韓信已に河北の兵を挙げて斉・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、則ち龍且・周蘭をして往きて之を撃たしむ。韓信与に戦ふ、騎将灌嬰撃ちて、大いに楚の軍を破り、龍且を殺す。斉王広彭越に奔る。此の時に当たりて、彭越兵を将ゐて梁の地に居り、往来して楚の兵を苦しめ、其の糧食を絶つ。四年、項羽乃ち海春侯大司馬曹咎に謂ひて曰く、「謹みて成皋を守れ。若し漢挑戦すとも、慎みて与に戦ふ勿かれ、東するを得しむる無きのみ。我十五日にして必ず梁の地を定め、復た将軍に従はん。」と。乃ち行きて陳留・外黄・睢陽を撃ち、之を下す。漢果たして数(しばしば)楚の軍に挑む、楚の軍出でず、人をして之を辱めしむること五六日、大司馬怒り、兵を汜水に度す。士卒半ば渡る、漢之を撃ち、大いに楚の軍を破り、尽く楚国の金玉貨賂を得たり。大司馬咎・長史欣皆汜水の上に自剄す。項羽睢陽に至り、海春侯の破るるを聞き、乃ち兵を引きて還る。漢の軍方に鍾離眛を滎陽の東に囲む、項羽至る、尽く険阻に走る。韓信已に斉を破り、人をして言はしめて曰く、「斉は楚に辺し、権軽し、仮王と為らずんば、恐らくは斉を安んずる能はざらん。」と。漢王之を攻めんと欲す。留侯曰く、「因りて之を立て、自ら守りを為さしむるに如かず。」と。乃ち張良を遣はして印綬を操りて韓信を立てて斉王と為す。項羽龍且の軍の破るるを聞き、則ち恐れ、盱台の人武渉をして往きて韓信に説かしむ。韓信聴かず。楚漢久しく相持して未だ決せず、丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転饟に罷る。漢王・項羽相与に広武の間に臨みて語る。項羽漢王と独身にて挑戦せんと欲す。
-
史記 高祖本紀敗れて後乃ち独り孝恵を得たり、六月、立てて太子と為し、大いに罪人を赦す。太子をして櫟陽を守らしめ、諸侯の子の関中に在る者皆櫟陽に集まりて衛と為る。水を引きて廃丘に灌ぐ、廃丘降り、章邯自殺す。廃丘を更名して槐里と為す。是に於て祠官をして天地四方上帝山川を祀らしめ、時を以て之を祀る。関内の卒を興して塞に乗らしむ。是の時九江王布龍且と戦ひ、勝たず、随何と間行して漢に帰す。漢王稍々士卒を収め、諸将及び関中の卒と益々出づ、是を以て兵大いに滎陽に振るひ、楚を京・索の間に破る。三年、魏王豹謁して帰りて親の疾を視んとす、至れば即ち河津を絶ち、反きて楚と為る。漢王酈生をして豹に説かしむ、豹聴かず。漢王将軍韓信を遣はして撃たしめ、大いに之を破り、豹を虜にす。遂に魏の地を定め、三郡を置く、河東・太原・上党と曰ふ。漢王乃ち張耳と韓信とをして遂に東のかた井陘を下りて趙を撃たしめ、陳余・趙王歇を斬る。其の明年、張耳を立てて趙王と為す。漢王滎陽の南に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉を取る。項羽と相距ぐこと歳余。項羽数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢の軍食に乏し、遂に漢王を囲む。漢王和を請ひ、滎陽以西を割く者を漢と為さんとす。項王聴かず。漢王之を患ひ、乃ち陳平の計を用ゐ、陳平に金四万斤を予へ、以て楚の君臣を間疏せしむ。是に於て項羽乃ち亜父を疑ふ。亜父是の時項羽に遂に滎陽を下さんことを勧む、其の疑はるるに及び、乃ち怒り、老を辞し、骸骨を賜ひて卒伍に帰らんことを願ふ、未だ彭城に至らずして死す。漢の軍食を絶つ、乃ち夜女子を東門より出だすこと二千余人、甲を被らしむ、楚因りて四面より之を撃つ。将軍紀信乃ち王の駕に乗り、詐りて漢王と為り、楚を誑す、楚皆万歳を呼び、城東に之きて観る、故を以て漢王数十騎と西門より出でて遁るるを得たり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る